ザワザワと、夜の風を受けて大きな木々が不気味な音を立てる森の中。ジャック・ライリーとの戦いが始まって二十分以上が経過していたが、圧倒的に不利な状況の中、ニコラスはまだなんとか立っていた。
「はっはっは、何時まで躱せるかな? 《ウィンディ・アイシクル》!」
「くそっ、景気よく撃ちやがって……」
痛む左足を軸にして次々に襲いかかる魔法攻撃を何とか躱し、時折反撃を試みている。相手はとにかく魔法の数量で相手を圧倒してくるというどこかで見た事があるようなタイプのメイジ。絶望的な状況にもかかわらずニコラスが冷静さを保てるのは豊富な経験のおかげだろう。
しかし、そろそろ本気で精神力が無くなりそうだ。ニコラスはアンネが逃げた距離を計算して撤退する事を考え始めた。二十分あればセグロッドに不慣れなアンネでもそこそこ移動できる。十リーグも先行して逃げられれば、まず安全圏に達したと思って良いはずだった。
「そらそら、動きが鈍くなってきたぞ、《エア・カッター》」
「おい、苦しませずに殺してくれるって話じゃなかったか?」
まだギリギリで躱しているが、既にかなりの数の魔法がニコラスを掠めていて、もうあちこち血塗れだ。心底楽しそうにニコラスを痛めつけるジャック・ライリーに文句をつけるが状況は何も変わらない。
しかしこいつは確かに魔法の才能には恵まれているのだが、ニコラスから見ると体捌きなどはまだまだ修練の余地がある。このタイプのメイジなら、接近してしまえば何とかなりそうだとは思う。この左足さえ自由に動かす事が出来れば、だが。
「何の事だったかな? しかし、今のは巧く躱したなあ。それじゃあ、これはどうだ? 《エア・ハンマー》」
「ぐうっ」
魔法そのものは文句なしのように思える。単にスクウェアだというだけではなく詠唱も早く、杖を構えてから魔法が飛来するまでのタイムラグが少ない。フットワークが思うように出来ないニコラスは『風の槌』を躱しきれずに地面へ転がされた。
「げふっ、ごほっ」
叩き付けられた衝撃で息が詰まり、咽せる。折れた肋から響く激痛に気が遠くなりかけながらも、訓練された肉体は反射的に立ち上がってまた杖を構えた。
「うーん、『エア・ハンマー』じゃあ、大したダメージはないみたいだな。《エア・スピアー》」
「ぐっ、があっ」
ギリギリで躱せたかに思ったが、躱しきれずに風の槍が腕を貫いた。脚が縺れたせいで躱せなかったが、今の魔法は詠唱から発動まで僅かだが間があった。使う魔法によって少し発動が遅くなるメイジは結構いるが、その僅かな違いでもニコラスレベルのメイジには十分に隙となる。体と精神力さえ万全だったなら付け入る事が出来る弱点と言えるが、今はどうしようもない。
「ふふん、お前はよくやったよ、ニコラス・クロード。もう十分だろう」
「知ってるか? そう言うのを死亡フラグって言うらしいぜ」
現状でこのメイジに勝つ事はもう諦めている。ニコラスが目指すのは生きて家族のもとに帰る事、その為だけに最後に残った精神力を振り絞る。
ニコラスにはウォルフと話をしていて可能性を感じてずっと練習してきた魔法がある。四十を過ぎてからそんな初歩の魔法を練習するのは恥ずかしかったけれど、その魔法だけが今この状況からの脱出を可能にすると思えた。
「何?」
「あばよ、クソ野郎。《ライト》!」
「ぐわっ!」
その瞬間、夜の森は強烈な閃光に照らし出された。
強烈な光は人間の視力を奪い一時的に行動不能にする、とウォルフに聞いたことがあったのだ。練習する度に強く光る魔法に興奮し、昼間の太陽と同程度の明るさでも夜の闇に慣れた目を眩ませるには十分なものであると知った。
これがニコラスの用意した最後の手段だ。ずっと持っていたセグロッドを取り出して飛び乗った。後ろは振り向かず、一目散に逃げる、が――。
「《エア・カッター》」
