「見て、ノワール! アルビオンよ!」
まるで我がことを自慢するかのように、甲板上のルイズはノワールを振り返った。
どこまでも広がる雲海に、黒々とした大きな影が落ちる。
見上げれば、目を疑うような光景。
雲の切れ間から覗くその大地は、確かに空中に浮かんでいた。
“空”に向かって流れ落ちる幾本もの河の流れが、濃密な雲を形成し、
その大地の下半分を覆い隠している。
アルビオン。
その国土は、ハルケギニア上空と海洋上を周遊する浮遊大陸である。
常に雲を纏うその姿から、別名を『白の国』という。
「ルイズ、ここに居たのか」
眩しそうに目を眇めるルイズの後ろから、声がかけられる。
振り返る眼差しの先には、マントに羽帽子姿の青年貴族――ワルド――の姿があった。
どうやら、船室にルイズの姿がない事に気づいて、探しに来たらしい。
まだ早朝と言っても差し支えのない時刻。
その上、昨夜の騒動でさして睡眠時間が取れたとも思えないにもかかわらず、
俊英の呼び声も高い(元)魔法衛士隊隊長は、そんな様子をまるでうかがわせない。
「ごめんなさい、ワルド。もうすぐアルビオンが見えるって聞いたから、思わず」
対するルイズは、目の下にうっすらと隈が見える。
気遣わしげにワルドは訊ねる。
「眠れなかったのかい?」
わずかな逡巡の後に、ルイズは頷くと、そっと視線をラ・ロシェールの街の方向に投げかけた。
「タバサとギーシュとキュ……じゃない、タバサとギーシュ、無事かしら」
常々、先祖累々の仇敵と公言しているキュルケの心配なんてしてないんですよー、とばかりに誤魔化すルイズ。
そんな婚約者の様子に笑みをこぼすと、ワルドもまたラ・ロシェールの方角に眼差しを向けた。
まるでそうすればあの町並みが見えるとでも言うように、目を細める。
「大丈夫だろう。
確かにあのサイズのゴーレムの制圧能力は驚異的だが、三騎の竜騎士に抵抗できるとは思えないな。
となれば、問題は竜騎士が辿りつくまであの三人が無事かどうかだが、
ギーシュ君は兎も角、トライアングルメイジが二人いたんだ。
あれだけの短時間で易々と制圧はされないさ」
「そう……」
「それよりも」
そう言って、ワルドはルイズに向き直る。
「僕たちは僕たち自身の心配をした方が良い。
スカボローの港から、ニューカッスルまで丸一日。
その間、反乱軍の戦線を突破する事になる。
その際に奴らがどう出るかだが……」
昼は兎も角、夜は危険だな、と続くはずだった言葉は、
しかし、鐘楼から張り上げられる、急を告げる声にかき消された。
「右舷上方の雲中より、船が接近!」
甲板で作業していた船員達が、一斉に見張りが言う方向を見上げる。
雲間から悠然と下降してくるのは、『マリー・ガラント号』よりも、一回りは確実に大きい船体。
その舷側に開いた穴からは、大砲の筒先が覗き、威嚇するようにこちらに向いているのが分かる。
「反乱勢……貴族派の船かしら?」
「或いは、空賊か」
にわかに慌しく船員たちが動き回る中で、むしろのんびりとした空気さえ漂わせている二人と一匹。
危機感が無いわけではない。ルイズは兎も角、ワルドはそこまで頭が悪いわけではない。
ただ単に、船員としての技術を持たない二人(と一匹)はこの期に及んで出来ることが何もないだけである。
何も出来ないならば、せめて邪魔にならないように隅で大人しくしている分別くらいは持ち合わせている。
「これは……どうやら逃げ切れないな。
向こうの方が船足が速い」
「ワルド、貴方なら何か手伝えないの?」
「船を浮かべるので、魔法は打ち止めでね。
僕としては、船長達の奮闘に期待しているんだが……」
そうこういっている間にも、威嚇射撃なのか、雲の彼方に砲弾が打ち込まれる。
その轟音を合図にしたかのように、『マリー・ガラント』号の船足が見る見るうちに緩まっていった。
「裏帆を打った……船長も諦めたか」
ポツリと呟くワルドを、ノワールがじっと見つめていた。
時は少し遡る。
ラ・ロシェールの街、半壊した『女神の杵』亭。
見通しが随分良くなった酒場兼ホールには、竜騎士隊の三人と、
キュルケ、ギーシュ、タバサが向かい合って座っている。
「つまり、ワルド子爵とラ・ヴァリエール嬢はすでにアルビオンに向かった、と?」
竜騎士隊の隊長の言葉にキュルケは頷く。
