朝の訪れを肌で感じ、シルフィードは目を覚ました。
身体を地に擦るようにだらしなく寝床を抜け出し、口を開けて大きな欠伸をする。
木の枝に止まった小鳥が数羽、ちちちと鳴き声を上げたかと思うと、素早い動作でシルフィードの口へと飛び込んだ。そしてそのまま、口中でシルフィードの歯の隙間に詰まった食べかすを啄ばみ始める。
シルフィードに驚いた様子もなく、また小鳥も慣れた様子で口中を跳ねていることからも分かるが、この光景は彼女達の日常である。
そして、彼女の口内から昨晩の食べかすを全て取り除くと、役目を終えた小鳥達はあっさりと飛び去っていった。
小鳥の影を追うようにその身を起こしてから、シルフィードは再度欠伸をする。
「ふあぁ、今日も良い風なのね」
森中の湿気を払いながら、鱗を優しく撫でていく風。彼女が此処に自身の住処を用意したのは、この風が気に入ったからでもある。
「確かにコイツは良い風だ。森の中でこんな風が吹く場所を知ってるなんて、流石は風韻竜ってとこか?」
目を細め、朝の風を存分に堪能していたシルフィードは、その声にはっ、として振り向いた。
「お早う、シルフィード」
シルフィードに声を掛けたのは一人の男。厚手のパーカーに黒い染みの付いたズボン。加えて顔の半分を包帯で覆うという奇妙な出で立ち。
驚きで身動きの取れないシルフィードを余所に、男――斉藤はシルフィードの下へと歩み寄り、右肩に乗せた朝の収獲物をどさりと落すのだった。
「ふ、風韻竜ってなんのことかしら? きゅい」
「いや、恍ける気ならここで喋んなよ」
呆れた様子で答える斉藤に、遅れ馳せながら自身の失策に気付くシルフィード。
「きゅ、きゅい。思わず喋っちゃったのねー!!」
朝の森にシルフィードの叫びが木霊した。
その声を五月蝿いなぁ、と思いながらも、騒ぐ彼女を無視して斉藤は朝食の準備に掛かる。
「そもそも、寝言で喋り捲りだったぞ」
集めておいた薪に火を点けながら斉藤が付け加えると、彼女の混乱はもっと大きくなった。
彼女の寝言を思い出しながら、先程仕留めた鹿の皮を剥いでいく。
召喚十日目の夜は、シルフィードの小屋を利用させてもらった。率先した朝食の準備と何時もより多い肉の量は、斉藤なりのお礼でもある。
暫くして混乱から立ち直ったシルフィードは、切り分けた肉に胡椒を振っている斉藤におずおずと顔を近付ける。
「お、お願いがあるのね」
「ん? 別に誰かに喋る気はねぇから安心して良いぜ」
不安げに切り出されたシルフィードのお願いは、全てを言葉にする前にあっさりと叶えられた。
「ほんと? ほんと? 良かった、安心したわ! 一時はどうなることかと思ったもの!」
シルフィードは嬉しくなって、きゅいきゅいと鳴きだした。
悩みがなくなって、次に彼女の頭を占めるのは食べ物のこと。斉藤の前で火に掛けられる、鹿肉のことだ。
「ねえ、それごはん? ごはん? わたしも食べる、おにく食べる。るる。るーるる」
別に分ける気だったから構わないのだが、既に鹿肉を自分の物だと認識しているのは如何なんだろう。
そんな事を考えながら、上機嫌に歌いだしたシルフィードを見上げて、斉藤が微笑を浮かべる。
ハルケギニアに来て十一日目の朝は、昨日とはうってかわって優しい雰囲気で始まった。
『最初のゼロから間違えて』
第二話「二度手間は無駄にはならない(前編)」
『斉藤平太、サイトー・ヒラタだ。好きに呼んでくれ』
斉藤の名乗りを聞いたタバサの反応は簡単だった。
杖も、鋭い視線も、斉藤へと向けたまま。何も変わることなく。
「……誰?」
再度、誰何の声を上げただけである。
当然と言えば当然か。先程の自分の行動を省みて、斉藤は胸中で自嘲した。
この世界に来て初めての名乗りということもあり、一人で勝手に盛り上がっていたが、そもそもタバサが訊きたかったのは"名前"ではない。斉藤が"何者"であるかなのだ。
確かに名前も、個人を示す要素の一つだ。ルイズやキュルケ辺りならば、その立派な家名が身分を――彼女達が何者であるかを証明したことだろう。
しかし生憎と、"斉藤平太"の名はこの世界において未だ何の意味も持っておらず、それだけでは何も伝えることが出来ない。
この場合のタバサに対する正答は別にある。
つまり――
「ルイズ・フランソワーズ・ル・ブラン・ド・ラ・ヴァリエールの使い魔だ」
ルイズの使い魔。それが現在、トリステイン魔法学院において、最も解り易く斉藤平太を表す言葉だった。
視線はそのままに、タバサが杖を下げる。警戒は解かれぬものの、敵でないことは納得してもらえたようだ。
「さっきのは……何?」
疑問さえ解かれれば、さっさとこの場から立ち去るのだろう。
杖を下ろしたタバサを見て、そんな事を考えていた斉藤だったが、奇しくも予想は裏切られてしまった。
少々意外な反応だが、訊かれたからには答えてやらねばなるまい。
尤も、斉藤は先程の騒動に関して何も知らないため、どうにも答えようがないのだが。
「さっきのが何かって…… そりゃ俺の方が聞きてぇ。俺は巻き込まれただけだし、騒動の原因は襲われてたお姫様の方が良く知ってるんじゃねえの?」
取り敢えず、知らないの一言で終わらせるのも如何かと思い、質問を返しておく。
しかし、訊いておいて何だが粗方の予想は付いていた。嫉妬に駆られた馬鹿共が集まって、馬鹿の名に相応しい馬鹿げた暴走をしただけだろう。
とは言え、出来るなら知っておきたいこともある。
一年の初めの頃ならいざ知らず、何故二年の今頃になってあれだけの人数に襲われることになったのか。
それに確かな理由があると言うのなら、斉藤としては是非とも知っておきたい話だ。多分、今後の身の安全にも関わってくると思われる。
しかし残念なことに、斉藤のその疑問が解消されることはなかった。
「違う、貴方のこと」
何故なら、斉藤は根本的にタバサの質問の意味を取り違えていたからである。
訂正が入ったからには、話を戻すわけにはいかない。いや、戻せないわけではないが、少なくとも今戻すのは礼儀に反することになる。
「……俺のこと?」
しかし"俺のこと"とは如何いうことだろう。
小説で読む分にはそこが魅力なのかも知れねぇけど、無口少女との会話ってのは地の文が無いとちょっと困るな。
言葉の意味がいまいち理解できなかった斉藤が、そんな栓無いことを考えていると、タバサの方も質問の意図が伝わっていないことに気付いたらしい。
「あの動きは、何?」
別の言葉で質問が言い直された。しかし相変わらず言葉は少ないし、説明は足りていない。
とは言え、斉藤も馬鹿ではない。前後の状況や言い直された質問の意味を考察し、タバサが先程の平民離れした実力――ガンダールヴの力について質問しているらしいことには気付くことが出来た。
