働いている人にとって、一番幸せな日は何か。
お休みの日、というのも素敵だけど、それは二番目だ。
一番は何と言ってもこの日だと思う。
その日の夜、晩御飯後の時間。ホールに集まったのはヴァリエール家の使用人一同。皆の表情は、例外なくどこか嬉しげだ。そんな緩んだ面々に対し、家政婦の代理であるメイド長の呼び出しがかかり、それに従って呼ばれた人はそのデスクに赴く。
「次、ナミ」
「はい」
スカートの裾を持ち上げて、ちょっと気取ったご挨拶。
リストを見ながら皮袋の中身を確認し、私に差し出すミリアム女史。
「今月もご苦労様。来月もよろしくお願いします」
「はい、ありがとうございます」
両手で受け取り、最敬礼。
ひゃほ~、お給料だ!
ヴァリエールの家は、トリステインでも屈指のお金持ちだ。土地が肥えているので作物は良く実るし、街道があるので商業も割と盛ん。特にゲルマニアとの交易については非常に重要な土地なので、黙っていてもばんばんお金が貯まる土地柄なのだそうな。
そんな土地だから商人の出入りも多く、ヴァリエールのお城にも結構頻繁に売り込みの商人が押し掛けてくる。
雇い主である家がお金持ちであれば使用人のお給料も総じて高い、と来ればいいのだけど、お金持ちはお金を使わないからお金持ちという訳か、私たちのお給料についてはまあ普通より少しいいくらいの水準。締めるところは締めるのがヴァリエールの家風なのだろう。奥方様からして厳格な方だし。
実際、私がいただく3分の2は王都の実家に送金しているんだけど、ヴァリエール家ではそれを天引きでやってくれるから非常に助かっている。ヴァリエールの家紋が入った荷物に手を出す命知らずはいかに山賊でもそうは多くないだろうから、こちらとしても本当にありがたいと思う。
送金されたお金は、実家の方で貯金してくれている約束になっている。
これは我が家の家訓というか、おじいちゃんの定めた大方針に基づくものだ。
ある日、おじいちゃんは私に向かってこう言った。
『いいか、ナミ。お前が仕事に就いたとき、やらなければならないことが3つある。1番目は貯金、2番目は貯金、そして3番目にやらなければならないことが…………貯金だ』
何だ、貯金ばっかりじゃないかとその時は思ったけど、これは実は深い意味があった。
人は誰でもいつか本当にやりたいことに巡り会うのだそうだ。
それは商売を始めたり、騎士を目指したり、あるいはお嫁さんをもらったり等々。そういう時、一番必要になるのはやっぱりお金だ。お店を出すにはもちろんお金がかかるし、騎士になるのなら鎧や武器を買わなくちゃいけない。結婚するのも持参金とか何だでいろいろ物入りと聞く。だから、心からやりたいことが見つかるまでは、ひたすらお金を貯め、そういうのに出会えたらそのお金でやりなさいという事らしい。仮にやりたいことに出会えなくても、そのお金で老後を穏やかに過ごせばいいとか何とか。
さすがにそこまで未来のことは判らないけど、無駄遣いしてあとで困るよりはよっぽどいいと思うし、商売の成功者と言われるおじいちゃんの言葉なので素直に従っておくべきだと私は思っている。
私としては今のところは住むところと食べるものに困っていないし、小間物を買うくらいしかお金の使い道も特に思い浮かばないので今の生活には満足している。
そのうち、私にもやりたいことが見つかるのだろうと今は信じたい。
お給料日の夜、使用人ホールは自然発生的な社交サロンと化す。月に一度羽目を外していい日という感じで、お酒を飲んだり、集まっていろんなことを話し込んだり。
男性使用人と女性使用人にとっては出会いの場であると同時に、相手を品定めするひと時でもある。
そんな面々の娯楽として、最も人気があるのがカードゲーム。要するにギャンブルだ。
ギャンブルとなると、私はちょっとうるさい。
実は、私のおばあちゃんはギャンブラーだった。
街から街へ流れる旅のギャンブラーで、おじいちゃんに出会うまではその道ではちょっと知られた人だったらしい。
