「困りますぞ殿下」
不良清掃員アンが城下町から実家に戻り最初にしたのは、鳥の骨と揶揄される老人の説教を聞き流すことだった。
水の都トリスタニア。
その中枢に位置するトリステイン王国の王城。そこが、アンの実家だった。
貧乏貴族の三女とは世を忍ぶ仮の姿。その正体は、トリステインの第一王女にして国で最大の実権を持つ実質の国主、アンリエッタ・ド・トリステインである。
「この忙しい時期にいなくなっては、国が止まってしまいますぞ」
清掃員の格好をしたまま執務室の自席で座る王女に、鳥の骨、枢機卿マザリーニは苦言を述べる。
アンリエッタは王女といっても、王国の麗しいお姫さまなどという絵本に出てくるような華やかな存在ではない。
王は昔に亡くなり、政治や外交に対する知識が皆無な大后にも頼れない。そのため、国王代理として日々政務に励んでいるのだ。
さらには、ここ最近はレコン・キスタという反乱勢力の手が国内外の貴族達に広がっていることが判明。内部調査と内通者の処分に大忙しである。
仮の宰相として働くマザリーニと、臨時の相談役として城に留めおいたルイズがいなければ、今頃国が転覆していただろう。
「血なまぐさい仕事には潤いが必要ですわ」
積まれた書類に王印を押しながらアンリエッタは言葉を返す。
アンリエッタがこなすのは血なまぐさい仕事である。今彼女が行っている公務の多くが、何かしらレコン・キスタに関わるもの。
いつ戦争が始まってもおかしくない国際情勢。そして、国の内部に潜むレコン・キスタに属する貴族達。刑を執行する杖を収める暇もない。
「休むならば、外に出なくともウェールズ閣下がおられるではないですか」
マザリーニが引き合いに出したのは、亡国アルビオンから逃げ延びた皇太子。いや、元皇太子である。
すでにアルビオン王国は存在しないため、ウェールズの呼び名は殿下ではなく閣下となっている。
アンリエッタとの婚姻が正式に発令され次第、陛下となるのであるが。
「ウェールズ様には毎日のように癒して貰っています。でも、花には日光だけではなく水も必要なのです。城下の営みという名の水が」
爵位のない貧乏メイジに扮して街を練り歩くのは、生まれたときから王族として過ごしてきたアンリエッタにとってはこれ以上ない娯楽であった。
自分と同じく格が高いはずの公爵家の三女であるルイズは、アンリエッタと違い自由に城下町を行き来できる。それどころか、彼女は自らの知識欲のために国内外を飛び回る存在なのだ。
人は手に入らない物を何よりも欲する。
アンリエッタは自らの肩にかかる国民の命を投げ出しても、自由というものが欲しかった。最も、実際に投げ出すほど王族としての自覚が欠けているわけではないのだが。
だからこそ、トリスタニアから戻ったアンリエッタは服も着替えず、今日中に目を通さなければならない書類を処理しているのだ。はめを外して外で遊び回るのも、何も無計画というわけではない。
仕事が滞れば、その分、愛しのウェールズとの何にも邪魔されない新婚生活が遠ざかってしまうのだ。妥当反アルビオン勢力である。
今、彼女の手元にあるのはレコン・キスタとの繋がりが疑われている貴族を強制捜査するための申請書だ。
一枚一枚に署名していてはとても手が追いつかないので、王印での裁決をしている。
国を売る裏切り者は斬首の刑。
明らかな証拠が見つかると即座に城まで下手人を呼び出し、見せしめとしてアンリエッタ自ら杖剣で首をはねにいく。戦時に必要なのは恐怖政治である、とアンリエッタは主張している。
だが、処刑される貴族が有力であればあるほど、開いた穴を埋めるため代理人となる王室の仕事が増える。
「賢者殿も、どうか姫殿下の悪ふざけに乗るのはおやめください」
マザリーニは増えた仕事の被害者、ルイズ・フランソワーズ・ル・ブラン・ド・ラ・ヴァリエールへと話し相手を変えた。
「わたしは止めました。それなのに無理矢理こんな変装までさせられて……」
執務室に臨時に設けられた相談役の席。
そこでルイズは平民の格好のままアンリエッタと同じように政務をこなしていた。
荒く編まれた三つ編みに、やぼったい眼鏡。
マントもなく杖も腕の肉の中という常識では考えられない場所に隠されているため、彼女の顔をよく知るものでなければ貴族であると気づかないであろう。貴族を嫌う辺境の里に足を運ぶこともあるため、平民の演技は慣れたものであった。
彼女が着ている服と顔の眼鏡はルイズが用意したものではない。城下町に遊びに行こうと言い出したアンリエッタがどこからか持ち出したものだ。
さらには用意されたのは服だけではなく、ファンションなどという偽名もだ。
ファンションとは、ルイズの第二の名であるフランソワーズの愛称の一つである。
貧乏貴族の三女アンの家に居候する書生ファンション。これは何度かアンリエッタがルイズと共に街に繰り出すときに使われた設定であり、彼女達は王女と公爵の娘ではなくトリスタニアの一住民であると城下町の店員や住民達に記憶されていた。
実際、ルイズが貴族の格好をして街を散策しても、ファンションであると気づかれたことはない。
よほど貴族としてのルイズと親しい者ならば別なのだが、そういった賢者の信望者はルイズ側の意図を汲んで見て見ぬふりをしてくれる。
