ニューカッスル城直下、早朝。
「くしゅっ」
悠然と空を舞うシルフィードの背の上で、キュルケは、寒さに身体を震わせていた。
冷たく湿った霧とも雲ともつかないもやが、マントを濡らし、容赦なく体温を奪っていく。
頭上に覆いかぶさるアルビオンの大地は太陽の光を遮り、圧し掛かるような重々しい威圧感を醸し出していた。
正直に言って、長居したい場所ではないのだが、
ニューカッスル城は十重二十重に貴族派に囲まれており、こうでもしないとたどり着けそうにも無い。
こんな事なら、冬服でも持ってくるんだったわ。
額に垂れかかる鬱陶しい濡れ髪を払いのけながら、キュルケはそんなことを考える。
目の前には、タバサに方向と距離を指示するギーシュの背中。
ギーシュの使い魔であるヴェルダンデは、まったくもって優秀で、
ギーシュの話では、『水のルビー』の匂いを頼りに、大体どの辺りにルイズがいるのか分かるらしい。
そして、ラ・ロシェールの街で出会った竜騎士の話によれば、ニューカッスル城は隠し港の真上に作られている。
結論。ルイズの気配がする真下に、隠し港の入り口がある。
そんな訳で、寒さに身体を震わせながらも、キュルケたちはこんな所を飛んでいるのだった。
とはいえ、何事にも限界と言うものは存在する。
薄手のマントはぐっしょりと濡れ、もはや防寒の用に足るとはとても言えない。
特に、肌も露な着こなしのキュルケの体力の奪われ方は並大抵ではなく、
戻ろうかと問われるたびに平気だと強がってはいるものの、蒼ざめた顔は明らかに限界が近いことを示していた。
そんな友人の状況に、表情にこそ出さないものの、タバサは内心焦れていた。
ワルドに大幅に先行され、今すぐにでも追いつかなければ、手遅れになるかもしれないという事は分かる。
だが、このまま飛び続ければ、キュルケの身がもたない。
問題は、今だワルドが何を狙っているのか分からないことだ。
事態は切迫しているのか、まだ余裕があるのか、それとも、すでに手遅れなのか。
分からないからこそ、今ここで無理をしてでもニューカッスルへ赴くべきなのか、
一旦退くべきなのかの判断が出来ない。
いっそ、上空から強行突破してしまおうかという考えが過ぎる。
駄目だ、短慮に走るな。それは自殺行為でしかない。
だが、このままでは……。
タバサの中で、焦燥と理性のせめぎあいが、臨界点に達しようとしたその時、
視界の端を、何かの影がかすめた気がした。
……船?
ニューカッスルの隠し港では、非戦闘員の脱出に向けて、急ピッチで準備が進められていた。
『イーグル』号に、王家秘蔵の財宝が次々に積み込まれ、
『マリー・ガラント』号も、硫黄の代金が支払われた上で、脱出に協力するように依頼されていた。
勿論、脱出が成功した暁には、相応の謝礼が払われる事になっている。
桟橋では、永の別れを惜しむ家族の姿が、そこかしこで見られたものの、
おおむね混乱もなく、それぞれが割り振られた船に乗り込んでいった。
その様子を、物見櫓の上から歩哨の兵がどこか弛緩した眼差しで眺めている。
もう暫くすれば、『イーグル』号『マリー・ガラント』号は出発する。
その出発風景が、彼の見る最後の平穏な風景となるはずだった。
だが、その時、もやを切り裂くようにして、一匹の風竜が港へと飛び込んできた。
その背には何かを大声で喚く人影。
貴族派の奇襲かと、歩哨はクロスボウを構える。
視界の隅では、同僚が同じように矢を番えるのが見えた。
如何に竜騎士といえども、この閉鎖空間では、十全にその機動力を発揮することはできない。
ならば、数人掛りで射掛ければ、少なくとも一本は致命傷となるはず。
クロスボウの装填には時間が掛かる、この一射で必ず仕留めなければならない。
無意識のうちに歩哨は唇を舌で湿らせる。
