降臨祭を前にざわつくサウスゴータの街を、ウォルフは人込みを避けながら美しいピンクブロンド色の髪の少女と一緒に歩いていた。
明日から十日間が祭りの本番、今夜は前夜祭なので街には多くの屋台が出て賑わっている。東方開拓を始めてから二度目の降臨祭だ。ウォルフは十一歳になっていた。
「昨日よりまた人が増えたわね。なんだか屋台とかも増えて街の様子が違うし、確かにこれで一人じゃ迷子になったかも」
「だから言ったろ。くだらない事で意地を張るもんじゃないよ」
少女の名はルイズ・フランソワーズ・ル・ブラン・ド・ラ・ヴァリエール。トリステインの名門ラ・ヴァリエール公爵家の三女だ。ウォルフの恩師・カールからの依頼により彼女に魔法を教えて二日目、この日は『ライト』の魔法を教えたその帰り道、公爵の待つホテルへと送っている途中だった。
「昨日の状況だったらわたしは一人でもきっと帰れた。今日こんな風になっているなんて知らなかったのだもの、しょうがないわ」
講義が終わって帰るとき、一人で帰れるか一悶着があって結局ウォルフが送る事になったのだが、ルイズは結構頑固だった。実際はルイズには護衛が付かず離れずに付いていて、一人で帰しても問題なかったしウォルフもその事には気付いていたが、まあ、一応女の子だしウォルフには付いてる密偵も多いので念のため無理に付いてきたが正解だったようだ。
ウォルフに強気な事を言いながら、ルイズはご機嫌だ。その理由はただ一つ、魔法だ。
これまで彼女はハルケギニアでも屈指の名家に生まれながら魔法が使えなかったのだが、ウォルフの教えを受けるようになって早速昨日は『グラビトン・コントロール』、今日は『ライト』と、次々に魔法を使えるようになっている。その事実は問答無用に彼女を有頂天にさせるのだった。
「ふふふ、『ライト』……くっふふふ、こっちにも『ライト』」
道を歩きながら呪文を唱え、杖を振って屋台の軒先や夫人の連れている子犬の鼻先、ワインの瓶や吊してある牛の頭など、目に付く端から次々に明かりを灯す。ルイズが灯した明かりは赤や青、緑やオレンジなど様々な色の光となり、人込みで賑わう夕暮れ時の街を彩った。
「おーい。街中でむやみに杖を振らないでくれ。『ライト』とはいえ、怖がっている人もいる」
「何よ、いいじゃない。これから夜になるんだし、いろんな色の光が有ればとても綺麗よ」
注意をしても聞く耳を持たない。ルイズは上機嫌で更に明かりを増やす。失敗したら惨事を引き起こすくせに良い気分だ。
「ふふふ、こんなに色とりどりの『ライト』をあやつれるメイジなんて、他にはいないわ。七色…そう、"七色のルイズ"よ。ねえ、わたしの二つ名"七色"がいいんじゃない?」
「別に良いけど、それだと七色の『ライト』使えるだけっぽくて、今いちかな」
「何よ、『ライト』だけじゃなくて七色にちなんだ魔法が出来るようになればいいだけよ。えっと、赤い閃光と共に炎が燃え上がる、とか青色の光ともに水が噴き出す、とかそんな感じで」
「あー、まあ、頑張って」
彼女が今使っている『ライト』は電磁波を発する魔法だ。通常ハルケギニアのメイジは様々な波長の光が混じった白色の可視光を発しているが、イメージさえ持つ事が出来れば電波からガンマ線までも照射できる汎用性が高い魔法だ。
ちょっと光をいじって波長と位相をそろえたコヒーレント光を高出力で照射すればレーザー兵器の出来上がりなので、ルイズの言っている赤い光と共に炎が燃え上がるくらいは軽く出来そうだ。兵器に使える程のレーザーなど魔法がなければ途轍もない巨大な設備になってしまうが、メイジには関係ない話なのだ。
開拓地では魔法具として既に実用化しているものではあるが、とても危険な魔法になるためウォルフに教えるつもりは無い。
「ふんだ。魔法なんてコツを掴んだら簡単なものよ。見てなさい、すぐにあなたに追いついてやるんだから」
「その意気や良し」