「そもそも、ただの学生でしかないわたしの立場では、姫さまを止めることはできないはずですよ。あと、そんなわたしが城下町に出たところで何も文句を言われる筋合いはないはずですよね。ええ、ないですね!」
ルイズは魔法学院の一生徒であり、公爵の娘とはいえ自身は爵位を持たない。『賢者』などという肩書きも国に何らかの保証を受けたものではない。はずなのであるが……。
「今の賢者殿は姫殿下の相談役でありますゆえ」
「そこがそもそもおかしい! そこのお姫さまは貧乏貴族の三女とかふざけた設定で遊び歩いてるけど、わたしだって本来は継承権もない貴族の末女ですよ! それが何でこんな国の中枢に関わる仕事を……」
座りながらルイズは地団駄を踏む。体術を学ぶルイズの踏みつけだが、分厚い絨毯に勢いが殺され可愛らしい音が響いている。
そんなルイズとマザリーニのやりとりをアンリエッタは書類に目を通しながら眺めていた。
あの唯我独尊な幼なじみを完全にやりこめているのだ。面白くて仕方がない。
「あら、では正式に任命しようかしら。王室相談役」
そんな言葉をアンリエッタは横から投げかける。可愛らしい否定の言葉が返ってくるのを期待してだ。
「わたしの今の立場は学生です!」
ルイズはそもそも政治には興味がないと、何度も彼らに言い続けているのだ。彼女の知識は全て魔法と破壊の真理の探究のためにある。
だというのに、隙を見せたらこのように重要な仕事を押しつけられる。
レコン・キスタが暗躍する今だからではない。八年以上前に城下町の清掃などという発案をしてしまってから、ずっとだ。
「わたしも城下なんかに行かずに、さっさと押しつけられた仕事終えて、学院に戻りたいのですが――」
そう言いながら、ルイズは手元にある紙を掴み、マザリーニに向けてひらひらと揺らした。
専用の木材から作られた良質の紙である。
トリステインの公文書には羊皮紙はあまり使われていない。紙の生産技術が確立さえしてしまえば、羊皮紙よりも紙の方が大量生産に向いている。
羊皮紙が使われるのは耐水性が求められる状況だ。トリステインの羊皮紙は、アカデミーの手により耐久性を追求して改良を重ねられている。
ルイズの使い魔である才人はハルケギニアを地球における中世相当だと思っているが、実際は近代に近く、さらには六千年という長きにわたって文明の大きな衰退が起こっていないのため、文明レベルはところどころ地球の現文明を凌駕している部分もある。
そんなトリステインの文明によって作られた公文書用の紙。そこには、王国の常備軍である空海軍の再編成についてが書かれていた。
「明らかにこの前の事件に関係ない仕事も押しつけられてますよね? 逃げますよ?」
レコン・キスタとの戦争を見越した軍の編成の書類だが、相談役として主に外交面を任されていたルイズにとっては無関係もいいところだ。
だが軍であればまだましなほうで、戦争前後の王国領の経済予測や諸侯への影響など、舞い込む仕事が“なんでもあり”な状況に追い込まれていた。
「あらあら、国の機密を知ったのに正式な退出許可を得ないで逃げるなんて、打ち首ですわね」
本来ならばまつりごととは無関係なはずの少女に対し、アンリエッタは笑いながら退路を塞ぐ。
「親友を罠にはめるとか最悪です姫さま」
「うふふ。恨むならば、わたくしをこのように育てたあなた自身を恨むことですね」
ルイズはアンリエッタを育てた覚えなどない。
落雷を見たあの日。それ以来変質した異常な子供としての己を隠さぬまま幼い姫と日々を過ごしていたら、アンリエッタが勝手に感化されて今の性格になっただけなのだ。
昔のアンリエッタは策略や陰謀などに縁の無い純粋無垢な子供だったというのに。
アンリエッタ以上にルイズと同じ時を過ごした八つ上の姉は、アンリエッタと違い十年前から変わらず人一倍優しい聖女のような存在だ。
生まれついての病気が治ってからは、暴走する妹を諫める強さも手に入れたが、それは正しい成長だ。目の前の暴君などと比べては失礼である。
「でも、マザリーニ。わたくしもただの息抜きに抜け出したわけではなくってよ」
アンリエッタはルイズに向けていた視線を己の片腕である宰相へと変えた。
「城の足下の様子も知らないのでは、正しい治世などとてもとても。実際、この目で面白いものを見つけてきたのだから」
面白いもの、と聞いてルイズはすぐに思い当たる。
『魅惑の妖精』亭での事件のことであろう。昼の酒場宿で貴族とメイジ達が押し入り、店員を攫っていこうとしたあの事件。
「マザリーニ、トリスタニアのチュレンヌ徴税官のことはご存じかしら?」
「はあ、良い評判は聞きませぬな。アルビオンの件があるので真偽を確かめる時間がとれておりませぬが」
「その評判というものには、白昼堂々若い平民の娘を攫うというものも含まれているのかしら?」
アンリエッタの言葉に、マザリーニは「む」と呻くと何か考え込むように押し黙った。
貴族が平民に対してある程度の無理を通しても、まかり通るのがこの国の通例だ。だが、人攫いが許されるほど法は乱れていない。
「詳しくは密偵――わたくし直属の隠密隊に調べさせていますが……わたくしも少し動く必要がありそうですわ」
「……殿下が? もしやレコン・キスタの内通者ですかな?」
「それはまだ解りません。ただ、わたくしの勘がささやいているのです」
腰に下げられた王家の杖剣に触れながら、そっと目を閉じた。
「その娘……ジャンヌさんの周りには大きな何かがあると」