城下から水路を通って王城へ戻ったアンリエッタは、清掃員に扮していた服を着替えると、私室ではなく執務室へと向かった。
すでに夜は深く、本来ならば厳重に扉を閉められているはずの執務室。そこに、マザリーニとルイズ、そして隠密の長であるアニエスがいた。彼らはいつもの執務用の机ではなく、部屋の中央にある応接用の卓についている。
マザリーニはアンリエッタに何か言いたげ顔を向けており、ルイズはいかにも寝起きといった顔でアンリエッタを睨んでいる。
アンリエッタは二人の視線を無視して卓の上座に座ると、アニエスへと目を向ける。
それを受けてアニエスは、部下から受けた報告を話し始めた。
「姫さまを狙った下手人、やはりチュレンヌの私兵のようです。正門からチュレンヌの屋敷に戻ったと」
「そう。でも、ジャンヌさんの自宅を訪ねただけの清掃員を殺しにかかるのは穏やかではないわね。妖精亭の仕返しと考えるにも、度が過ぎますし」
そう言いながらアンリエッタはルイズの顔を伺う。
アンリエッタに押しつけられた仕事を完遂して執務室で寝ていたところを起こされたらしい。
ルイズの知識と発想は頼りになるが、彼女の寝起きは人一倍悪い。頭に血が回りきるまで頼りにはならないだろう、とアンリエッタは考え再びアニエスに向き直る。
「で、その徴税官の調査はお済みになりまして? ああ、徴税官の素行が悪く今すぐ罷免すべきといった程度のことは報告するまでもないわ」
「は、チュレンヌの周囲を調査をしたところ、『魅惑の妖精』亭の一件のような怪しい動きが見受けられました」
小さく、それでいてはっきりと聞き取れる声でアンリエッタは言葉を続ける。
彼女は身体能力や捜査能力だけでなく、隠密として発声法といった特殊な技能にも長けていた。
「酒場の娘と同じように私兵を使って幾人かのメイジに対し狼藉を働いているようです」
「税の過剰な徴収目的、というわけではないのでしょうね」
徴税官が主に相手にするのは商人だ。秘薬屋や魔法道具屋ならともかく、メイジという幅広い技能者全体を相手にするものではない。
「はい、奴はどうやら指輪を探しているようです」
「指輪?」
想定外の言葉に、アンリエッタは首を傾げた。
「詳しくはまだ調べの途中ですが、メイジ達はいずれも指輪を出せと脅されておりました。……中には、すでに死んでいる者もおります」
その言葉にアンリエッタだけでなくルイズとマザリーニも反応を示す。
死んでいる者、とアニエスは言った。殺された者、ではない。
「そしてもう一つ。その死んだ者は自殺として処理されていたのですが、警邏隊の捜査資料を検分すると、自殺ではなく明らかにメイジの手によって殺されている内容でした」
アンリエッタに城下で襲いかかってきたのもチュレンヌの配下のメイジである。
メイジ達が使ってきた魔法はいずれも殺傷能力が高い魔法ばかりであった。
「捜査を打ち切って自殺として処理したのは……リッシュモン高等法院長です。リッシュモンとチュレンヌはおそらく繋がりがあるかと」
王国の中でも特に位の高い役職である高等法院長の名を聞き、アンリエッタは目を細めた。
トリステインの司法、その中でも領主などの特権階級や国内流通などに法の裁定を下す最高機関の長。
立法と行政を行う王室と唯一正面から対立することが可能な組織の最高責任者である。
「……フランソワーズ、どう思うかしら」
その資料を見ているはずのルイズに、アンリエッタは問いかけた。
ルイズの顔はすでに眠たげなものではなく、考えを巡らす王女の参謀のもの。
「調べるならリッシュモン、ね。ただの指輪を探すにしては手が込みすぎているわ」
起こされて機嫌が悪いままなのか、敬語をつけずにルイズは言う。
「例えそれが国宝級のマジックアイテムだとしても、高等法院長の権力の濫用をして失脚の危険を犯す理由にはならないわ」