「ところで、次の魔法は何なの? そろそろ『ファイヤーボール』とかかしら」
君は『ファイヤーボール』を使えるようにはならないんじゃないかな、と言いそうになるのをぐっとこらえる。
ウォルフの見立てではルイズは伝説の系統・虚無系統のメイジなのだが、まだヴァリエール公爵の判断で本人には伝えていない。
「明日はオレあんまり時間とれなそうなんだよな。明日になってから考えるよ」
「ふうん。じゃあ、後のお楽しみね。あー、おなか空いた! 魔法ってお腹空くのねえ、今まで使えなかったから知らなかったわ。あ、でも夕食はまたあのレストランなのよね」
機嫌の良いルイズは口数も多い。この後ウォルフはいかにアルビオンの料理が不味いかという事についてさんざん聞かされた。
「とにかく、初めてアルビオンでスープを口にしたときの衝撃は忘れられないわ。トリステインでは肉や野菜を煮ただけの味も何もないものをスープとは呼ばないわよ?」
「うーん、まあ食習慣や考え方の違いだね。アルビオン人は塩味は人によって好みが違うんだから自分で付けるべきだと考えているんだ。テーブルの上に塩と胡椒があったろう」
「自分で塩を入れるのなんて初めてだったわよ。量が分からないから入れ過ぎちゃって凄くしょっぱくなっちゃったわ。野菜も元がなんなのか分からないくらい煮てあるし、本当アルビオンの料理ってわけ分からないわ」
「アルビオンは空にあるからお湯が沸騰する温度が低めで、しかも日によって変化するんだよ。煮えたと思っても煮えていなかった失敗が多くて段々煮込む時間が長くなっていったんだと思う」
普通に考えれば標高三千メイルのアルビオンの沸点は九十度くらい。しかしアルビオンを浮かせている風の魔力の影響か、そこまで下がる事はそうそう無くて、日頃は九十四度位を中心に毎日変化している。この毎日変化している、というのがくせ者で茹で時間を定量化できない。結果、とりあえず煮込んどけって感じになっているとウォルフは感じている。
もっとも、ド・モルガン家ではウォルフが作った圧力鍋があるので問題なく、使用人もガリア人を多く雇っているのでウォルフは子供の頃からおいしい料理を食べていた。アルビオンの料理が不味いと言われてもあまり実感がない。
「そうだとしても、もうちょっと工夫とかで美味しくなるんじゃないかしら。またあの料理を食べるかと思うと憂鬱だわ」
「だったら、今日はお祭りだから屋台で食べれば良いんじゃない? 牛の丸焼きやローストビーフはこの国で数少ない美味しい料理だよ」
「……どっちもただ焼いただけじゃない。でもそうね、外で食べた方が良いかも。牛の丸焼きって何処でやってるの?」
「いつもの年は城の前庭を開放してそこでやるんだけど、今年は城に入れないらしくて今夜は中央広場でやるってさ」
「中央広場ね、なんだホテルのすぐ前じゃない。それで決まりだわ」
ルイズは気付かないがウォルフの表情が少し陰った。
実はウォルフは最近マチルダと会ってない。最高学年も終わり間近となった魔法学院は冬期休暇中でこちらに帰ってきているみたいなのだが、忙しいとの事で会って貰えなかった。
クリフォードに至っては休み前に学院で「もうお互い子供じゃないし、学年も家格も違うのだから頻繁に会いに来ないで欲しい」とはっきり言われたそうだ。酷く傷ついて帰って来て、以来ずっと部屋に籠もっている。ウォルフが部屋を覗いてみたらスライムみたいになっていた。
確かに三年生で評判の美少女であるマチルダと仲良く振る舞う新入生、との事で随分と嫉妬を受けたりしたそうだが、あんまりだ。最近のマチルダはちょっとおかしい。
卒業後は父親の手伝いに専念するからと名誉サウスゴータ商館長である現在の職を辞退してきて、彼女が保有する株式についても商会に引き取るよう希望してきている。タニアが慰留に努めたがマチルダの決意は固く、翻意させる事は出来なかったそうだ。
結局、株式はタニアが引き取る事で調整中だが、その手続きが終わるとマチルダはガンダーラ商会とまったく関係が無くなってしまう。