しかし、狙点が定まるよりも早く、その背に乗った女が上げているのが、警告の叫びだと気づいた。
「早く逃げなさい! 貴族派の軍艦が……」
待ち伏せしている、という言葉は、連続して響く轟音によってかき消された。
音に身体全体を叩きのめされたような衝撃。
思わず膝をついた歩哨が次の瞬間に見たものは、砲撃によって混乱の坩堝へと叩き込まれた隠し港の姿だった。
先ほどまでの平穏は、もはや見る影もない。
船に乗り込むために順番を待っていた者たちは、少しでも安全な城へと逃げ込もうと走り回り、
脱出を指揮するはずだった士官が、秩序を取り戻そうと大声を張りあげるも、
雲下からの砲撃の前には大した効果もないようだった。
耳を聾するような轟音が途切れりことなく続く。
『イーグル』号と『マリー・ガラント』号は辛うじて直撃を受けていないが、
見るも無残な姿と成り果てた桟橋を見るに、それも時間の問題のように思われた。
それどころか、この港全体が遠からず崩れ落ちるのではないかと思うほど、雨霰のように砲弾が撃ちこまれる。
港のどこかへ着弾するたびに、近くで逃げ惑っていた不幸な誰かが吹き飛び、そして、そのまま動かなくなった。
歩哨は、その殆どが避難するはずだった子供や、老人、女たちであった事を思い出す。
クロスボウの台座を、指が白くなるほど強く握り締めていることに気づく。
腹の底から、焦げ付くようなどす黒い感情が沸き立つ。
だが、しかし、歩哨の脳裏にあるのは、一つのシンプルな疑問だった。
何故奴らはここにいる?
貴族派はこの場所を知らない筈なのに。
だが、その疑問に答えが出ることはなく、
幾度目かの斉射により、物見櫓ごと彼は吹き飛ばされた。
かくして、ニューカッスル城攻防戦の幕は切って落とされた。
この会戦に関わる誰もが望まない形で。
「……なあ、もしかして、僕らの所為で隠し港の場所がばれたんじゃなかろうか?」
隠し港から、城に続く階段の踊り場で、ギーシュは一息つきながら、ずっと考えていた疑問を口に出した。
隣で静かに息を整えていたタバサが、首を横に振る。
湿ったロングスカートで走った所為か、いつもより体力を消耗したらしい。
「見張りが出入り口を見張っていた。
砲口が上を向いていた」
キュルケが言葉を接ぐ。
「つまり、私たちが来る前から隠し港の位置を知っていて、
奴らは逃げてくる船を狙い打ちにするつもりだったのね」
こくり、と首を縦に振る。
なるほど、とギーシュは頷くと、それにしてもよく見てるな、と感心する。
僕なんて、シルフィードの首にしがみ付いて、ブリミルに祈るのが精一杯だったっていうのに。
奴ら、僕らの姿を見たと思ったら、パンパン撃って来るんだもんなぁ。
あれは、生きた心地がしなかった。
ヴェルダンデは、隠し港に到着した時に、地中に逃がしたから大丈夫だろうけど、
僕らはもしかして逃げ場のない場所に飛び込んだんではなかろうか?
「なんて事をするのかしら!
逃げる相手まで打ち落とそうとするなんて、とんだ卑怯者なのね!」
タバサたちの推測に、地団太を踏んで怒っているのは、
タバサと同じ青い髪と瞳が特徴的なマントを羽織った美女。
時折覗く素足の脚線が艶かしい。
そういえば、気が付くと隣を走っていた気がする。
「あー、タバサ。ところで、この人は誰なんだい?」
あ、それ、わたしも知りたいという表情をキュルケがした。
沈黙するタバサ。
何となく気まずい空気が流れる。
僅かな時間の後、タバサはいつものように淡々と話す。
「兎に角、戦端が開いた以上、長居は出来ない。
ルイズを早く見つけて逃げ出すべき」
「……いや、だからこの人、誰?」
「今は些細な事を気にしてる場合じゃない」
「いや、些細なことじゃないし、この人が着てるのタバサのマントだろ、って、おい!
