その日ボルクリンゲンに帰ったウォルフは、帰るなりツェルプストー辺境伯の来訪を受けた。当初かなり興奮していたようだったが、ルイズが虚無である事を伝えると冷静さを取り戻し、今後の対応を協議した。
辺境伯の話では、ゲルマニア帝室に報告しないという事は考えられないと言う事だった。ゲルマニア帝室はハルケギニアの主要国家で唯一始祖の血統を継いでおらず、他国から格が低いと見られる事が多い。
虚無の血統の娘と言えば喉から手が出るほど欲しがると思われ、報告しなかったりして後でバレたら叛意有りと見なされかねない程だという。これまでトリステイン王室にはアンリエッタ姫一人しかいなかったので婚姻という話には中々ならなかったが、ルイズかアンリエッタどちらかという話ならば進められるかも知れないとのことだ。
「アルブレヒトさんって今何歳なんでしたっけ?」
「閣下は来年四十になられる」
「うわ、犯罪だ。ルイズって今十一歳だよ歳の差いくつよ」
「五年後には十六歳だな、十分に嫁入り可能だ」
「政略結婚、すげえ…」
四十四歳の独身男性が十六歳のピチピチの嫁を貰うのだから、前世からすればお伽噺のような話だ。実際にはアルブレヒト三世には側室がいるだろうから独身男性ってわけじゃあないのだろうけど。
「そんなんで驚いていてどうする。この間お前にも三十の行かず後家との結婚話を持ち込んできた馬鹿がいたぞ。十やそこらで一人暮らしている少年には母親代わりの女性が必要だろうという苦しい理由だったが」
「三十なら余裕で守備範囲ですけど、年の差を考えたら色々大変そうだし、母親代わりは要らないなあ」
「守備範囲なのか…もしや、貴様熟女好きか? それでキュルケに目も向けないのか?」
「そんな趣味はありません。結婚するなら同年代が良いと思っています」
ウォルフは否定したが、この後ツェルプストーのウォルフに関するファイルには熟女好き、の一文が追加される事になってしまった。
特に年配の女性が好みという訳ではなく、二度目の人生なのでどうしても十五、六歳以下だと子供という感じがしてしまって恋愛対象として考えられないというだけなのだ。前世の年齢が透けて見えるような気がしてちょっとイヤなのだが、三十歳くらいの女性だとまだ"女の子"と認識してしまう。
「本当にラ・ヴァリエールと婚約話が出ている訳ではないのだな? あそこにはそろそろ嫁き遅れそうな娘がいるとの話だったが」
「ありません。大体オレはトリステインで悪名高いガンダーラ商会のオーナーですよ? 十分な根回しもせずに婚約なんてしたらトリステイン中を敵に回すでしょう」
「まあ、そうだな。そんな工作をヴァリエールがしているという報告はないな。しかしお前が熟女好きなら」
「熟女から離れて下さい。長女だってまだ二十二歳だって話ですよ? 熟女って言うには気の毒でしょう。大体婚約とか無いです、向こうの奥さんには随分と嫌われてしまったみたいですし」
「ああ、カリーヌか。顔の造作は良いが、全く抱く気のしない女だ。ふむ、アレに嫌われたのならお前も苦労しそうだな」
結局ツェルプストー辺境伯も、虚無の謎を解くためにウォルフがラ・ヴァリエールと関わりを持つ事には納得せざるを得なかった。
虚無とはどのようなものか、現状はどうなっているのか一々報告する事を約束させてようやく帰って行った。
カトレア嬢の血液検査は健康なもので、あらかじめ魔法で調べた通り血糖値等おかしな数字はなかった。癌が治っている段階だとほぼ健康体なのだろう。
ヴァリエール家の検査では随分と興味深い事が分かった。染色体を詳しく調べた結果判明した事はウォルフも全く想定していなかった事実だ。
公爵以外の三名にはどうも人間以外の遺伝子が入っているらしく、そのDNAは一部ウォルフが見た事のないものになっていたのだ。
人間には四十六の染色体があるが、三人とも対になっている十六番目の染色体が通常の人間より僅かに長い。その遺伝子がエルフなのか他の亜人なのかは分からないが、祖先で混血しているものと思われる。