サウスゴータ家も変だ。よくお忍びで街に来ていて平民にも親しまれている太守だったのに、最近はロンディニウムにいることが多いのかすっかり街に出てこない。家格にしては多く雇っていた使用人達に次々に暇を出している事が街で話題になっていて、様々な憶測が飛び交っている。
ウォルフの母、エルビラも出産を機に休職していたのだが、そのまま契約の解除を通達された。本人は初めての娘・ペギー・スーの子育てに夢中になっていて気にしていないが、ウォルフにはサウスゴータ家の変容は気になる。
サウスゴータ竜騎士隊に所属する父ニコラスに聞いてみても、竜騎士は日頃城の方には行かないし、直接の指揮権は議会が持っていて太守と会う事もそうないため事情は分からないという。
昔を懐かしむつもりはないけれど、ウォルフにとって現在のマチルダやサウスゴータ家の態度は納得できるものではなかった。
「ここの太守の娘とは友達でさ、凄く気さくな姉さんでルイズにも紹介したかったんだけど、最近忙しいみたいなんだ」
「ふうん。でも、今回は父さまも含めてお忍びで来てるんだから、そんな堅苦しい事は無しで良いわ」
本当はいつもの年のように城で牛肉をつつき、マチルダに初めて出来たトリステインの知り合いを紹介したかった。堅苦しくはないんだけどな、とウォルフが呟くその声は喧噪にかき消された。
ちょっと暗くなっちゃったので気分を変えて、ルイズにサウスゴータの歴史や建物の説明をしながら歩き、程なくしてラ・ヴァリエール公爵が待つホテルに着いた。
ルイズを部屋まで届けたらさっさと帰ろうと思っていたのだが、ラ・ヴァリエール公爵に引き止められた。お腹が空いたと騒ぐルイズを置いて別室に引き込まれたのだ。
「ウォルフ君、今日カール先生に聞いたのだが、君があの、ガンダーラ商会のオーナーだと言うのは本当かね?」
「オーナーというか、創設者で筆頭株主なのは確かです」
「おお、本当に君みたいな少年が…」
公爵が複雑そうな顔でウォルフを眺める。トリステインでガンダーラ商会といえば泥棒に近い商売で成り上がった下品で野蛮な商会だと悪名高いのだが、目の前の少年からはそんな事を思わせるものは何も感じなかった。
元々評判をそのまま信じていた訳ではないが、ラ・ヴァリエールの宿敵であるツェルプストーと親密な関係にある事もあって、ガンダーラ商会はこれまで警戒すべき対象だったのだ。
「ええと、商会が何か問題でしょうか。トリステインでは随分と評判が悪いとは聞いていますが、誓って真っ当な商売をしております」
「ああ、いや商売がどうこう言う訳ではなくて、むしろ商品を買いたいんだ。ほら「sara」って言う化粧品があったろう、アルビオンに行くならあれを是非買って来て欲しいと妻に頼まれていてね。いや以前一セットは入手できたんだが、それ以降全然手に入らないから残りが少なくなってしまって困っているんだ」
公爵ともあろう立場で妻のお使いをしている事が恥ずかしいのか、妙に早口でまくし立てる。ウォルフが気圧される程の勢いだ。
「私は部署が違いますからちょっと化粧品の事は分からないのですが、丁度降臨祭で商会長がサウスゴータに来ています。もしよかったら明日紹介しましょうか?」
「いや、そうかよろしく頼む。あの化粧品の効果は凄いものな。妻が一気に十歳以上も若返ったような気がして驚いたよ。恥ずかしながらこの歳で新たに子供を授かってしまったほどだ」
「あはは、それはおめでとうございます。実は私も今年妹が出来まして、再来月で丁度一歳になります」
「おお、我が家のロランとは同い年だ。あの化粧品は実に少子化対策になっているな」
孫でも通るほど年の離れた息子の話になると、厳ついラ・ヴァリエール公爵の顔も緩みっぱなしになる。ラ・ヴァリエール家に待望の長男が生まれたのはド・モルガン家の赤ちゃんより二ヶ月早く、ルイズとは十歳差、最も年の離れた長姉エレオノールとは実に二十一歳差だ。
