ルイズはその日、城の中庭にある池に浮かぶボートに寝ころび、一人空を眺めていた。
前日にカトレアに叱られて以来どうも魔法の練習に身が入らず、今はここでさぼっている。身が入らないというのはそれ以前からかも知れないが。
昨日ルイズの事をラ・ヴァリエールの"虚無"と呼んだ少女は隣の領の宿敵フォン・ツェルプストーの令嬢でキュルケと言うらしい。火のメイジとして既にかなりの使い手で、カトレアが無頼に絡まれていたところを助けてくれたという恩人だそうだ。
自分より二歳年上だというキュルケの、どこかこちらを小馬鹿にしたような目を思い出してルイズは身を起こした。
「ふんだ。火のメイジが何よ、私は"虚無"よ。杖を交わしたら負けないんだから……《エオルー・スーヌ・フィル・ヤルンサクサ――》」
呪文を唱え、杖を振ると同時に池の水面が激しく爆ぜた。いつもより大きめの『爆発』で、身が入らない事と魔法の威力とは関連性がないようだ。
唱えた虚無の呪文はルイズが独自に魔力子の波動を聞く事により解明したものだ。『ディテクト・マジック』をかけたまま『爆発』をイメージするとルイズの思いに呼応して世界が揺らぐ。その揺らぎを魔力子の波動として捉える事が出来た時、ルイズはそれが虚無の呪文である事を理解した。その波動をルイズは虚無の歌と呼ぶ事にしたが、最近の研究ではこの呪文にはまだ続きがあるらしい事が分かっている。普通の呪文とは違って途中まででも魔法が発動するし、呪文が長くなればなるだけ威力が増す事も分かっている。虚無の呪文独特のこの特性にはウォルフもとても興味を持っていたが、ルイズとしても今後もどんどん調べていくつもりだ。
「ルイズ様ー、ルイズ様ー」
「あん、なによもう、今集中しようとしたところなのにぃ……」
呪文の続きを調べるために杖を構えていたルイズの集中は、彼女を探しに来たメイドによって遮られた。
「ルイズ様、こちらでしたか。仕立屋が到着しました。ドレスを新調いたしますので採寸をなさって下さい」
「あら、新しいドレス作るの? パーティーなんて有ったかしら?」
「来週、エレオノール様がお戻りになるので、近隣の独身貴族を招いた小規模な宴を開くそうでございます」
「エエエエレ、エレオノール姉さまが? なななんでよ、研究が忙しいって言ってたじゃない」
小舟から岸へ上がりつつ、メイドの言葉に驚いて問い質す。エレオノールが帰ってくるというのは彼女にとって重大ニュースだ。
「その研究をこちらでなさるそうで、暫く滞在するとの事でした」
「そんなあ……あれ? 姉さまって婚約者の方がいらっしゃるのに、何でそんなパーティーが必要なの? 婚約者の方もいらっしゃるの?」
「そのような婚約はございませんでした」
「え?」
メイドは多少強張りつつも無表情に答える。ルイズの記憶では先日確かに二度目の婚約が成立したと聞いたばかりなのだが。
「そのような婚約はございませんでした。これは最重要の連絡事項としてメイドの間では徹底的に周知されております」
「そそそ、そう。私の勘違いだったようね。……ありがとう、命拾いしたわ」
「いいえ。さあ、まいりましょう。今回仕立屋が新たな仕入れ先を開拓したとのことで、素敵な色の布を沢山持ち込んでいるのですよ」
「ふふふ、ドレスなんかもうどうでもいい気分だわ……ふう、暫くってどれくらいなのかしら……」
力ない足取りで屋内へと戻る。ルイズにとってエレオノールは母親以上に鬼門と言える存在だった。
それから一週間ルイズは気の重い日々を過ごし、いよいよエレオノールがラ・ヴァリエールに帰ってきた。
父親譲りの金髪に母親によく似た細身の体はピンと背筋が伸び、しゃきしゃきと歩く姿は威厳がある。ルイズは出迎えの列に並び、緊張を高めていた。
「お父様、お母様、エレオノールただ今戻りました」
「うむ、健康そうで何よりだ。今夜はパーティーを用意している。楽しみなさい」
「はい、楽しみにしています。トリスタニアでは仕事関係のパーティーが多くて気疲れするばかりでしたので、息抜きさせていただきます」
「そうすると良い。ところで、どうだった。例の件だが、何か有用な資料は見つかったのか?」
「いえ、何せ古いものが多く、何が有用で何が有用でないのか分からないのが現状です。一応貸し出しが可能なものは借りてきましたので、色々と試してみたいと思います」