尤も、素直にその答えを教えてやる義理はない。よく考えれば、彼女はまだ斉藤に名乗ってさえいないのだ。
既に原作を通してタバサの性格を知っているとは言え、初対面でこれだけ失礼な態度を見せる彼女に、好感を抱けと言う方が無理だろう。
「見たままだよ、お姫様。見えない力を使うお姫様達より、ずっと解り易い」
肩を竦めながら煩わしげな態度を装って答えてやると、タバサは暫し閉口した。
少しは自分の失礼さに気付いてくれたのだろうか。
何やら考え込むように口を閉じたタバサを見て、斉藤はそんな事を思ったのだが、タバサはあくまでマイペースだった。
「その呼び方は止めて欲しい」
敵意をぶつけ、疑問をぶつけ、そして今度は要望をぶつけ。自分のことばかりで相手のことを考える様子も無い。
そんなタバサを、斉藤は"振り"ではなく本当に煩わしく思った。
「そうは言うがね、お姫様。俺はお姫様の名前なんざ知らねぇし、お姫様の家庭教師でもねぇし、お姫様の部下でも、召使いでも、ましてや奴隷でもねぇんだ。聞いてやる義理もねぇよ」
これだから貴族ってヤツは、と頭を抱えながら、斉藤はタバサに背を向ける。
ルイズには暴力を振るわれるばかり、出会う貴族は皆平民を人と思わぬ輩ばかり、そして止めはタバサのこの態度。原作では平民寄り、と言うか貴族らしさの欠片も無いタバサでもこれだ。
もう貴族には何の期待もするもんじゃねぇなと、自身がタバサと何の関係も結んでいない――友好的な態度さえ示していないことを棚に上げて、斉藤は溜め息を吐いた。
後ろでタバサが何か言葉を発した気がしたが、斉藤は無視して広場を後にするのだった。
午後は金策、と言うか職を探して回ることにする。
しかし斉藤は使い魔である。時間的拘束の多い仕事に就くわけにはいかないし、学院外の仕事に就くわけにもいかない。となれば、就ける仕事は自ずと限られてしまう。
そもそも、学院内で平民が行える仕事なんて、警備か使用人くらいである。
「おいおい、んな錆びた剣持って一人前気取りか? 身体鍛えて出直してくるんだな、ガキ」
そして今、衛兵の詰所から追い払われて、斉藤は当ての半分を失った。
実力を聞かれれば、ここにいる兵士全員を伸してみせるだけの実力を示すことも出来るのだが、話を聞かれるまでもなく追い出されてしまっては如何しようもない。
無理やり実力を示せないこともなかったが、それ以前にこの職場で働きたいと思えなかったため、斉藤はあっさりと引き下がった。
よく考えてみれば分かることだが、ドット級の生徒一人でも、並みの兵士一人分以上の戦闘力を有している。
それ故か、この学院の衛兵に期待されているのは兵士としての実力ではなく、雑事をこなす能力と警報としての役割だけのようだった。
素人目でも判断出来るほど、兵士の錬度は低く、また態度も良いとは言い難い。
貴族を前にすれば、勤勉な振りとおべっかを用意してみせるが、普段は口悪くだらけきっている。一目でそんな兵士が集まった職場なのだと理解できた。
我侭かもしれないが、こんな場所で働きたいと思うほど、斉藤は愚かではない。
そして残る当てである使用人だが、こちらも恐らく期待出来ないだろうと斉藤は考えている。尤も、その理由は衛兵とは大きく異なり、性別的な問題なのだが。
学院の雑事は、その殆どが女性によって行われている。厨房の料理人や力仕事を行う者以外で、斉藤は男の使用人を見掛けた記憶がない。多分、そう言う方針なのだろう。
因みにメイドと言えば本来は年嵩のいったご婦人が行うものだと思うのだが、学院長の趣味か、はたまたファンタジーの不思議なのか、学院のメイドは全てうら若き女性が務めていた。
そういう訳で、斉藤がこの仕事にありつける可能性は無いに等しい。
とは言え、他に当ては無い。駄目で元々、仕事を貰えれば御の字と考えれば良いだろう。
大した希望も持たずに、斉藤は使用人の待機部屋を訪ねることにした。
「あ、使い魔さん。丁度良かった」
待機部屋の扉を叩こうとしたところで、背後から声が掛かった。
斉藤が振り向けば、銀盆を持ったシエスタが笑顔でこちらに近付いてくる。
「私、これから休憩なんです。良かったら一緒にどうですか」
シエスタが掲げた銀盆の上には、ティーポットと大きな皿が一枚。皿の上には、何やら大量のお菓子が乗っていた。
中世の時代様式に近いこの世界で、使用人に休憩時間があると言うのは意外だった。だが、無いよりは有った方が良いのは当然である。
「コレ、貴族連中の余り物?」
これ幸いとシエスタの誘いに乗った斉藤は、現在彼女に包帯を換えて貰っていた。
「はい。放っておいたら捨てるしかないので、メイド達みんなのおやつにしてるんです」
本当はいけないんですけどね、と可愛く舌を出すシエスタの顔は、斉藤の顔から三十センチも離れていない。
乾いた血で張り付く包帯をゆっくりと優しい手つきで剥がしていく。
因みに、待機部屋にいるメイドはシエスタだけではなかった。
そしてその内の一人が、包帯の外れた斉藤の顔を見て顔を顰める。
「うっわ~。何て言うかひどいよ、あんたの顔」
「まぁ、確かに自分でも、美形とは言い難い顔だと思うけどよ? 酷いとまで言うか普通」
冗談交じりに斉藤が答えると、メイドはスコーンを齧ったまま、何度か目を瞬かせる。
「あはは。面白いね、あんた」
傷口に消毒液の付いたガーゼを押し当てるシエスタの横に移動し、メイドは再度、斉藤の顔を覗き込んだ。
「うん、前言撤回。顔立ちは悪くないし、中々良い男だと思う。背はちょっと低いけどね」
「そいつはどうも。アンタも顔立ちは悪く無いぜ? スタイルはシエスタ程じゃねぇけど」
斉藤はそう言ったが、彼女のスタイルは悪くない。寧ろシエスタより胸は大きく、魅力的だとも言える。
「え~、でもあったしー、シエスタよりも胸、大きいよ?」
メイド本人も自身の胸の大きさを自覚しているらしい。小首を傾げながら、胸を寄せるように腕を組み、胸の谷間が斉藤の視界に入るように身体を傾ける。
あからさまでありながら媚を感じさせず、極自然に色気を振り撒くその仕種は、上品な"商売女"と言った風情だ。
「そ、れ、と、もー、遠回しなシエスタへの告白?」
とは言え、好奇心の塊のような瞳と、何でも直ぐに色恋沙汰へと繋げる思考回路は、やはり年頃の少女なのだろう。
「馬鹿言うな、出会って一週間も経たない女を口説くほど飢えてねぇよ。つーか、男がみんな胸だけに魅かれると思うな」
仕様も無い話題に頭を抱えようと手を上げ、しかし包帯を巻くシエスタの邪魔は出来ぬと、中途半端な位置でぷらぷらと揺らす。
そのまま揺らしているのも癪なので、手を伸ばしてスコーンを掴んだのだが、巻かれる包帯が丁度口元に掛かり、結局スコーンを掴んでもそのままぷらぷらと揺らすだけに留まった。
その様子に二人のメイドが吹き出し、それを見た斉藤の口元がへの字に変わったのは、言うまでもない。
