新築なったばかりの禅師の個人宿舎。
先日、学院にやってきたヴァリエール家の建築メイジと職人たちが、宝物庫の壁を修理するついでにアッという間に建設していった建物で、教師の寮棟に隣接した位置にある。
禅師が晩の瞑想を行っていると、戸外になにやら人の気配がする。禅師が瞑想を解き、外の物音に耳をすませていると、人の気配が二人に増え、やがてほとほとと、戸をたたく音がした。
禅師が戸をあけると、たずねてきたのはルイズ。スカートのかわりに乗馬ズボンをはき、何かを詰めた背嚢をせおっている。背後には、同じく旅装に身を固めたギーシュも控えていた。
※ ※
「つまり、君たち、王女殿下の密命でアルビオンに行く、と」
「ええ」
ルイズはさきほどアンリエッタの訪問を受け、アルビオンの皇太子ウェールズ大公(プリンス・オブ・ウェールズ)の手元にアンリエッタのしたためた書簡がある。ルイズとギーシュはその書簡をウェールズ大公から取り戻すためアルビオンに赴くよう「依頼」された。アンリエッタは書簡の内容をルイズに明言はしなかったが、その書簡がもしレコン・キスタの手に入り、文面が公開でもされようものなら、ゲルマニアの皇帝は激怒してアンリエッタとの婚約を破棄し、トリステインとの同盟を破棄しようというほどの内容だという……。
一通りの説明を聞き終えると、禅師は言った。
「ふたつほど、腑に落ちない点がある」
「はい」
「ゲルマニアとの決裂を回避するための重要書類の回収なんて大事な任務に、なぜ君やミスタ・グラモンのような素人が?」
「……。」
「いま、アルビオンは内戦状態なのだってね?」
「ええ」
ブリミルの長男ロタールを祖とするアルビオンの王家、チューダー家に反旗を翻した貴族たちの連盟レコン・キスタ。
いまや王家を国土の片隅に追いつめ、アルビオン全土を掌握する勢いである。
「ならば、その書簡の回収に確実を期すならば、優秀な軍人なり、諜報員を送り込むべきなのに……」
「そ、それは、……」
そりゃあ、トリステインが国家として書簡の回収に動くならば、優秀な人材はいくらでもあるだろう。しかしさきほどアンリエッタがルイズの部屋を訪れたのは、宰相マザリーニにさえ内緒の行動だった。現時点でのアンリエッタは、まさに籠の鳥。自由に動かせる手駒なんか持っちゃいない。アンリエッタが宰相マザリーニにも知られず、何か頼めるとしたら、ほんとに「懐かしいおともだち」のルイズくらいしか頼るあてはないのだ。
「……ひ、姫さまにの身の回りには、ほんとに信頼できる人材がいないのです」
そんなアンリエッタの事情など知らない禅師は思う。
(そんな重要任務を素人の学生に担わせようとは、トリステインはいったいなにを考えている?)
ルイズも知らないのか、禅師に対して伏せようとしているのか……。
「もう一点。その王女殿下の書簡というのはどんな内容なのだろう?国家の命運がかかっているとのことだが、ならばなぜ手だれではなく素人学生の派遣ですまそうとしているのか。その書簡というのは、本当に、国家の命運を左右するようなものなのだろうか?」
ルイズは目を見開いたまま、しばらくもじもじしていたが、答えた。
「……おそらくは、姫様がウェールズさまに宛てた恋文なのではないかと」
「……恋文?」
その恋文が、ゲルマニアの皇帝を怒らせ、同盟の破棄を決意させると?