この二家だけの話ではなくハルケギニアの貴族界では最近ベビーブームが起きており、タレーズベイビーズとかsaraベイビーズなどと呼ばれている。
「父さま、いつまでウォルフと話しているの! お腹空いたって言ってるでしょう」
「あー、ルイズ。ウォルフ君はお前の先生なのだから、呼び捨てはどうかと思うぞ。先生かミスタ・モルガンと呼びなさい」
「ウォルフがいいって言ったからいいの! もう、父さまなんて一人で御飯食べれば良いんだから」
ルイズが乱入してきて話は強制的に終了となった。とっとと一人で外の広場へ向かうルイズを追って公爵とウォルフも外へ出た。
「じゃあ、私はこれで。明日は午前中にガンダーラ商会の商館へお越しください。バーナード通りから一本入ったところにあります。今日この後寄ってご来訪を伝えておきますけど、こちらに寄越した方が良いですか?」
「ああ、ありがとう、大丈夫、わたしの方から行くよ。それじゃあ、気をつけて」
「失礼します」
ルイズはもう広場へ行ってしまったようなのでウォルフは公爵に別れを告げ、家路へと足を向けた。
翌日、祝日なので通常業務は休んでいるガンダーラ商会の商館にラ・ヴァリエール公爵を迎えたタニアは、その対応を決めかねていた。こういう時のために在庫には余剰を確保してあるし、ラ・ヴァリエール公爵ほどの立場の貴族ならば今後の事を考えて誼を通じておいた方が良い。
しかし、化粧品を欲しいと言うだけにしては公爵の目が真剣というか気迫を感じるのが気に掛かっていた。商会が懇意にしているツェルプストーとは仲が悪いと聞いているので何か裏があるのかとも勘ぐってしまう。
だらだらと話を引き延ばしていると、風メイジであるタニアの耳にウォルフが商館に入ってきた声が聞こえてきた。とっさに愛想笑いをして応接室に公爵を待たせ、ウォルフに現状の確認に行く。
「ちょっとウォルフ」
「あ、タニア。あれ? ラ・ヴァリエール公爵来なかった?」
「来たわよ、っていうか来ているわよ。っていうかあれどういう事よ。何で化粧品であんなにマジになっているの?」
「あー、よく分からないけど、よっぽど奥さんが怖いんじゃない?」
「どんだけ怖い奥さんなのよ…なんか裏があるんじゃないの?」
「カール先生は信頼できる人物だって言ってたよ。思惑はありそうだけど、便宜を図っておいた方が良いと思う」
「…それは何故? あなたがそんな風に言うなんて、何かあるの?」
いつものウォルフならば貴族の対応になど意見を言わない。貴族の情勢などについてはタニアの方が詳しいし、興味がないからだ。
「えーと、これは他言無用にして欲しいんだけど、ラ・ヴァリエール公爵の娘が虚無の担い手なんだ」
「……は?」
「虚無のメイジなんだ。今はスペルも分からないからただの魔法の下手なメイジだけど、将来ハルケギニアの中心人物になる可能性はあるだろ? 商会としては今の内に親しくなっておく方がいいんじゃない?」
「え、はあ?」
ウォルフとしては元々タニアの耳には入れようと思っていた事なのであっさりと話すが、タニアとしてはあまりにも現実感のない話に呆然としている。
虚無のメイジという存在は、それが実在するのならハルケギニアの政治情勢を左右するものになる。商会の代表としてタニアは知っておいた方が良いのだが、いきなり言われても理解が及ばない。
「本当、なの?」
「本当。一昨日虚無だって分かったんだけど、公爵も虚無の事について調べるって言ってるし、今後もっと詳しい事が分かるかも」
「あなたって人は、本当に。今度は虚無を連れてくるなんて……」
「いや、向こうから来ただけだから。一昨日から家でコモンマジックを教えているよ」
「はあー、分かったわ。失礼の無いように、最大限便宜を図る事にするわ」
会長室の金庫から化粧品セットを取り出し、自分を落ち着かせるように大きく深呼吸すると公爵を待たせている応接室へと戻る。ウォルフは自分の用事を済ませるため奥の部屋へと向かった。