「そう言えば、あんたも黒髪だよね」
ようやっと包帯が巻き終わり、斉藤が手にしたスコーンを口にしたところで、メイドが手を伸ばしてきた。
「だから何? っつか触んな」
幼子にするかのように頭に置かれた手を、斉藤が振り払う。
そうして遅れ馳せながら気付いた。このメイドもシエスタや斉藤と同じく、髪の毛の色が黒い。
おまけに斉藤やシエスタよりもずっと長い。後ろでアップにしているため気付き難いが、下ろせば多分腰くらいまであるのではなかろうか。
「私も不思議に思ってたんです。黒髪ってトリステインじゃかなり珍しいんですけど、使い魔さんって何処の生まれなんですか?」
薬箱を片付け、ティーポットにお湯を注いでいたシエスタが会話に参加する。
「ん? 言ってもシエスタ達の知らない場所だからなぁ」
意外に日本と言ったら祖父繋がりで反応が返ってくるかもしれないが、面倒なので言う気はない。
それよりも、斉藤は先程のシエスタの言葉が気になった。
「黒髪ってそんなに珍しいか? 欧州でも地中海沿岸にゃあブルネットも多いから、それ程でも無いと思うんだけど」
「欧州? 地中海沿岸?」
質問の仕方が悪かったらしい。聞いたことも無い単語に、メイド二人が揃って首を傾げる。
斉藤は気まずげに、あー、と唸ると言い直した。
「こっちで言うと、ガリアとかロマリアとか南の方。割と少なくない数の黒髪がいると思うんだけど」
今度はちゃんと通じたらしい。小さく頷いたシエスタが顎に指を当てながら答えてくれる。
「確かにそうみたいですけど…… やっぱりトリステインでは見掛けないみたいです」
「それに、店に来るお客さんにもよく言われるけど、あたし達みたいな深い黒色って向こうでも見掛けないんだって」
おまけにあったしってば、色は黒でも髪質は細くてさらさらだしー、とさり気なくメイドが自慢話を始めだす。
そんなメイドの話を右から左に聞き流し、斉藤は紅茶を一口飲んでから呟いた。
「……店?」
「ああ、使い魔さんは知らなくて当然ですよね。この娘は助っ人なんです」
斉藤の言葉に気付いたシエスタが、その意味を説明してくれた。
何でも、春の使い魔召喚の儀式前後は、使用人の仕事が激増するらしい。
どんな大きさの、どんな使い魔が、どれだけの数召喚されるのかは、結局召喚して見なければ分からない。事前の準備にも限界があり、仕方なしに毎年この季節は臨時の使用人を雇っているのだそうだ。
彼女はその内の一人であり――
「"魅惑の妖精亭"の看板妖精、ジェシカでーす」
――原作にも登場する、あのオカマ店長スカロンの娘、ジェシカであった。
そして――
「ああ、あのオカマ店長の娘か……」
あまりに強力なキャラ設定を思い出し、ついつい口を滑らせた斉藤を責めるのは、些か酷と言えよう。
「あれ、あんたパパのこと知ってるの?」
加えてジェシカやシエスタに、それに反応するなと言うのも、また無理な話なのだろう。
あー、やべぇ、どうやってお茶を濁すかなぁ。そんな事を考えながら、斉藤はティーカップに口を付けた。
生憎と緑茶と違い、彼の手の中の紅茶には濁り一つありはしなかった。
結局、先程の話については"お茶を濁す"ことが出来ず、適当な理由を付けて"誤魔化"した。
因みに誤魔化すの語源は幾つか有るが、今回斉藤が行った対応は、俗説だと思われる"胡麻化す"と言うのが最も近い。
"護摩かす"のように全てを嘘で塗り固めるのではなく、"胡麻菓子"のように中身の無い見掛け倒しをするのでもなく、口からこぼれ出る嘘という粗悪な油を、ほんの少しの真実という胡麻油でそれらしく"胡麻化させて"もらった。
簡単に言えば、斉藤の世界にも知られる程度にスカロンが有名である、と説いたのである。スカロンの強烈なキャラ設定は"ゼロの使い魔"を知る人間にとってそれなりに知られている筈なので、嘘は言っていない。
「ふーん、そっか。パパってばそんなに有名なんだ」
「有名っつーか、一度目にしたら、あのキャラは忘れられねぇって話だろ」
ジェシカと一緒に学院の廊下を歩きながら、何度もしつこく話を蒸し返す好奇心の権化へと呆れた声を返す。
因みにシエスタはもういない。夕食の仕込みがあるとかで、既に二人の下を離れていた。
では何故ジェシカと一緒にいるのかと言うと、金策について尋ねてみたところ、当てがあるから付いて来て、と言われたからである。
道すがら、矢鱈とこちらを詮索してくる好奇心の塊には些か辟易しているが、そんな事情なので無視も出来ない。
「それよりも、看板娘なアンタが店を留守にして大丈夫なのかってことの方が、俺は気になるんだけど?」
訊かれてばかりなのもいい加減うんざりなので、斉藤はこちらからも質問を振ってみる事にした。
原作のチップレースでは、週に百エキュー以上稼いでいた彼女だ。斉藤には、態々トリステイン魔法学院にまで彼女が働きに来る理由が解らなかった。ひょっとして、トリステイン魔法学院の給金はもの凄く高いのだろうか。
「ジェシカ。"あんた"じゃないわ、ジェシカよ」
すると何故か、質問と関係ないところで彼女が怒り出す。
妙なところに拘るヤツだな、と思わないでもなかったが、そこは譲れないとばかりに太い眉を吊り上げるジェシカを前にして、意味も無く断る必要も、彼女の心証を悪くする理由も、斉藤には無い。
頷いて、呼び名を訂正する。するとジェシカもまた頷いて、話を本筋に戻してくれた。
「魅惑の妖精亭は今臨時休業中なの。一月くらい前に店で暴れた馬鹿貴族がいてさ。店は半壊、おまけに女の子達も何人か怪我しちゃって……」
その貴族が暴れる原因に直接関わっていたのだろうか、ジェシカの表情が少し曇る。
尤もジェシカは商売女だ。すぐさま瞳の曇りを消し、明るい調子で後を続けた。
「あたしらはメイジじゃないからさ。店の修理には一ヶ月以上掛かるし、その間も生活費は掛かるって事で、こうして働きに出てるワケ」
「へー、貴族を相手にするってのは大変みてぇだな」
その表情の変化に気付いていても、斉藤は気付かぬ振りをして話を続ける。
それこそが大人のマナー。正直に言うと、指摘すると面倒なことになり兼ねないと思っただけなのだが。
「ツカイマほどじゃ無いけどね」
斉藤の包帯を指差しながら微笑する彼女の姿は、成る程、男が揃って粉をかけようとするのも無理はない、と思わせる程には魅力的だった。
「ここよ」
本塔を入って直ぐ、ジェシカは振り向いて右側の壁を指差した。
そこには、壁に備え付けられた黒板と、沢山の紙が画鋲で留められたコルク製らしいボードが存在している。
斉藤はそれを見て、大学のバイト募集などに使われる連絡用ボードを思い出した。
「本格的な仕事から、小遣い稼ぎのお手伝いまで、雑事依頼用の掲示板ね」
ジェシカの説明によれば、事実そういった用途に使われている物らしい。