僕を置いていかないでくれ! 待て、待ってくれったら!」
その時、ルイズは、ニューカッスル城の礼拝堂の中で、
轟音にかき消されて聞こえる筈のない、ワルドの声を聞いた。
確かに、ワルドはこう言った。
「早すぎる」と。
倒れかけるルイズを、間一髪で抱きかかえるようにして支えたウェールズは、
いち早く事態を把握しようと、全力で思考を巡らせる。
連続する砲撃音が下から響くという事はつまり、隠し港が何らかの攻撃に晒されているという事だ。
恐らくは貴族派の奇襲。正午から攻撃を開始するという布告は、こちらを油断させるための罠か。
それだけで卑劣と罵るに値するが、しかし、最大の問題は、唯一の脱出路に蓋をされた格好になったことだ。
これでニューカッスル城からの脱出は不可能と言わないまでも、極めて困難になった。
そして恐らく、まだ非戦闘員の脱出はまだ完了していない。
彼らには戦う術はなく、脱出できないとなれば、十中八九雪崩れ込んだ敵兵に嬲り殺しにされる運命が待っている。
その認識は、光の速度で燃え盛るような怒りへと転化した。
「おのれ、卑怯な!」
思わず激昂する。
腕の中のルイズが、その声にびくりと身を震わせた。
その震えで我に返る。
王党派はここで全滅する。しかし、この少女とその婚約者はトリステインに無事返さねばならない。
愛するアンリエッタの危難を救うためにも。
だが、事ここに至って自分に出来る事は、あまりにも少ない。
息を深く吸い込む。
「どうやら、卑劣にもレコン・キスタは約を違えたようだ。
もはや一刻の猶予もない、子爵、ラ・ヴァリエール嬢を連れて逃げたまえ……子爵?」
ウェールズは、ワルドの姿にどこか尋常でないものを感じた。
怒りに満ちた眼差しで宙を見つめ、ぎりぎりと歯軋りの音が聞こえそうなほど、歯を噛み締めている。
問いかけるウェールズには何も答えず、ワルドは奪い取るようにして、ルイズを自分に向きなおらせた。
力強い指が、ルイズの肩に食い込む。
その痛みにルイズが声を上げるよりも早く、ワルドは吼えた。吼えるとしか表現のしようがない声だった。
「ルイズ、誓うんだ! 今、ここで、僕を夫とすると!」
血走った目が、ルイズを捕らえて離さない。
ルイズは、いやいやをするように首を横に振った。
凄まじい力で握り締められる肩が痛い。
何かに憑かれた様なその眼差しが恐ろしい。
そして、あの轟音の中で聞いた一言の真意が分からなかった。
確信する。
やはり、十年の間にワルドの何かが決定的に変わってしまったのだと。
そして、それは決してルイズが望まぬ方向へと変わったのだと。
「ワルド、離して!」
「子爵、今はそのような事に拘っている場合ではない!
早く脱出したまえ!」
尋常ではない様子に、ウェールズが割って入ろうとする。
だが、ワルドは乱暴な手つきでそれを振り払った。
「黙っておれ!」
「子爵、乱心したか! 今すぐラ・ヴァリエール嬢から手を離したまえ!」
杖を抜こうとするウェールズを尻目に、再びワルドはルイズに話しかける。
先ほどとは違い、穏やかな声音で、むしろ懇願する様な調子とさえいえた。
だが、ルイズには、むしろその穏やかさが恐ろしい。
ワルドは、あの激情をその身に宿したまま、こんなにも穏やかに振舞うことが出来るのだ。
「ルイズ、すまない。突然のことで取り乱してしまったようだ。
……一言で良い。誓ってくれ。ブリミルの御前で、一言誓うだけで良いんだ」
己に向ける眼差しの中に、ルイズは先ほどと同じ燃え上がる狂気の片鱗を見た。
いや、もしかしたら、ルイズが旅の途中、ずっと気が付かなかっただけで、
この狂気は、ワルドの心の奥底でずっと燻っていたのかもしれない。
今更のように、ノワールと別れた事を後悔する。
怖い。
ここで首を横に振ったら、何をされるか分からない。
でも、頷けばそれで契約は成立してしまう。
ブリミルの名の下になされた契約は、永遠でなければならない。
それはつまり、ワルドと生涯を共にしなければならないという事だ。
ありったけの勇気を振り絞る。
力を貸して、ノワール。
「ごめんなさい、ワルド。
わたし、今の貴方の妻にはなれない。なりたくない。
何をそんなに焦ってるの? 何が貴方を変えてしまったの?
