トリステイン王国の首都トリスタニアには、清掃屋と呼ばれる水メイジの集団が居る。
水の魔法で街中の汚れを洗い流し、汚物を除け、衛生を保つ。
医療の現場では最早常識となっている衛生観念を街全体に広げるために生まれた、公共の清掃員である。
設立から八年とまだ新しく規模も小さいため、裏通りなどでは清掃が行き届いていない場所もあるが、病の減少と大通りの活性化という実績が上がり、清掃屋は少しずつその人数を増やしている。
水メイジの少女アンも、そんな清掃屋の一人であった。
領地を持たない貧乏貴族の三女として生まれ、貴族の特権である魔法を生かした職を求めて清掃屋に所属した。
清掃屋には貴族は少なく、その多くが平民のメイジであり、さらには道具を使ってゴミを集めるただの平民も居る。
プライドの高いトリステイン貴族ならば平民と肩を並べて仕事などできぬ……と憤慨するところだが、清掃屋に務める弱小貴族はそのようなプライドなど持ち合わせておらず、むしろ危険もなく安定した収入を得られるこの仕事を喜んで受け入れていた。
少女アンもそんなプライドの欠けた貧乏貴族の一人。
いや、さらにたちの悪いことに、清掃屋という仕事に対するプライドまでも欠けていた。
「仕事中に飲むお酒は美味しいわね」
まだ日も高い平日の昼間。
アンは街の巡回から抜け出し、酒場宿『魅惑の妖精』亭で果実酒をあおっていた。
「…………」
そんな不良貴族の隣で、ブロンド髪の平民が一人、呆れた顔でため息をついていた。
「仕事サボって飲酒とはいいご身分ですね」
「あらあら、こうやって街を様子を見回るのが清掃員の仕事よ」
清掃員の証である青色の短いマントを片手でつまみながらアンが言った。
それに対し、ブロンドの平民は冷たい視線を向けて言葉を返す。
「その酒場の見回りに、なんで私が付き合わされているんでしょうね」
アンの友人であるこのブロンドの平民ファンションは、アンの実家に住む書生だった。
職を持たない居候の身であり、日課である家の雑務を手伝おうとしたところをアンにさらわれ、街の巡回に付き合わされた。
専用の清掃用具もない魔法の使えぬただの書生では当然清掃員の手伝いなど務まるはずもない。が、書生を連れてアンが向かったのは馬糞の転がる馬車道でも生ゴミの捨てられる露店横でもなく、一件の酒場宿だった。
「たまには息抜きもいいのではなくて?」
「私は息抜きした分だけ本業がおろそかになるんです」
ファンションの本業は書生、つまり勉学だ。居候先の雑務を終わらせた後に勉強をしなければいけない。
だがアンはそのようなことを気にする様子もない。
「たまにはわたくしの息抜きに付き合ってくれてもいいのではなくて?」
「良くありません。……が、言うだけ無駄なようなので諦めます」
「あらあら、息抜きだというのにそんな暗い顔をするものではないわ。そうそう、ここベリーケーキが美味しいのよ。ジェシカちゃーん」
ファンションの言葉を右から左に流したアンは、近くのテーブルを布巾で磨いていた店員を呼ぶ。
「なんでしょうか不良メイジ様」
「あらあらいきなり酷い言われよう」
『魅惑の妖精』亭は人気の居酒屋だが、開店は夕方から。今テーブルについて軽食を取っているのは二階の宿の宿泊客だ。
そんな場所で、宿泊客でもないアンが昼間から酒を飲めているのには、当然理由がある。
アンはこの店の店長ミ・マドモワゼルと顔見知りであり、その店長に気に入られて「いつでも食事に来て良いわよぉ~ん」と言われているのだ。
そしてこの店員ジェシカはその店長の娘。アンとも面識があり、親しい友人とも呼べる仲だった。
「そのマントつけて昼間から酒飲んでいる道楽者が、不良以外の何だって言うのさ」
ゆえに、ジェシカはアンが貴族であっても友人として正面から軽口を叩く。
そんなジェシカの言葉に、同席のファンションは「全くだ」と同意する。