おじいちゃんに聞いた話では、王都でおじいちゃんに出会い、おばあちゃんがおじいちゃんに一目惚れして、ギャンブルから足を洗う代わりに嫁にしてくれと言って来たというのがなれ初めだったとか。
でも、おばあちゃんサイドの説明では話が違い、『俺が勝ったら嫁になれ』という条件でおじいちゃんがおばあちゃんに勝負を挑んで勝ったということになっている。格が違うのでおじいちゃんは全然勝てなかったんだけど、そのあまりのしつこさに根負けして、わざと負けてあげたんだとか。
真実は闇の中だけど、どっちの理由でもこっちは背中がむずむずするようなお話だと思う。
ちなみにこれには続編があって、私のお父さんとお母さんについてはおばあちゃんが一夜だけギャンブラーとして現役復帰し、酒場で『私が勝ったら私が言うことを何でも一つ聞いてもらう』という条件でお母さんと勝負して、圧倒的に勝って『うちの息子の嫁になれ』とやったらしい。
何でも、お父さんが商隊を組んで遠征する際にお母さんの傭兵隊に護衛を依頼した時、お父さんもお母さんもお互い一目惚れしたくせに二人そろって相手に打ち明けられずに悶々としていたので、見かねたおばあちゃんが介入したのだそうだ。
つまり、ギャンブルがなければ私はこの世に生まれなかったという訳らしい。
私は、そんなギャンブルの女神ともいうべきおばあちゃんの孫……なはずなんだけど。
「毎度言うがな、ナミ」
ため息交じりにソフィーが言う。目の前にはチップがどっさり。
それに対して、私の前にはかなり心細い数に減ってしまったチップ。
「お前、本当に博打に向いていないぞ」
「ぐ……」
おばあちゃんは天才的なギャンブラーだった。それは確かなことだ。
でも、問題なのは、おばあちゃんは天才的でも、お母さんはその真逆のギャンブル好きだったということだ。
下手の横好きがしっくり当てはまるくらいお母さんには博才がなくて、でも好きで、そのせいで素寒貧になることが多かったらしい。お父さんと一緒になってからは誰にも言われてもいないのにギャンブルから全面的に足を洗っているけど、結婚前はずいぶんすごかったんだそうだ。お母さんの独身時代最後の勝負になったおばあちゃんとの勝負の時は、周りの目があるのに下着になるまで注ぎ込んだんだとか。
その時の話だけど、傭兵だったお母さんは、傭兵なんてやくざな仕事してる女じゃ堅気のお父さんとは添い遂げられないと自己完結して自棄になっていたとも聞いている。その果てに勝ったおばあちゃんに、お父さんの嫁になれと言われて以来、本当にお母さんはおばあちゃんに頭が上がらなかったらしい。
でも、今問題なのはそんなお母さんじゃなくて、その血を色濃く引いてしまったこの身のことだ。
「こ、これから取り返すわよ」
「悪いことは言わねえ、現実を見ろってば。傷口は最小限にしとけ。な?」
一緒にやってるジャンの言葉も無視してカードを皆に配り、私も一枚手に持つ。
「さあ、勝負!」
私の声に、皆が一斉にカードをおでこにかざす。
これがおじいちゃんが教えてくれたカードゲームで、『インディアンポーカー』と言うゲームだ。
マイナーな遊びだけど、単純で面白いんだ、これ。
皆のカードを見ると……うう、これを相手に突っ張るのか……。
でも、ここで引いたらまた私がびりっかすだし。
女は度胸、と思って私は突っ張った。
「だからやめておけと言ったのだ」
きれいにチップを巻き上げられて、すっからかんになってしまった私。
1位はソフィー、2位はジャン、3位はシンシア。ここまではいずれもプラス。要するに、私の一人負けだ。
「ぐぐう……今度ばかりはおばあちゃんの血が目を覚ますと思ったのに」
「いつ目覚めるか判らないものに何かを託すのはやめろって。第一、お前顔に出すぎるんだよ」
ジャンの言葉にシンシアも頷く。
「不利になると、本当に不利だ~って表情になるものね。今月も御馳走様」
「うう。こんなはずでは……」
私たち子供はお金は賭けないけど、その分罰ゲームを設定しているのでそれ相応のペナルティはある。この場合、一人負けの私だけがペナルティだ。
