怒号と、悲鳴。子供の泣き声が信じられないほどに耳障りに聞こえた。
がたがたと体は震えていて、瞳から絶えず涙が流れている。煩わしいのに、小刻みに震える腕はピクリとも動かせず、涙とともに垂れる鼻水すらぬぐう事が出来ない。
怖かった。こんなに恐ろしい事があるのかと、世界にこれほどの恐怖が存在していいのかと心の中で怨嗟をあげる。
板張りの床に体育座りの格好で座り込み、分厚い布を頭まで被った体勢で、彼はひたすら外が静かになるのを願っていた。
すぐに、それは叶う。一度、野太い男の怒号が響いた。女の絶叫は、まるでテレビのスイッチを切るようにぷつりと途切れる。とっくに、子供の泣き声はやんでいた。
最後に、か細い声で『お兄ちゃん、助けて……』という声が聞こえた気がしたが、彼はそれを気のせいだと決め付けた。
気のせいに決まっている。何故親を目の前で殺された子供が、今日会ったばかりの少年に助けを求めるというのか。
お父さん、お母さんと叫んでいただけだ。そして、物言わぬ躯に泣きついて、そのまま殺されたのだろう。
「ぐぅ……!」
吐き気を催して、必死で堪えた。動かなかったはずの腕は、己の危機には呆れるほどに従順だった。
右手で、口を押さえる。ここ二日ほど何も食べていなかったが、数時間ほど前に出会った彼らにご馳走になったパンとシチューが、どろどろと溶け合って手のひらに不快な感触を伝えてきた。
このどろどろが、彼女の作った最後の料理なんだろう。吐き気は更に強まり、その衝動を押さえつけるように彼は強引に飲み下した。
「……っはぁ、はぁ、はぁ」
引きつるように息をする。狭い空間に無理やり体を押し込めていた彼は、更にぎゅっと体を縮こまらせて、周囲の音に耳をすませた。
一体何人居るのだろうか。複数の足音が床に押し付けた尻から振動となって彼にその存在を主張している。
居なくなれ。早く、居なくなれ。
今度は、願いは叶ってくれなかった。
『大将、こっちの馬車には何が入ってるんですかね?』
『あぁ? 何言ってんだてめぇ。こっちこそ本命だろう。サルト産の毛織物だよ。上物だぜ? さぁて、今日の成果を確かめっとすっか』
心臓を、鷲づかみにされた気分だった。体の震えは更に大きくなり、ついに失禁してしまったのか、股の間がいやに生ぬるい。
『へぇ、毛織物ねぇ……』
『てめぇらはホント物の価値がわからねえんだな』
『大将とは生まれが違いますよ。それに俺らにとっちゃこの仕事は、女を抱けるのが美味しいんで。あーあ畜生、いい女だったってのにあんなんにしちまいやがって』
足音が、止まる。我慢しきれず、布の間から顔を覗かせた。
「あ……」
薄布の向こう、男の影が二つ、確かに映っている。
「……ぅあ、あ、ヒ――」
無意識に、ゲロのついた手で剣を握っていた。鞘はとっくに抜いてある。
初めは、これで戦おうとも思っていたのだ。
『どこがよ、中古の年増だったじゃねぇか……ん? ちょっと待て』
『へ? どうしました?』
『お前、先に馬車の中に入って中を改めろ」
『まぁ、いいっすけど、何かあるんすか?』
よいしょ、と気の抜けた掛け声とともに掛け布が捲り上がり、男が一人中に入ってきた。
そして一歩一歩、こちらに近づいてくる。
ドクン、と心臓が跳ね上がる。ドクン、ドクン、ドクンドクンドクンドクドクドクドクとうるさいこんなにうるさいんじゃ俺がここに居るってばれちゃうじゃないかでもどっちにしろすぐにばれちゃうのか。
(死にたくない)
だから、戦うのをやめたのだ。
「中を改めろったってこんなに暗くちゃ何も……」
ぶつくさと呟いて、ついに男が才人の前まで来た。そのまま、彼には気づかず通り過ぎようとして。
『分かってる! いいからちょっと待て! ……よし、見逃すなよ!』
「へいへい」
(死にたくない)
だから、こんなところで震えているのだ。
うっすらと、光の粉のようなものが彼の目の前に溢れた。
「お?」
そして、男は彼のすぐ傍で足を止めた。にんまりと笑って、分厚い布が不恰好に膨らんでいるのを足で小突く。
『どうだ!?』
「見つけましたぜ! へ、ネズミが一匹居やがった! 可愛そうにぷるぷると震えていらぁ!」
(死にたくない)
だから、誰かの悲鳴も聞こえない振りをしたのだ。
『とっとと殺せ! あ、待て! こっちまで引っ張りだせ! 商品を血で汚しちゃ台無しだからよ!』
「分かりましたよっと。へへ、それじゃご対面……へ?」
(俺は、死にたくない!!)