「うむ、頼む。我が家では今のところ何も見つかっていないのでな」
「こうなってみると、あなたが魔法研究職に就いていたのは幸運でした。私からも頼みましたよ」
「はい、お母様。アルビオンの子供などに後れを取ったままではいられませんもの。あらロラン、大きくなったわねー」
「あーうー」
まずは両親に挨拶をし、ついでに末の弟の頬をくすぐる。エレオノールが暫く帰っていなかった間に弟は随分と大きくなったように見える。
差し出したエレオノールの指を握ってきたロランを暫くあやし、次にカトレアの前へ移動した。手紙ではやりとりしていたが、彼女が健康になってからは初めて会う。
久方ぶりの妹は随分と溌剌としていて、もう病人の頃の儚げな様子はない。本当に健康になったことを実感したエレオノールは目を潤ませながら声を掛けた。
「カトレア……本当に健康になったのね、あなた」
「お帰りなさい、姉様。うふふ、毎日お城の外にお出かけしていますし、御飯だって最近は家族で一番食べているのですよ?」
「それは何よりね。でも、気をつけた方が良いのではなくて? あんなに少ししか食べていなかったあなたが急にそんなに食べるようになると太ってしまいそうよ」
「それが、よく歩くようになったせいか筋肉が増えたみたいでウェストや手足はかえって締まりましたのよ。胸は、少し太ってしまったようですが」
「それは……良かったわね。あなたが健康になって嬉しいわ」
確かにカトレアのナイスバディには一層磨きが掛かっていて、トリスタニアでもまず滅多にお目にかかれないようなプロポーションになっている。これまでは体を締め付けないゆったりとした服を着ている事が多かったが、今はウェストを絞った貴族らしい服装となっているのでそのメリハリの利いたボディラインがよく分かってしまう。
それに対してエレオノールは母親に似ていてよく言えばスレンダー、大雑把に言えば平たい体型だ。エレオノールが三つ年下のこの妹に抜かれた十四歳の夏を忘れる事は無い。「胸は太るとは言わないわよ!」と叫びたいのを堪えるのに多大な精神力を要した。
何とか気を落ち着かせても、気を抜くとつい「爆発しろ」とか呟いてしまいそうだ。もうそのカトレアの胸で膨らむ見事なものにはなるべく視線を向けないようにして次に移る。出迎えた家族達の最後に並ぶのは下の妹のルイズだ。
「お、お帰りなさい、姉さま」
「ルイズ……」
小さいルイズ。ちびルイズ。長らく系統の判明していなかったこの妹が、実はハルケギニアでは既に失われたと思われていた系統・虚無だと言う。
最初に手紙で知らされた時は何を馬鹿なと本気にしなかったが、その後両親共に信じているようなので認めざるを得なかった。既に王家にも密かにその可能性は伝えられており、あの両親が確信もなくそんな事をするはずはないからだ。
まだ公にはされていないが、今回エレオノールが研究所を休んでこちらに来たのも、形式的には王家の依頼による特命の魔法研究となっている。
いつものように鯱張っているルイズを目の前にすると、とてもそんな大層なメイジには見えないが。
「あなたの魔法については後で見せて貰うわ。……いいえ、後でだけではないわね。今日からずっと、二人で、みっちりと納得するまで魔法の研究よ」
「え? ええっ!?」
エレオノール帰郷の目的を知らされていなかったルイズはきょろきょろと周囲に目をやるが、両親も、優しい姉も、何故かロランまで頷いていて、既にエレオノールとのマンツーマン魔法レッスンは決定事項のようだった。
「ああああの、その、私の系統は特殊なので姉さまと言えど詳しくはないのじゃないかな、なんて思うのですが」
「アルビオンの子供が指導できるものを、アカデミーに勤めるこの私が指導できないとでも言うのですか?」
「ととと、とんでもないです。あの、それでみっちりってどの程度……」
「研究中の日課については計画表を作ってきました」
ルイズの前に立つエレオノールが手を横に差し出すと侍従がそこに羊皮紙の巻物を置いた。エレオノールは優雅な手つきでそれをほどくとルイズの前に示す。
「正しい研究は正しい生活から生まれます。私の指導下に入ったからにはこの予定通りきっちりと生活して貰いますからね」
示された予定表に目を通したルイズは目の前が真っ暗になった気がした。