おばあちゃん、ごめんなさい。不肖の孫は、また苦杯を舐めました。
「そもそも、本当に強いというのは、ああいうのを言うんだろう」
ソフィーが指差す先にいたのは、いつも通りにクールビューティーなミリアム女史だった。
「コール」
優雅な手つきでカードを広げると、対戦相手と黒山の人だかりのような周囲から怒号と悲鳴、そして感嘆のため息が漏れる。
目の前にあるのはチップの山脈。同僚相手でも容赦がないところが素敵だと思う。
難攻不落、不敗の魔女と言われるミリアム女史は、毎月この時間になるとブルジョワの仲間入りをする。
最初はミリアム女史の気を引こうと勝負を持ちかけた人がいたんだそうだけど、それが返り討ちにあい、なら俺が、いや俺がとやっているうちにミリアム女史の実力が表面化したらしい。何しろクールな人だから、表情が読みづらい。おまけに妙に引きが強いようで、滅多なことでは負けないらしい。
「今月は、もうよろしいですか?」
挑戦者を視線で問うけど、もはや立ち上がる気力がある人はいないようだ。
結構な儲けになっているけど、女史はそれを自分の懐に入れるのではなく、使用人名義で別に取っておき、生誕祭の際にみんなのパーティーの費用として一気に放出するから立派だと思う。
そんな時だった。
「お、いいこと思いついた」
私の隣に座るジャンが閃いたように立ち上がった。
何事かと見つめる私たちのよそに、そのままずんずんと歩いて行った先を見て、私たちは思わず息を飲んだ。
そこに、アランが同僚と談笑している様子が見えた。
あの馬鹿、何を企んだのだろう、と思う必要もなかった。やろうとしていることは残念ながら手に取るように判ってしまった。
「ど、どうする?」
二人を振り向くと、ソフィーもシンシアも難しい顔をしていた。
「妙な真似はやめろと言いたいところだが……」
「その結果を見たいのも事実よね」
何てひどい奴らだろう、と思ったけど、私もまったく同感だ。
そんな私たちの見つめる前で、ジャンがアランを口説き落としてメイド長の前に引っ張って行った。
「メイド長」
片付けに入ろうとしているミリアム女史がジャンの声に顔を上げ、アランの姿を見て動きを止めた。
「どうしたのですか?」
「もう一勝負どうですか?」
「貴方がですか?」
「違いますよ。先輩とです」
ジャンがアランを前に出すと、ミリアム女史の表情に若干の動揺が見えた。対するアランの方も困った顔を隠そうともしない。
「いや、だから僕は余財がないんだよ」
アランのことだ、恐らく画材に使っちゃうのだろう。
「そんなの、負けなければいいんですよ」
ジャンが半ば強引にアランを着席させる。そんな様子に、周囲からもやんやの歓声だ。
「それでルールですけど、先輩が勝ったら、休みの日にメイド長を一日エスコートできる権利ってのでどうですか?」
その言葉に、周囲のボルテージが一気に跳ね上がる。女性使用人あたりからは黄色い声の大嵐だ。
「ちょ、ちょっと待ちなさい!」
慌てるミリアム女史の声が周囲の歓声にかき消されていく。
「あとは場代か……誰か、先輩に乗ってくれる人~」
そういってジャンが手近にあった帽子を回すと、皆が笑いながらお金を帽子に入れていく。
何だかやたら楽しそうだなあ。
メイド長は耳まで真っ赤になっているし。
でも、そんな様子も楽しくて、回ってきた帽子に私たちも小銭を入れた。
お給料日直後のお休みは天国だ。
シンシアも朝からうきうきと準備をしている。貴族なシンシアだけど、よそ行きの服はあまり持っていない。
私もよそ行きは夏用と冬用で1組ずつだけだ。
新しい服はもちろん欲しいけど、服は結構いいお値段するから仕方がない。
それでも、こういう日に着る服だから、それだけでその服はお気に入りになってしまう。
ああ、お休み。なんて素敵な響きだろうか。
「う~ん、まずはやっぱり櫛だなあ」
髪をとかしながら欲しいものを思い出していて、ちょうど使っている櫛のことを思い出した。愛用の櫛の歯がだいぶ欠けてしまっていた。