ルイズの言葉にアンリエッタは思考を巡らす。
殺された人間を自殺として処理する無理を通したリッシュモン。チュレンヌもしくはリッシュモンは指輪を手に入れようとしている。
アンリエッタから見た彼らは、両者とも金を中心に生きているような豚。短絡的な行動を取るチュレンヌはともかく、リッシュモンは金のためとはいえ簡単に足の付く行動を取る愚者ではない。高等法院長という席を何よりも優先して保持することこそ金を集める最大の手立てだ。
だが今回は隠密が数日調べただけで、簡単に彼の動いた跡を見つけられた。優先事項は高等法院長の座を守ることより指輪の入手になっている。
指輪に何の価値があるのか。ルイズの言うとおり、指輪がいかに高価なものであっても手に入れてトリステインに居られなくなったのでは意味がない。となれば、指輪そのもの価値より、指輪に付随している利用価値こそが――
「な・ぜ・か、わたしの仕事に混じっていた高官の支出調査資料を処理していたときに見つけたのだけれど」
アンリエッタの思考を遮るかのように、ルイズは言った。
「その高等法院長、とんでもない額の裏金をそこらにばらまいているわよ。法院長個人が贈賄に使うような額ではないわね。一年で七万エキューよ」
七万エキュー。
ルイズの実家である公爵家の屋敷を二つ建ててもお釣りがくるような膨大な金額だ。
「金の出所は徴税官ですかの?」
じっと会話を聞いていたマザリーニがルイズに問いかけた。
マザリーニは優秀な執政者だが、謀という点ではアンリエッタやルイズには及ばない。話の真相にまだ近づけていなかった。
「むしろ、チュレンヌはリッシュモンからお金を受け取っている手駒である可能性が高いでしょうね。マザリーニ様、リッシュモンと繋がりがある国はどこですか?」
高等法院長の座を捨てて国外に逃げる可能性がある、と言に含めてルイズは問いを返した。
この場ではマザリーニが一番トリステインの国政に関わって長い。高官同士の繋がりに対する知識も年月と共に自然と蓄積している。
「彼の経歴から可能性として考えられるのは、ロマリアですかな。……ああ、あとは国という垣根のないレコン・キスタがありましたか。いやはやなるほどなるほど」
合点がいったとマザリーニは頷く。
トリステインという国を捨て、ブリミル教の総本山であるロマリアというハルケギニアの中心地、もしくは現アルビオン政権であり多国籍の貴族の集合体であるレコン・キスタの元へ亡命しようとしているのではないか。
それを繋げる鍵となるのが、指輪。
「アニエス、リッシュモンの動きを監視させなさい。昼夜問わず、一時も目を離さぬように」
虚無の曜日。首都トリスタニアは人で溢れかえっていた。
アルビオン王国が崩壊してからというもの、国内には戦の気配ありと贅沢を自重する空気が広がっている。だが戦時への備えでまた新しい商いが首都で開かれ、金銭や物資が流通していくことには変わりはなかった。
街の中央に伸びる大通り、ブルドンネ街では前が見えないほど人が行き交っている。
そこからややはずれた表通りの一画、酒場宿『魅惑の妖精』亭は通りの喧噪に反して静かだった。
この店が酒場として営業を始めるのは夕刻からであり、虚無の休日に合わせて昨夜から宿を利用していた客は、既に朝食を済ませ退出済み。
店員も休日とあってか昼に勤める者も少なく、数少ない虚無の曜日勤務の店員が二階の宿の清掃のために動き回っていた。
そんな休日勤務の忙しい給仕を、宿泊客でもないのに一階の酒場を利用していた不良メイジが呼び止める。
「ジャンヌさん、ゴーニュの古酒お願いしますわ」
アンである。今日は前の騒動の時と同じく、居候のファンションも連れている。
「アンさん、またお仕事さぼって昼からお酒ですか……」
そんな二人を見て呆れるジャンヌ。
