「キュルケ? タバサ? なんであんたたちがここに居るの!?」
「早起きして窓の外を見たら、貴方がどこかに出掛けるじゃない。
きっと、昨日の夜に貴方の部屋を訪れた、トリステインの王女様に何か頼まれたんだろうと思ってね。
タバサにちょっと無理を言って、貴方たちを追いかけて貰ったの。
一人だけ面白そうな目にあうなんて、許せなくてよ?」
「……っ! あんた、それをどこで!」
キュルケは事も無く、結構みんな知ってるわ、と答える。
「貴方、本当にお姫様が誰にも見つからずに貴方の部屋に行けたと思ってたのかしら?
ギーシュに尾けられて気がつかなかったのよ、あのお姫様」
「……しまった。それもそうね」
「納得しないでくれよっ! 僕が傷つくだろうっ!」
ギーシュが最後の力を振り絞って絶叫する。
でも、誰も恐れ入ったりしない。だってギーシュなんだもん。
「ところで、なんでタバサは寝巻きなのよ?」
「ああ、あたしが急かしたものだから、着替えてる暇もなかったのよ」
「……あんた、本当にその子の友達なの?」
結局、生き残った五人は、ただの盗賊に構っている暇は無いという、ワルドの言葉で放免される事になった。
尋問した僕が言うのもなんだけど、こんなあっさりしてて良いのかなぁ、という呟きは、ギーシュの偽らざる本音だ。
まあ、良いか。魔法衛士隊の隊長が言うんだから、間違いはないだろう。
この時、どうしようもないほど疲れていたとはいえ、安易にワルドの主張になびいた事を、
後に、ギーシュは苦い後悔と共に思い出すことになる。
『女神の杵』亭は、ラ・ロシェール屈指の高級宿であり、
この街から、アルビオンへと向かう貴賓が逗留する宿としても知られている。
選び抜かれた調度品、チリ一つ落ちていない清潔な店内。
腕自慢の調理人が、鍋を振るい、熟練のホテルマンたちが宿泊客をもてなす。
王都の最高級の宿にも、決して劣りはしないというのが、この宿の主人の口癖だった。
キュルケとタバサと合流した一行は、そのままラ・ロシェールの街へと入り、
ラ・ヴァリエール公爵家の定宿だという『女神の杵』亭へと向かった。
どう考えても野次馬以外の何者でもないこの二人を、
ルイズたちは、その場で追い返しても良かった……というよりも、
任務の性質を考えれば、追い返すべきだったのだろう。
だが、トライアングル・メイジ二人は戦力として決して軽視できない事から、
これ以上の詮索は無用という条件で、ワルドは二人の同行を許可していた。
そのままワルドとルイズ、ノワールの二人と一匹は、乗船の交渉のために桟橋へと赴き、
残されたキュルケとタバサは、歩く事もままならないギーシュを半ば引きずりながら、『女神の杵』亭に宿を取ったのだった。
乗船交渉が上手くいけば、明日の朝には、アルビオンに向かって出発する事になる。
だが、交渉が上手くいかないのか、トラブルが発生しているのか、ルイズたちは中々『女神の杵』亭に姿を見せない。
ギーシュが、テーブルにべったりと突っ伏したままピクリとも動かず、タバサが黙々とハシバミ草のサラダを平らげる中、
キュルケは、運ばれてきた料理にも、グラスに注がれたワインにも手をつけず、ワルドについて考え込んでいた。
これは、女の勘だ。
多分、あの男はろくなもんじゃない。
そりゃ、顔は抜群だし、能力や地位で考えれば、有能で前途洋々たる若者、といった所なのだろうが、
話しかけたときにこちらを見た、あの目つきがどうにも気に喰わなかった。
あれは、己以外の全てを自分の道具だと信じている傲慢な男の瞳だ。
抱かれて一番面白くないのは、ああいう男だ。
あたしが押し付けられた公爵も大概だったけど、あんなのが婚約者とは、ルイズも可哀想に……。
キュルケにしては珍しく、仇敵とみなす少女にしんみりと同情した。
自分が、婚約者がらみのトラブルで、留学する羽目になっただけに、余計にそう感じたのかもしれない。