しかし困ったことになった、斉藤はまだハルケギニアの文字を読むことが出来ない。
見る限り、漫画やアニメにあるような奇々怪々な文字ではなく、アルファベットに近い文字形態であるようだが。
「読めねぇ」
「あ、ゴメン。ツカイマってば、文字読めなかったんだ」
思わず漏れた呻き声が聞こえたのだろう。ジェシカが気まずそうな顔をして、斉藤の顔を覗き込んだ。
その顔に、疑問の色は浮かんでいない。
貴族ならいざ知らず、平民が文字を読めないというのは、それほど有り得ない話ではないようだ。
現状の斉藤にとっては予測しか出来ないことであったが――
文明の発達は中世レベルである。只生きる為だけに日々を暮らす平民が、文字に触れる機会はそう多くない。
職業選択の自由など殆ど無く、親から子へ職業が口伝されていくことが常識のこの世界において、文盲とはそれ程恥ずかしい話でも無かった。
平民の為の学校など存在しないし、偶に見かける日本で言う寺子屋のような存在があったとしても、それは生活の合間に行われるものであり、ある意味、知識欲を満たす為の"娯楽"であった。
とは言え、首都トリスタニアも近く、貴族達が暮らしの主となる魔法学院では、文盲と呼べる存在は殆どいない。
貴族は平民の事情を知ることなく書置きを残すし、平民は在籍出来ないとは言え"学校"である。文字も読めぬ輩を積極的に雇う訳も無く、また読めぬ者をそのままにしておく様な薄情者達が集まる場所でもない。
「でも珍しいよね、ここで暮らしているのに文字が読めないなんて」
斉藤の顔色から、特に気にしていないことを見取ったのだろう。表情を明るい色に戻してジェシカが訊ねてきた。
「ツカイマの職業って何? 庭師とか木こりとかそういうの?」
「何って、使い魔だけど」
この女は何を言ってるんだ、と斉藤は思わず首を傾げた。
「いや、名前じゃなくて職業を訊いたんだけど」
この男は何を言ってるんだ、と今度はジェシカが首を傾げた。
首を傾げたまま、二人は揃って沈黙する。
「……ああ、そう言うことか」
認識の違いに気付いたのは斉藤が先だった。
「"使い魔"ってのは俺の名前じゃなくて職業。使い魔、ファミリア、サーヴァント。オーケー?」
そういや、今の言葉の繰り返しってジェシカの耳にはどう翻訳されて届いてんだろ。そんな事を考えながら、斉藤はジェシカの勘違いについて弁明する。
「えっ、でもさっきシエスタが"ツカイマさん"って」
「人間の使い魔なんて、この学院じゃ一人だけだかんな。それだけで俺を指すことはみんな分かってんだろ」
そう返しながら、斉藤はふと疑問に思った。
シエスタは"使い魔"さんと言っていたのに、"ツカイマ"と言う人名で認識されたのは何故だろうか。
"ツカイマ"と言うジェシカの口の動きは、確かに"つかいま"と喋っているようだった。
ハルケギニア語は知らないが、例えばシエスタが"使い魔=ファミリア"みたいに認識して喋っていたなら、口の動きも当然"つかいま"ではなく"ふぁみりあ"となっていなくてはおかしい。
近藤とコンドーム、大輔とダイス、冗談とジョーダンみたいに、使い魔とそれに相当するハルケギニア語の語感が近かったりするのだろうか。
使い魔の翻訳機能について、調べてみるのも面白いかもしれない。
尤も、生きる為に必須となるガンダールヴの力や、この世界における魔法についてを調べる方が先なのだろうけど。
「……ってば。ねぇ、ちょっと聞いてる?」
肩を掴まれて、斉藤は顔を上げた。何だか傷付いた様子のジェシカが、こちらを見詰めている。
「わりぃ、考え事してた。で、何の話?」
下らない考えに没頭し過ぎていたらしい。斉藤は素直に謝罪する。
「もう、そこまで怒らなくても良いじゃない。変な名前で呼んでて悪かったわ、ゴメンなさい」
思考に耽っていた斉藤の様子を、怒って気を悪くしたとでも思っていたのだろうか。言葉自体は乱暴だが、真面目な口調でジェシカが謝罪する。
「いや、気にしてねぇ。ホントに考え事してただけだって」
てかそれが失礼ならシエスタの呼び方はどうなのよ、と言葉には出さずに斉藤は思った。
「良かった。じゃ、改めて自己紹介。あんたの名前は?」
「斉藤平太、サイトー・ヒラタだ。好きに呼んでくれ」
「サイトー・ヒラタ。サイトー・ヒラタ…… サイト。うん、サイトね。分かった、よろしく」
料理を舌先で味わうように、暫し名前を口中で転がしていたジェシカが、大きく頷いてから笑みを浮かべた。
サイト・ヒラガじゃねぇからなって台詞は、タバサじゃなくてこっちに付けるべきだったか。
ジェシカの笑顔を見ながらそんなことを考えた斉藤だったが、別に名前に拘りがある訳でなし、サイトと呼ばれようが何の問題もない。
「おう、宜しく。それじゃ、申し訳ねぇけど端から順にコイツを――」
「年齢は?」
読んでくれねぇか、という斉藤の言葉を遮って、ジェシカが次の質問をする。その瞳はきらきらと好奇心に輝いていた。
「細かい説明文は良いから題名だけでも――」
「年齢は? ちなみに、あたしは十六歳ね」
再度、言葉が遮られる。どうやら、質問に答えてくれるまでこちらの要望に応えてくれるつもりは無いらしい。
人の弱みに付け込むのは女の子として如何なものか。そんな疑問が斉藤の頭に上らないでもなかったが、まあ仕方が無い。
「二十一だ。分かったらさっさとコイツを――」
「家族は? やっぱり妹とか弟とかいるの?」
「……いや、やっぱりって何だよ」
どうやら暇潰しの道具にされようとしているらしい。
結局、彼女の話に長々と付き合う破目になり、斉藤が掲示板に何が書かれているのかを知るまでには二時間近い時間が必要となった。
「じゃあ、あたしはそろそろ仕事に戻るね。サイト、楽しかったわ」
「そりゃそうだろ。これだけ好き放題質問されて、詰まらなかったって言ったら殴んぞ」
ノリ的に言えば、女子高生の会話に長々と付き合った後の気分なのだろうか。
精神的なエネルギーをジェシカにごっそりと持っていかれた気がする。まあ、少なくとも斉藤の個人情報が大量に持っていかれたのは確かだ。
だが――
「流石は魅惑の妖精亭の看板娘ってところか。会話にゃ随分疲れたが、不思議と悪い気分じゃねぇよ」
確かに随分と疲れさせて貰ったが、スポーツの後の爽やかな汗のように、精神的な老廃物を一緒に持っていって貰えたような、心地良い疲労だった。
そんな軽い調子で出された斉藤の言葉に、ジェシカは目を細めてにっこりと笑う。
「あはは、ありがと。お店は十日後に再開するから、良かったらサイトも来てね」
「商売上手なこって。ま、残念ながらこの通り文無しでね。そんな店に行く余裕はねぇな」
「サイトだったら、チップなしでもあたしが付きっ切りでサービスしてあげる。だから絶対来てね」