ジェシカとファンションはお互い面識は無かったが、どうやら共通の友人に対する認識は同じものであるようだった。
「こんな昼間からお酒が飲めるのも、アンリエッタ姫殿下の善政のおかげですわね」
自分に向けられた悪口を意にも介さず、アンは果実酒を口にしながらそう言った。
そんなアンを見てジェシカは腰に手を当てて言い返す。
「こんな不良メイジをのさばらせておくなんて、姫殿下の善政とやらも鳥の骨の采配とやらもまったくなっちゃいないもんだね」
ジェシカの言葉に、ファンションは苦笑した。
王宮の膝元の首都で王族の悪口を言うなど、不敬にもほどがある行為だ。
とは言っても、場末の酒場での雑談にいちいち不敬罪を持ち出すほど今の王室は横暴ではなく、その証拠に公職である清掃員のアンも酒を片手に笑っていた。
「それよりもジェシカちゃん、ベリーケーキを――」
と、アンが追加の注文をしようとしたそのときだ。
店の羽扉が大きな音を立てて開かれ、マントを羽織った貴族の集団が続々と店内へとなだれ込んできた。
その先頭には、でっぷりと太った中年の男。過剰に装飾がなされたその服装から、上流貴族であることが見て取れた。
その姿を横目で確認したジェシカは、先頭に立つ貴族へと身体を向けて姿勢を正した。
「これはこれは、チュレンヌ徴税官さま。ようこそ『魅惑の妖精』亭へ」
ジェシカは引きつりそうになる表情を必死に整え、目の前の貴族、チュレンヌ徴税官に対応する。
「申し訳ありませんが店主はただいま留守にしておりますので……」
「なに、今日は仕事で参ったわけではない」
ジェシカの言葉をさえぎり、胸をのけぞらせながら言うチュレンヌ徴税官。
仕事ではないなら客か、とジェシカは判断し、低姿勢を保ったまま再度言葉を続ける。
「酒場は夕刻からとなっております。今は見ての通りの宿でございまして……」
そう言ってジェシカは店内を手で示す。
酒場にただよう不穏な空気を察知した宿泊客達は、すでに二階の宿泊部屋へと姿を消していた。闖入者などどこ吹く風と食事を続ける不良清掃員と書生を除いて、であったが。
不遜な態度を取る清掃屋にチュレンヌ徴税官は一瞬眉をひそめるが、特に逆らう姿勢があったわけでもないのでその二人組から意識を離した。
「客として参ったわけでもない。今日はこの店の店員に私用があってな」
「店員、ですか……」
「ジャンヌ、という娘がこの店におるだろう」
チュレンヌがその名前を告げた瞬間、店の片隅から「ひっ」という引きつった悲鳴があがった。
その声の主に、ジェシカは視線を向ける。
視線の先に居たのは、栗毛の女の子。『魅惑の妖精』亭の店員ジャンヌだった。
「……ジャンヌが、何か?」
「少々私的な話があるだけだ。おぬしが口をはさむようなことは何も無い」
目標を見つけたチュレンヌはジェシカから視線をはずし、ジャンヌを見据える。
そして後ろに控えていた下級貴族の一人に「連れてこい」と指示を出した。
「ひっ、や、やめ、やめてっ……!」
近づく貴族から逃げるようにジャンヌは後ずさる。が、数歩下がったところで壁に背がぶつかり止まった。
逃げ場を失ったジャンヌの腕を貴族が掴んだ。
「いやっ、いやあっ!」
ジャンヌは叫びをあげて手を振りほどこうとするが、腕を掴む下級貴族は大人の男性。
非力な少女は満足に抵抗することもできずに入り口へ引きずられていく。
「たすけ、助けてジェシカさん!」
自分を呼ぶ同僚の叫びに、尋常ではない事態になっている、と今更ながらにジェシカは理解した。
「ジャン――」
「私用である、と言っただろう」
ジェシカがジャンヌに手を伸ばそうとした瞬間、チュレンヌの背後の貴族達が一斉に杖を引き抜いた。
いきなりの抜杖に驚愕したジェシカは反射的に手を引っ込め、勢い余って後ろへわずかによろめいた。