ワインをあおる。
思う。
あの子、ここ最近、ただでさえ落ち込み気味なのに、また変な悩みを抱え込まなきゃ良いのだけど。
案の定、帰ってきたルイズは、世界の悩みを全て背負い込んでますとでも言いたげな憂鬱な表情をしていた。
そのルイズの隣に座ったワルドが、重々しく口を開く。
「アルビオンに渡る船は、明後日の朝にならないと出港しないらしい。
事は一刻を争うのだが、今は仕方がない。
諸君、明日はゆっくりと休養を取って、明後日以降に備えて欲しい」
ギーシュを除く全員がいっせいに頷く。
その様を確認してから、ワルドは言葉を継ぐ。
「さて、そうと決まれば、今日は早く寝よう。
僕とルイズ、キュルケとタバサが相部屋で、ギーシュには、一人部屋で寝てもらう」
「あ、先に謝らせていただくわね。ごめんあそばせ、子爵様」
キュルケが優雅に一礼する。
その仕草が、待っていましたとでも言わんばかりに見えたのは、気のせいだろうか。
「……?」
不審な表情を浮かべるワルドに向かって、さり気なく爆弾を投げ込んだ。
「部屋、二つしか取れませんでしたの」
「……は?」
ワルドの顎が落ちる。
声は聞こえたのだが、言葉の意味が分からないとでも言いたげな表情。
「だから、二つしか取れなかったのよ、部屋。
二人部屋が二つ。
アルビオンの亡命貴族が、何組も逗留しているらしいですわ。
三部屋は物理的に不可能ですって」
唖然とした表情。
キュルケは、内心で上げる快哉を、面に出さないように苦労する。
気に食わない男への、ちょっとした嫌がらせ。
「お詫びといってはなんですけど、あたしとタバサが一つのベッドで眠りますわ。
あなたの婚約者には、不自由な思いはさせません」
面食らった表情のままの、ワルドに、邪気の欠片もない笑顔を向ける。
「まさか、結婚前の男女を、同室にするおつもりではないでしょう?」
一気に畳み掛けた。
自失から立ち直ったワルドは、不承不承といった仕草で首を縦に振ると、
始めてみせるやや乱暴な仕草でギーシュを部屋へと引きずっていった。
その背中が視界から消えるのを確認すると、キュルケは先ほどとは、また微妙に質の違う微笑を浮かべた。
その微笑みは、花開くように美しい。
だが、見る人によっては、それを悪魔のような、と表現したかもしれない。
「さて、それじゃあ、女同士で仲良くやりましょうか」
じゃんじゃん飲みなさい、ルイズ、とキュルケはワインを注ぐ。
我関せずという顔で、タバサははしばみ草のサラダを食べ続ける。
ラ・ロシェールの夜は長い。
「なるほどね。十年ぶりに現れた憧れの人との再会ってわけ」
ロマンチックじゃない、と寝台の端に座ったキュルケが茶化す。
「でも、よく分からないの。だって、十年よ?
確かに憧れてたし、素敵だとも思ってたわ。だけど、わたしだって何時までも六才の子供じゃないもん。
十六歳の今になって再会したからって、昔の気持ちに戻れるわけじゃないわ……」
四本目のワイン瓶を開けたあたりから、ようやくルイズは重い口を開き始めた。
食堂で散々飲み食いし、現在、部屋に戻って七本目を開けている最中。
キュルケの下世話な好奇心に乗るのはしゃくだが、良い事が一つだけある。
誰かに話しているうちに、自分でも気がつかなかった何かが見えてくる事だ。
「でも、ワルドはそれを望んでるみたい……ううん、そうなるって事をまるっきり信じてる」
そのうち、プロポーズでもしてくるんじゃないかしら、と重い溜息を吐く。
昔はあんな風じゃなかった……と思う。
一人小船で拗ねていた自分を、慰めてくれたあの頃のワルドと、今、こうして再会したワルド。
両者には決定的な違いが有る。
それは、優しさの質だ。
今のワルドの方が洗練されていて、気遣いも一々さり気ない。
でも、その優しさは、ルイズを見ていない。
この十年の間に、ワルドに何があったのかしら?