「お待たせしました。済みません、休日で職員が殆どいないものですから」
「ああ、お気になさらず。押しかけてきたのはこっちですからな。それで…」
「はい。いま工場とも確認を取ってみたのですが、こちらの一セットだけなら融通できるそうです。ラ・ヴァリエール様とは今後良い関係を持ちたく存じますので、お譲りしたいと思います」
にこやかな笑顔と共にケースに入った化粧品セットを机の上に取り出した。ケースを開けて中身を見せるとその横にそっと請求書を差し出した。
このセットは「ファーストパック」から、継続して使用する必要のない商品を外し、その代わりに艶爪クリームや脂肪揉み出しオイルなどの新製品をセットした「デイリーパック」だ。ファーストパックよりは安価だが、化粧品としては法外な価格にも公爵は眉一つ動かすことなく小切手の束を手に取った。
「ところで…このように画期的な商品を開発できると言う事は、よっぽど優秀な水メイジを雇っているのでしょうなあ。発売以来これを模倣した商品は沢山売り出されたそうですが、効果においてガンダーラ商会に及ぶものは一つもないと聞いています」
小切手にサインをしながら、さりげなく公爵が切り出した。
「え、ええ、確かに開発したのは水メイジですけど、当商会の持つ先進の魔法技術がベースになっています。余所では中々真似できないでしょうね」
「その水メイジはやはり、メイジとしてとても優れている方なのでしょうな。例えば、どんな病気でも治してしまう、とか」
何故だか急に公爵の視線が鋭くなる。タニアは慎重に言葉を選んで返答した。
「いえ、秘薬開発の方に重点を置いている研究者ですので、医学の方は経験がありませんわ」
「ほほう、秘薬研究者ですね。と、すると医薬品も扱っているのでは?」
「医薬品は当商会の取扱品目にはございませんですのよ」
「それはもったいないですな。実は私は水メイジでしてこれでも一流と呼ばれているのですが、その私から見てもこの化粧品は謎だらけです。ただ、私にもこれが人体について非常に詳しい人間じゃないと作れない代物だという事だけは分かります」
「ええ、それで?」
ますますプレッシャーを強める公爵にタニアは警戒を強める。ところが公爵は唐突にそれまでの鋭い視線を外し、その顔に沈痛な表情を浮かべた。
「実は、これは内密にして欲しい事なのですが、私の次女が幼い頃から原因不明の病にかかっております。十八歳になりましたが、医者からは成人までは持たないだろうと言われていた程です」
「まあ、それは…おいたわしい事でございます」
「平穏にしていれば屋敷の周りを歩いたりするくらいは出来るのですが、何の拍子で具合を崩し寝込むか分からない。名医を招聘しても高名な水メイジに教えを請うても原因は一向に分かりませんでした。娘を治療できる可能性について、私はどんな些細な情報でも求めているのです」
そう語るラ・ヴァリエール公爵の様子は真摯で、とてもでたらめを言っているようには思えない。しかしそうは言ってもサラを外部の人間に「sara」の開発者として会わせる訳にはいかない。サラにどんな危険が降りかかるか分からないからだ。
公爵はサインを終えた小切手をテーブルの上に載せ、タニアへと差し出した。そこには請求書の倍額が記入されていた。
「この化粧品の情報がガンダーラ商会にとって機密だという事は理解しているし、こちらに都合の良い申し出だという事も分かっている。秘密は守る。報酬もそちらの望むだけだそう。頼む、この開発者に会わせて欲しい」
公爵家当主に頭を下げられるというのは、普通の商人ではまず経験し得ないレアな体験だ。公爵の要求はこの化粧品の開発者に病気の娘の診察をして欲しいと言う事。
人の命が関わる事でもあり、無碍に断る訳にも行かずさりとて二つ返事で了承する事も出来ず。タニアは困り果てる事になった。