ウインクしながら身体を前屈みにして小首を傾げる。そんな可愛いポーズをきめるジェシカに、斉藤は苦笑を返すしか出来なかった。
成る程、確かに看板娘だ。こんな風に言われたら、誰だってチップを用意して店に遊びに行くことだろう。
「期待すんなよ」
「いやよ、楽しみに待ってるから。必ず来てね、サイト」
絶対だからね、と手を振りながら去っていくジェシカは、清々しいまでに"魅惑の妖精"の名にピッタリだった。
「こりゃ、本性知らない奴が、俺に惚れてるかもって思うのも無理ねぇな」
去っていくジェシカの背中から目を離し、斉藤は手元の手帳に目を落した。
そこには、ジェシカに読んでもらった掲示板の内容から、使えそうなネタをピックアップしたものが書かれている。
ボールペンの存在や正確に書かれた罫線、それから角張った漢字や丸っぽい平仮名が混在する日本語の存在に、いちいち驚いた様子で興味深そうに質問するジェシカの様子を思い出し、斉藤の口の端が自然と吊り上がる。
「いかん。騙されてる騙されてる」
頭を軽く振って意識を切り替え、斉藤は掲示板の前から離れた。
ジェシカの所為で大分時間を喰った。金策の当ては出来たが、今日はもう時間的に無理だろう。
「さて、どうすっかな」
本塔の前で伸びをすると、頬に冷たいものを感じた。
空を見上げると、またポツリと、今度はおでこに滴が落ちる。雨だ。
ついに恐れていた事態が起きたようだ。ハルケギニア召喚から、初めての雨である。
「今日、シルフィードに住居の当てを見付けて貰えなかったら、危なかった」
額の滴を除け、斉藤は走り出す。
そろそろ夕方だ。シルフィードの住処にお邪魔する前に、ルイズの戻りを待たなくてはいけない。
ガンダールヴの力を使って全力で走ったら、どっかの漫画みてえに雨を避けられたりしないもんかね。
後ろ腰の短剣を握りながら、斉藤はそんな事を思うのだった。
髪に重たく染み込んだ水の感触を振り払い、引き攣るように痛む頬の感触に顔を顰め、木々の枝を掻き分ける。
シルフィードに乗らずに行くのなら、学院の壁を飛び越えて徒歩で五分ほど。
森が少しだけ深くなる、そんな場所にシルフィードの住処はあった。
「よう、シルフィード。早速だけど今晩お邪魔して良いか」
「きゅい、きゅい!」
大きく頷いて、斉藤のためにシルフィードが場所を空けてくれる。
雨合羽代わりに身に着けていた葉の多い木の枝を外し、まず数少ない日本の思い出、ドラム缶バッグを小屋の中に放った。
ドラム缶バッグと言っても、旅行用の大型の物ではない。斉藤が通学用に使っていた小型のドラム缶バッグだ。当然、教科書類もそこには入っている。
多少高くても防水性のしっかりした物を買っておいて良かったと、斉藤は妙なところで自分の過去を賞賛した。
「きゅい?」
食べ物でも入っていると思ったのだろう。シルフィードがバッグに鼻先をくっ付けて、何やら首を傾げている。
「ん? 残念だがシルフィード、そいつにゃあ食べ物は入ってないぜ」
小屋の右外側、風向きの為か殆ど雨が落ちることが無い場所で、斉藤は焚き火の準備を始めた。
シルフィードが意図して作ったものかは知らないが、火を点けるには御あつらえ向きの場所である。
「食べ物はこっちだ。焼肉ばかりじゃ流石に飽きただろうけど、鍋がねぇから汁物も作れねぇんだ。我慢してくれよな」
斉藤が手に持つのは、既に羽毛を毟られた四羽の鳥。
どの鳥も、雨の日は巣穴に閉じ篭っていた為に、意外と捕まえ易かったのは嬉しい誤算だ。
シルフィードが上機嫌で小屋から首を出し、斉藤の手元をじっと見詰める。
暫くするとシルフィードが歌いだし、その歌声は雨音に交じって、森中に響く優しい音楽となる。
「ああ。いい加減、野菜が食いてえ」
濡れた服を乾かしながら、揺らめく炎をぼんやりと見る。
屋根がなければ生命力を奪うこの雨も、屋根があれば気分を落ち着かせる癒しの空間を生み出すだけ。
何時しかシルフィードの歌声に合わせて、斉藤も歌を口ずさんでいた。
召喚十日目の夜は、こうして更けていく。
「きゅ、きゅい! お姉さま、駄目! それは駄目!!」
翌朝、斉藤は耳元で鳴り響く大声に目を覚ました。
周囲はまだ暗い。腕時計を見れば、時間はまだ朝の四時を少し過ぎた辺り。早朝も良いところである。
「駄目! 駄目なのね!!」
上体を起こし、斉藤が音の発生源を見やれば、そこには横たわる巨大な幼竜の姿。
因みに瞳は閉じている。どうやら寝言のようだ。
「こらちびすけ! いい加減その手を除けるのね。今なら冗談で済ませてあげるわ。きゅい!!」
何やら必死な声が笑いを誘うが、一体シルフィードは何の夢を見ているのだろうか。
そんなシルフィードの口からは、定期的に寝言が発せられ、一向に止む気配はない。
言葉の端々から、タバサと食事の取り合いをしている夢を見ているのだと判断できたが、竜と食事の取り合いなんて、一体彼女はタバサにどんなイメージを抱いているのやら。
シルフィードの寝言を聞かされ続けた所為もあり、斉藤の眠気はすっかり飛んでいた。
そもそも朝の四時とは言え、睡眠時間は八時間近く取れているので寝足りないという事もない。
日本と違って夜更かしをするには灯りを用意しなければならず、また夜更かしをする理由も無いため、夕食後に一息吐いたら早々に床に就かせて貰ったのだ。
お陰で体力の回復は勿論、気力の充実具合も昨日までの比ではない。やはり仮宿とは言え、屋根の下で眠れたのは大きい。
外を眺めてみれば、雨は既に止んでいるようだった。
斉藤は立ち上がり、寝乱れた服装を正すと、立てかけておいた剣を手に取って小屋から出る。
「おーにーくー」
寝床を借りた身で、気持ち良く寝ているシルフィードを起こすのも気が引けた。
昨日までと違って気力の方も随分と回復させて貰ったことだし、少し早いが朝食の準備に取り掛かるとしよう。
「何か大物にでも挑戦してみるかな」
短剣を後腰に引っ掛けながら、斉藤は未だ薄暗い森中へ向けて歩を進めるのだった。
樹海や密林なら兎も角、自分はもう普通の森で迷子になることは無いだろう。
十日近く、自身の命を賭けて森での狩りを続けてきた斉藤は、何時しか森に足を踏み入れる度にそう思うようになった。
それが自惚れかどうかは判らない。
だが、ガンダールヴの力を当てに闇雲に森中を駆け回った当初に比べれば、遥かに"森"と云うものを斉藤は理解していた。
例えば獣道。
自身の足跡に限らず、何かが通ればその痕跡は残る。ましてや毎回の様に獣が通ったならば、自然と葉々の間に隙間は出来るし、地面の草も周囲と異なった姿になる。
それが獣道なのか、それとも只単に木々の隙間なのか。
文字通り命を賭してその目を磨いてきた斉藤には、今では全てを――通った獣の種類までも判断出来る。
当然自分の通って来た道も容易に判断できた。そしてそれは、過去の自分の痕跡すらも例外ではない。
