毎日というのは、少しずつ違う日だ。
まるでその日のお天気のように、素敵な日もあれば、泣きたくなる日もある。
その例えで言えば、その日はひどく冷たい、雨が降る日になるのだろうか。
その日の朝は、派手なラッパの音から始まった。
いつもの起床時間よりだいぶ早い時間だが、私もシンシアも既に着替えは済んでいる。今朝の服装は、メイド服ではなく男装のような動きやすいズボン姿だ。
ラッパの音に応えるようにドアを開け、集合場所である使用人ホールを目指すが、同じように女性使用人が一斉に自室から飛び出しホールに向かって走っている。いつもなら足音を立てることすら怒られるが、今日だけ別だ。
途中でソフィーとジャンヌと合流するけど、お互い目礼するだけで言葉は交わさない。私語は禁じられているからだ。ジャンヌは途中で離れて厨房へ。糧食班も今日は大忙しだろう。
そのまま使用人ホールに入ると、あらかたの使用人が既に集まって、それぞれの班長が点呼を取っていた。私の班長はブローチ組の先輩エレナ女史。長身の18歳で、メイドの中では中堅どころだ。
点呼が終わると全員整列し、その場の責任者であるメイド長に班長たちが各班ごとの集合状況を報告する。
全員揃っていることの確認が終了した時に、ヴァネッサ女史がホールに現れた。
その服装はいつもと違い、軽装ながらも金属の装甲の付いた戦闘服だった。ちょっと前までは女だてらに公領軍の重鎮だっただけあって、戦装束をまとった時の顔つきはいつも以上に厳しく、その眼光はまさに戦士のそれだ。髪の結い方も、兜を被る事を意識した独特のまとめ方になっている。今は引退して家政婦専任だけど、その凛々しさと覇気には欠片も陰りは見えない。
「女性使用人、欠員ありません」
メイド長が背筋を伸ばして報告をすると、懐中時計を見ながらヴァネッサ女史が頷く。
「定刻通りですね。結構です」
ヴァネッサ女史の言葉に、メイド長が号令を飛ばす。
「全員、持ち場に向かいなさい」
その声を受け、まるで全員が一つの生き物のように同じタイミングでそれぞれの持ち場に向かって走り出す。きちんと移動についても順序立てて訓練を受けているので、互いの動線がぶつかることもない。
私の班は、母屋の担当だ。具体的には、お守りすべき方々のお傍に侍るのがその担当。既に武装した兵士たちが要所を固めている廊下を走り、最短コースで目的の部屋に到着した。
「失礼致します」
お腹から声を出すような感じで班長がドアをノックしてドアを開けると、そこにいたのはルイズお嬢様だ。部屋の真ん中で椅子に座り、やや強張った顔立ちで入ってきた私たちを出迎える。
「ルイズお嬢様、避難案内担当のエレナ班、まかり越しました。避難場所までご案内申し上げます」
「ご苦労様」
それだけ言って立ち上がるルイズお嬢様の周囲を、私たちメイド衆が素早く取り囲む。この体勢の意味は、言うまでもなく弾除けだ。
ルイズお嬢様を中央に据えたまま、ルイズお嬢様の歩幅に合わせて部屋を出る。
兵士や使用人が慌ただしく行き来する物々しい雰囲気の廊下を出て、目指すところは敷地の中央にある堅固な塔だ。ヴァリエールのお城のすべての入り口から最も遠い位置にあるこの塔は、ヴァリエールのお城が攻められた時に最後の砦となる。その塔の中ほどの階層にあるスペースが、公爵家の姫君の避難場所になっている。
扉を開けると、中には既にカトレアお嬢様が到着されていた。数名の侍女も周囲に待機中だ。
実際にはヴァリエールのお嬢様方もある程度年齢も行けば前線に立つことも求められるのだろうけど、ルイズお嬢様は年齢的に、カトレアお嬢様は体力的な理由でこのお部屋に避難いただくことが戦闘時の役割だ。幼いながらもルイズお嬢様もその点はご理解されておられ、避難するだけであってもその表情は真面目そのもの。利発な方だけに、我儘を言うことで周囲がどういう影響を受けるかを理解されておられるのだろう。だだをこねたら奥方様にお仕置きされてしまうというのもあるのかも知れないけど。