他の二人には異常が無いのでこの染色体の異常が即疾病の原因であるとは言えないが、部屋に初めて入った時の感覚を思い出すと関係があるように思える。
どうもカトレアには精霊魔法を行使しているという自覚は無いようだったが、あれは間違いなく精霊魔法だと思っている。ウォルフは確かにあの時"契約"された精霊達の中に足を踏み入れた。
無自覚に精霊魔法を使うという事がどういう事なのか、ウォルフには分からない。結局、ラグドリアン湖の精霊か、アルクィーク族のルーに聞いてみる必要がある事は確かだった。
翌日、今度は午前中にウォルフはラ・ヴァリエールを訪れた。前日と同じルートで城に着陸し、まず公爵に面会する。
昨日ウォルフの治療後カトレアは体調を回復し普通に過ごしていたそうだが、夜になってルイズと喋っているときに再び体調を崩して今は寝込んでいるという。
早速カトレアの私室に移動するとそこには侍医達の他にルイズと公爵夫人も来ていて、カトレアの様子を心配そうに見守っていた。ウォルフに向けた視線には昨日程の殺気を感じさせなかったが、今日は笑顔を作ることもなく、よりウォルフのことを警戒しているようだった。
カトレアは、平たく言えば死にかけていた。治療を施している医師の横でウォルフも診察してみたが、方々で肥大化した癌細胞により多臓器不全を起こしていた。心臓も弱っているようで妙な拍動を繰り返している。今すぐ治療しなければ命が危ないという状態だ。
昨日健康体になったばかりなのに今日もうこの状態なのだ。癌細胞がちまちま増殖したと言うよりは一気に広範囲で癌化してそれが更に増殖したという感じだろう。
「昨日はすごく元気になって、いろいろお話をしていたのだけど……」
泣きそうな顔でルイズが言ってくるが、ウォルフにはこの原因について予想がついている。多分、ウォルフに興味を持ったのだろう。
「とりあえず、これは治しちゃおう。先生、手伝います」
「おお、君がド・モルガン君か、昨日は澱みが残っていたはずだったが綺麗に治していたな。今は危険な状態は脱した事だし、どれ、見ていてあげるからやってみなさい」
「はい。失礼します」
医師に言われて治療を交代する。この状態で危機を脱したというのが凄い。それほどの重体だ。
ここの医師は癌を一カ所ずつ治していたが、ウォルフは水の秘薬を大量に用意して一気に治す。
「《ヒーリング》」
ウォルフは既にカトレアの遺伝子のイメージを持っている。その遺伝子とほんの少しだけ異なっている、本来死ぬべき細胞に水の魔力を流して死滅させ、腫瘍を小さくしていってついには消滅させた。その傷跡を修復して全身に水の魔力を行き渡らせる。たった二つのイメージで行使された魔法は、瞬く間にカトレアの体を癒した。
「……つらく、無いです」
「ちいねえさま!」
それまで苦しそうにしていたカトレアが呆然と呟くと、その膝の辺りにルイズが抱きついた。
「今日の所は澱みを取り除けました。先生、確認をお願いします」
「あ、ああ、そんな、馬鹿な、本当に? 《ディテクトマジック》」
あまりに短時間だったので侍医には信じ難い事のようだったが、確認の結果は治っていた。
「こんな短時間で治るものなのか。君、いったいどうやったんだ」
「普通の『ヒーリング』です。効果の違いはイメージの違いですね。カトレアさん、調子はどうですか?」
「ウォルフさん、ありがとうございます。お腹が空きました」
ふわっという音が聞こえるかのような、柔らかい笑顔で微笑んだ。公爵家の一同は安堵に胸をなで下ろしたが、ウォルフもホッと一息ついていた。病巣が広範囲に広がっていたのでかなり魔力を消費した。もう少し重篤だったら一回で完治するのは難しかったかも知れなかったのだ。なんと言ってもウォルフは火メイジなのだ。
「随分と体力を消耗していますからね、がんがん食べるのが良いでしょう」