そんなことをぶつぶつとつぶやいている時だった。
「う~ん、やっぱり綺麗だよね、ナミの髪は」
髪をまとめていると、シンシアがしみじみした声で言う。
「何?」
「綺麗だって言ったの。そのブルネット」
「そう?」
私としては、髪を褒められるというのは結構珍しいことだ。実家にいた時はあまり気にならなかったが、勤めに出てからこっち、黒い髪の人に出会うことは滅多にない。トリステインでは多くの人が金髪か栗毛、まれに赤毛もいるけど、私みたいに真黒なのは結構珍しい。別にそれでいじめられる訳じゃないけど、少数派というのはいろんな意味で不利だ。例えば服装や装飾品。それらは大抵金髪の人を前提に作られているから私が付けてもあまりに似合わない。
この髪はお父さん譲りだけど、そのお父さんもそういう意味では結構苦労したいるみたい。お母さんは、そんなお父さんの髪の色をすごく気に入っていて、同じ色の髪をしている私に『我が娘ながら妬ましいねえ』と言って、たまに意地悪されたりする。
そんな髪の毛、私は肩のあたりまで伸ばして調整してるけど、シンシアの髪は背中の中くらいまである。綺麗な金髪は、まるで絹のように滑らか。ブラシを入れるとスーッと通る。本当に何の引っかかりもなく綺麗に通るのは本当にうらやましい。仕事の時は綺麗に結いあげているけど、もったいないくらいだ。
髪と言えば、ソフィーはブラウンだ。凛々しいあの子には良く似合っていると思うけど、あまり念入りに手入れしていないのは私と一緒だ。
「私は好きだよ、シンシアの髪」
「あら、ありがとう。まあ、お互い無いものねだりってところかしらね」
「もって生まれた髪だもの、大事にしましょう」
着替えが終わり、私とシンシアは急いで正門に向かった。
「お願いしま~す」
小走りに声をかける先には、一台の馬車が止まっていた。
荷台には大きなミルク缶が幾つも見える。
「おや、今日はお前さんたちか?」
「はい!」
御者台に座ったミルク商のおじさんが笑う。毎日お城にミルクを届けてくれるおじさんだけど、いつもこの時間ならば町まで馬車に乗せてくれる優しい人だ。
乗り心地はお世辞にもよくない馬車だけど、無料というところには代えられない。
私たちが二人して杖を振って荷台に飛び乗ると、おじさんが馬車を走らせ始めた。
馬車の旅は優雅なものだと思う。
景色を見ながらかっぽかっぽ。
真夏の青空の下、木漏れ日を感じながら城下に向かってごとごとと進む。深い夏の緑の匂いは、お城の中より外に出た方がやはり強く感じる。私は水のメイジだから草木の気配はよく判るほうだけど、夏の日差しの下で思い切り葉を伸ばす木々の生命力に触れると、こっちも元気が出てくるような気がする。
やがて道は森を抜け、畑作地帯の脇を抜けていく。こっちも作物が青々。今年も豊作だろうか。
その上を、白い羽を広げた大きな鳥が馬車に並走するように飛んでいく。
「うわ~、大きな鳥!」
「サギかしらね」
そんな感じに荷台でシンシアと他愛もない話をしながら、あっという間の30分。
二つ目の森の木々のトンネルを抜けたところに、城下の町がある。
ヴァリエール地方は交易も盛んなので、城下のこの町にも定期的に市が立つ。
今日はちょうどその市の日だったのか、石造りの家屋が並ぶ中、中央広場から大通りにかけて、いくつもの出店が並んでいた。店を張る商人は幾ばくかの税金を払って店を出すんだけど、ヴァリエール領はその税金が安いので、商人からは人気のある位置なのだそうだ。
王都にお店を構えるまでは、おじいちゃんもずいぶんお世話になったと聞いている。
いくつものテント風のお店が並ぶ市を、のんびりと歩く。
お肉やお魚、野菜に果物、日用品や装飾品。王都の市に比べればちょっと規模は小さいけど、品揃えについては充実していて必要なものは何でも揃ってる感じがする。
「いらっしゃい」
お花屋さんの花を眺めていると、店のおばさんが寄ってきた。
「どれもきれいですね」
「今年はよく咲いているからね。一つどうだい?」
「ご、ごめんなさい。お金があまりなくて……」