だから彼は――、
男は、あっさりと彼が被っていた毛布を剥ぎ取った。男のにやけ顔が、剣を握り締めた彼の姿に凍りつく。
そして。
「うわぁあああああ!!!」
恐怖の余りに裏返った叫びとともに、彼は男の腹に手に持った剣を突き出した。
――人を殺す事に、躊躇いを覚えなかったのだろう。
「あ? なん……」
男は、不思議そうに彼を見て、次に彼の持つ剣、そして、剣が突き刺さり赤いモノを溢れさせる自分の腹と視線を移らせた。
『おい! 何が起こった!?』
「死ねっ! 死ね死ね死ね!!」
抉る。血が飛び散り、彼の顔を汚すが気にもならない。
「――――」
断末魔の声も上げずに、男はそのまま息絶えた。
「はぁっはぁっはぁ!」
『くそっ! おい! 返事をしやがれ!』
血走った目で、彼は馬車の出口を睨んだ。
掛けられた布が再びめくり上げられ、差し込んだ眩い光に目を細める。
そこに、もう一人の男が立っていた。
「……っち」
男は一瞬驚愕したようだが、すぐに舌打ちをすると手に持った棒のような物を彼に向けた。
「おい坊主。丸焼きにされたくなかったら出て来い。焼かれ死ぬってのは相当苦しいもんだぜ? 大人しく出てくれば首を刎ねてやるからよ。そっちの方が楽だろ?」
それは、まるで地の底から響いてくるように恐ろしい声だった。
「い、いやだ!」
彼は剣を馬車の外に立つ男に向けて、かすれ声で叫ぶ。
「あぁ? なら焼け死ぬか?」
「いやだ! お、俺は死にたくないんだ! 死にたくない! 死にたくないだけなのに!」
「そうか」
え? と彼は戸惑ったように声を上げた。男の声が、急に優しげに変わったからだ。
「わかった。お前は助けてやるよ。だから出てきな」
「ほ、本当に……?」
「ああ。俺は嘘をつかねぇ。見ろよこれ。俺はメイジだぜ? 貴族様が嘘をつくわけねぇだろ?」
「あ、……あぁ」
一歩。彼は導かれるように足を出口に向けて踏み出そうとして。
「待ちな、相棒」
「な、何だよ……?」
小声での囁きに、慌てて足を止めた。
「あいつの言葉を信じるのか……?」
「だ、だって、あいつは俺を殺さないって……!」
「おい、とっとと来い!」
外からの怒声に、彼はびくりと体を竦ませた。
「嘘に決まってんだろ、そんな事。いいか相棒、良く聞きな。死にたくないんだろ?」
「……」
がくがくと、頷く。
「だったらよ……」
小声で、その声は彼に成すべき事を伝えた。
「どうよ? 簡単だろ?」
「そ、そんなの……」
出来っこない。そう言おうとした彼に、声は更に言葉を被せる。
「出来る出来ないじゃねぇ。それしかねぇんだよ、相棒。――いい加減覚悟を決めな」
ごくりと、彼は唾を飲み込んだ。手が白くなるほどに、ぐっと剣を握り締める。
『大将? どうしました?』
『あれ? あの野郎は大将と一緒に居たんじゃないんすか? その馬車の中ですかい?』
「てめぇらは黙ってろ。……さぁ坊主、いい加減出て来いよ。言ったろ? 殺しはしねぇから、な?」
眩しさにようやく目が慣れて、彼は彼の居る馬車の外を見通せるようになっていた。
そこに、男が一人立っている。分厚い唇に、異様に細い目。額はてかてかと脂ぎって、短く刈り込んだ金髪の生え際に大きな傷跡があった。
がっしりと頑強な肉体に、太い首。それを、傷だらけの鉄製らしい鎧で包んでいる。
右手に持った杖だけが、男が紛うこと無きメイジであると主張していた。
勝てるわけが無い。自分は、ただの高校生に過ぎないのだ。それなのに、あんな強そうな男に勝てるわけが無い。
(でも……)
震える足で、彼はようやく一歩目を踏み出した。
「おし、ほら、とっととしな」
(でも、俺は……)
もう一歩。男がその細い目を更に細めてにやりと笑った。
(俺は……、死にたくないんだ!!)