「があっ」
背後から襲いかかった魔法がふくらはぎを切り裂き、ニコラスはセグロッドごと転倒した。
「びっくりしたじゃないか。こんな手を隠し持ってるなんて、中々やるな」
「くそが……大人しく『目がー』とか言ってろよ」
「いやいや、まだ視力は戻ってないぞ、大したものだ。しかし、俺達優れた風のメイジならば、目なんて見えなくたって気配を追えるだろう?」
「……まあな。それでも、動揺して欲しかったものだが」
倒れたままのニコラスにジャック・ライリーがゆっくりと近付いてきて杖を構える。いよいよ絶望的な状況だ。これまでか、とニコラスは目を瞑った。
「う、《ウォーター・シュート》!」
「……《エア・シールド》」
ニコラスの直ぐ横の森から頼りない詠唱と共に、ちょっと勢い強めの水鉄砲がジャック・ライリーに向けて発射された。その攻撃は当然のように風の壁に遮られ、じょぼじょぼと情けない音を立てて地面に落ちる。
「女。これは、何の真似だ? 確かに少し喉が渇いてはいるが」
「ひいっ、あの、水入り?」
木の陰から現れたのはアンネ。ニコラスを庇うようにして前に立ち、ぷるぷる震える杖をジャック・ライリーに向けている。
その姿を認めたニコラスの顔が絶望に染まる。アンネが逃げていなかったのなら、これまで何のために頑張ってきたのか分からない。
「アンネ。逃げろって言っただろう……」
「ご、ごめんなさい。傷だらけのニコラス様をおいて逃げられませんでした……」
「馬鹿やろう……」
「ふん。麗しき愛ってところか? そう言えばお前はどうもエルフじゃあ無いみたいだな」
「はひぃ」
じろりと睨まれてアンネは竦み上がる。何とか隙を突いてニコラスと一緒にセグロッドで逃げようと思っていたのに、もう一歩も動けそうにない。
「エルフじゃないって事は、お前を連れて帰っても俺の立場が悪くなりそうだな。だから……死ね《エア・カッター》」
「ひゃうっ」
「アンネっ!」
スクウェアメイジが殺す気で放った『エア・カッター』がアンネに襲いかかった。アンネは躱す事も出来ず、その場に棒立ちとなったままだ。
「何?」
「……」
血を吹き出して倒れる、いや、上半身と下半身とが泣き別れになるくらいの勢いで放った魔法だというのに、アンネは変わらずそこに立っていた。ジャック・ライリーは訳が分からない。有り得ない事が、今目の前で起きた。どう見てもただのメイドで、特別な装備など何もなく、肩からマントのように羽織っていたままだった黒い布の陰に隠れているだけだと言うのに。
「ニコラス様! 今ですっ!」
「《フライ》!」
「ひゃあーああ」
「っ! 虚無の布か!」
一瞬。ほんの一瞬だけニコラスの方がその特殊な布の存在に気付くのが早かった。アンネの呼びかけに反応したニコラスはなけなしの精神力を振り絞って『フライ』を詠唱し、アンネにタックルするようにして抱きつくと虚無の布ごとジャック・ライリーに突進した。
彼らは詳しくは知らなかったが、古に作られたこの虚無の布には全ての魔法を無効化する本物の虚無魔法『ディスペル』が付与されている。この布に向けてどんな魔法を放っても意味がないのだ。
「あ、うう」
突進してくるアンネとニコラスに、ジャック・ライリーはどう対処して良いのかわからずに棒立ちとなったままだ。彼には魔法を通さない布に通用する魔法攻撃を思いつけなかった。
そのまま三人は衝突し、地面に転がる。一瞬の静寂の後、アンネとニコラスはゆっくりと体を起こしたが、ジャック・ライリーが起き上がる事はなかった。その胸に、コクウォルズ家の紋章が刻まれたナイフが深々と突き刺さっていたからだ。
「いたたたた。こ、怖かったあ……魔法は通さないって聞いていても怖すぎです」
「ア、アンネ、大丈夫か?」
「は、はいニコラス様は大丈夫ですか?」
「ああ、オレは良いから先に、そのクソ野郎にとどめを、頼む」