それに、さっき早すぎるって言ったわね? もしかして、ワルド、貴方……」
明確な拒絶の意思に応えるように、ルイズの肩を握り締めていた手から力が抜ける。
ワルドの手から、解放されたルイズは、よろけながらも一歩離れ、大きく息をつく。
さして暑いわけでもないのに、シャツの背中が汗でぐっしょりと濡れていた。
うつむいたワルドの表情は、羽帽子の影になってうかがう事が出来ない。
その影の奥から、呟く声が聞こえる。
「何故? それはね、ルイズ」
むしろ優しげとさえいえる声音。
だが、そこに込められた何かに、ルイズは慄然とする。
「それは、これが最後のチャンスだったからさ。
君は、僕が何者か知ってしまった後では、決して結婚を承諾しないだろうからね」
「何を、何を言っているの、ワルド?」
「子爵から離れろ! ラ・ヴァリエール嬢!」
事の成り行きを警戒しながらも見守っていたウェールズが、ついに杖を抜いた。
或いは、武に身を置く者の勘とでも言うべきものだったのかもしれない。
だがしかし、それすら上回る、文字通り目にもとまらぬスピードで、ワルドの杖が抜かれた。
そして、その瞬間には、すでに呪文の詠唱が完成している。
『閃光』の二つ名の面目躍如とでも言うべき早業。
そして、身を翻したワルドに、ウェールズは為す術もなく、その魔法で胸を貫かれる。
貫かれる筈だった。
7
その瞬間の事を、ルイズは後年になっても鮮明に思い出すことが出来た。
ほの暗い礼拝堂の中を、ステンドグラスの欠片が舞い、差し込んだ太陽の光が乱反射する。
ゆっくりと舞い落ちるその欠片の中を、大きな黒い影が、翔ぶような速度で駆け抜けていく。
それが『マリー・ガランゴ号』に乗りこんでいる筈の、彼女の使い魔だと気づくよりも早く、
ノワールは凄まじい速度のままで、ウェールズを突き飛ばした。
一瞬前までウェールズのいた場所に、ノワールが入れ替わる形になる。
当然の成り行きとして、青白く光るワルドの杖が、ノワールの無防備な腹に突き刺さった。
眩しいほどに鮮やかな赤が、礼拝堂に飛び散った。
ルイズの目の前で、ノワールが倒れ伏す。
「やはり来たか」
冷静ささえ感じさせるワルドの声が、もう持ちあげることさえ叶わない頭の上から降り注ぐ。
“やはり”気づいていたかと、ノワールは考える。
そうでなければ、ウェールズを助けるために、命を張った意味がない。
心臓が一つ拍動するたびに、悪い冗談のように血が流れ出していくのが分かる。
全身から力が抜けていく。
「お前が俺に敵意を抱いている事には、少し前から気づいていた。
だが、何故分かった? 俺がお前の主の敵となると」
何故? それは愚問と言うものだ。
最初に会ったときから、お前がいつか裏切ると、俺には分かっていた。
ああ、そうとも。他の何を見落とそうとも、俺がこの匂いに気づかない筈がない。
俺の鼻は、嘘と裏切りの匂いを嗅ぎわける。
「嘘……」
呆然と座り込むルイズの姿が見える。
ノワールは、トライアングル以上の称号を持つメイジの戦力を、
重火器を持った人間、数人から十数人分に匹敵すると評価していた。
だが、例えスクウェアクラスが相手であろうとも、
一対一ならば、引けを取らない自信が、ノワールにはある。
「貴様、レコン・キスタの刺客か!」
問題なのは、メイジの持つ能力の多様さだった。
ルイズのお伴で授業を聞きながら、ノワールは少しづつ、魔法に対する知識を蓄えていた。
その結果、もっとも脅威となるのは、直接的な攻撃能力よりも、
例えば土系統メイジのゴーレム創造や、水系統メイジの精神操作のような、
搦め手に類する能力であると結論付けていた。
彼が知る中でも、もっとも警戒を要するのは、ギトーという男の講義で語られた、風系統メイジの奥義。
「如何にも。ウェールズ・テューダー。
貴様の命とアンリエッタの恋文、この『閃光』のワルドが貰い受ける」
最悪だったのは、よりにもよっていつか敵に回ると看過した男が、
風系統の奥義を極めたスクウェアクラスのメイジだったことだ。
この時点で、ノワールは一対一で事を構えるという前提を放棄した。
「ラ・ヴァリエール嬢、逃げろ!」
時間が掛かるにしても、ワルドを殺すことは出来る。
だが、ルイズを守りきれる自信が、ノワールには無かった。
××××として鍛え上げられた彼には、何かを守りながら戦うと言う経験が無かったのだ。
だからこそ、ノワールには、ルイズが逃げるだけの時間を稼ぐ事が出来るメイジが、
どうしても必要だった。
「無駄だ、逃がさん。ユビキタス・デル……」
ウェールズが実力こそ一歩譲るものの、ワルドと同じ風系統のメイジであったことは、
ノワールにとって望外の幸運だったといえる。
「ユビキタス・デル・ウィンデ……」
同じ手段で、ワルドに対抗することが出来るからだ。
もしも、ウェールズがいなければ、
ノワールには、不意打ちで一撃のもとにワルドを殺すと言う選択肢しかなかったはずだ。
「何!?」
ワルド必殺の初撃をかわし、ウェールズがその実力を発揮するのに必要な一瞬を稼ぐことこそ、
ノワールが最優先すべき事柄だった。
そして、それは達成されようとしている。彼自身の命と引き換えに。
「風のメイジは、何も貴様一人ではない!