「ええ。その通りよ。
これで事情は全部話したのですけど」
もうよろしいかしら? と告げるよりも先に、隊長は片手を挙げてキュルケを制する。
「後一つだけ、聞かせて欲しい」
急いでいるのよ! という言葉を飲み込むと、キュルケは艶やかに微笑んだ。
傍で見ていたギーシュが思わず見とれるほど華のある笑顔。
だが、タバサは知っている。
彼女の一番の友人は、怒りを抑えるために、時として笑顔を浮かべるのだ、と。
そんなキュルケの気持ちを知ってか知らずか、内心の窺えない淡々とした調子で隊長は続ける。
「いや、簡単な事だよ。
君たちはラ・ヴァリエール嬢の学友という事だったが、彼女を追ってアルビオンへ向かうつもりのかな?」
答えを返すまでの一瞬の躊躇いは、質問の意図が読めなかったからだ。
「……もし仮に、そのつもりだと答えたら、どうなさるおつもりかしら?」
意図が読めないので、思いつく中で最悪の展開を想定する。
彼らの目的はワルド子爵とその“同行者”の“保護”。
つまり、一応とはいえ同行者であるキュルケたちは、最悪この場で強引に捕縛される可能性があるという事。
覚悟を決めて、さり気なく髪を掻きあげた。
豊かな胸の谷間に潜ませた杖を、即座に引き抜けるように。
心持ち呼吸が浅く速くなる。
もしも、相手が引き止めるようならば、この場で一戦交わしてでも、アルビオンへ向かう。
これはルイズを助けるためなんかじゃない。
出し抜かれたまま引き下がるなんて、誇り高きフォン・ツェルプストーの名が許さない。
隊長は、考え込むように顎に手をやった。
何のことは無い仕草だ、単なるポーズだと、キュルケは自分に言い聞かせる。
が、黙考というには鋭すぎるその眼差しに、こちらが観察されているような気がしてならない。
心の底まで見透かされているのではないかと言う恐怖。
ホンの僅かな時間だというのに、掌がじっとりと汗ばむ。
微笑みを浮かべている唇の端が引きつっているような気がして気になって仕方がない。
長い長い一瞬の間の後、隊長は口を開いた。
「なるほどね。
最近は、アルビオンも随分荒れていると聞く。
要らぬ心配だろうが、重々気をつけたまえ」
心の中で、ホッと一息つく。
「貴重なご忠告、感謝いたしますわ」
それでは、御機嫌よう、と言って立ち上がろうとするキュルケたちを、隊長が手で制する。
まだ話を聞いていけという仕草。
無視して背を向けようとするキュルケのマントの裾を、タバサが引っ張った。
「これは独り言なのだが、最近は本当にこの辺りの空も物騒でね。
アルビオンへ向かう船を狙った空賊が出るそうだ。
まあ、船団も組まずに一隻でアルビオンへ向かう商船など、良い鴨だな。
まして、他の船が通りすがる心配の無い時間に、となれば尚更だろう」
「……ちょっと、それって」
「私は独り言を言っているだけだが?
話は変わるが、アルビオンの王党派は、十重二十重の重囲に対して、ニューカッスルに篭城の構えだそうだ。
ニューカッスルは決して大きな城砦と言うわけではないのだが、物資の尽きる気配もないとか。
さて、どこから仕入れているのだろうな。
確かにニューカッスルは、雲の下に港を隠しているという噂だが、
まさかそこに商船を呼ぶ訳にもいくまい……」
そんな技量を持つ商船などあるわけがないし、
そもそも機密保持という点から見ても論外だ、と虚空に向かって呟く。
意外な成り行きに声にならないキュルケに変わって、タバサが問いかけた。
「目的地とすべきは、スカボローではなくニューカッスル」
その言葉に、隊長は大仰に肩をすくめて見せる。
眉を上げて、何を言っているのか分からないとでも言いたげな表情で。
「さて、私は独り言を言っただけだよ。
少々地声が大きいから、誰かに聞こえてしまったかもしれないがね。
そして、その誰かが何をしようと、我々は知ったことじゃあない。
さて、失礼する。
ワルド子爵に追いつけなかった事を、上に報告しに戻らなければいけないのでね」
会見は終わりだとばかりに、隊長以下竜騎士の面々は椅子から立ち上がると、
入り口へ向かって足早に歩いていく。
その背中に向かって、心からの感謝をこめて、キュルケはスカートの裾をつまんで優雅に一礼した。
隊長は、振りむきもせず、ただ、小さく片手を上げることでその一礼に答えた。