「えっと、し、死んでる。ニコラス様、この人もう死んでますよ!」
「それは、良かった。ちょっと、止血を、お願い…」
「わ、わ、ニコラス様、しっかりー!」
体を起こしてジャック・ライリーの様子を確認しようとしていたニコラスがパッタリと倒れる。出血しすぎたその顔は真っ青だ。
慌ててアンネが治療に当たるが、元々魔法はへたくそなので、止血するのが精一杯だ。そうこうする内に遠くの森で動く追っ手らしき明かりを見つけ、アンネは慌てて『レビテーション』でニコラスを抱え上げた。今度こそ追っ手に見つからないように、森の奥へと進んだ。
後には物言わぬジャック・ライリーの死体が残っているだけだった。
懸賞金の手続きは朝にならないと出来ないのでタニアとの会談を後回しにし、ウォルフがコクウォルズ子爵の屋敷にたどり着いた時、そこで見たのは山狩りにでも出かけようとしている武装した傭兵の集団だった。とりあえず来てみたのだが、屋敷は窓が大きく壊れているし、もうウォルフにとってはビンゴとしか感じられない。飛行機を上空に残して飛び降りた。
「ひいいいっ! なんだお前は、怪しい奴め!」
「ちょっと人を探しているんだけど、アンネはどこ?」
「誰だそれは! 今すぐ立ち去れ、去らねば討つぞ!」
「じゃあ、ニコラス・クロードは? こっちに来てるかと思ったんだけど」
ちょうど門の中で松明を配っているところだった一団に尋問した。ウォルフはちょっと変装しているので過剰に反応されたが、気にしない。森の方を見ると木々の間にもチラチラと松明が見え、もう出発した集団もいるようだ。あまり時間は掛けたくない。
「……こっちが探しているくらいだ。貴様は何者だ、化け物め」
「ふーん、じゃあ、コクウォルズ子爵はどこ?」
相手の視線がちらりと壊された屋敷の方を向いた。
「ありがと。行ってみようかと思うんだけど、ここはとりあえず……《エア・ストーム》」
「うわあっ」
相手に反応する間も与えずにウォルフは杖を振る。そこにいた二十人程の男達は巻き起こった突風に吹き飛ばされた。屋敷も気になるが、アンネ達が山狩りにあっているのだとしたらそっちが危ない。ウォルフは飛行機を呼び寄せると飛び乗り、松明の火を頼りに森に向かった。
「父さん! アンネ! いたら返事してくれ!」
松明が移動していたのでその前方に向けて『拡声』の魔法で呼びかけてみるが反応はない。一団を飛び越しながら『ライト』の魔法を落としてそこにアンネ達がいない事を確認する。ウォルフはとりあえずこの一団も倒しておこうと飛行機を旋回させた。森の中とはいえ上空からなら地面にいる人間などエルラドの良い的でしかない。超音波をフルボリュームであびせて全員を気絶させた。山火事防止のために巨大な『エアハンマー』をその上から叩き付けて松明の火を消火しておくことも忘れない。
「父さん! アンネ!」
一度飛行機から降り、倒した傭兵達の周囲を確認してみたが、やはりアンネ達の姿は無い。上空からもまた呼びかけてみたが、アルビオンの森はあまりに広かった。
むやみに広い森を捜索しても見つかる可能性は低いと判断してコクウォルズ子爵の尋問を優先させる事にした。逃げてからの経過時間や移動方法が分からないと、大まかな推測すら立てられない。屋敷へととって返したウォルフは、歩きながらレーザー銃を取り出した。練習はしたが、ウォルフ本人が実戦に使うのは初めてだ。まずは建物の入り口で守りを固めているいかにも傭兵と言った感じの荒くれ者達がターゲットだ。
「何者だっ! ぎゃあっ」
「あやしいやっ!!」
「な、何だ、えうっ!」
「ひいっ!」
「邪魔だ。『エア・ハンマー』」