故に斉藤は、森で道を見失うような事態には陥らない。
「コイツもガンダールヴの恩恵だったりするのか。それとも都会では発見できなかった俺の才能なのか……」
獣道の途中に仕掛けた罠に嵌ったウサギを腰に吊るしながら、斉藤は自嘲気味に呟いた。
鉈一本で、ルーンから狩りの知識まで貰えるとは思えない。恐らくは後者なのだろう。
だとしたら、現代では役に立たない無駄な才能ではないか。それとも自分は、この世界に来ることを運命付けられていたのだろうか。
斉藤は思った。歪んだ運命に弄ばれ、辿り着いた不幸の中で見付ける才能だなんて、一体どんな皮肉なのだと。
そして今も、落した肩と視線の先で斉藤は何かを見付ける。
真新しい足跡と糞。ウサギのような小さなものではない。人よりは小さいだろうが、蹄を持ったそれなりの大きさの動物。
痕跡を追って斉藤が走り出す。
しなやかな筋肉の動きが作り出す、無駄な音を排し且つ小回りの利いた独特の走法。これも、この十日間で斉藤が身に付けたものの一つだ。
奇しくもそれは狩人や暗殺者のような、気配を絶つことに長けた者達が修練の果てに得る動きにそっくりだった。
そして二十分程後、ウサギとは段違いに大きい鹿を仕留めた斉藤は、シルフィードの小屋に戻る途中でそれを見付けた。
「っと、こっちはやべぇな。今は行くべきじゃねぇ」
斉藤の視線の先にあるのは大きな足跡と、丸太のような太い何かが引き摺られた跡。
その痕跡に沿って周囲の枝葉が押し退けられ、何本かの枝はぷらりとだらしなく折れ下がっている。
折れた枝に顔を近付ければ、新鮮な木の内皮の匂いが鼻腔に届く。折れてから、それ程の時は経っていない。
直接対峙したことはない、と言うか今まで避けてきたのだが、これは恐らくオーク鬼の仕業だろう。
他の獣のように縄張りはあるようだが、他の獣と違って決まった経路を辿る習性はない。また、糞尿をマーキングに使う様子もなく、棍棒らしき何かを引き摺っているがそれ以外に道具らしき物を使っている痕跡はない。
生物としてはどの程度の知性を持ち合わせているのだろうか。猿程度か、それ以上か。
生物学を専攻していた訳ではないが、当にワンダリングモンスターその物な"亜人"と言う生き物には、少しばかり興味を引かれる。
当然まだ死にたくないので、無闇に近付くような真似はしない。尤も、最悪これから"彼ら"に関わらなくてはいけなくなる事態が訪れるかも知れないとは思っているのだが。
オーク鬼の痕跡を避けるように大きく回り道をした斉藤がシルフィードの下に帰り着いた頃には、既に彼女は起きていた。
その後のやり取りには思わず笑みがこぼれたが、シルフィードにとっては大真面目な話だったようで、些か申し訳ないと思わないこともない。
「お兄さま、お兄さま。シルフィはお姉さまを迎えに行くまでまだ時間がありますわ。だからお話! お話して!」
シルフィードの方は、斉藤が彼女の正体を黙っていてくれると聞いた途端に上機嫌になり、普段碌に話せなかった反動なのか、食事中も途絶えることなく喋り続けていた。
こんな調子では、どんどん他の人間に正体がばれていくのではないか。
そんな心配をしたりもするが、その時はその時で原作外伝のように適当に誤魔化すのだろう。
斉藤としては、苦労するのが自分でなければ割かし如何でも良い。彼女が風韻竜として捕らえられることがない様に、釘くらいは刺してやる心算だが。
「シルフィード。上空三千メートル、じゃなかった三千メイル以内で喋んな。俺が黙っててもお前がばらしたら意味がねぇ」
そういう訳で、シルフィードに適切な助言をしてあげたのだが。
「きゅ、きゅい。酷い! 酷いわ! お兄さまもお姉さまと同じこと言うの? 失礼しちゃう! 恐れ多くも風韻竜であるシルフィがそんな間抜けな真似するわけないの!」
シルフィードは甚くご立腹の様子だった。
「いや、現に俺にばれたじゃん」
「そ、それはアレなのね。シルフィの慧眼が、お兄さまは黙っていてくれる良い人だと見破ったからなのね」
「あー、さいですか」
言っても無駄な人間、じゃなかった風韻竜に無駄な労力を掛ける義理はない。
「兎に角、ばれないように少しは気を付けてくれよ。俺はお前が捕まるのなんて見たくはねぇからよ」
だから、忠告は一言だけに止めておいた。
その忠告をシルフィードが聴いてくれるとは思えないが、言わないよりはマシだろう。それに。
「お兄さまもお姉さまも心配性! でも心配してくださるのは嬉しいわ!」
騒がしいけれど、こうやってシルフィードと話しているのは悪い気分ではない。
この機会を自分から消してしまうのも少しだけ勿体無い気がして、強くは言い出せなかった斉藤だった。
そして学院の朝が始まり――
『いい? 絶対に喋るんじゃないわよ。アンタは只黙って私の後に付いて来ればいいの』
『教室では大人しく壁に張り付いてなさい。絶対に騒ぐんじゃないわよ。いいわね、犬』
そんな命令を、暴力と一緒に一方的に叩き込まれた。誰に叩き込まれたかなんて、今更言うまでも無いだろう。
斉藤の顔に巻かれた包帯は、早くも血と泥に汚れてしまっている。
昨日換えたばかりだけれど、もう交換した方が良いのだろうか。
ルイズの後に続いて教室の扉を潜りながら、斉藤はそんなことを考えていた。
因みに、シエスタから念のために貰った予備の包帯は、現在斉藤の左手に巻き付けられている。
これは左手に怪我をしている訳ではなく、ルーンを隠すための物だった。
理由は簡単。毎度毎度、短剣を握る度にところ構わず光を放つルーンが、狩りにおいては非常に邪魔だったからである。
予備の包帯の置き場所に迷っていたこともあり、これ幸いと左手にぐるぐると巻いてルーンを隠し、今に至ると言う訳だ。
初めての教室だからと言って、別段何か感慨を抱くような事はない。
自席へ向かうルイズから離れ、斉藤は黙したまま、一人壁際へと移動する。
壁に背を預けた斉藤は、突き刺さる生徒達の視線を遮るように目を閉じた。
周囲のざわめきも興味の視線も、斉藤にとっては如何でも良いことだ。厄介ごとにならない程度に無視させて貰えればそれで良い。
誰が好き好んで、見下すことしか出来ない貴族共と関わろうなどと思うのか。
貴族に対しては最早悪感情しか持ち合わせていない。全身から拒絶の空気を放ちながら、斉藤はただ時が過ぎるのを待った。
「おい、お前」
とは言え、空気の読めない奴と言うのは何処にでも居るわけで。
「聞いているのか。平民風情が僕を無視するな」
目を閉じて周囲から壁を作っていた斉藤に、話し掛ける生徒がいなかった訳ではない。
「いいか平民。僕は言ったぞ、無視をするなと」
大抵は、黙して語らずな態度を崩さなければ問題なかった。
そうすれば、貴族共は一方的に暴言を吐いて去っていく。