お部屋に鉢植えの一つも欲しいと思っていたところだったけど、さすがにそこまで予算はない。
「ははは、いいんだよ。余裕があるときにまた寄っとくれ。そうだ、お嬢ちゃん、ヴァノワースの丘には行ったかい?」
「いいえ」
ヴァノワースの丘は、お城から歩いて半日くらいのところにある小高い丘だ。
「あの辺りの花が、ちょうど見ごろだよ。時間があったら行ってごらん」
「楽しそうですね」
そんなやり取りをしている時だった。
「ナミ」
「うわ!」
呼ばれて振り向くと、すぐ目の前に怪しげなお面を被った奴がいた。どこか南の国のお面だろうか。
「……何だか反応が予想通り過ぎてつまんない」
露骨に驚いた私に、何だか拍子抜けという顔でお面を外すシンシア。
「ちょっと、それってひどくない?」
「あら、いたずらは、相手もそれなりの反応してくれないとつまんないもの」
「ぶつぞ、こら」
そんな馬鹿なことをしながら、小間物を見つけて店先に並ぶ品々を物色する。
とりあえず、櫛が欲しい。
櫛は女の必需品。必需品なだけに小間物の中でも結構な種類がある。
「う~ん、どれにしようかなあ」
「ナミ、ねえナミ」
またいたずらされるかと思って警戒して振り向くと、シンシアが櫛を二つ持っていた。
同じデザインの、可愛い櫛だった。
「わ、可愛い!」
一個受け取って、デザインをつぶさに見る。
綺麗な彫が施され、貝殻の装飾がついた本当に可愛いらしい櫛だった。
一目惚れというか、一目見て、私の中の決定稿になってしまった感じだ。
「でしょ、でしょ」
「他のが霞んじゃうなあ……すみません、これ幾らですか?」
店の奥でツボを磨いていたおじさんに訊くと、返ってきた答えは私の予算にぴったり収まった。
決まりだ。これに決定。
「これ、ください」
「私も」
意外な一言に思わず隣を振り向く。
「シンシアも?」
「もちろん。私が見つけたんだもの」
嬉しそうなシンシアに、こっちも思わず笑ってしまう。
可愛い櫛が手に入り、気分は上々。今日の釣果は大合格だ。
あとはちょっと残念な方の買い物。罰ゲーム用品だ。
卵と砂糖、そしてお塩を買い込む。次いで、馬車でお世話になったおじさんのお店でミルクを買った。
お昼御飯は適当に買い食いして、帰りはまたお城に向かう八百屋さんの馬車に乗せてもらう。
時刻は夕方近く。
ようやくお城に戻って荷物を抱えてお庭を歩いていると、折よくルイズお嬢様が歩いて来るのが見えた。
ずいぶん機嫌がよさそうな顔をしておられる。
「あ、ナミじゃないの」
私に気づいて、足取りも軽く走ってくる。
「出かけていたの?」
「はい、ちょっと町までいろいろ買い物を。どうされましたか。ずいぶんご機嫌がよろしいようで」
「えへへ~。見なさい」
私の問いに、満面の笑みでルイズお嬢様は手にしていたお帳面を開いた。
「……うわ、すごい」
覗き込んだ私とシンシアは思わず感嘆の声を上げた。
算術の問題がたくさん書かれたそれに、全部正解のサインが書き込まれていた。
「これで3回連続で満点よ。母様にも褒められたの」
ルイズお嬢様は、魔法こそ苦手ではあるけれど、普通の勉強は実に成績優秀なのだそうだ。私も読み書きと計算はできるけど、まだ6歳のルイズお嬢様のやっている問題は、そんな私でも悩むくらいの難しいものだ。恐らく、生まれつきすごく利発な方なのだろう。エレオノールお嬢様も学院で主席と聞くし、やはりこちらの公爵家は聡明な血筋なのだろうと思う。
「素晴らしいです」
「さすがはルイズお嬢様」
ぱちぱちと手を叩いて素直に褒め称える私たちに、ルイズお嬢様が可愛らしい仕草で胸を張る。
「ふふん、当然よ。もっと褒めていいわよ」
舌足らずな口調でそんなことを言うルイズお嬢様。
ダメだ、堪えられない。そんなルイズお嬢様が可愛らしすぎて、私は思わず笑ってしまった。
そんな感じに得意満面のルイズお嬢様が、ふと、私の荷物に興味を示した。
「何、それ。ミルク?」
「ああ、これですか」
抱えたバスケットの中のミルクのボトルに、なみなみとミルクが詰まっている。結構重い。
