01/~ヴォイス~
耳から離れない言葉がある。
綺麗になったね、アンリエッタ。
暗がりの中、月明かりだけが頼りのラグドリアン湖。そういった彼の、その柔らかな表情。温かな言葉。久しぶりに会った彼は、魅力的だった。
ウェールズさま……。
アンリエッタは小さく呟いた。
戦争が終わろうとも、彼は帰ってこない。たとえこの身が女王になろうとも、彼はすでに王子ではない。
死んだのだ、ウェールズは。この世のどこからでも、いなくなってしまったのだ。
少しでも暇があろうものなら彼の顔が思い出される。戦争に勝って、忙しいいまこの時でさえも、ふとした拍子に思い出してしまう。厄介な病気だ。死人に恋慕するなんて、本当に病気みたい。
アンリエッタは自嘲気味に唇をゆがめた。
「女王陛下、ばんざーい!!」
周囲のその言葉に、俯けていた顔をはっとした様子で持ち上げる。
トリステインの城下町、ブルネドン通りでは戦勝記念パレードが行われている。もちろん、正式に女王となることを決意したアンリエッタもこれに参加している。参加しているにもかかわらず、ぼんやりとウェールズのことを考えていたのだ。
いけないいけないと首を振り、にこやかな笑みを作って、ユニコーンに引かせている馬車の窓から手を振った。
数で勝るアルビオンに勝ったことから、今やアンリエッタは『聖女』と崇められ、その人気は絶頂。トリステイン国民はアンリエッタを崇拝しているわけだ。
きもちわるい。そんな感情が胸中に湧き上がった。
アンリエッタは知っているのだ。自身がアルビオンの兵や貴族にどう噂されているのかを。
『聖女』。トリステインではこう呼ばれるアンリエッタは、アルビオンでは鋼鉄の処女と呼ばれているのである。
ウェディングドレスのままに戦場へと赴き、ゲルマニアとの婚約を破棄したことから、皮肉を込めてこう呼ばれている。アンリエッタは戦争と結婚したのだと。戦争のおかげで女王になれたのだと。
否定はしない。そもそも、女王になる気なんてこれっぽっちも無かったのだ。それがたまたま、ならざるを得ない状況が転がってきた。それを拾い上げたのも、はたして自分の意思だったろうか。状況に流されたわけでではなかっただろうか。
にこやかな笑みのした、不安を押し殺し、後悔に蓋をして、鋼で心を覆い隠す。
鋼鉄の処女とは、まさしく自分のことではないか。
「……無理はせずともよろしいのですぞ、殿下」
マザリーニだった。
彼はアンリエッタの瞳を覗き込み、やや心配そうに言う。
「戴冠式までまだ時間がございます。休まれては?」
「いえ、せっかくのパレードですもの。アルビオンの方々にも、弱いところは見せられません」
「……では、式の手順でもおさらいしますか」
「また? もう何度目ですか。心配が過ぎるのではなくて、あなた」
「それならば、その不細工な笑顔をもう少し上手に作ってくだされ。民が不安になりますぞ」
「まぁ! これから戴冠しようとしているものに言う台詞ではなくってよ!」
少しだけおどけた調子でアンリエッタは言った。
仕事一筋。その言葉がこれほど当てはまる人間はそう居ないだろうと思わせるマザリーニが、心配をしている。がりがりに痩せこけて、冷たい印象を与える彼が心配をしているのだ。
いけないな、ともう一度だけ首を振った。
女王になると宣言したのは誰だ。友人を犠牲にしてでも戦争に勝ちたいと思ったのは誰だ。他ならぬ、自分自身ではないか。
周囲のサポートはもちろん必要だ。だが、周囲の人間に心配されるようでは、それはまだまだ女王ではない。
「マザリーニ」
「はい」
「面倒なものね、女王なんて」
「おや、これから戴冠しようというものの言う台詞ではございませんな、殿下」
◇◆◇
ところ変わって魔法学院。
トリスタニアとは違い、こちらはいつもと変わらぬ日常。パレードなどあってもいない。生徒たちは今日も今日とて平和に授業を受け、友人たちとお茶をして、何事もなかったように一日を終える。
当然、ルイズもその中の一人である。日の出とともに起きて、いつものようにトレーニング。腕立てもするし、腹筋も鍛える。デルフリンガーに指導を受けて、最近になってはじめた剣術の訓練も、そこそこに形になってきた。力任せはいけなくて、ガッ! と振るのではなく、ぴゅん! と振るのだ。