逃げろ、ラ・ヴァリエール嬢! ここは私が引き受ける!」
とはいえ、実を言えば、ワルドに隙が無かったわけではない。
旅の途中で、ノワールには、何度かワルドを噛み殺すチャンスがあった。
血液が足りない所為で、薄ぼんやりとする思考の中、ノワールは思う。
何故、おれはとっととあの男を殺さなかったのだろうか、と。
幾つか思い当たる節が無いでもなかった。
例えば、当面、ルイズに危害を加える様子が無く、切迫した危機ではない状況下において、
いたずらにに変数を加えることによって、相手側の出方が予想できなくなる可能性があったから、とか。
「いや……ノワール、死んじゃいやぁ」
ルイズは、涙を零しながら、ノワールの傍から離れようとしない。
暖かい雫が、ノワールの顔に落ちる。
まあ、今更、分からない振りをすることもないか、と思う。
結局のところ、おれはルイズに嫌われたくなかったのだ。
罪も無い婚約者を噛み殺した怪物だと、思われたくなかったのだ。
「立て! 立って逃げたまえ!
君の使い魔の死を無駄にするな!」
「おっと、お前に他人を気遣う余裕などあるのかな?」
「くっ」
ワルドが呼び出した偏在は四体。対するウェールズのそれは三体。
数の上でも、質の上でも差がある以上、時間を稼ぐのが精一杯。
決着がつくまで、さほど時間は掛からないはずだ。
「やだ、やだよぅ……ノワールを置いていくなんて、やだよ……」
そんな理屈は分かっているはずなのに、ルイズはその場を動こうとしない。
面倒くさい女だ、と思う。
馬鹿な女だ、とも思う。
全く誰の為にこんな目にあっているのか、分かっているのかと思う。
だが、どこかで自分は、こうなる事を予測していた気がする。
脳髄の奥深く、制御不能などこかで、こうなることを期待すらしていたのではないだろうか。
ルイズの言葉が嬉しくないかといえば、勿論嬉しいに決まっていた。
なら、もう一踏ん張りだな。
跳ね起きる。
動かなかったはずの四肢に、力が漲るのを感じる。
「ノワール!?
……え? ちょ、ちょちょちょっと!?」
ひょいとルイズを背負い上げると、一瞬の隙を突いて、風を巻くようにして走り始める。
「馬鹿な、致命傷だったはずだぞ!」
ノワールが覚悟していた魔法の一撃は、とうとう飛んでこなかった。
驚愕するワルドの声を背に受け、ノワールは最後の最後で奇襲に成功したことを知る。
礼拝堂の扉を体当たりで打ち砕くと、そのまま廊下を駆け抜けた。
目指すは隠し港。
砲撃で足止めを食っているのならば、
『イーグル』号や『マリー・ガラント』号が出発していない可能性はきわめて高い。
蜘蛛の糸よりも細い希望だが、もはや生きて脱出できる可能性は、そこにしか存在していない。
あとは、アルビオン王立空軍の技量とルイズの運に賭ける。
幾つもの角を曲がり、階段を下る。
傷口からは、止め処なく血が溢れ、その目はもう光を捉えることは叶わない。
だが、それでも足取りに澱みはなく、速度が落ちることもなかった。
ルイズがどこかで泣いている。
「止まって! 止まってよ! このままじゃノワール死んじゃう!」
駄目だ、今足を止めれば、お前が死ぬ。
俺には、そんな現実を許容することは出来ない。
結局、隠し港にたどり着くはるか手前で、ノワールの心臓は、動くことをやめた。