「うぉおおおおぁああああ!!」
突っ込む。振りかぶりもしない。ただ剣を真っ直ぐに突き出したまま、彼は男に向け駆け出した。
「馬鹿野郎が」
てんで素人の動きといえど、そうそう侮れはしない。使い手は素人だろうと、凶器は凶器。それに、彼の持つ剣は既に男の仲間を一人殺しているのだから。
こういうぶち切れた素人ってのは一番厄介なんだよな、と男は冷静に考えながら、身を引く事で彼の剣をあっさりと躱していた。
彼はそのまま、馬車から飛び降りる。スニーカーが地面を滑って転びそうになり、慌てて踏みとどまった。
(まず一点目。馬車から出たら、上手く着地することだけを考えな。絶対に転ぶんじゃねぇぞ)
「おわ……!」
「な、何だ!? この餓鬼!」
「おい! あいつはどうしたんだよ!」
(二点目。馬車から出ても絶対に逃げるな。相棒の足じゃ逃げ切れっこねぇからよ)
すぐに彼は振り向いて、メイジの男を視線に捉えた。他に男は4人。
それぞれ手に剣や槍を持っていて、そして一斉に彼に向けてそれらを構えた。
彼はそれを無理やりに無視して、メイジの男に剣を向ける。
(三点目。外に敵が何人いようと、気にするな。あの野郎だけを相手にするんだ)
「おい小僧。なんだそれ?」
「…………」
彼は答えずに、男を睨みつけた。怖い。怖くて堪らない。
でも何故か、体の震えは止まっていた。
「へぇ?」
それにメイジの男はにやにやと笑って、杖を突き出した。
「た、大将? なんすかこいつ」
「ちょっと離れてな。どうやら丸焼きをご所望らしい」
その声に、男たちもまたにやりと笑う。
「贅沢な餓鬼っすね?」
「大将に丸焼きをご馳走になるたぁ、羨ましいぜ!」
そう言いながら、数歩後ずさった。
そして、メイジの男が口の中で短くルーンを唱えるのに、彼はその時を待っていたとばかりに駆け出した。
杖の先から、巨大な火球が放たれる。
それを、彼は何処か現実味の無い光景のように見つめていた。
火球が、まるで冗談のように突き出された剣に吸い込まれて消え去る。
男は、何が起こったのかわからないのか、未だににやにや笑いを顔に張り付かせたままだ。
(四点目。素人が剣で相手を切るなんて考えるなよ。おめーさんでも出来る剣の使い方なんて一つしかねぇ)
「――首」
ぼそりと呟く。それに応えるように、声が響いた。
「そうだ! 首を突け!」
ずぶりと、いやな感触が手に伝わる。先ほどは、必死すぎて気づかなかった。
(これが、人を殺す感触か……)
他人事のようにそう思って、彼はそのまま剣を押し込んだ。
細かった目は信じられないほどに見開かれて、男は彼を見つめていた。何か言いたいのか口が動き、だが、ごぼごぼとあふれ出る血を泡立てるだけで意味のある言葉にはなりはしない。
彼もまた、静かに男の目を見つめ返した。それもまた、まるでスクリーンを通して見ているかのように、酷く現実味が無い。
男の目が光を失った。倒れこみ、それに剣が引っ張られて彼は慌てて剣を抜こうとする。
意外に硬い。男の肩を踏みつけて、無理やりに引き抜いた。
「た、大将?」
「……嘘だろ」
メイジの男が倒れるのを、遠巻きに眺めていた男たちは驚愕の目で眺めていた。
そこに、声があがる。
「剣を持った餓鬼が、メイジじゃねぇと思ったのか? まぁ、無理もねぇけどな」
「だ、誰だよこの声! 何処から!?」
「それにメイジって!?」
最後の仕上げだ。彼が生き延びるための、最後の仕上げ。彼は右手で剣を構えたまま、彼の前に倒れた男から杖を取り上げる。
「決まってるだろーよ。平民が俺様みたいなマジックアイテムを持てると思ったのか?」
男たちはようやく声が何処から聞こえてくるのか気づいたらしい。彼の持つ剣を僅かに恐怖の混じった目で見つめた。
「ただ杖を無くしちまっててな。貴族も、杖を持たねば唯の人ってよ。それで隠れてたんだが……、よぅ相棒。これでもう安心だな」
「…………」
「おい、相棒?」
「……あ、あぁ、そうだな」
彼はそう言って、男から奪い取った杖を男たちに向けた。
一度、静かに息を吸い込んだ。
そして、震える声で、男たちに告げた。
「切り刻む方が、得意なんだ、けど……、お、お前らは、丸焼きの方が好きらしいな……」
デルフに負けず、彼の声も引きつってしまって酷いと言う外無いものだった。
それでも、彼が殺したメイジの操る炎を幾度と無く見てきた男たちには、その声は恐ろしく聞こえたらしい。
悲鳴を上げながら逃げ去る男たちの後姿を、彼はぼうっと突っ立ったままに見送った。
やっぱり、現実味が感じられない。まるで、他人事。