「ん。なかなかサマになってんじゃねーの?」
「うん」
「んじゃ次」
「うん」
ガンダールヴの特性上、本物の刃物を持ってしまうと能力が開放されてしまうので『訓練』にはならない。だからルイズは棒切れを振るっていた。
棒切れが風を切る。無駄の多かった動きは徐々に徐々に洗練され、剣を振るためだけに身体があるような気分になってくる。
ぴゅん。ぴゅん。ぴゅん。ぴゅん。
トレーニングは良い。余計なことを考えなくてすむ。機械になればいい。剣を振る。速く、早く、疾く、効率よく、無駄なく、自然に、完全に、十全に、完璧に、振る、振る、振る。
何度繰り返したろうか。それほど力を入れて握っているわけではないのに、手のひらに痛みを感じた。鋭い痛みとは違い、じんわりと広がる熱のような痛みだった。
「痛、……まめ潰れちゃった」
「余計な力が入ってるってこったね。掴む時は強く。握るときは優しく。振るときは速く」
デルフリンガーの言う事に頷いて、ルイズはまたも棒切れを振り始めた。
「んで、どうしたね娘っ子」
「なにがよ」
地面に突き立てたデルフリンガーに視線すらよこさずに。
デルフリンガーがわざとらしくため息(?)を付くものだから少しだけ腹が立った。
「何かに没頭しときゃ、そりゃ余計なことは考えずにすむかもしんねえ。けどな、お前さん、人間じゃねえ俺にだってわかるぜ」
「だから、なにがよ」
「みんな心配してるんじゃねえのかね?」
「……」
ビュン!
少しだけ不細工な風斬り音。心の動揺がそのまま身体と棒切れに伝わる。
ここ最近、というか戦争から帰ってきて以来、ルイズは元気がない。それはそれは元気がない。もう気持ち悪いくらいに。いつもがマックス120%元気なルイズに元気がないというのはどう考えてもおかしい。
周囲もおかしいと感じているのだろう。キュルケは顔をあわせるたびに「なに辛気臭い顔してるの」と茶化してくるし、シエスタなどすぐにでも医務室に行きましょうとぐいぐいルイズの手を引っ張る。
違うのだ。何も身体の調子が悪いわけではない。身体じゃなくって、その中身、メンタル面にずしんと来ているものがあるだけで。
ルイズは嘘をついた。こともあろうか、この国のお姫様に。女王様に。
だって、ルイズは可愛くてしょうがないのだ。
あの悪態を一日一回は聞かないと不安になるし、あの冷たい視線を一日一度くらい受けないと調子が出ない。
どんなに暴力的だって、どんなに破滅的だって、彼はルイズが呼び出した使い魔なのだ。初めて成功した魔法で呼び出した使い魔。カッとなって喧嘩になることだってしょっちゅうだけれど、それでも可愛くてしょうがないのだ。
彼は、一方通行はウェールズを殺した。本人が言うのだ。間違いないだろう。
ルイズは考えた。そして聞いた。
なぜそんな事をしたの?
答えは返ってこなかった。ただ、彼の表情は気まずそうな、なんとなく言い辛そうな、そんな顔。一方通行が自分のわがままに殺したのなら、間違いなくそう言う。彼は人殺しに慣れている。
だが、そんな一方通行が言い辛そうな、そんな表情なのだ。
瞬間、ルイズは理解した。
一方通行は、我侭に殺したわけではないのだと。『何か』のために殺したのだと。
その『何か』はなんだか分からない。それが自身のことだと考えるほど、ルイズは楽観的ではない。だけれど、もしかしたら初めてかもしれないのだ、一方通行が自分のため意外に動いたのは。
どんな考えで殺すことに至ったのか、それはまだ聞けていない。だが、あの一方通行が頭の悪い選択をとるとは考えにくいし、それ以上に一方通行が愛しかった。殺した現実なんか忘れて、誰かに自慢してもいいと思った。
私のシロは成長してるのよ! そういう気持ちでいっぱいになると同時に、それだからこそアンリエッタに対する罪悪感がむくれあがる。
「……嘘ついちゃったのよ、わたし」
相手は人間ではなく、剣。
デルフリンガーはかちゃかちゃと鍔を鳴らして。
「誰だって嘘くらいつくさね。剣の俺にだってあることだから」
「そうね。でも、嘘にも度合いがあると思うの。大きい嘘、小さい嘘、意味のある嘘、意味のない嘘」
「ん。娘っ子はどの嘘?」