進路を遮ろうとしてきた四人程をレーザーで打ち倒し、倒れた体を魔法で吹き飛ばす。屋敷に侵入したウォルフはその後も全く誰もいないのと同じように屋敷の中を進んだ。レーザー銃の使用感としては、ちょっと簡単すぎる印象だ。赤色レーザーで照準もつけているので照準が標的を照らした瞬間に引き金を引けば倒せてしまう。そもそも外すという方が難しいくらいで、あまりにも簡単に敵を倒す事が出来る兵器に作ったウォルフの方が戦慄する。一応出力を落としているのでいきなり命中した場所が爆発するという事はないが、目を焼かれては戦闘を継続する事は難しいだろう。ハルケギニアの魔法技師がこの武器に使っている魔法がただの『ライト』だと知ったら驚愕する事は間違いない。光のコヒーレンスを極限まで高め、高出力の『ライト』が発した光をレンズで集束して照射する。それだけでウォルフはただの照明器具を兵器へと作りかえた。
杖は焼き銃や剣は破壊し、その後もさしたる抵抗はなくウォルフは主人の寝室にたどり着いた。
「ひ、ひいいいい、おい、貴様等俺を守れ!」
「ぐあっ」
「ぎゃあっ」
コクウォルズ子爵の護衛に付いていた二人のメイジも何も出来ずに倒れ伏した。
「話すのは初めてになるね、コクウォルズ子爵。ちょっと、尋ねたい事があるんだけど、いいかな?」
「ば、化け物め! そんな変装をしていても分かるぞ、貴様、ウォルフ・ライエだろう」
「やだなあ、ちょっと老け顔なだけで変装何てしていないよ」
「ハゲでひげが生えてる子供がいるか! ちょっとは考えて変装しろ!」
ウォルフが変装に使用しているのはヴァレンティーニが使っていた顔を変える魔法具だ。特に設定をいじらなかったので四十過ぎの親父の顔がそのまま十一歳の体に乗っかっており、違和感がありありだ。
「まあいいや。攫ってきた女の人はどうしたのかな?」
「知らん! あのエルフはとっくに逃げ出したわ。貴様こんな真似をしてただで済むと思っているのか、ワシはサウスゴータ市議会議員コクウォルズ子爵だぞ!」
「アンネはエルフじゃねーよ。人一人攫っておいて、何言ってんだ、コクウォルズ。自分が今何を言ったのか分かってるのか?」
「……まさか、録音なんてしていないだろうな?」
「してるに決まってるじゃん」
背中のリュックにはおしゃべりアルヴィーが入っている。もちろんこの会話内容は全て録音していた。まあ、もっともこちらも不法行為をしてるので表沙汰に出来るような事ではないが、ウォルフにとっては子爵を断罪するのに十分な証言だ。
「逃げ出したんなら嬉しいけど、森では見つからなかったんだよね。ちょっと念のため家捜ししても良いかな? 何か地下に人の気配がするし」
「くっ、死ね! ぎゃああっ」
コクウォルズが杖を向けたので、レーザーでその杖を燃やしてやった。手にも当たったみたいで床を転がり廻っている子爵の額に照準を合わせたが、思い直して引き金から指を外した。こんな屑など殺したほうが後々面倒が無さそうなのだとは思ったのだが、さすがに貴族を殺すと市議会だけでなくアルビオンという国そのものが表立って敵対してくる可能性がある。それは面倒くさそうだし、アンネ達が無事ならそこまでする程ではない気もするので一旦保留する事にした。
「おい。暫くの間お前の命を預けておく。アンネ達が無事に見つかるように祈っておけよ」
「ひいいいい」
うずくまってヒイヒイ言っている子爵を放置して、逃げだそうとしていたコクウォルズの傭兵らしき男を捕まえて詳しい顛末を聞いてみたら、どうやらニコラスがワイバーンに乗って襲撃したらしいと言う事が分かった。ニコラスは若い頃使い魔の竜を戦闘で失ってから二度と使い魔を召喚するつもりは無いと話していたが、どうやら新たに召喚したものとウォルフは判断した。竜で逃げたとなると捜索対象範囲が広くなりすぎて大変だが、竜騎士が竜を得たのなら安心できる。ニコラスを追っていったワイバーン使いが戻ってこなかったという話も有り、緊急性が幾分低くなったようだ。ウォルフは屋敷内の証言の裏付けと証拠の確保のために屋敷内、特に地下の捜索を優先する事にした。