空賊船の船倉。
薄暗く、埃っぽく、小さな窓の他に明かりと言えば、古ぼけたランプが一つ吊るされるだけ。
酒樽や小麦袋、火薬樽、果ては大砲の弾丸までもが雑然と置かれたその場所に、
不似合いな可愛らしい寝息が流れていた。
そこには、片隅で寝そべるノワールに顔を埋めるようにして寝こけるルイズの姿がある。
『マリー・ガラント』号が拿捕された後、身代金目的の人質として、ワルドと一緒に押し込まれていたのだった。
勿論、最初からずっと寝ていたわけではない。それは違う。ルイズとてそこまで脳天気ではない。
ワルド共々杖を取り上げられた上で船倉へ移された直後は、一頻りドアを叩き大声をあげて抗議していたのだ。
が、しかし、今までずっと圧し掛かっていた、重要な任務を任されたという緊張感に、慣れない旅の疲れが重なり、
その上、昨晩の徹夜が響くという悪条件下で最後に残った体力の一滴まで使い果たしてしまったルイズは、
程なくして扉にずるずるともたれかかる様にトーンダウン。
今にもぶっ倒れそうな様子のルイズを見るに見かねたワルドが、少し休むように薦めたところ、
暫くは渋っていたのだが、疲れと眠気には勝てず、少しだけと断った上で、
空賊船が宙返りをしても起きそうにない程深い眠りについた。
そして、現在に至る。
ノワールは寝た振りをしながら、耳と鼻で辺りを警戒している。
ワルドはそんな一人と一匹の姿をどこか楽しそうに眺めていた。
だが、ドアを開ける荒々しい音で、静寂は唐突に打ち破られた。
戸口には、スープ皿を持った太った男の姿。
驚いたとでもいうように、口笛を鳴らす。
「怖くて泣いてるんじゃないかと思ったんだが、どうしてどうして、肝っ玉の太いお嬢ちゃんだ。
静かになったってんで飯を持ってきたんだが、こりゃあ暫く必要なさそうだな」
おもむろに立ち上がったワルドが答える。
「その辺りに置いてくれれば、この子が起きた後にでも食べるさ」
「おいおい、仮にも客人に冷めたもん食わすわけにもいかねぇだろうが。
まあ、嬢ちゃんが起きたら見張りに言いな。暖めて持ってきてやるよ」
「それは助かる」
意外に気の良いらしい大男はぽりぽりと頬を掻いた。
どうやら感謝されて照れているようだ。酷い話だが、あまり気味の良い姿ではない。
「ま、こっちも聞きたい事が色々あるしな。
あんたに聞いてもいいんだが、この嬢ちゃんから聞き出した方が楽そうだ」
それよりも、と少々不器用に話題を変える。
船倉の隅で丸まっているノワールとルイズに視線をやりながら。
「その犬、嬢ちゃんの使い魔って話だったが、大人しいもんだな。
さっきは肝を冷やしたぜ。その犬と離されるくらいなら飛び降りるー、とか騒いでよ。
これだけ大人しいって知ってりゃ、俺らだってあんな事は言わなかったんだけどな」
「あまりノワールを甘く見ないほうがいい。
ルイズ……主に害を為すと判断されれば、躊躇することなく牙を剥くぞ」
ワルドの声の調子が心持ち低く、抑えたものになる。
まるで何かをその内側に覆い隠そうとでもするように。
「ま、ようは嬢ちゃんに手を出さなきゃ構わんわけだろう?
安心しろよ、うちの連中はそこまで女に飢えちゃいねーって」
それに気づかぬまま、太っちょは言葉を返す。
ワルドが再び口を開いたとき、そこからは、
先ほど見え隠れした朧な影とでも言うべき暗い調子が綺麗に拭い取られていた。
「ま、そうだろうね。僕も心配はしていないよ。
仮にも誇り高きアルビオン王立空軍が、婦女子に不埒な行いをするとは思えない」
さり気ない一言にその場の空気が一変する。
開け放たれた扉の向こうには、その言葉を聞き咎めたのか、柄に手をやり、こちらに踏み込まんとする見張りの姿。
「……何を言ってるんだかわからねぇな。
俺たちが、何だって?」
一言一言を押し出すように発する。
だが、緊迫した雰囲気に気が付かないとでも言うように、淡々とワルドは続ける。
「アルビオン王立空軍、さ。
とはいえ、その名を冠する軍隊は今や君たちと、この船一隻だけだろうけどね」
「……おい、貴様」
「君たちの頭領に話がある。
いや、こう言い直した方が良いかな?」
「おいっ!」
まるで世間話でもするように、気軽な調子で言葉の爆弾を投げ込んだ。
「アルビオン王国皇太子ウェールズ・テューダー殿下に話がある、とね」