「……さぁ、わかんない」
◇◆◇
自身の身体が鉛のように感じた。
意識は浮上し、頭の後ろのほうで物を考えているような状態。ぼんやりと天井を見上げ、ワルドは自分が柔らかなベッドの上に寝ていることに気がついた。
「あの化け物……」
喉がからからに渇いて、ややかすれた様な声だった。
化け物。もちろん、一方通行のことである。ルイズに次いで、その使い魔までも自身を打倒するか。
ますます面白くなってきたな、なんて余裕は、ワルドにはない。ただただ、生きていることに感謝と安堵。丈夫に産んでくれた母に、心の中でお礼を言った。
そしてうまく動かない身体で、胸の辺りを探る。……探る。
「……無い」
ワルドはいつもの余裕を感じさせる表情を崩し、無理に身体を起こした。全身が重く、鈍い痛みに眉をしかめるが、それでも動くのを、探すのをやめなかった。
ペンダント。銀のロケットで出来たペンダントが無い。大事なものなのだ。自己の確認を、後悔の念を、先への決意を、そのすべては、それに詰まっているのだ。
くそ、と彼は珍しく焦ったような声を上げて、そこで部屋の扉が開く音が聞こえた。
「ちょ、まだ寝てなって!」
マチルダがスープを片手に現れた。
ワルドの様子がおかしいことに気がついたのか、怪訝な顔つきでスープをテーブルの上に置き、どうしたんだい、と。
「ペンダントが無いんだ。くそ、落としたか?」
「あぁ、ペンダント」
「知ってるのか?」
「私が持ってるよ。千切れかけてたから直してきた」
「……人のものを勝手に持っていくな。柄にもなく焦ったぞ」
大きなため息をひとつ。ワルドはベッドに座り込む。
「えらく美人じゃないか。恋人かい?」
「……あまり言いたくないな」
「なんでさ」
「馬鹿にするから」
「うん?」
「聞いたらきっと馬鹿にする。俺だって、そんな肖像入れてるやつ見かけたら、目いっぱい馬鹿にする」
マチルダは不思議そうな顔で首をかしげ、やがてピンと来たのか、にたりと唇をゆがめた。
ああばれた。こらばれた。ワルドはもう一度ため息をついた。
「ママン?」
「……」
「あはっ、お、おかあさん……?」
「ほら、そうやって馬鹿にするから言いたくなかったんだ。笑えよ。いいさ、別に」
するとマチルダは本当にげらげらと笑い始めた。自分で笑えと言っておいてなんだが、こうまでげらげらと笑われると本当に恥ずかしくなってくる。
失敗したなぁ、とワルドは顔を覆い、マチルダは笑いながら顔を覆う。
「あー、あー……、笑ったぁ、っく、くく、なんだって母親の肖像なんか入れてんのさ」
「何だっていいだろう。コンプレックスがあるのさ」
「かぁ! マザコン! 男ってのはこれだから!」
マチルダがばっちぃ物のようにワルドにペンダントを投げてよこした。
やさしく受け取り、なんだかんだでしっかりと修繕されており、以前よりもきれいになったそれを首から提げる。落ち着くところに落ち着いたというか、なんだかこれが無いと、自分の心が不安定になるのだ。
ワルドだって、何にも依存しないで生きていけるほど強くは無い。何か一つでも二つでも、自己を確認できるような何かがほしいのだ。
そもそもが不安定な裏切り者。これからだって、どこかに根を下ろすことはないだろう。流れ者と言い換えてもいい。足場が常に不安定で、いつだって揺れ動いている。生き残るには、突き進むほかないのだ。
そんな中の、小さな慰め。小さな決意。あのときを忘れてしまわないように、自分のしたことを忘れてしまわないように。そういう思いで母の肖像画を入れているのだ。
ワルドは本当の意味で、マザーコンプレックスなのである。
「スープ、くれ」
「あいよ」
スプーンを持つのも億劫なので、座ったまま口をあけた。
「んぁ」
「ん?」
「んぁ、ん!」
「あ?」
「……口まで運んでくれよ。アホ面さらしちゃったじゃないか」
「わがまま。ったく……」
困ったような、少しだけ嬉しそうな。どうにも表現しづらいが、結局マチルダはスプーンを取った。
そしてもう一度、扉の開く音が聞こえる。
ワルドは首だけで振り返り、その顔を見て内心いやな顔をした。もちろん内心。それを表にそのまま出すほど子供ではない。
「怪我の調子はどうかね、子爵」