「はい。そうだ、もうすぐお昼ですから、ウォルフさんもご一緒しませんか? 色々お話をしたいです」
「えっと、その前にあなたの病気についてわたしの見立てを話させて下さい」
ウォルフが公爵に目を向けると大きく頷いた。その横では殺気をさらに減らした夫人がこちらを見ている。ルイズはまだ抱きついたままだ。
「残念ながらあなたの病気の治療方法は分かりませんでした」
「はい」
「驚きも、落胆もしないのですね?」
「何となく、そんな気がしていましたから」
ラ・ヴァリエール公爵は手を目に当てて天井を仰いでいるが、当の本人はほんの少し諦観をふくんだ微笑みを浮かべるだけだった。
「おそらく、今回これほど症状が悪化したのはわたしが原因です」
「まあ、そうなのですの?」
カトレアはきょとんとした顔をしているが、また背後の公爵夫人から殺気が吹き出した。勘弁して欲しいと思いながらウォルフは言葉を続ける。
「これは想像なのですが、昨日わたしが帰った後、わたしに興味を持たれたのでは無いですか? どのような人物か知るためにルイズを質問攻めにしたのでは?」
「まあ、興味を持ったなんて、恥ずかしいです。だけど、仰り通りですわ。昨夜私はルイズを質問攻めにしました」
「質問攻めにしても求める答えは得られず、それでイメージを更に膨らませて、もっともっと知りたいと思って――体調を崩した」
「お恥ずかしい。でもウォルフさんはまるで見ていたかのようですね」
「あくまで想像ですよ――というわけで」
ウォルフは公爵達に向き直った。
「暫く、カトレアさんと二人きりにして下さい。そうですね、二時間くらいでしょうか」
「……なんだ、その数字は? ご休憩か? ご休憩するつもりなのか?」
今度は公爵夫人だけでなく公爵本人からも殺気が吹き出した。二人から発せられる殺気は滝のようにウォルフを襲い、そこいらの小悪党ならちびりながら泣き出しそうな程だ。
ちなみにご休憩とはハルケギニアで一般的な隠語で、元は主人が昼間にそういう状態になったときにメイド達がご休憩中と言って二時間程私室に近づかなかった事に由来する。
「そんな訳無いですよ。カトレアさんが今日みたいに重篤な状態にならないように必要なのです」
「二人きりになる必要など無いだろう! わしは認めんぞ、今、ここで、話せばよい」
「ちょっと、皆さんの前で話したくない事もありまして」
「そうですわ、お父さま。ウォルフさんはそんな方ではありません」
頬に手を当て恥じらいながらカトレアもウォルフを擁護する。
「そう言いながら、頬を染めるんじゃない! 認められん、二人きりなど認められんぞ」
そんな意図があった訳ではなかったが随分と大騒ぎになってしまった。どうにも収まりが付かなそうだったが、そんな状況を破ってくれたのはルイズだった。
「父さま! 元々父さまがウォルフに治療を依頼したのでしょう? それなのに治療を妨害するなんてウォルフが気の毒だわ」
「む、治療などと思えんから言っておるのだ。若い男女を二人きりになど……」
「二人きりなんて私も何度もなっています。ウォルフは何もしませんでした。ウォルフ、本当に治療に必要なのよね?」
「勿論。治療って言うか、今日の症状が再発しないように必要なカウンセリングって感じかな」
公爵はなおも、お前の時とは流れが違うだろう、などと言っていたが、これまで沈黙を守っていた公爵夫人が遂に口を開いた。
「良いでしょう。もしカトレアに破廉恥な行為をした場合にはその命をもって償って貰います。あなたもそれでいいですね?」
「あ、う、うむ、お前がそう言うのなら……」
「破廉恥って……まあ、しませんけどね?」
ウォルフとしては好意で忙しい時間を割いて来ているのに、さんざんな言われようだ。腹は立つが、娘を思う親心という事で許容する事にした。
「では二時間後、食堂で待っています。あなた、ルイズ、参りましょう」
「じゃあね、ウォルフ、ちいねえさまの事をお願いね」
「……よろしく頼む」