ジャンヌは夜の酒場でも人気の高い給仕であったが、片親の父との生活のため、昼に勤務することが多かった。
「あらあら、今日は非番ですわ。お休みの日は飲んで食べて一休みに限ります」
そうアンはチップを渡しながら言った。
確かにアンはいつもの清掃メイジの格好ではなく、若い平民の娘が好んで着るような服をまとっていた。
貴族の証であるマントもなく、貴族であることを示すのは腰につり下げられた立派な杖剣のみである。
「ファンションさんはどうします?」
他にも飲食店は多いだろうに、何故わざわざこの店なのだろう。ジャンヌはそう思いながらアンの正面に座る三つ編みの少女の注文を取った。
「ベリーのお菓子を何か」
どこか疲れた声でファンションが答える。
こちらからのチップはない。だが彼女は別にチップを渋るような人ではない。
そこまで気が回らないほど疲れているのだろう。アンに付き合わされているが、本当は家で寝ていたいのではないかとジャンヌは思った。
「あら、お酒はいらないのかしら? 居酒屋なのに」
アンはそうファンションに言った。
遠回しにお前も飲めと言っているようにも聞こえる。
「わたしは別にお休みではないです。ないはずです……」
そう言いながらファンションはテーブルに突っ伏した。
アンに振り回されている書生を哀れに思ったジャンヌは、作り置きのベリーケーキとは別に、疲れが取れると評判の果実のジュースをサービスすることに決めた。
ジャンヌは調理場へ入っていき、食器を用意する。この時間帯は料理や飲み物を用意するのも給仕の仕事だ。
お盆に菓子の皿、古酒のグラス、ジュースのコップ、そして白湯の入ったカップを載せてジャンヌはアン達のテーブルに戻った。
お盆からテーブルに食器を並べた後、ジャンヌは休憩ですと言いながら椅子を引いてアン達の席につき、白湯を飲みながら一息ついた。
そして、優雅に古酒を飲むアンにジャンヌは座りながら小さな礼をした。
「アンさん、この間は父の手当をしてくださったようで……」
「あらあら、いいのよ。もし豚にかまれて破傷風にでもなっていたら大変でしたもの」
ジャンヌの礼の言葉に、何でもないことのように返すアン。
だがジャンヌが父から聞いたところでは、普通のメイジでは使えないようなすごい魔法でたちまちに怪我を治してしまったというのだ。
仕事を抜け出して酒を飲む普段の不良清掃員の姿からは、想像も付かない行動であった。
徴税官に攫われそうになったとき助けてくれたのもこのアンとその連れのファンション。ジャンヌの中で地に落ちていたアンの評価が急上昇していた。
「あの、お休みならこの後わたしの家で昼食でもどうですか?」
そんなことをジャンヌはアンに切り出した。
「今日はわたし勤務は昼までですし、父も改めてお礼を言いたいと」
手を膝の上に載せて、可憐な花のように微笑むジャンヌ。徴税官に踏み込まれ恐怖で怯えていたときとはまるで別人だ。
ジャンヌはこの店で二番人気の娘だ。
器量よしで、こういった礼を欠かさない心遣いが、豪胆なジェシカとはまた違った良さがあるとの評判であった。
ジャンヌからの思わぬ誘いに、アンはわずかに考え込む。
「ファンションも一緒で構わないのかしら?」
「はい、歓迎します!」
アンがファンションをこの店に連れてくることは滅多になく、ジャンヌはこのストロベリーブロンドの書生のことをほとんど知らない。
だが素手でメイジ達を圧倒したあの一幕は店の従業員の中でも噂で持ちきりであり、是非とも話をしてみたいとジャンヌは思っていた。
「というわけで食事を頂くのでベリーケーキはお預けね、ファンション」
「別腹なので問題ありません」
ファンションはそう言いながら、フォークでケーキのスポンジを崩していく。
「あらあら、わたくしの知らない間に胃袋まで改造しちゃったのかしら」
何のことだ、とジャンヌは首をかしげた。