「確かにちょっと唐突よね、貴方の婚約者。
そこまで熱心なら、普通、もうちょっと連絡をとるものよ」
そこで今まで黙っていたタバサが、口を開いた。
「一目ぼれ」
口こそ出さなかったが、話はきっちり聞いていたらしい。
キュルケはルイズのつま先から頭のてっぺんまでを一瞥。
「ありえないわ」
言下に否定する。
「何か他に目的がある」
暫く考え込んだ後、キュルケは深刻そうな表情で、ルイズに向き直った。
「……ねえ、ルイズ。近々、遺産を譲り受ける予定はないわよね?」
「ないわよっ! っていうか、何よ、一目惚れはありえないって! 可能性は存在するでしょ!」
「……」
「……」
さ、もう夜も遅いし、寝ましょうか、タバサ。ちょっと端に寄ってもらえる?
あ、そうだ。明日になったら、服を買わなきゃね。
え、いらない? ダメよ、幾らなんでも寝巻きのままって訳にはいかないわ。
「こらー! 無視するなー! 寝るなー!」
がるるるると唸りそうなルイズ。
部屋の隅で丸まっていたノワールが、大きな欠伸をした。
翌日、ギーシュが目を覚ましたのは、昼近くになっての事だった。
痛む節々を伸ばしながら食堂へ赴く。
「おはよう、寝ぼすけさん。身体の調子はいかがかしら?」
食堂では、キュルケとタバサが早めの昼食を取っていた。
よろよろと歩いてくるギーシュに気がついたらしく、キュルケが軽く手を上げる。
テーブルの上には、二人が頼んだ料理が湯気を上げている。
喉がゴクリと鳴る。よくよく考えてみれば、疲労のあまり昨日は夕食を食べていない。
空腹が、胃をきりきりと締め上げるようにこみ上げてくる。
そんな視線に気づいたのか、テーブルに着いたギーシュの前に、料理が盛られた皿が置かれた。
鳥の腿肉に、肉汁のソースが掛かった肉料理。
茶色いソースのこっくりとした照りが、目に眩しい。
驚いて視線を上げると、キュルケが微笑んでいる。
「お腹空いているんでしょう? まだ手を着けてないから、お食べなさいな」
人の優しさに触れて、涙が出そうになった。
というか、泣いた。
礼もそこそこに、皿の上の肉に齧り付く。
皿はあっという間に空になる。
人心地ついたところで、ふと、居るはずの人間が居ない上に、
何か物凄い違和感がある事に気がつく。
ええと、あれ? 確か昨日はタバサは寝巻きだったよね?
なんでそんなに白いフリルがたくさん付いた黒いワンピースを着ているんだい?
頭のレース編みのヘッドドレスは何かの冗談かな?
「キュルケ、タバサの格好はどうしたんだい?」
どうせまともな答えは返ってこまいとタバサ本人ではなく、キュルケに尋ねる。
よく見ると本に目を落とすタバサの視線が、微妙にさ迷っている。
やたらと注目が集まるこの格好は、かなり居心地が悪いらしい。
「ああ、これ? 朝一で買ってきたんだけど、こんなのしかなくって」
でも、その割には似合うでしょうという、楽しそうな顔を見れば、その言葉が嘘だというのは明らかだ。
絶対に狙ってやったに違いないと確信する。
悪魔か、この女。
「何かしら、その目つき。もう片方はピンク色だったんだけど、どうしても、って言うから、こっちにしたのよ」
訂正。
悪魔だ、この女。
「あー、まあ……君たちが仲が良いのは、よく分かったよ。
ところで、ルイズとワルド子爵は? 姿が見えないようだけど」
「ルイズはノワールの散歩。ワルド子爵は、そのボディーガードですって」
なるほど、と頷く。
「でも、ノワールが居れば、たいがいの相手はどうにかなるだろう。
意外に心配性だな、子爵も」
アルビオンの貴族派だって街中で仕掛けるほど馬鹿じゃあないさ、と言いかけたところで、
目の前の二人が詳しい事情を知らない事を思い出し、口を噤む。
首を突っ込んできたとはいえ、事情も知らないまま、この二人をアルビオンに連れていってしまって良いのだろうか?