彼女の今の気持ちを一言で表すのなら絶望と表現することができる。その予定によれば、ルイズは朝の六時から夜の八時まで毎日エレオノールと一緒に過ごす事になる。一日中研究やら鍛錬やらが入れられている上に夜の八時から十時までも「自己研鑽」とか書いてあって、どうやら寝る時間以外は魔法漬けにされるらしい。
「こっこっこ……」
「系統が判明してからこれまでどのような日課を行っていたのかも後でレポートにして提出しなさい。嘘を吐くと酷いわよ?」
「こ、これ本気……?」
「ええ、勿論。あなたの系統が本当だとしたら、それは大きな責任を伴うものよ。怠惰な生活をしていて負えるようなものではないわ」
さも当然というように返される。ルイズはこんな時に貧血になって倒れてしまう事が出来ない、健康な自分の体を恨んだ。
エレオノールが帰ったこの夜は盛大なパーティーとなった。現在ラ・ヴァリエールには二十二歳と十九歳の結婚適齢期の美しい娘が二人もいる訳で、周辺の若い男性貴族が大勢集まった。二人とも若く美しく健康で、別に跡継ぎも生まれているので面倒な事もなく、ラ・ヴァリエールはトリステインでも一、二を争う名家で金持ちだ。結婚を希望する貴族は多い。
特にこれまで病気だったためにこの夜がパーティーデビューとなったカトレアの人気は凄まじく、すっかり本来主役だったはずのエレオノールを食ってしまっていた。これまで魔法学院にも行かず、二女がいるらしいと言う噂だけだったカトレアが優しげな美女で巨乳だったのだ、色めき立つ男達が多かったのも当然だったろう。パーティーはカトレアを中心として大いに盛り上がった。
「ルイズ、もう下がるのか」
「はい、父さま。明日の朝は早いらしいですし。姉さまがあの様子だとどうなるのか分かりませんが」
「む、ちょっと飲み過ぎのようだな。まあ良い、今夜は無礼講だ」
パーティーの終盤、下がろうとしたルイズにラ・ヴァリエール公爵が声を掛けた。エレオノールの方を見ると随分と酔っぱらっているのか周囲の男性貴族達と威勢良くなにやら議論している。給仕からボトルを奪い取り、手酌でグラスにドバドバワインを注いでいる娘の姿から公爵はそっと視線を逸らし、見なかった事にした。
「姉さまがあんなに酔っぱらっているのを初めて見ました」
「まあ、ストレスが溜まっていたらしいからな。勤め人というのはそんなもんだ」
「姉さまったら今はあんなだけど、さっきまでバーガンディ伯爵が側にいた時はとてもお淑やかだったのよ」
「ふむ、脈があるのかも知れないな。バーガンディ伯爵はカトレアの方に興味があるみたいだが。……ところでルイズ。今まで話す機会がなかったが丁度良いから今話しておこう。……ワルド子爵にも招待状を送ったのだが今回は忙しいとの事で来られなかった」
「はい」
ワルド子爵というのは一応ルイズの婚約者だった、ラ・ヴァリエール公爵からすると亡き親友の息子という関係の貴族だ。現在魔法衛士隊に勤めている彼との婚約はルイズが虚無と判明して速攻で解消した。幾分一方的になってしまったこちらの申し込みを特に文句を言うでもなく受け入れた彼に対し、公爵は幾分かの負い目を感じており、今回丁寧に持てなそうと考えていたのだがそれは実現しなかった。
「一応カトレアとならこちらも受け入れる準備があると打診してみたが、身分が釣り合わないとの事で断ってきた。ジャン=ジャックは父親に似た真面目な男だ。どうもお前との事も彼は本気にはしていなかったようだな」
ルイズは黙って頷く。そもそも婚約と言っても父親同士が飲んでる席で交わしたようなものだ。
「彼とは縁がなかったが、この先お前の将来がどのようになるのかは全く見通しが立たん。覚悟をしておけ」
「私はもう、小さな子供じゃあないわ。ワルド様は小さな頃の憧れだっただけ……貴族の娘として、虚無のメイジとして自分に課せられた義務は理解しています」
「それなら良いんだ……おやすみ」
「お休みなさい、父さま」
公爵に挨拶して自室へ戻る。その脳裏にはもうワルド子爵の事など浮かんではいない。
彼女の初恋は虚無に目覚めた時に終わっている。もし、魔法が使えないままだったとしたら、ワルド子爵と結婚する未来もあったのかしらと考える事はあったが、今更魔法が使えないメイジに戻る事など考えたくもない。虚無のメイジとして生きていく道しかルイズにはないのだ。
翌早朝、ルイズは部屋に侵入してきたエレオノールにたたき起こされ、いや、つねり起こされた。