暴言を聞き流すことなど実に容易い。そもそも、語彙能力の少ない幼稚な罵詈雑言で傷付くほど、斉藤は柔ではない。
しかし――
「デル・ウインデ」
今度は少しばかり状況が違っていたらしい。生まれたつむじ風に前髪を切られ、斉藤は嫌々ながら目を開けた。
斉藤の前では、一人の男が席に座ったまま杖を構えていた。
指揮棒状の杖には何やら微細な装飾が施されてあり、所々に貼り付けられた銀が鏡のように光を反射している。
「貴族の技に恐れをなしたか? ふん、最初からそういう態度を取っていれば良いんだ」
視線を巡らせば、彼を遠巻きに様子を窺っている者が数名。しかし他の生徒達は皆前を向き、何やら真剣な面持ちで手元の紙へとペンを走らせている。
「光栄に思うが良い。貴族であるこの僕が直々に、平民であるお前に命令してやろうというのだ」
教卓では教師らしき人物が舟を漕いでおり、黒板には大きな文字で何かのタイトルと数字、それから数行毎に区切られた大量の文章が書かれていた。
筆記テストの真っ最中、なのだろうか。
しかし監視役の教師が居眠りとは、カンニングをしてくれと言っているようなものだ。
斉藤はそう思わないでもなかったが、周囲の生徒達がカンニングしているような様子はない。
貴族の矜持か、はたまた斉藤が気付かないだけで実は魔法的な監視機構が存在しているのか。
「何、僕の命令は簡単なことさ。下賎な平民でも容易くこなせる仕事の筈だよ?」
それに、気付けば周囲に居たはずの使い魔たちが居なくなっている。
ひょっとしたらカンニング防止対策の一環で、皆教室から追い出されたのかもしれない。
「本当なら、僕が何か言う前に君が行動して然るべきだったのだけれど……」
壁際で目を閉じる人間が、周囲の回答を覗き見たりしないだろうと判断されていたのなら、目を開けた今、余計なトラブルを呼び込む前に教室から立ち去るのが吉ではないだろうか。
「でも僕は優しいからな。君みたいな平民に僕ら貴族のような機知は望まない」
一人上機嫌に話を続ける男を無視して、斉藤は壁から背を離した。
教室の出入り口までに誰かの答案を覗けるような場所はない。これなら問題は無いだろう。
「つまりだね。僕はペンを落したんだ。さっさと拾ってくれ…… っておいお前、何処へ行く!」
声を一段大きくして、貴族の男が斉藤を呼び止める。
斉藤は首から上だけで振り向き、三秒ほど動きを止めた。
その間に頭の中で、訪れるトラブルの大きさを天秤に掛ける。その結果、この男は無視することが決定された。
テストの最中なのだから、教室を出れば追い駆けてくるようなことは無いだろう。教室外で――正確にはルイズの前以外で襲ってきたというなら、その時は遠慮なく潰すだけだ。
今の斉藤にとって、怖いのはメイジとのトラブルではなく、ルイズの理不尽な暴力混じりのヒステリーである。
全く、難儀なルーンを刻まれたもんだ。
教室の扉を潜りながら、斉藤は左手の甲を――包帯の裏にあるガンダールヴの印を睨み付けるのだった。
何故、あれだけ理不尽な扱いを受けながらも使い魔でいることを辞めないのか。
二次創作に於いてしばしば論じられるこの問題の回答を、斉藤は身を以って知るに至った。
一文で表すならば、ルイズに対する悪感情がルーンの存在によって打ち消されている、と言ったところだろうか。
零の使い魔の原作に於いて"平賀才人"がそうであったのかを知る術はないが、少なくとも"斉藤平太"はそんな感じだった。
軽く説明をしよう。
例えば女性が、痴漢だと勘違いして暴力を振るった後に、誤解だと気付いて謝罪したとする。
その時、暴力を振るわれた相手の中で、その女性はどのような評価を受けるだろうか。
大抵の場合、謂れのない暴力を受けたことで大きなマイナス評価が下され、その後に謝ってくれたとしてもマイナスを打ち消すには至らず、結局マイナスな評価で終わってしまうことだろう。
誠心誠意謝る姿が好印象になり、総合評価がプラスに変わる者もいるだろうが、そんなケースは稀な筈である。
しかし、その稀有な"雨降って地固まる"現象にも似た何かが、ルイズと斉藤の間では起きてしまう可能性がある。
先の例に沿った場合、ルーンの力に拠って暴力を受けた際のマイナス感情が打ち消され、謝罪の際のプラス評価のみが残ってしまうのだ。
感情は打ち消されても理性ではどれだけ理不尽か分かるため、盲目的にマイナス評価がゼロにならないことがせめてもの救いである。
原作において、平賀才人がひたすら暴力を受けながらもルイズの可愛い一面に素直に惚れ続けることが出来たのは、この辺りが原因なのでは無いだろうかと、斉藤は睨んでいた。
因みに斉藤は現在まで、ルイズに謝られるどころか好感度が上がるような出来事は何一つ起こっていないため、プラス評価についてどうなのかは分からない。
ひょっとしたらプラス評価は本来の数倍に増幅され、程なくして平賀才人のようなベタ惚れ状態になったり、シェフィールドのような盲目的な忠誠を誓ったりしてしまうのかもしれない。
尤も、平賀才人のようにルイズが元々の好みに近かったり、ジョセフのような仕える者としての格の大きさをルイズが持っているような事もないため、そんな事態にはならないだろうとは思っている。
少なくとも、あのセックスアピールの欠片も無いルイズの身体に欲情するような異常性がルーンに依って埋め込まれぬ様にと、そこだけは真摯に願う斉藤である。
そんな風に、斉藤が自身に刻まれたルーンに対して考えを巡らせていた一方で――
貴族の男は屈辱に身を震わせていた。
平民が、平民如きが。先程から彼の頭の中では、その言葉だけが渦巻いている。
彼に限らず、貴族のプライドは総じて高い。斉藤にとっては馬鹿げた話だろうが、時に自身の命さえ賭けられるほどに高い。
屈辱にその顔は赤く染まり、強く噛み締められた奥歯がぎしぎしと音を立てる。
『テストの最中なのだから、教室を出れば追い駆けてくるようなことは無いだろう』
先程の斉藤の予想を裏切って、彼が暴れ出すのも時間の問題なのかも知れない。
しなった定規が限界を超え折れるように、彼の理性も怒りという負荷に折れようとしたその瞬間。
彼の怒声とは違う、大きな音が教室に響いた。
鳴ったのは大きく椅子を床に擦る音。
その音で理性を取り戻し、暴れるタイミングを失った怒りが静かに貴族の男の胸の底に沈んでいく。
音の発生源は教室の右後方。
未だ血走る眼で、貴族の男は苛立たしげにそちらを見遣った。
音を鳴らしたのは、蒼髪の少女。
黙して語らず、他者に関わらずな、そんな少女だった。
「……タバサ?」
少女の隣に座っていた赤髪の女性は、普段見せぬ親友の行動に大きく目を見開いた。
その声を無視して蒼髪の少女――タバサは教卓へ向けて歩き出す。
途中でちらりと、先程まで怒りに震えていた貴族の男へと視線が向けられる。
