気が付くと、彼は毛布で作った簡単な寝床の上に横たえられていた。
情報を求めて、脳内に仕込んであるデータロガーをチェック。
最後に記録されていた状態と現在のそれを比較する。
身体中に複数の裂傷と骨折がロガーに記録されていることを確認。
今更ながら、自分が死の一歩手前に居た事を認識する。
特に額と首の裂傷は、あと数mm深ければ、即死しかねない危険な代物だ。
……よく生き延びたものだと感心する。
主要な臓器に深刻なダメージが無かったとはいえ、あのまま放置しておけば、程なくして出血死していたはずだ。
思う。死んでいたはずの自分が、まだ生きている。しかも、運動レベルに支障が無いほどに回復して。
更に思う。いや、放置されていなくとも、普通、助かる傷ではない。
あの時点での出血量は、間一髪とか紙一重とかいう言葉の介在を許さないものだった。
結論。ということは、おれは人間に助けられたのか? それも、尋常ではない何らかの手段で。
高知性化された脳髄の奥、彼が認識できないどこかから、それを認めるなと喚く声が聞こえる。
それを認めたが最後、お前はお前ではなくなると。
その声を打ち消すように、最後に見た、あの女の顔が思い浮かんだ。
ただでさえ大きな目を見開いて、涙を一杯にこぼしながら、誰かに助けを求めていた姿。
――あいつが、おれを助けたのだろうか?
各部のチェックを終え、意識の焦点を感覚器官に返す。
並列処理出来れば、自己診断と周辺情報の取得が一度に出来るのだが。
どうも目を覚まして以来、この身体にどうしようも無い違和感を感じる。
敢えて言うならば、そう、使い慣れていないとでも言うべきか。
あるべき物が幾つも無く、しかも、無くしている事を自分が知らないはずだという奇妙な確信。
かつて呼吸と同じように当たり前に行っていた事が、今の自分には出来ない。
しかも、何かのきっかけが無ければ、出来ないという事それ自体に気が付かないという事実。
もっと大事な何かを取りこぼし、そして、その事を見過ごしているのではないかという獏とした不安。
――おれが、不安? それはおれにとって最も縁遠い感情ではなかっただろうか?
――まあ、良い。傷が治っているなら、今は現状を把握する事のほうが先だ。
――
20㎡ほどの部屋には、寝台が一つと幾つかの家具が置かれている。
日の差し込み方から察するに、窓が一つある方角が南。北側に扉が一つ。
集合住宅の一室だろうと推測する。
分厚い石組みの壁の向こう側から、隣人と思しき声が漏れ聞こえてくる。
そして、目の前では人間の女が目を丸くしている。
濃い色の髪を肩口で切り揃えてある。
頭の上には――彼の知り得ない知識だが――サーヴィングキャップがちょこんと乗っている。
恐らくは白と黒で纏められ袖を大きく折り返したユニフォーム。
見る人が見れば、ビクトリア朝の正統的メイドだと言っただろう。
その横には、突っ伏すようにして寝ている女が一人。長い薄い色の髪、全体的に小作りな身体。
小柄な体躯には大きすぎるように見えるマント。ミニスカートからは、やや肉付きの薄い脚が無造作に投げ出されている。
彼はそのどちらも脅威足りえないと判断。
確かに本調子とは言いがたいが、その気になれば、非武装の人間など悲鳴をあげる暇さえ与えず始末する自信がある。
自身の絶大な戦闘力の優越を信じるがゆえに、彼はこの場は静観する。
行動を起こすのは、目の前の人間が敵か味方か判別した後でも遅くは無い。
――敵か、味方か?
一瞬の思考。
それがすでにかつての自分ならばありえない迷いであったことを、今の彼は気づくことが出来ない。
「ミス・ヴァリエール! ミス・ヴァリエール! 起きました!
ノワールが起きましたよ!」
いまいちまとまりに欠ける彼の思考を断ち切るように、目の前のメイドが声を張り上げた。
「起きて下さい、ミス・ヴァリエール! ルイズ様!」
「ごめん、シエスタ……あと五分だけ……」
実にベタな寝言だと思う。
いや、無論彼が人間の寝言を聞いたのは初めてなのだが、
彼の知識の中では、まだ眠い人間はそういう弁明をするのだという事になっている。
ちなみに次点は「う~ん……むにゃむにゃ」と「もう食べられないよー」。
この辺りの軍務には全く関係の無い知識が、軍研究所時代の彼が博識と言われた所以だが、所詮は軍用兵器の博識。
一般常識の無さでは、アルビオン在住の乳革命(仮名)さんと大差無い。
ともかく、今の会話から、二人の名前は把握した。
固体識別名を割り当てる。
髪の色の濃い方がシエスタ。
薄い方がヴァリエール、或いはルイズ。しばし逡巡した後、ルイズで固定する。
謎が一つ残った。
……ノワール?
シエスタは暫くルイズを揺さぶるものの、当のルイズに全く反応が無い。
やがて諦めたのか、ルイズを未練の残る視線で一瞥した後、シエスタはろくでもない爆弾を落とした。
「もう、ミス・ヴァリエールったら。でも、仕方ありませんよね、この3日間、全然寝ていないんだから。
ずっとあなたの看病をしていたのよ、ノワール。良いご主人様ね」
――おれの事かっ!