人が入れそうな空間を見つけては『エア・ハンマー』で壁を吹き飛ばして中を窺い、部屋から部屋へ移動する。屋根裏も地下室もくまなく探したが、アンネもニコラスの姿も見つからなかった。
地下にはやたらと頑丈な牢屋があって、少女が二人監禁されていた。解放しがてら話を聞いてみると盗賊にさらわれてここに連れてこられたとの事。領地の規模の割には豊富な資金力を見せるコクウォルズ子爵には黒い噂が絶えなかったが、真っ黒だったらしい。
少女達を保護しなくてはならないし、この地下室にもいないという事は逃げ出したというのは本当なのだろうと判断してウォルフは家捜しを打ち切った。ウォルフは移動するのに廊下や階段を使わずに直接部屋から部屋に移動して探し回ったので、そのころにはコクウォルズ子爵の立派な屋敷は穴だらけの廃屋と化してしまった。
とりあえず何か更なる情報を得るためと、タニアに彼女たちの保護を頼むため、ウォルフは一旦サウスゴータへと戻った。
しかし、サウスゴータでいくら待ってもその間の森の上空を何度も往復して探しても、ニコラスとアンネが現れる事はなかった。ウォルフは三日間仕事を休んで周辺の森や村を探索したが、手掛かりを得る事が出来ずに一度ボルクリンゲンに帰らざるを得なかった。
アンネには懸賞金を掛け、情報を広く求めたが発見に繋がるようなものは得られず、時間だけが経過した。ウォルフとは入れ違いにエルビラとクリフォード、それにマチルダがゲルマニアから帰ってきて捜索に当たったが、こちらも成果はなかった。
エルビラ達はその後も周辺の村々を泊まり歩きながら捜索を続け、村人の協力も受けながらワイバーンの目撃情報を求めたり戦闘の跡などを探し続けた。エルビラは太守に仕えていた当時、時間が空いた時には周辺の村で山賊の討伐や亜人・幻獣の駆除などを趣味として行っており、平民達には太守様の女官様と呼ばれて大層慕われている。マチルダも当然人気があったので村人達は皆協力的だった。彼らのネットワークを駆使して情報を集めたが、ニコラスとアンネらしき人物の目撃情報すら得られなかった。
議会の方も独自に捜索を行っているようで気は抜けない。何度か捜索を邪魔されたエルビラが切れて貴族の館を焼き討ちとかしているが、そんなことは小さな事でしかない。サウスゴータ議会はアルビオン王家にエルビラ達の指名手配を求めたが、そもそも襲撃する時は仮面を被っていたので証拠がないし、ガンダーラ側からもコクウォルズ子爵を筆頭にサウスゴータ市議会議員達の犯罪について告発が来ていた為、王家はこれを無視した。元々領地の治安維持は領主の義務であるわけだし、もうガンダーラ商会とは関わりを持ちたくないようだ。
何度か仕事を休んで捜索に参加していたウォルフが、その反応に気付いたのは、偶然だったのかも知れない。ウォルフはエルラドをスピーカーとして使用し、上空から広い範囲に呼びかけを行っていたのだが、その廃村に向けて呼びかけた時、エルラドから発せられる超音波の反射が普通とはちょっと違うように感じられたのだ。
サウスゴータ夫人が経営していた孤児院の跡だというその村は街道から外れた森の中にひっそりと佇んでいて、まだ捨てられたばかりのその村におかしな所は何もない。その村は事件直後にも捜索していたがその時にはもう誰も住んでおらず、ニコラス達はいなかった。
不審に思い飛行機を降りて村を歩いてみると、すぐに違和感の原因と思われる家を特定することができた。
「これは……『サイレント』が掛けられているな。壁全体と、屋根にも。調べてみるか」
『練金』で壁をすり抜けて内部に潜入した。内部は普通の民家の造りで『サイレント』は掛かって居らず、ウォルフが入った場所は台所。湯気を立てる鍋があり、人がいる事は間違いないようだ。