そんな二人のお嬢様のおられる部屋で待機する私たち。最悪の時は、命を懸けてお二人をお守りしなければならない。これは雇用される際の約束事でもある。まして、私は公爵家からブローチをお預かりしている身の上だし、行儀見習いとして他家から預かっている貴族のメイドたちと違って使い勝手のいい平民だ。そう簡単に足抜けはできない。
避難が終わって数分後、頭の上でどかーんとすごい音が響いた。
塔の屋上部分にあるツィンネに備え付けられた大砲が発射されたようだ。
続けて三連発。むう。衝撃が壁を通り抜けてお腹にびりびりと響く。最初の一発で距離を測り、その後で一斉射撃を加えるのは砲術の手順なんだとジャンが言っていたっけ。風に乗って硝煙の匂いが部屋の中にも漂ってくる。
横目で窓の外を見ると、この塔だけでなく城壁の方も大騒ぎだ。多くの兵隊さんたちが走りまわり、チカッと光が見えるとやや遅れて轟音が響いてくる。爆炎ももくもくとすごい勢い。
それが終わると、今度はまた違った光が幾筋も走る。メイジ部隊の一斉射撃。
日頃の練習の成果を思い切り叩きつけているように、兵隊さんたちも非常に張り切っているようだ。
年に4回ほどある、公領軍の総合演習。現在行われているのは、そのうちの秋の大演習だ。
基本的に公領軍は本格的な戦争の際には傭兵が主体になるけど、その基幹になるのは公爵家が召し抱えている常備軍の騎士隊だ。日頃はお城からやや離れたところにある練兵場を兼ねた大きな駐屯地で寝起きしているけど、一朝事あらばこうしてお城を守ったり、公領軍の指揮系統の中核を担ったりする。ゲルマニアからの急な侵攻があった場合などは、傭兵団の手配や援軍の到着まで国境を支える精鋭部隊でもあるからその練度はかなりのものらしい。
素人の私には専門的なところは判らないけど、遠くから見ていても移動の速さや部隊の連携はまるでそれ自体が一個の生き物になっているかのように無駄がない。なるほど、貴族様が抱える兵団と言うのはこういうものなのかと感心する。元より武門の家であるヴァリエール公爵家の精兵なだけに、正直、あれを相手にする連中が気の毒な感じすらしてしまう。
そんな様子を遠くに見ながら時が過ぎる。次の私たちの行動開始時間までは、基本的に待機がお仕事。窓の外を眺めているといろいろ変化があって見る人が見れば面白いのだろうが、素人の私の目からは見ていても派手な攻撃以外は何をしているのかちんぷんかんぷんだ。
そんな私の思考を置き去りに、演習は順調に進む。要である城壁の方では守備の兵隊さんたちが幾度もいろんなことを想定して配置の確認をしているけど、公爵家の基本戦略は城壁の外での野戦で敵を食い止める事にあるらしく、その攻防の演習にはかなり時間を取って模擬戦が進められている。どういうことをしているのか興味はあるけど、さすがにそこまで距離があると城内の私たちにはあまり状況が伝わってこない。
お部屋で待機したしたまま緊張しっぱなしではさすがに限界があるので、昼食後の午後にはある程度力を抜くことも許されている。お茶が振る舞われ、交代で休憩を取る。
そんな休憩が終わると、私たちの最後のお役目がある。
頃合いを見て配られるのは、豪華な衣装とピンクブロンドの鬘だ。お嬢様たちと背格好の近いメイドを着飾って替え玉に仕立て上げる。非常時には、この格好で護衛を伴ってわざと城外に飛び出して敵の目を欺くのも私たち使用人の仕事だ。私はカトレアお嬢様と同い年なのに、何故か割り当てはルイズお嬢様役だった。そりゃあまり身長は高くないけど、幾ら何でもルイズお嬢様役は無理があるように思う。
似合わないドレスと鬘を被ると、それを見た周囲から笑い声が響く。当のルイズお嬢様からは指を指されて笑われる始末だ。
午後のお茶の時間も終わり、雰囲気も砕け始めたひと時。こうなってくると、張りつめていたルイズお嬢様の姿勢にもほころびが出始める。
「毎度のことだけど、待機してるだけって退屈ね」
椅子に座って足をぶらぶらさせながら、ルイズお嬢様が小さく呟かれた。
「ルイズ、遊びではなくてよ?」
「それはそうだけど」
カトレアお嬢様が窘めると、ルイズお嬢様は難しい顔で唸った。