――
ルイズが召喚した使い魔が目を覚ましたのは、あの日から3日後の事だった。
何故か傷ついた状態で呼び出された使い魔を助けるために、
ルイズは今まで溜め込んでいた仕送りを全て使って、学園中の水の秘薬をかき集めた。
動物に詳しいメイドが居ると聞けば、直接頭を下げて助力を頼んだ。
容態が安定したと言われたので、医務室から自室まで運んだ。
どういう訳か、一度だけコルベールが部屋まで見に来た。
動物に詳しいメイド――シエスタという名前だった――を紹介してくれたのも、そもそもはコルベールだった。
コルベールは、使い魔の左前脚にあるルーンを暫く難しい顔で眺めた後、帰った。
土産代わりに水の秘薬を一本奢ってくれたのは、本当に助かった。
シエスタと一緒に使い魔の名前を考えた。
黒い犬だからからノワールというと、シエスタがすっごく微妙な表情をしたのはちょっとカチンと来たが、
その辺りのセンスのなさは、ルイズ自身もよく承知している。
「変に捻って外しちゃうよりマシでしょ! べべべべ、別に他に名前が思い浮かばなかったからじゃないんだからね!」
シエスタの眼差しが生暖かくなったような気がした。むきゃー。
シエスタの指導の下、折れている骨に添え木を当てた。
中々止まらない血で包帯が汚れる度に取り替えた。
授業に出席する事も眠る事も拒んだ。
新学期の頭で、始まっていないも同然の授業は兎も角、
眠らないのは身体に障ると、シエスタは交代で休むように薦めたのだが、
ルイズは頑として首を縦には振らなかった。
流石に三日目の払暁、糸が切れるように崩れ落ち、そのまま眠り込んでしまったが。
怖かった。怖かった。怖かった。
目を離した隙に、せっかく呼んだ使い魔がそのまま消えてしまうような気がした。
精一杯、自分に出来る努力をしたけれど、ルイズにとって、努力とは常に裏切られる物だった。
少なくとも、魔法に関わる諸々の事毎に関しては、そうだった。
とても信用できたものではない。
しかし、その努力は、今、正しく報われた。
すっかり傷の癒えた使い魔がルイズの目の前に居る。
あきれた事に、あれだけあった傷が、殆ど残らず綺麗に治っていた。
唯一名残を残すのは、特に深かった額の傷跡だけ。
眉間に奔るその傷跡は、犬としては飛びぬけて大きな身体と相まって、一種異様な凄みを漂わせていた。
「……良かった、良かったぁ」
目を覚まして一番に無事に意識を取り戻した使い魔を見たルイズは、咄嗟にどうして良いのか分からず、
立ったり座ったりを落ち着き無く数回繰り返した後、辺りを憚らず大泣きした。
後ろからその姿を見守るシエスタの目にもうっすらと涙が浮かんでいる。
――始祖ブリミルよ。卑小なわたしの祈りに応えてくださったことに、心からの感謝を捧げます。
――
まだ開いている傷口は無いか、接いでない骨は無いか十分に確かめた後、
シエスタは仮眠用に持ち込んだ毛布を手に、ルイズの部屋を去った。
「じゃあ、仕事があるので、私はこれで……その、失礼かもしれませんけど、この三日間、楽しかったです」
別れ際、シエスタはこう言って微笑んだ。
「……あ、あのね……」
扉を閉めようとするシエスタに向かって声をかけた後、暫くもじもじするルイズ。
「……?」
「色々、アドバイスしてくれて、ありがと。えっと、その……ノワールが助かったのは、あんたのお陰よっ!
本当に感謝してるわっ!」
一気にまくし立てた。頬が赤い。
照れ隠しなのか、何だか目つきまで悪い。睨んでいる様にも見える。
事情を知らない第三者が見たら、叱責してるように見えたかもしれない。
だが、シエスタもこの三日間でその辺りの機微はよく弁えていた。
どうにも素直になれない人なのだ、と。
そういう所が、ちょっと可愛いんですよね、という呟きは、心の中に収めておく。
「はい。光栄ですわ、ミス・ヴァリエール。こちらこそ、過分のご厚意、感謝に堪えません」
「ルイズで良いわ。あんた、この3日間、うっかり何度かそう呼んだし……それに、あんたには散々世話になったもの」
ぷいす、と横を向いた。すでに耳まで真っ赤に染まっている。
「そ、その勘違いしちゃダメなんだからねっ?
貴族をファーストネームで呼べるからって、思い上がったりすると、痛い目見るんだから!」
意訳:他の貴族も同じような感覚で付き合うと、相手の逆鱗に触れちゃう可能性が高いし、
そうじゃなくても、この事を鼻にかけて自慢すると、同じ平民から妬まれるかもしれないから注意しなさい。
ああもう何でわたしこう素直じゃないなというかシエスタだったらこんな事言われなくてもわかってるはずでしょ
素直じゃないっていうか一言多いのよねしかも言ってから気づいても遅いのよわたし怒らせちゃったらどうしよう……
内心自己嫌悪でグルグルするルイズ。そんなルイズをシエスタは驚いたように見つめる。
驚きが覚めていくにつれて、シエスタの身体にじんわりと暖かい何かが広がっていく。
「はい、承知いたしました……ルイズ様」
何かあったら、すぐ相談にいらして下さい、と言って、花開くようにシエスタは笑い、
そして、今度こそ扉を閉める。
パタン、と音がして、部屋には、一人と一匹が残された。