杖とは暴力だ。平民にとって、杖を向けられるのは首に刃物を押しつけられるのと同義。
「ふぉふぉふぉ、それでは店員をしばし借りるとしよう。返す気はないがね」
そう言い捨て、チュレンヌは腹をゆらしながら入り口に振り返る。
杖を向けられたジェシカは、その背中をにらみつけることしかできない。
チュレンヌは笑いながら店を後にしようと、羽扉を押した。
その瞬間だ。
銀色の光がジェシカの視界を横切った。
肉を打つ鈍い音が響く。突然貴族の手から解放されたジャンヌが後ろに倒れ床に尻餅をつき、その横に金属製のスプーンが音を立てて落ちた。
突然の事態に、ジェシカは目を見張った。
見れば、ジャンヌを連れ去ろうとしていた貴族が腕を押さえて屈んでいる。
「昼間から人攫いなんて首都も物騒ね」
店内に若い女の声が響いた。
声の元は、ジェシカの横。そこには、ブロンドの髪を三つ編みにした眼鏡の少女、書生ファンションが座っていた。
書生は食事を取っていた位置から動かず、ただ右手を前に突き出していた。
そんな書生に、隣のアンが果実酒片手に合いの手を入れた。
「思っていたより治安が悪いのかしら。ジェシカちゃんがさっき言った通りですわね」
そこでようやくジェシカは状況を理解した。
この平民の書生が、食器を投げつけてジャンヌを解放したのだ。
「ぶ、無礼者!」
ジェシカと同じように状況を理解した貴族の一人が、書生に杖を向ける。
次の瞬間、轟音が響いた。
貴族が魔法を放ったのか、とジェシカは思ったが、違った。
貴族達は誰も魔法を使うためのルーンを唱えていない。今の音は、書生が足の裏で勢いよく床を蹴った音だ。
「はっ!」
床を蹴り一瞬のうちに杖を構える貴族に肉薄した書生は、勢いそのままに貴族に靴の裏を向けた。
跳び蹴り。
ご、とも、が、とも聞こえるうめき声をあげて貴族は吹き飛び、羽扉に手をかけていたチュレンヌを巻き込んで店外へと転がり出た。
慌てて店の外に顔を向けるもう一人の取り巻き貴族。その後頭部に書生の後ろ回し蹴りが叩き込まれる。
ただの書生の少女のものとは思えぬ強烈な一撃を受けた貴族は横転し、チュレンヌ達の後を追うように店の外へと転がった。
「あらあら、相変わらずお転婆さんねファンション」
その様子を眺めていた清掃屋アンは、書生が座っていた椅子を笑いながら掴み、先ほどジャンヌを連れだそうとしていた貴族に向けてその椅子を投げつけた。
先ほど書生が投げた食器とは違い、山なりに放物線を描きゆっくりと飛ぶ椅子。
当然、貴族はその椅子を避けようと身構える。
店内にいる貴族達の視線は、投げつけられた椅子に向けられていた。
椅子が弧を描き飛び、落ち、貴族が避ける。
そのわずかな隙にアンは腰にさしていた杖剣を抜き、軍人さながらの早口でルーンを唱えていた。
「ラナ・デル・ウィンデ、『エア・ハンマー』」
風の系統魔法が放たれ、店の入り口に陣取っていた貴族達がまとめて店外へと叩き出された。
彼らの前で蹴りを放っていた書生をも巻き込んで。
「――ってこらー! アン! わたしを巻き込むなこの酔っぱらい!」
『エア・ハンマー』の直撃を受けたというのに無事で済んだのか、書生が店の外からアンを罵倒した。
「あら、ごめんなさい。わたくし風の魔法は不得手なのよ」
水のメイジである清掃員アンはそう笑って店の入り口へと向かう。
彼女の利き手には一本の杖剣。ハルケギニアに古来から伝わるレイピア状の杖ではない。
数年前『賢者』が発案したとされる、トリステイン軍人の一部が使う杖が組み込まれた長剣だ。
遠くの敵に魔法を撃ちながら近くの敵を『固定化』が施された刃で斬りつける、メイジとしての見栄を捨て実用性のみを追い求めた武器。
アンはその杖剣で壊れて動かなくなった羽扉を切り落として、外へと出る。
『魅惑の妖精』亭を出た通り。平日と言えどもここはトリステイン王国の首都であり、道を歩くものは多い。