向こうではどんな危険が待ち受けているのかも分からないというのに。
都合が良い事に、二人の同行を許可したワルド子爵はこの場にはいない。
トライアングル・メイジの実力は心強いが、ここはやはり、男として、同級生として、二人をとめるべ……。
だが、百戦錬磨のキュルケが、ギーシュの先手を取った。
「止めても勝手についていくから、言うだけ無駄よ?」
「なっ」
驚愕するギーシュとは対照的に、楽しそうな、とても楽しそうな、キュルケの言葉。
「気遣ってくれるのは嬉しいけど、あたしは、何事もあたしのやりたいようにやることにしているの。
だから、貴方たちは貴方たちで利用したいように、あたしたちを利用すれば良いのよ」
そもそも王族が関わっている時点で、事情を聞かせてくれるなんて思っていなくてよ、とキュルケは笑う。
隣のタバサもこくりと頷く。
驚愕に凍り付いていたギーシュの口から、つられるように笑いが漏れた。
どうやらこの二人は、事情は知らないし、知るつもりもないが、手助けしたいから勝手に助けると言っているらしい。
こちらの勝手でするのだから、感謝も謝罪も必要ないのだと。
酔狂だ、酔狂極まりない。だが……。
だが、なんと誇り高い酔狂だろうか。
「はっ……ははははっ、あははははっ、君たちもよくよく物好きだな」
涙が出るほど大笑いする。
周りの客が何事かとこちらを見やるほどに。
ひとしきり笑った後、涙を拭うと、一転して表情を改めた。
この気持ちが、少しでも正確に伝わりますように。
モンモランシーに平謝りした時だって、これほど真剣にはならなかった。
「ありがとう。そして、僕は君たちと机を並べられた事を、誇りに思うよ」
キュルケは唇の端で笑い返すと、大袈裟よ、と言って、軽く手を振った。
そっぽを向いた浅黒い頬は、よくよく見れば少し紅くなっていたかもしれない。
「まあ、それはそれとして、昨日も気になったんだけど、何で船が出ないのかしら。
今日なんか天気も良いし、風もないし、絶好の航空日和って感じじゃない」
キュルケの照れ隠しの独り言のつもりだった一言に、ギーシュが答えた。
「今夜は月が重なる『スヴェル』の月夜だろう?
その翌日、つまり、明日の朝にアルビオンがラ・ロシェールの街にもっとも近づくのさ。
勿論、近づけば近づくだけ、風石の節約になる。
ただ、遠ければ特別料金を上乗せするんだろうけど、近いとそうするわけには行かない。
だから、『スヴェル』の月夜の前後二三日は、割に合わないといって、中々商船が飛ばないんだ」
意外な相手からの意外な答えに、キュルケは目を丸くする。
「へぇ、変なことに詳しいのね、貴方。ちょっと見直したわ」
美女に誉められていい気にならないギーシュはギーシュではない。
やたらと誇らしげに胸を張る。
「ま、空軍に務める兄の受け売りだけどね……って、しまったな。
昨日は、つい勢いに乗せられて飛ばしたけど、あんなに急ぐ必要は無かったんじゃないか。
どうせ今日は船が出ないって分かっていたんだから」
ポロリとこぼした一言に、テーブルを囲む雰囲気がほんの僅かに変化する。
「……ねえ、ギーシュ。その話って、軍人ならみんな知っていてもおかしくない話なのかしら?」
先ほどまでとは打って変わって真剣な表情を浮かべるキュルケ。
いつの間にか、タバサも本から目を離して、ギーシュを見つめていた。
だが、ギーシュはその変化に気がつかない。
何時ものようにお気楽に答える。
「ん? うーん。どうかな。兄が知っていたのは、多分空軍に所属していたからだと思うよ。
でも、自国周辺の地理や物流について知っておくのは、優秀な軍人なら当然かもしれないね」
その答えに、そう、とだけ呟くと、キュルケは顎に手をやって考え込んだ。
自分の答えが何を示唆したのか、まるで気づいていないギーシュは、そんなキュルケの様子に首を傾げる。
これは、確かめてみる必要がありそうね、と呟く声は、隣に座るタバサにしか聞こえないほど小さいものだった。