「ちびルイズ。あれだけ言ったのに時間になってもグースカ寝てるってのは一体どういう神経なのかしら?」
「いひゃい、ねえひゃま、いひゃいでふ」
ふかふかの暖かな布団の中で幸せにまどろんでいたというのに、暴虐な侵入者はその布団をはぎ取りルイズを朝の冷気にさらし、頬をつねって引きずり起こした。昨夜あれほど摂取していたアルコールも彼女を止める事は出来なかったらしい。
「本当にあなたの頬は良く伸びるわねえ。ホラさっさと顔を洗ってらっしゃい。朝食前のレッスンを始めるわよ」
「うー、姉ひゃま、酷いです」
頬を解放されたルイズは目の端に涙を浮かべてエレオノールを睨んだが、洗面所を指さされてすごすごと移動する。昔からルイズがこの姉に逆らえた事など無い。
洗面や着替えを済ませたルイズが連れ出されたのは城の中庭。ボートを浮かべる池まであるここはとても広く、魔法の練習には適していた。
「さあ、ルイズ。あなたが会得したという虚無魔法を見せてご覧なさい」
「はは、はい、わかりました」
エレオノールが見ている前でルイズは一つ深呼吸すると杖を構えた。彼女が使える虚無魔法などまだ一つしかない――『爆発』だ。
「じゃあ、いきます。《エクスプロージョン》」
ルイズがゆったりとした構えから歌うように呪文を紡ぎ、杖を振ると目標にした石が爆ぜ飛んだ。間違いなくそれは虚無魔法なのだが、エレオノールから見るとこれまでの失敗魔法と何ら変わりがない爆発のように思えた。
「ルイズ。まさかとは思うけど、これまでの失敗魔法を虚無魔法と呼ぶようにしただけ、とは言わないわよね?」
「なっ、ちゃんと呪文を唱えたわ! この呪文は私が『ディテクトマジック』で調べた虚無の呪文なのよ」
「うーん、適当に言ってるだけじゃあないのかしら。じゃあ『働く女性こそ美しい』と唱えながら杖を振ってみなさい。あなたならそれでも爆発が起こるかも知れないわ」
「え゛、何その呪文」
「早くやってみなさい『働く女性こそ美しい』!」
「は、『働く女性こそ美しい』?」
「うん? 何も起きないわね。じゃあ今度は『理性と知性は女性の美徳』!」
「『理性と知性は女性の美徳』姉さま何かあったの? なんか怖いわ」
「何もないわよ。っていうか何もなかったのよ! もう一度! 嫌な事を全てを吹き飛ばすイメージで『理性と知性は女性の美徳』はいっ!」
「『理性と知性は女性の美徳』! 姉さまこれなんか嫌なんですけど」
「世の中には『女性は男性に愛される為にのみ努力すべき』とか言う男性貴族もいるのよ。そういう馬鹿共を全て吹き飛ばすつもりでもう一度! 『理性と知性は女性の美徳』!」
「り、『理性と知性は女性の美徳』!」
「爆発しろおっ!」
「『爆発しろ』!」
「……成る程、何も起きない、と。確かに適当に言っている訳では無さそうね」
エレオノールが適当に作った呪いの文句をルイズに詠唱させて杖を振らせても何も起こらなかった。もう一度今度は虚無の呪文で『爆発』を起こさせ、メモを取る。それは他の系統とは全く共通項のない呪文だった。
続いてコモンマジックである『レビテーション』と『ライト』をやって見せたが相変わらずエレオノールの気には召さないようで、その眉は開かない。顰め面のままメモを取り、時折ルイズに質問するだけだ。『レビテーション』は『グラビトン・コントロール』と『念力』とを組み合わせた普通に近いイメージのものだったし、『ライト』はこれ見よがしに七色に光らせてみたのだが。
「ふう、じゃあこの辺にしておきましょう」
「はーい……」
ルイズにとって居心地の悪いレッスンがようやく終わった。また朝食後にすぐ始めるそうだが。
朝食後のレッスンではエレオノールの私室でウォルフから教わった魔法理論を一から説明させられた。魔力素や魔力子について話している間中エレオノールは眉を顰めっぱなしで度々口を挟む。
一々説明する度に否定的な事を言われてルイズも楽しいはずもなく、レッスンは険悪な雰囲気となっていった。
「成る程。ブリミル様の粒理論を発展した考えを基本にしているのね? ブリミル様がこの世界を構成する『小さな粒』について言及している事は確かだわ。でもそれは概念的なものだというのが今の学説の主流となっていて、ちょっとその考えは異端だわね。魔法を引き起こすのはメイジの精神力なのよ?」