尤もそれは一瞬のことで、その事に気付いた者は教室内では一人だけ。赤髪の女性――キュルケだけであった。
(何だか、すっごく面白いことが起こりそうな気がするわ)
貴族の男が震えていた理由も、親友が態々大きな音を立てて立ち上がった理由も、瞬時に思い当たったキュルケが唇の端を大きく吊り上げる。
滅多に無い、タバサに関する"面白そうなこと"である。これを逃す手はない。
漸く目を覚ました教師に答案用紙を押し付けるタバサを見ながら、キュルケは素早く考えを巡らせた。
答案用紙の空欄はまだ半分近く残っている。
キュルケにとってはテストの点数など如何でも良いのだが、欄を全て埋めなければ教師が受け取ってくれないだろう。
(ああ、もう面倒ね)
面白いことが実際に起こるまであと何分、それとも何秒だろうか。
さっさとテストを終わらせて自分も向かわなくては、と何時に無く真剣な様子で、キュルケはテスト問題に取り掛かるのだった。
一方こちらは、教室から少し離れた広場の一角。
適度な暖かさと爽やかな風が通る、休憩にはピッタリの場所。
斉藤はシルフィードに寄り掛かりながら、大きく足を伸ばして寝転んでいた。
流石は風韻竜。シルフィードが休んでいる場所では、何時だって気持ちの良い風が吹く。
昼寝でもしたいところだが、寝過ごすと血の雨が降る可能性が高い。残念ながら今回は見送るしかないだろう。
しかし、ぽかぽかと暖かい隣りのフレイムの存在が、なんとも眠気を誘ってくれる。
「吹く風枝を鳴らさず。雨塊を破らず。平和ってのは良いもんだ」
眠気に負けぬように斉藤が声を発すると、隣りのフレイムが目を開け、きゅるきゅると鳴いて空を見上げた。
「ん? ああ、違う違う。実際に雨が降ってきたわけじゃねぇよ。さっきのは諺だ」
するとフレイムは、今度は斉藤の顔を見上げてきゅるきゅると鳴く。
「風が静かで枝が揺れない。雨は静かに降って土を傷めない。天下泰平を説いた言葉だな。まっ、実際はトリステインどころかハルケギニア全土を見渡しても天下泰平なんてありゃしないんだけど」
そのまま休んでいると眠気に負けそうなので、斉藤は寄り掛かっていた身体を起こして柔軟運動を始める。
そんな斉藤の横で、またフレイムがきゅるきゅると鳴いた。
「残念だがフレイム。俺はお前等の言葉なんて解んねぇよ」
返す斉藤の言葉に、フレイムが首を傾げる。
トラみたいに大きく、おまけに姿はトカゲなのだが、フレイムの仕種は意外と愛嬌があって可愛いかった。
「ん。まぁでも、お前等が人間の言葉を理解してることとか、知能はそれなりに有ることとかは知ってるから。言いてぇことくらいは察せると思うぜ」
違ってたら馬鹿みたいだけどな、と斉藤がフレイムの顎下を撫でる。
室内で飼われている理由もあるのだろうが、フレイムの鱗はシルフィードのそれとは違ってかなりキレイだった。
もしかしたら、俺等の中でお前が一番恵まれてんのかもな。
気持ち良さそうに目を細めるフレイムを見ながら、斉藤がそんなことを思っていると――
フレイムと、それから周囲で同じように昼寝していた使い魔達が一斉に顔を上げ、視線を一方へと固定した。
自分が近付いた時は皆眠ったままだった為、使い魔達のいきなりの行動に斉藤は一瞬目を疑ってしまう。
きゅる。
フレイムの鳴き声で我に返った斉藤が皆と同じ方向に視線を向けると、蒼髪の少女が近付いてくるのが見えた。
「おい、シルフィード。お前のご主人様が来たみたいだぞ」
他の使い魔達と違って無防備な寝姿を晒したままのシルフィードの横腹を叩き、斉藤が彼女を起こす。
「きゅい?」
億劫そうに目蓋を持ち上げたシルフィードの瞳がタバサの姿を捉え、しかしすぐに閉じてしまった。
「お、おい。シルフィード?」
お前睡眠時間は十分の筈だろ、と呆れる斉藤を余所に、タバサは彼らのすぐ近くまで辿り着いていた。
「違う、用があるのは貴方」
何やら呆れた様子でシルフィードを起こそうとしている男に、タバサは声を掛けた。
「俺?」
すると男――サイトーはシルフィードを叩く手を止め、その場で勢い良く立ち上がる。
そしてズボンに付いた汚れを払うと、胡乱気な視線をこちらへと向けて来た。
その顔に有るのは警戒、いや敵意だろうか。先程まで周囲に向けていた笑顔は欠片も残っていない。
随分と嫌われたものだ、とタバサは思った。
しかしそれも当然のこと。
助力をして貰いながら礼も言わず、あまつさえ杖を向けた相手を嫌うなと言う方が無理な話だ。
況してや相手は一流のメイジ殺し。
数多くのメイジと戦って生き延びてきたであろう彼ならば、杖を向けられることの意味を、たとえ弱い魔法であっても喰らえば容易く致命傷となる平民であるが故に、強く受け取ったことだろう。
「謝罪と、それから礼を言いに来た」
その言葉に、サイトーは訝しげに眉を寄せる。
尤も彼の顔はその殆どが包帯で覆われている為、実際に眉が寄せられたのを見たわけではない。顔の筋肉の動きから、眉が寄せられたであろうことが分かっただけだ。
「用件は分かった。んで?」
腰に手を当て、サイトーがさり気無く剣の柄に右手を近付けて警戒を露にする。
が、一応話は聞いてくれる心算らしく、それ以上のアクションは起こさずにいてくれた。
「まず昨日、助力してくれた事に感謝を」
言葉と共にタバサはサイトーに向けて頭を下げた。
「そしてその後、貴方に杖を向けてしまった事に謝罪を」
そしてもう一度、頭を下げる。
彼は謝罪を受けてくれるだろうか。
タバサはサイトーをじっと見詰めた。サイトーもこちらを見返し、しかし何も答えずに沈黙を保つ。
一秒、二秒、三秒……
そのまま十秒ほど経っただろうか、サイトーは何かに気付いたように表情を変え、唐突に言葉を紡いだ。
「あー、そう云うことね」
"そういうこと"とは如何いうことだろう。タバサは思わず首を傾げたが、サイトーがそれを教えてくれる様子はない。
一人で勝手に何度か頷くと、サイトーは気楽な様子で手を振った。
「了解だ、お姫様。謝罪を受け入れよう」
謝罪を受け入れてくれた事は、素直に喜ばしいことだと思う。
しかし、"お姫様"という言葉にタバサの胸が少し痛んだ。
その呼ばれ方は好きではない。
過去の自分を、幸せなあの頃の思い出を、そして"あの日"の光景を、まざまざと思い出してしまうから。
今の自分をどれだけ強固な殻で覆っても、過去の自分は柔らかいままで、容易く傷付けられてしまうことを知っているから。
「タバサ」
だから"彼女"は名乗りを上げた。
今の自分は"タバサ"なのだ。過去の"シャルロット"という名の無力な少女ではない。
冷たく氷のような意志と、吹き荒ぶ風のような激情を内に秘めた、復讐という名の"人形"なのだ。
「二つ名は"雪風"。雪風のタバサ」
二つ名の如き温度のない瞳と、二つ名の如き白一色の無表情で、タバサはしっかと前を見据えた。