確かにただ座っているだけと言うのは退屈だろう。でも、本当の戦闘になったら、そんな退屈以上に贅沢なことはないということはルイズお嬢様もご理解なさっておられると思う。
偉大なる退屈。
小競り合いと流血を隣人として暮らすハルケギニアにおいては、このようなことを退屈な時間は宝石より貴重なひと時であることは間違いない。
こういう訓練が、この先もずっと訓練のままで、そして退屈なものであって欲しい。
戦争なんていう悲しいことが、この微笑ましいお二人の頭上に降りかかって欲しくない。
楽しそうに会話を交わすお二人を見つつ、やたらボリュームのある鬘を直しながら、私はそんなことを思った。
大規模な演習の翌日は、公爵家はいわゆるお休みの一日になる。公爵様ご夫妻やお嬢様たち、そして公領軍の方々も今日ばかりはのんびりと骨休めだ。
嬉しいことに私たち使用人にも特別手当が出て、夜にはホールでのパーティーが許されているから働く皆も浮足立って、スキップしそうなくらい足取りも軽い。
そんなお休みの一日、私はルイズお嬢様の午後のお茶の席に呼び出されておなじみのお話をすることとなった。
今日ばかりは習い事もないルイズお嬢様。
クッションの利いた椅子に座って目を輝かせているルイズお嬢様の正面の丸椅子に陣取った。
「ものすごく退屈していたアリスでしたが、そこへいきなり白うさぎが走ってきました。それを見たアリスはとても驚きました。それというのも、そのうさぎが、何故か着ている着ているベストのポケットから懐中時計を取り出し、『どうしよう! どうしよう! ちこくしちゃうぞ!』と叫びながら慌てて駆けだしたからでした。アリスは大慌てでうさぎの後を追いかけました。うさぎはとても早くて、庭を抜け、植え込みをくぐり、森の中まであっという間に走っていきました。そんなうさぎをアリスは一生懸命追いかけて、大きな木の根っこのところにあった、これまた大きなうさぎの穴に飛び込むうさぎの小さなしっぽを、何とか見る事が出来ました」
「それってどういう木なのかしら?」
「恐らく、お庭の中で一番大きな木くらいの大きさではないかと思います」
「ふ~ん……それは大きいわね」
「はい。大きいんです」
お休みなだけにご要望のお話もちょっとしたおとぎ話ではなく、やや長めの物語を御所望だからこちらも気合を入れなくちゃいけない。なので、ここは私が知る中でも屈指の大ネタをご披露だ。
「それで?」
「アリスはそのうさぎの穴を覗き込みました。中は暗くて深くて、どこまで繋がっているのか判らないくらいで……」
そこまでお話しした時、ノックの音が聞こえた。
「もう、これからってところなのに。誰かしら」
可愛らしく怒っているルイズお嬢様を置いて、私はドアに向かった。
ドアを開けると、そこにカトレアお嬢様が立っておられた。
慌てて脇によけて一礼。そんな私を気にも留めず、部屋に入られるカトレアお嬢様。その横顔に、いつもは感じない奇妙な違和感を感じた。何だか変だ。表情が、物凄く辛そうに見える。
「ルイズ」
表情と同様に沈んだ声で、ルイズお嬢様に声をかけられた。
「どうしたの、ちいねえさま?」
ルイズお嬢様の言葉に戸惑うように言葉を詰まらせ、やがて意を決したようにカトレアお嬢様は仰られた。
「今、学院の方から連絡があったの……」
次いで耳に届いたその言葉を、私は一度では理解できなかった。すべてが耳を滑ってよそに流れていくような、奇妙な感覚だった。
それくらい、その言葉は聞きたいくないものだった。
でも、カトレアお嬢様が仰った言葉は紛れもなく現実で、そして、まるで刃物のように硬くて、恐ろしくて。静かに耳に入りこんだその言葉は、霜が降りるようにゆっくりと私の中に鎮座した。
「エレオノール姉様の使い魔が、亡くなりました」
その知らせは、風のように使用人たちの間にも広まった。今夜はパーティーだ、という浮かれた空気は一気に萎んでしまい、ごく自然にパーティーは中止になった。当然だと私も思う。こんな気分で皆で楽しもうとしたって心から楽しめやしないだろう。