「まさか、王女殿下は、ゲルマニア皇帝との婚約が決まったあとにもアルビオンの太子に恋文を送り続けていたとか?」
「とんでもない!」
アンリエッタがウェールズと最後に会ったのは、数年前ラグドリアン湖畔でハルケギニア各国の王族・貴族を招いた大園遊会が開催された時のこと。その時二人は恋に落ちたが、ふたりとも常に動向を家臣たちに見はられている日常とて、文通すらままならない有様だ。
「たぶん、姫さまは文面の中で永遠の愛を始祖ブリミルにお誓いになられたのかと」
……となると、せいぜいが、幼い恋の若気の至りにしかすぎないではないか。
「……それが、なぜいまさら王女殿下の婚約や同盟を破棄する原因に?」
「始祖への愛の誓いはうかつに立てるものではないんです。それこそ結婚式での誓いのことばに用いるもので、ほんとうは軽々しく使えるものじゃないんです」
「ふむ……」
禅師はうなずくが、それにしたって納得できない。
この手紙が現実に問題となるとすれば、ゲルマニア側が何らかの理由でトリステインとの軍事同盟やトリステイン王家との婚姻をとりやめる口実に利用する場合、あるいはアンリエッタが自ら公然と「自分の愛は手紙の通り今でもウェールズにある」と宣言した場合に限られる。トリステインとゲルマニアの両国が一致してこの手紙をニセモノだとみなすことにしたならば、レコン・キスタが手紙の実物を入手して振りかざしたとしても、何の価値もない……。
「ならば、同盟の締結を妨害させないために王女殿下が真っ先にまずなすべきことは、ゲルマニアの皇帝どのに手紙の存在を伝えた上で、これをニセモノとして扱ってくれるよう頼むことなのではないかな?」
とたんにルイズは視線を泳がせ、禅師から顔を背ける。
20世紀なかばのチベットは、上は貴族から下は庶民に至るまで、結婚というものは、本人の意思や希望などろくにかえりみられることなく、家と家との釣り合いを考えて家長が定める社会であった。禅師は出家の身とて自分自身の経験はないが、仲良くしていた同年代の貴族や使用人の少年少女たちが、親が定めた縁組みに、いうなりに従っていった模様を何組も見ている。
ルイズの様子をみて、禅師はピンと来た。
(トリステインの王女殿下は、本心では今でもゲルマニア皇帝との縁組みに乗り気ではなく、ルイズもそれに同情的だ。「同盟の破棄を防ぐため昔の恋文を回収する」というのは口実にすぎない。ルイズが選ばれたのは、国家として派遣する使者にだったら託すことのできないような内容のことづてを、アルビオンの太子どのに伝えさせるためだな)
「事情はわかった。それで君たちは、二人だけで出立するつもりだったのかな?」
ルイズとギーシュは、すっかり旅装で身を固めてから禅師の宿舎にやってきた。一緒に行くつもりだったら、まず禅師に告げてから旅支度に取りかかっていただろう。
ルイズが答える。
「ええ。一国の王様でいらっしゃる禅師様をハルケギニアの内輪もめに巻き込むなんて申し訳ないですし……」
「私はたしかに荒事むきではないけれど、いまさらそんな遠慮は無用だ。万一、君になにかあって私だけこの世界で生き残っても、なんの意味もないんだからね」
禅師のことばを聞いてルイズがさっと頬を染めるが、禅師は気がつかない。ギーシュは禅師が「一国の王」だとはじめて聞いて目をむいている。
禅師はふたりにルーンを見せながら行った。
「私も同行するよ。こいつの力で足手まといにはならないだろう」
禅師は考える。トリステインは王家側に同情的とはいえ、内戦の当事者たちのいずれにも加担していない中立国で、ルイズもギーシュもその有力な門閥の子弟である。アルビオン内戦を戦う両当事者のいずれも、彼らをそうと知って無下にあつかうこともあるまい。王女殿下が依頼した恋文の回収なんて任務は、成功しなくたってよい。二人が戦場のまっただ中に突っ込むような無茶を避け、無事に戻れるよう努めればよい……。
禅師は手早く身支度をととのえ、払暁をまたずにただちに出立した。
厩舎のそばで、ルイズがギーシュの使い魔・ジャイアントモールのヴェルダンテに押し倒されたりしたのはお約束である。