クロムウェルであった。
彼はいつものようにシェフィールドを連れ、胡散臭い笑みを貼り付けて、戦争に負けたというのに何事もなかったような声色だった。
分かっているのか。負けたんだぞ、俺たちは。そう問いかけたくなるのを押さえ込み、いかにも情けないといった表情を作り言った。
「怪我は問題ありません。ただ、閣下のご期待に沿えず心が痛むばかりです」
「なに、あれは君が居ようと居まいと起こったことだ。君はよくやってくれている。事実、わが竜騎士隊の被害は最小限にとどまっておるのだ」
そう。ワルドが指揮した竜騎士隊の被害は、格段に低かった。
ルイズを見かけて、それから相手の竜騎士たちを深追いしたのがよかったのだろう。あの大爆発に巻き込まれたのはごく少数であった。
「あの地上を覆いつくしたドーム状の光。さらには上空に出来た二つ目の太陽。……あれは、伝説の虚無なのでしょうか?」
「さてな。余とて虚無のすべてを知っているわけではない」
シェフィールドがさも知ったように、
「長い歴史、その闇の彼方に消えたことです」
「そう、その歴史だ。始祖の盾と呼ばれた聖エイジスを知っておるかね? 伝記の一説に、こういう言葉がある」
もったいぶった様にクロムウェルは間を取り、詩を吟じるように言った。
「“始祖は太陽を作り出し、あまねく地を照らした”」
ぎくり、とワルドの表情が強張った。
ワルドもトリステインの王立図書館で虚無についていろいろと調べていたが、それは初耳だった。虚無とはなんなのか。その疑問は尽きることはない。
聖エイジス。始祖の盾。伝記など、百パーセントの真実が語られていると言うわけではないだろう。
しかしどうだ。『太陽を作り出し』。これは、どういうことだ。
太陽。先の戦争を経験したものが思い浮かべるのは、レキシントン号を沈めたあの太陽だ。灼熱を放ち、熱による暴力を振るった。そしてそれは、ワルドが虚無だと思っているルイズが放ったものではない。一方通行が放ったものだ。
虚無。ゼロ。ルイズ。その『使い魔』であるはずの、一方通行。
「太陽……」
「そう、太陽だ、子爵。どう思うかね?」
「……」
ワルドが突き止めるべき世界の真実。やはり、虚無を避けては通れない。そしてその虚無も、どこかに裏がある気がする。古書を紐解き調べるだけでは絶対に理解できない何か。虚無にはそれが、ある。あるはずなのだ。
面白くなりそうじゃないか。なんてことは、ワルドは考えない。
余計な手間が、増えそうだ。そういうことを、考える。ワルドは小さく、クロムウェルには見えないようにため息をついた。
「アンリエッタ姫もやるものだ。秘宝と指輪、そろえたのであろうな」
「秘宝と指輪?」
「虚無とは面倒なものでな、発動に条件があるのだよ。そうだな、ミス・シェフィールド」
「おっしゃるとおりで。それぞれの王家に伝わる秘宝、それに指輪。それがあって初めて虚無は覚醒します」
「なるほど……」
こちらの情報は既に既知のもの。
だからこそ、ウェールズの死体から指輪を抜き取ったのだ。ほかの宝物と一緒に換金してしまう様な馬鹿はやっていない。
虚無の発動条件。クロムウェルは語っていないが、どうやら王家と関係がありそうである。おそらく、血筋。
もともとから疑っていたが、それは確信に変わった。いくら死体をよみがえらせて見せようとも、やはりクロムウェルは虚無ではない。もともとが司教の男だ。さすがに王家の血は入っていないだろう。
それにしても、とわざとらしくクロムウェルが呟いた。
「姫には驚きだな。女王に即位するそうだよ」
「は。いまのトリステインの状況ならば、そうなるでしょう」
「……風のルビーがな、見つからな───」
「さっぱりわからんですな」
「……王家に伝わる秘宝のひとつだ。おそらくはトリステインに渡っているのだろう」
つまりは結局、次の標的はアンリエッタ個人だということ。
よくよく悪巧みを思いつくものだとワルドは感心した。もちろん視線の先はクロムウェルではなく、シェフィールド。この女が操っているのだ。この男を、この国を。
ぎ、ぃ。部屋の扉が緩やかに開く。
開いたままの扉から現れたウェールズを見て、ワルドは背筋が少しだけ寒くなるのを感じた。