ようやく公爵達が部屋から出て行って二人きりになった室内で早速カトレアに話しかけた。
「ふう、やれやれだな。では、カトレアさん、服を全て脱いで裸になって下さい」
「はい」
チラッと扉の方に目をやりながらのウォルフの言葉にカトレアは素直に頷き、胸元のボタンに手を掛ける。とたんに扉の外でふくれあがった殺気に苦笑を漏らしながらウォルフはカトレアを制した。
「ああ、冗談ですよ。服を脱ぐ必要はありません」
「うふふ、ウォルフさんって冗談がお好きなのですね」
扉に頭をぶつけたのは公爵だろうか、カトレアも分かっていたようにクスクスと笑いながらボタンから手を離す。どうやら先ほど頬に手を当てていたのも彼女のほんのお茶目心だったらしい。
扉まで歩いて行って外に顔を出し、そこで聞き耳を立てていた公爵達に会釈してから後ろで控えていたメイドにお茶を頼んだ。公爵達がすごすごと廊下を移動したのを確認しつつ、部屋に戻ると扉に『サイレント』をかけ、他の壁や床などにも同様に魔法を掛けて外から室内の会話を聞かれないようにする。扉はメイドが戻ってくるまでは開け放しておき、待つ間に室内の動物たちを全て調べ上げ、誰かの使い魔が紛れ込んでいないか確認した。
ウォルフが作業している間にカトレアはトイレに行っていて、先に作業を終えたウォルフはテーブルの上のリンゴの皮を剥きながら彼女を待った。
「お待たせしました。あら、お上手ですね」
「お腹が空いているようですから、少しつまみながらお話ししましょう」
リンゴを勧めて窓際のテーブル席に向かい合って座る。室内には相変わらず精霊魔法の気配が漂い、その大本であるだろうカトレアは朗らかな微笑みをたたえている。
この室内にいるとカトレアの腕の中に抱かれているように感じる。彼女の人柄のせいかそれはとても心地よく、動物たちがこの部屋にいることを好むのもこれが原因だろうと思われる。
系統魔法とは世界に存在する魔力素や魔力子を体内に取り込み、杖を媒介としてメイジの意志を乗せた魔力素によりその意志を世界に作用させるというものだ。
メイジと世界とは明確に分かれていて、僅かにその間を媒介する杖という存在が有るだけだ。世界の一部でありながらメイジの分身とも言える杖の存在が、メイジの意志を世界に作用させることを可能としている。
その系統魔法に対して精霊魔法では杖が必要ない代わりに世界と術者の境界が曖昧だ。アルクィーク族では契約と呼んでいたが、自身の意識を周囲の魔力素に拡大して直接的に意志を作用させている。アルクィーク族のルーが契約した領域に入るとルーの中に入っているような気がしたし、魔法も使いづらくなった。
カトレアはどうしたわけかその意識の拡大を無意識に行っていて、その時に自身の命そのものと言っていい魔力素が外に流れ出してしまっていた。命とは水の魔力素で出来ているとウォルフは考えている。水の精霊は死体が有れば水の魔力素を付与してかりそめの命を与える事すら出来ると言っていた。
外の世界に興味を持ち、外の世界を知りたいと思う度に彼女の命は彼女の体からこぼれ落ち、命そのものを危険に曝している。彼女の心臓が弱っていたのはそのままその拍動を止めようとしていたのだ。
この状態で系統魔法を使用したら体に悪影響があるのは当然だ。自身の命を削ってしまう可能性があるのだから。
こんな話をどこから話したら良いものか、メイドが持ってきたお茶を入れながら悩む。完治させる方法は今のところ分からないが、カトレアが自分の状態を知り、意識を変えれば病状は改善を見せる可能性は高いと思っている。
ウォルフはメイドを下げ、扉が閉まって『サイレント』が掛かっているのを確認し、再び二人きりになった室内で自己紹介からやり直した。
「えー、興味がお有りのようなのでまずは私のことから話し始めましょう。私の名前はウォルフ・ライエ・ド・モルガン。アルビオンはサウスゴータのド・モルガン男爵家の次男で、異世界の記憶を持つメイジです。よろしく」