奥の部屋にその人間がいるようなので、気配を消し警戒しながら廊下を進む。奥の部屋の二人以外にこの家には人間はいなそうだ。
ドアの前に立ちノックしようとするウォルフの耳が、部屋の中の物音をとらえた。
「あんっ、そんなとこ触っちゃダメですよう……もう、食べさせてあげませんよ?」
「ああ、ごめんごめん。わざとじゃないんだ、わざとじゃ。この手が悪いんだな、この手が。えいっえいっ」ペシッペシッ
「ふふふ、今は食事中なんですから、お行儀良くして下さいねー。はい、あーん」
「うん、アンネは優しいなあ。あーん」
ドアの向こうは見たこともないようなスウィートでストロベリーな異空間が広がっているみたいで、ウォルフは今すぐ踵を返して帰りたくなった。砂糖を吐きそうになるというのはこのような気持ちだろうか。ニコラスとアンネの情報を求めて奮闘しているマチルダとは最近顔を合わせる度に二人の報復を何時始めるか話し合っている。襲撃に関わった議員達の割り出しも終わり、そろそろ大々的に始めようかと思っていたのに、当の二人はこんな状態だ。
全てを見なかった事にしたい気持ちはやまやまだが、そういうわけにもいかず覚悟を決めてドアをノックする。とたんに中でごそごそガチャガチャと物音がし、「ど、どなたですか?」と少しうわずったアンネの声が聞こえた。
声で分かっていたことだが、やはり中にいるのは探している人達らしい。盛大にため息をつきながらドアを開けると、果たして驚いた顔のアンネと杖を構えながらやはり驚いているニコラスがウォルフを出迎えた。ニコラスはベッドの上に座り、アンネはその傍らに立っている。
「……」
「お、お久しぶりですウォルフ様、お元気、そうですね?」
「お、おうウォルフ。驚かすなよ、ノックは玄関のドアでするものだぞ。久しぶりだな、無事だったか?」
「ああ、みんな無事だったよ。って、そうじゃねぇーだろ!! 久しぶりだなじゃねーよ! 生きてンなら何で連絡よこさねーんだ、みんなずっと心配してるんだぞ!」
「い、いやあ、連絡はしようと思ったんだよ? でも俺は怪我しちゃって動けなかったし、外の状況は分からないし、見つからないように暫くは大人しくした方が良いかなって」
ウォルフに怒鳴られ、慌ててニコラスが色々と釈明する。ちょっと支離滅裂になりかけの説明によると、少し前からここに潜伏していたという。連絡を取ろうとした時に議会の捜索隊に見つかりそうになり、安全を考慮してニコラスが動けるようになるまでのつもりでここに籠もっていたと。そう言われてベッドに腰掛けているニコラスをあらためて見ると確かにあちこち酷い傷跡が残っている。
ふむ、と考える。ただずっとアンネといちゃいちゃするために籠もっていたのかと思ったが、それなりに大変な目に遭っていたようだ。
もっと詳しく話を聞いてみると、アンネを救い出したまでは良かったが追っ手との戦闘で杖が折れて出血多量と精神力切れによりニコラスは気絶。携行していた水の秘薬を用いてアンネが治療するも、へたくそなため大して回復せず一週間程は森の中の洞窟で生死の境を彷徨ったと。
意識が戻ったのが今から三週間前、そこから一週間でそこそこ回復して杖の契約を始め、先週契約が終わって自分で傷を治しているそうだ。しかし、契約した杖は相性が今一で魔法の通りが悪い上に水の秘薬はアンネが使い切ってしまったので傷が変な風にくっついちゃったりしているのを治すのに苦労しているとの事。
「あれ、父さん新しく使い魔を喚んだんじゃないの? なんでそれで帰って来られなかったの?」
「使い魔なんて喚んでないぞ。俺の使い魔は死んだキャシーだけだ」
「でも、父さんがワイバーンで突っ込んできたってコクウォルズの家の奴が言ってたよ?」
「その辺のワイバーンを捕まえて乗ってっただけだ。使い魔にしなきゃ、魔法具が無きゃあ竜に乗れないなんてのは二流の竜騎士だ」