「罰ゲームなんです。使用人同士の」
「罰ゲーム?」
妙なところにルイズお嬢様が食いついてきた。
「カードで私が負けたので、これを使っておやつを作るんです」
「へえ……美味しいの?」
「まずくはないと思いますけど……」
そこまで聞いて、ルイズお嬢様が楽しそうにお笑いになった。
「面白そう。私にも味見させなさい」
そう来るか。でも、これって庶民のおやつなんだけど。
「私は構わないのですが、お口汚しもいいところだと思いますよ」
「いいじゃない、ちょっとくらい。勉強ばっかりで疲れちゃったのよ」
確かに、これだけの問題で満点を取るというのは大変な努力が必要だったことだろう。
幸い、多少余計に材料は買ってきてある。いつもソフィーとシンシアとジャンの他にもおすそ分けしているから、その行先がルイズお嬢様になっても問題はない。
「かしこまりました。では、使用人を代表しまして、ルイズお嬢様の満点を讃える品ということでお味見いただきたいと思います」
「もう、安請け合いはナミの悪い癖だと思うよ」
隣を歩くシンシアが、ジトッとした目で文句を言ってくる。
「あそこまで言われてダメとは言えないわよ。ルイズお嬢様泣かせたら、エレオノールお嬢様におしおきされちゃうもの」
安請け合いはしたものの、庶民の食べ物をおいそれとルイズお嬢様に差し上げる訳にはいかない。
まずはメイド長に確認だ。ホールにいるメイド長をつかまえる。
「メイド長」
「どうしました。今日はお休みでしょう、貴方たち」
「それなんですが」
仔細をお話しすると、やや考え込むミリアム女史。
「貴方の作ったあれを、ですか」
メイド長も一度食べたことがあるけど、その時の評価は悪くなかった。
「ルイズお嬢様のたってのご希望なので」
「それは判りますが……」
しばし考え、ミリアム女史は顔を上げた。
「仕方がありません。キッチンの了解をもらいなさい。料理長の承認済みなら、問題はないでしょう」
「はい、ありがとうございます」
一礼し、私はふと思い出して言ってみた。
「そう言えば、ヴァノワースの丘ってあるじゃないですか」
「ええ。それが何か?」
「あそこが今、花畑がちょうど見ごろらしいです」
「そうですか」
ピンと来ていないメイド長に、ちょっと意地悪く言ってみる。
「せっかくですから、連れてってもらったらどうでしょう。バスケットにお昼御飯詰めて行くと喜ばれますよ、きっと」
そんな私の言葉に、メイド長は真っ赤になって慌てた。
「だ、黙りなさい!」
あの夜の事件は、『不敗の魔女の初敗北事件』として私たち使用人の間で語り草になっている。
いざ勝負となったときに、慌ててカードをこぼしてしまうメイド長は実に可愛かった。
せっかく公認なんだから、何とかうまくいって欲しいと思う。
用具を取りにキッチンに行くと、私と同年代のキッチンメイドが顔を出した。
「いらっしゃい、待ってたわ」
名前はジャンヌ。実はソフィーの同室の子だ。生活のサイクルが微妙に違うのであまり顔を合わせないけど、職場仲間では仲がいい子の一人だ。
「……何だか私が負けるの判ってたみたいに言うのね」
「だって、毎月のことだもの」
「むう」
こう言われては返す言葉がない。
「はい、いつもの」
渡されたのは、大小幾つかのボウルと道具類だ。
「ねえ、ジャンヌ。それなんだけど……」
ジャンヌに話を通し、料理長からお許しをいただこうとキッチンの中に入った。
キッチンでナイフを研いでいたでっかいおじさんにジャンヌが声をかけると、ずしんずしんと音を立てておじさんが私たちに寄ってきた。
「何だ、あれをルイズお嬢様に差し上げるだと?」
これがヴァリエール家の料理長のマイヨールさん。見上げるくらい体の大きな男の人で、声が大きくて顔もいかついけど、実はすごく優しい人だ。腕なんか私の胴体より太いのに物凄く緻密なお料理をする人で、私たちのおやつのお菓子も、ほとんどがこの人の作品。たまに実験作品としてすごい味のお菓子を作ってしまうのが困った点だ。