そう思いながら、彼はのろのろと歩き出した。杖をほうり捨て、剣を背中の鞘に収める。
周囲には、彼が乗っていた馬車の他に数台の馬車が止まっている。
そのうちの一台の前で、彼は足を止めた。
馬車の横に、先ほどの男たちとは違う質の良い麻の服を着込んだ男が仰向けに倒れていた。胸の辺りが赤く染まっている。穏やかそうな顔は見る影も無く、白目を向いて口は絶叫の形に開けられて固まっていた。
その傍らに、栗色の髪を束ねた女性が座り込んでいた。ただ、その頭部は見るも無残にぱっかりと、縦に割り開かれている。
「……っぐ」
堪えようとして、堪えられなかった。
彼女が作ってくれたシチューを、彼女の傍にうずくまった彼は一気に吐き出していた。
「げほっこほっ、……はあっはあっ」
そして、視線を上げて。
彼女が、首の無い子供の死体を抱きしめているのにようやく気づいた。
「う、うぁ、あぁあ……」
何処に行ってしまったのかなんて、考えるだに恐ろしかった。ましてやソレを探すなんて、出来るわけもない。
再び下を向いて、出すものの無くなった胃を無理やりに絞り上げる。黄色い胃液がぽとぽとと落ちて、地面に広がるどろどろと交じり合った。
涙も流れていたが、それが、彼らが死んでしまったのが悲しいからなのか、それともただ吐いた事による生理的なものなのか判断がつかない。
彼らとは、数時間ほど前に知り合っただけの関係だった。
行商の男と、その家族。
空腹の余りに行き倒れた彼を拾ってくれて、近くの町まで送ってあげると、彼らのキャラバンに乗せてもらった。
昼食を済ませてしまった後だというのに、若い奥さんは親切にも彼のためだけにシチューを作ってくれた。
幼い少女は、久しぶりに国境を越える長い旅に飽きていたらしく、彼が話す彼の故郷の話に目を輝かせて聞いていた。
傾いた太陽が赤く染まり始めた時分。
お兄ちゃん、もっと聞かせて、とせがむ少女を宥めて、疲れ果てていた彼は商品の積まれた馬車の中で一足早く寝かせてもらう事になった。
メイジ崩れをリーダーとする盗賊が彼らのキャラバンを襲ったのは、それから少し経ってからの事だった。
護衛の傭兵は全員が平民で、ほとんどあっという間に殺された。それを幌の隙間から見ていた彼は、直前まで一緒に戦おうとしていた気持ちも忘れて、商品らしき毛織物を被ってがたがたと震えるしかなかった。
そして……、彼らを見殺しにして、彼だけが生き残った。
人を殺したのだと。それに対して彼はその時になってもまだ現実味を感じられずに居たが。
人を死なせてしまったのだと。その思いは、信じられないほどに強かった。
それは、才人が始めて人を殺した日。
自分の弱さゆえに彼は再び逃げ、そして自分が死にたくないからという理由で人を殺した。
それからだ。彼が力を求めるようになったのは。
情けない話だが、愛する少女を失った直後の彼には、復讐という気持ちすら浮かんでいなかった。
アンリエッタを笑えはしない。彼もまた、失意の底にあって、ただ嘆くだけしか出来なかったのだから。
力を求めるようになって、それで初めて才人は復讐という魔物を己の体に住まわせるようになった。
例えすぐには現実味を感じられなかったとはいえ、人を殺したという経験は酷く重く、それでも彼は震える手で三日目にはデルフを握れた。
人殺しの業を、復讐という業で押さえつけた。
才人の復讐が、彼の中で明確なビジョンを伴うようになったのはそれから一年と半年も経ってからの話。
亡国の王女アンリエッタと、彼女の部下である銃士隊隊長アニエス。
彼女たち二人の同類と出会ってからの事だったのだが。
本当の意味で、彼の中で復讐の旅が始まったのはこの日からだったのだろう。
人の良い行商人と、彼の若い妻と幼い娘。彼らを護る為に雇われた傭兵七名に、彼らを襲った盗賊のうちの二名。
十二人もの人の死を生贄に、才人の中の魔物は高らかに産声を上げた。
あとがき
題名にも書いている通り、このお話は外伝です。
ちと四話の筆の進みが思った以上に遅く、息抜きに連載が終わったら載せようと思っていた話を書いたところ筆が進む進む。
いや、別に欝なお話が特別好きと言うわけではないのです。
ただちょっと、今日(正確にはもう昨日ですけれど)完結されたとある方のssを読んで、興が乗ったと申しますか……。
それだけです。はい。
これからもちょいちょい逆行才人の過去を語る事になると思います。
では、四話でお会いしましょう。今月中には、たぶん。
最後に、外伝という事で、アニエスを期待してしまった方、ごめんなさい。