その首都の道での乱闘劇。当然のように野次馬が集まっていた。
小柄で眼鏡の文学少女が、メイジの集団を相手に蹴り、殴り、杖を奪い、膝で杖を叩き折る。
メイジに対する鬱屈が溜まっている平民達にとっては最高の大道芸であろう。
ならば自分は剣技のみを使って加勢しようか、とアンが杖剣を構えたときのことだ。
「衛兵さん! こっちです! こっち!」
と、通りの向こうから短髪の女性が首都警邏の軍人数名を引き連れてきた。
それを見たチュレンヌは、書生とアンをにらんだ後、取り巻きの貴族達に指示を出した。
「ええい、引くぞ! 引くぞ!」
出した指示は、撤退。徴税官であるチュレンヌといえど、警邏隊の前で私闘を行って見逃されるということはない。
彼が大きな顔ができるのは、あくまで税を徴収する店の中だけの話だ。
ゆえに、警邏隊に詰問される前に逃げなければならない。
平民との私闘ならば、現場で捕まりさえしなければ後をひくことはないだろうとチュレンヌは判断し、人だかりをかき分けて逃げ去っていった。
軍人達が店の前に付く頃にはすでにチュレンヌ達の姿はなく、乱れた服を直す書生ファンションと振るう機会を失われた杖剣を持てあます清掃屋アンが残るのみだった。
そんなアンの姿を見つけた軍人の一人が、ため息一つにつぶやいた。
「またあなたですかアン殿」
「はいはい、お説教は後にしてくださいまし」
街中でいらぬ騒ぎばかり起こす不良清掃屋アンは、顔見知りの軍人に軽く手を振ると『魅惑の妖精』亭へと戻っていった。
乱闘後の店内。椅子の投てきや風魔法の使用があったが、物理的な被害は羽扉のみ。
人的な被害者である店員ジャンヌはというと、書生から助けられたときの尻餅をついた姿勢のまま、床に座り込んでいた。
「大丈夫よ、貴女を連れ去る悪人メイジさんは追い払いましたわ」
「あ、ありがとうございます……」
アンが手の平を差し出すと、ジャンヌはその手を握った。
アンはそのまま手を引っ張ってジャンヌを助け起こす。貴族に強く腕を掴まれていたようだったが、怪我はないようだ。
「で、なにゆえさらわれそうになったのか、差し支えなければ教えていただけるかしら?」
そうアンが問うと、ジャンヌは「ひっ」と息を飲んで、顔を引きつらせた。
「なんでもないんです! 本当になんでもないんです!」
ジャンヌは掴んだままだったアンの手を払い、店の奥に逃げていった。
「…………」
本人に聞けないならば同じ店員のジェシカに聞こうか、とアンは考えたが、止めた。
この『魅惑の妖精』亭は、店主が他に行き場のない後ろ暗い過去を持つ女達を集めて経営している店だ。同僚がワケありだったとしても、部外者にそれを話すわけがない。店主からして『普通ではない』のだ。
この場で聞けることはない、と判断してアンは後ろに振り返った。
軍人達が壊れた扉の検分をし、その向こうでは書生に事情の説明を受けている。
その軍人達に混じって、一人の平民が店の入り口横に立っていた。
乱闘の最中に警邏の者を引き連れて来た、金髪の女性だ。
通報者として現場に残されていたその女性に、アンは近づいていった。
そしてアンはその女性に真横に立つと、小声で女性に呼びかけた。
「アニエス」
「はっ」
アンの呼びかけに対し、女性も小声で返事を返す。
「チュレンヌ徴税官を調べなさい。"なにか"があるわ」
チュレンヌとジャンヌ。これは、下心から平民を手込めにしようというありふれた話ではない、とアンの"勘"が告げていた。
「隠密隊の腕を見せて頂戴」
「承知致しました……姫殿下」
女性の返答に、アンは口元を釣り上げて笑う。それは不良清掃員アンとしてのものではなく、トリステインの姫将軍アンリエッタとしての笑みであった。
□暴れん坊君主~わたしのかんがえたかっこいいあんりえったさま~□