「おお、すげえ。初めて父さんをちょっと尊敬したかも」
「初めてで、しかもちょっとかよ。まあ、そんな訳で、一度アンネが連絡に行こうとした時にも苦労したし、脱出する時は二人一緒にしようってことになったんだ。幸い、ここには食料も残されていたしな」
一応筋は通る。戦闘できる者がいなければ森を抜けるのも大変だろう。しかし、視線を横にずらしてアンネを見ると腹部にアンネとは別の生命の気配。どう見ても妊娠中です、ごちそうさまでした。
「アンネ、そのお腹は?」
「あ、これは、その、ニコラス様が…」
「いや、その、やっぱり妊娠してるか? 傷が治りかけて弱っていた時にだな、優しく看病して貰っている内につい…一回だけだったんだが大当たりで……」
「まあ、わかるけどね。人間弱ると遺伝子を残したくなるものらしいし」
「その、エルビラには……」
「あ、父さん、この事母さんに伝える時は先に言ってね? 秘薬をバケツ一杯用意してあげるから」
「……はい」
死にそうな怪我して何をしてんだかと、冷たい目で父を見る。まだ妊娠二週間ちょっととのことなのでそんなのの気配が分かる自分を凄いとは思うが、別に分からなくても良かった事だ。ニコラスへの皮肉に、まあ、死んじゃったら秘薬も効かないけど、と付け加えるのは忘れなかった。
サラの親とはいえアンネはまだ二十八歳。昔からニコラスにちょっかいを掛けられていたが、それ程本気で嫌がっている風には見えなかった。吊り橋効果もあったのかも知れないが、本人も合意の上だったのだろう、顔を赤くして俯いている。女盛りというのに結婚する気は無いみたいだったのでニコラスの妾に納まるのは彼女にとって良いことなのかも知れない。現在ニコラスは住所不定無職だけれども。
それにしても一発で妊娠するとは。サラの時も一発ホームランだったらしいからアンネは今のところ打率十割だ。ていうか、妊娠したのは一発だったかも知れないが、あの様子で一回だけなんて誰も信じない。
「まあいいや。母さんが待ってる、帰ろう」
「おお、帰るのはいいんだが、ウォルフ、水の秘薬持っているんだろ? ちょっとこの左足だけでも治してくれよ。痛いし、歩きづらいんだ」
「えー? どうだろう、秘薬が勿体ないし後にした方が良いんじゃないかな。ちょっと母さんが荒れ狂っているんだよね。ケロッと出てこられたらそれこそどんな事になるか分からないし、父さんは怪我してた方がいい気がする」
「……ちょっとって、どれくらい?」
「議会の連中の領地の屋敷が五つ更地になった。このままだとサウスゴータ郡部に貴族の家は無くなるんじゃ無いかともっぱらの噂。そこにアンネが妊娠させられたとなると……」
「後で、火傷の治療と一緒で良いです……」
ニコラスの事を『レビテーション』で持ち上げて外に出て、飛行機を呼び寄せると二人を前の座席に押し込んで飛び立った。一人分の座席に二人を押し込んであるのでニコラスの膝の上にアンネが乗る形になっている。もぞもぞしながら顔を赤くしている二人を見てるとまたイラッとするが、これも無事だったからこそだろうと思い直した。一つ大きく深呼吸をして、前に座る父親にまだ告げていなかった言葉をかけた。
「父さん」
「あん?」
「アンネを助けてくれて、ありがとう」
少し、驚いたらしいニコラスが後ろを振り向いたが、すぐに何でもないとでも言うように手をひらひらさせてまた前を向いた。
「お前は忘れているかも知れないが、これでも俺は家長だしな。当然の事をしただけだ。みんな無事で良かった」
「頼りにしてるよ、家長様」
三人を乗せた飛行機が向かった先はほんの三十リーグ程離れたメルズの村。今日エルビラはその辺で捜索している。
再会の様子は省略する。ウォルフは水の秘薬を駆使してニコラスの治療を行った。