今回の私が作るおやつは、そのマイヨールさんにも以前味見をしてもらったことはあるので細かく説明しなくても大丈夫だと思ったんだけど、予想外にマイヨールさんは困った顔で腕を組んだ。
「う~む、でもなあ、あれを先に味わってもらっちまうのはなあ」
「何かまずいんですか?」
「あ~、あれ自体には問題ないんだがなあ……」
困っている料理長の隣で、ジャンヌが笑った。
「あれ、料理長がアレンジして、きちんとしたデザートとしてご一家の夕食にお出しする計画だったのよ」
「本当?」
あまりのことに心底びっくりした。
うっかりしたものを出すと簡単にクビになっちゃう料理人なのに、あれをデザートに出すというのはすごい冒険だと思う。
「ん……まあな。まあ、あのままじゃお出しするわけにゃいかねえが、それなりに体裁を整えればいっぱしのデザートになると思うからな。いきなり出して公爵様ご一家を驚かせようと思ってたが、ここはしょうがねえ。もともとはお前から教えてもらったもんだ。腕を振るって御馳走して差し上げてくれ」
「はい、頑張ります」
お夕飯が終わったところで、道具を抱えてシンシアと一緒にルイズお嬢様の部屋に伺った。
今夜はちょっと蒸し暑いので、ちょうどいいだろう。
「ここで作れるの?」
「はい、どこでもできます」
持ち込んだワゴンの上で作業開始。
まず、卵を黄身と白身に分けて、白身をボウルで泡だて器を使って丁寧によくかき混ぜる。この作業が舌触りを決めると言っていい。
次にそこにちょっとずつお砂糖を入れる。程よく泡立ったところに黄身とミルクをどばっと投入。おじさんの家のミルクはコクがあるから、こういうお菓子にはよく合ってくれる。クリームを使わなくてもいいくらいだ。
この時点で撹拌をシンシアに頼み、私の方は別作業。大きなボウルにお水と、魔法で作った氷を入れてその真ん中に小さなボウルを置く。
そして、お塩。適量を氷に丁寧に振る。
これで準備は完了。
小さなボウルにかき混ぜた材料を入れて、木べらで中をゆっくりかき混ぜる。
ぐ~るぐ~る、ぐ~るぐ~る。氷水が入ったボウルの外側についた水滴が、氷の冷たさで凍り付いていく。順調だ。お塩を振った氷は恐ろしく冷えるからだ。その冷たさが小さなボウルに伝わって周りからだんだん凍ってくる。
それを木べらでかき落とすように混ぜ続け、冷え具合が足りない時は魔法でサポート。
そんな作業の様子を、身を乗り出すように見つめているルイズお嬢様。これは期待を裏切るわけにはいかない。
そんなぐるぐる作業だけど、大体15分もするとボウルの中身はすっかり粘り気を帯びたペーストに仕上がってくる。
これが、おじいちゃんがよく作ってくれた氷菓子で、『アイスクリン』という。暑いときにはよく作ってくれた氷菓子だ。氷を作るのはもっぱらお母さんだったけど、お母さんも好きなおやつだから積極的に参加してくれていた。
暑い今の季節にはもってこいのお菓子だけど、やってるこっちは結構疲れる。水のメイジらしい罰ゲームと言えばまったくもってその通りだと思う。
でも、皆には好評で、たまに罰ゲームとは関係なく誰かの誕生日とかに注文を受けることもあるくらい人気がある。
「はい、お待たせ致しました」
ガラスの器に出来上がったアイスクリンを載せ、スプーンと一緒に差し出す。
「では、味見をお願いいたします」
「ふ~ん……変わったお菓子ね」
不思議そうな顔をしたルイズお嬢様はしばらくそれを眺めていたけど、意を決して一匙すくって口に含んだ。
ありゃ、一気にそれでは多すぎますよ、ルイズお嬢様。
「ひゃん、冷たーい!」
口の中の冷たさに、ルイズお嬢様が酸っぱいものを食べたように顔をしかめた。
「ちょっとずつお召し上がりください。溶けかけが一番美味しいと思います」
「そういうことは食べる前に言いなさいよ、まったく……でも」
2口目は慎重に舐めるように味わい、にっこりと微笑むルイズお嬢様。
「すごく美味しいわ、これ」
「気に入っていただけて何よりです」
一礼して、私たちは笑った。
夏の終わりの、そんな一日。