※ ※
ルイズに書簡の回収を依頼したアンリエッタは、こっそりと今宵の宿舎である学院の貴賓室に戻ったところで、仁王立ちで待ち構えていた宰相マザリーニと直面することになった。
どこで、誰と、何をしていたのか。
アンリエッタは、マザリーニの厳しい追及にも頑として口をつぐんでいたが、深更にいたるまで5時間にわたり責められ続けるに及んで、ついに根負けし、ルイズにウェールズ太子宛書簡の回収を依頼したことを告白した。
マザリーニは天を仰いで嘆息したのち、しばし黙考。おもむろに魔法衛士隊グリフォン隊隊長ワルド子爵を呼び寄せ、「ミス・ヴァリエールの身の安全を守ること」を優先順位の第一位としてルイズ一行に同行するよう命じた。
マザリーニの判断は、禅師の推測と同様、書簡そのものについては、事前にゲルマニアとしっかり根回しができていれば、レコン・キスタの手におちて公表されようと致命的ではない。それよりもルイズの身になにかあったときに、娘を溺愛するヴァリエール公爵が激怒し、なにか不穏な行動に踏み切ることを避ける、というものであった。
※ ※
ルイズ・禅師・ギーシュの一行が夜陰に乗じアルビオンにむけて旅だってから十数ヶ月後のこと。
ルイズはこの旅のことを、改めて思い返していた。
ルイズたちが「アンリエッタの書簡回収」という任務をそれなりに果たしてトリステインに帰還した直後、チューダー王家はいったん滅亡し、レコン・キスタがアルビオンの政権を握った。
レコン・キスタは親善使節団を装った艦隊によってトリステインに奇襲をかけるが、失敗。アンリエッタとアルブレヒト三世の結婚によって成立したトリステイン・ゲルマニア連合帝国は、その報復として大遠征軍を組織してアルビオンに逆侵攻した。
連合帝国の遠征軍は、破竹の勢いで進撃するが、圧倒的に優位な戦況において突如謎の崩壊をとげ、兵力の4割と大量の装備・糧秣を失って大陸に逃げ戻った。ところがレコン・キスタはその直後、「議長」である「神聖皇帝クロムウェル」を解任し、「ホワイトヘイヴン卿ヴェネッサ」なる女性を新たな議長に据えた。ヴェネッサは自身を「アルビオン王国宰相」と自称し、「虚無の担い手」にして「始祖の再来」だという「プリンセス・オブ・モード(モード大公女)」なる姫君をどこからか連れてきて、「この姫君を女王に即位させ、チューダー王朝を復活させる」と宣言した。
ゲルマニア・トリステイン連合帝国の遠征軍が命からがら撤退してからわずか5日での早業である。ガリア、ロマリアが干渉する余地もなかった。
ところでこのヴェネッサなる女性の正体は、なんとルイズなのである。
激動の十数ヶ月のはてにルイズ自身もまったく思いもよらぬ結果となったのだが、そのはじまりは、アンリエッタに命じられたこのアルビオン行きであった。
戦乱がひとまずおさまって初めて過去を振り返ったルイズは、自分自身と「使い魔」の禅師が最も危険であったのは、この最初のアルビオン行きであったと思った。
(わたし、この旅の時はまだ神通力も身に付けてないし、虚無にも目覚めていなかったしね……)
アルビオン宰相ヴェネッサとして、ルイズは決断した。
「護衛を送りましょう」
さっそく神通力を用いて護衛を召喚した。
八人の女神が現れた。
彼女たちの名はカンドーマ。
梵(サンスクリット)名はダーキニー。
空行母と漢訳され、もともとはインドの人食い魔女であったが、仏教に帰依し、護法尊となった女神である。日本にも京都市の伏見稲荷大社や愛知県豊川市の妙厳寺(豊川稲荷)など、この女神をメインに祀る神社仏閣がある。
ルイズは虚無魔法“世界扉(ワールドドア)”によってゲートを開くと、カンドーマたちに祷(いの)った。
(過去に渡り、むかしの私と禅師さまをお守りくださいませ)
カンドーマたちはうなずいてルイズの祷りを受け入れると、ルイズが捧げた供物をうけとってバリバリと噛み砕いて食べたのち、ゲートをくぐって姿を消した。
このルイズ自身も、未来の自分から送られてきたカンドーマたちにずいぶんと助けられていた。
(だから、きっと彼女たちもうまくやってくれるでしょう)