「……でも、ウォルフの言う通りにしたら魔法が出来たもん」
「ルイズ。あなたはアルビオンの子供の言う事と、トリステインのアカデミーの結論とどちらを信じるの? 魔法の理論が多少間違っていても魔法が発動してしまう事はよくある事なの」
「アカデミー出身の先生もいたけれど、魔法を使えるようにはしてくれなかったわ。アカデミーって日頃どんな研究しているの?」
「む、それは……」
大人しく言う事を聞くかと思っていたルイズに聞き返され、思わずエレオノールは口ごもる。
アカデミーの次席研究員である彼女の現在の研究テーマは「より美しい聖像を作る原料土の選別と精製の為の魔法の研究」だ。どこからも異端だとは非難される事が無いだろう立派な研究だとは思っているが、ルイズの魔法には役に立ちそうもないのは確かだ。
「その先生は私が虚無だって事は分からなかったけど、ウォルフはすぐに分かったわ。アカデミーは虚無魔法には詳しくないんでしょ?」
「ルイズ、いい? あなたが虚無のメイジだという事はまだアカデミーでは認められていないわ。まずは私が詳しく調べ、その後主席研究員の人達が来て判定する事になっています。あなたは余計な事は考えず言われた通りのことをやりなさい。もし、あなたの魔法がアカデミーに認められなかったりしたら……おお! 恐ろしい」
エレオノールは今回の知らせを受け、トリスタニアで調べられる事は調べてからラ・ヴァリエールに来たが、調べた内でもガンダーラ商会についてはとんでもない事ばかりが判明した。
下品で野蛮な成り上がりの商人という噂だけなら良い。そんなのは成り上がった商人には勲章とも言える陰口だろう。エレオノールが戦慄したのはガンダーラ商会が商売に利用している魔法技術だ。
始祖の奇跡たる魔法を馬車の馬の代わりに使い、始祖の時代にはなかった素材を開発し、からくりでものを作ったりしているという。いずれもトリステインでは異端と言われかねないきわどい行為だ。
アカデミーは魔法研究所と銘打ってはいるが、そんな実用的な魔法を研究する事はない。大抵は始祖の奇跡である魔法の権威を高めるための研究がなされており、そんな実用魔法の研究など異端と呼ばれてまず許可されない。
「だから、あなたの立場は現在『虚無である可能性のあるメイジ』よ。自分から虚無だ虚無だなどと吹聴しないでちょうだい」
「私、虚無の歌聞いたもん」
「ルイズッ! 」
「私虚無だもん! 信じないなら信じないで良いわよ!」
「ああ、あなたがこんな反抗的になるなんて、よっぽどそのアルビオン人に悪い影響を受けたのね。お父様もなんでそんな子にルイズを会わせたのかしら」
「何も知らないくせにウォルフの事まで悪く言わないで。姉さまの馬鹿っ! もう知らない!」
「あ、こら待ちなさい!」
エレオノールは額に手を当てて困った様子で言うが、ウォルフの事まで否定されてとうとうルイズは我慢できなくなった。踵を返すとエレオノールの部屋から飛び出した。
彼女がこんな時に逃げ込む場所は城内に二カ所ある。今回はカトレアの部屋へと飛び込んだ。
「あらルイズ、どうしたの?」
「ちいねえさま! 聞いて下さい、エレオノール姉さまったら非道いんですっ……て、これ何やってらっしゃるの?」
息せき切って走り込んだ室内には多くの使用人達が立ち働いていて、カトレアもなにやらタンスの中のものをトランクに詰め込んでいる。まるで引っ越しでもするかのようなその様子にルイズは怪訝そうに尋ねた。
「ちょっとこのお城を出て行く事になったの。ブーリの代官屋敷……いえ、もう領主の館ね。あそこに住む事にしたから、あなたもいつでも会いに来てね」
「ちいねえさま、何で……?」
ブーリまでは近いとは言え二十リーグ程はある。まだ子供のルイズにとって気楽に出かけられる距離ではない。
「ちょっとお父様と喧嘩しちゃってね、出てけって言われちゃったのよ。大丈夫、みんな付いてきてくれるって言うし、困る事はないわ」
「ええっ!? そんな」
カトレアはいたずらが見つかった時のようにちょろっと舌を出して言うが、とてもそんな気楽な状況には思えない。これまでカトレアの世話をしていた家臣達や護衛は付いて行くみたいだが、異常事態である事は間違いないだろう。
何より、エレオノールが帰ってきたとたんにカトレアが出て行くというその不幸に、ルイズはまた目の前が真っ暗になったように感じるのだった。