私が一度だけ会ったことがある、黒い小さな使い魔のノワール。彼がもうこの世にいないのだということが、現実感を帯びずに私の中でぐるぐると渦巻いていた。
エレオノールお嬢様が乗った馬車が母屋の前に到着したのは、翌々日の朝だった。
いつものように使用人は並んでお出迎えをするが、ブローチの有無にかかわらず、皆の表情は一様に沈痛な感じだ。
エレオノールお嬢様は、基本的に人当たりがきつい。本当に言いたいことをあけすけにズバズバ仰る方だ。使用人に対しても当然そういう意味では容赦がないけど、でも、その振る舞いは、どれも公爵家長女として課せられた貴族としてのあり方を忠実に行っているだけだというのは皆知っている。気性が激しいように見えて、根は優しい方だ。私が蜂に襲われた時もそうだ。普通なら『ご苦労様』の一言だけで、自ら使用人の部屋に乗り込んで来たりはしないだろう。使用人の誰もがそのことを知っているだけに、皆エレオノールお嬢様の心情を察して心を痛めていた。
馬車を下りられたエレオノールお嬢様に、一斉に首を垂れる私たち。皆の袖には喪章。誰が始めたわけでもなく、皆が自然と身に着けてお出迎えに出て来ている。
その使用人の間を、エレオノールお嬢様はいつも通りの歩みで母屋に入られた。
出迎えられたのはカトレアお嬢様と、その陰に隠れるようなルイズお嬢様だ。
「今戻ったわ」
凛として帰宅の挨拶を述べられるエレオノールお嬢様に、カトレアお嬢様が抱き着いた。その脇に、ルイズお嬢様が追従する。
「私は、何と言えばいいのかしら」
「エレオノール姉様、元気出して」
今にも泣き出しそうな二人の言葉だったけど、でも、エレオノールお嬢様の返答は意外なものだった。
「余計な気を回さなくていいわよ。使い魔が死んだくらいで大げさな」
不機嫌そうなその言葉に、ルイズお嬢様が身を震わせた。カトレアお嬢様の身を離し、一つ息をついてエレオノールお嬢様が言う。
「父様と母様に挨拶してくるわ」
それだけ言うと、エレオノールお嬢様は力強い足取りで歩いて行った。
エレオノールお嬢様の御帰還に合わせて、噂は程なくぽつぽつと聞こえてきた。
私がノワールと会った時は気が付かなかったが、彼は召喚した時から体が弱く、先天的な病気を抱えていたのだと。妙に大人しい子だと思ったけど、もしかしたら、その原因は彼の健康にあったのかも知れない。投薬も相応に行ったそうだけど、専門家に見せても延命は難しかったのだそうだ。日を追うごとに徐々に寝込むことが増え、最期はエレオノールお嬢様の居室の彼の寝床で、静かに眠るように逝ったのだそうだ。
そんな彼の葬儀は、粛々と執り行われた。
弔問まではなかったものの、縁のある貴族の家々からお悔やみの手紙や供物が届く傍ら、お城の中の寺院でお身内だけの静かなお式が執り行われた。
司祭が詠みあげる聖典の文言が厳かに御堂に響く中、喪服をまとったヴァリエール家の方々の前に、夭逝した使い魔の棺が置かれている。小さな棺に入った小さな黒い使い魔は、この後敷地のはずれにある使い魔塚の後ろにある墓地に葬られ、多くの先輩たちの仲間入りをする。
埋葬が終わり、最後の祈りが終わったあとで一つ息をつくエレオノールお嬢様。ご家族の方々のお言葉を静かに受けられながらも、エレオノールお嬢様の表情はいつものそれとあまり変わらなかった。そのことが、ちょっとだけ心の片隅に引っかかった気がした。
「ねえ、シンシア」
「何?」
お式の後片付けをしながら、隣のシンシアに話しかけた。
「死んじゃったんだね、あの子」
私の言葉に、シンシアも表情を曇らせる。
「そうだね。可愛そうに」
「可愛い子だったのにね」
「本当に可愛かったね。やっぱり、可愛すぎると、神様はお傍に置いておきたくなっちゃうのかな」
シンシアはそう答えると、ふと手を停めて宙を仰いだ。
「エレオノールお嬢様、お辛いでしょうね」
「そりゃそうだよ。あんなに仲が良さそうだったんだし」
シンシアが抱き上げていた黒猫が、エレオノールお嬢様が現れるや腕の中から飛び出して駆け寄っていった景色が脳裏をよぎる。
「実はあれ、ちょっとだけショックだったんだ、私」
意外なシンシアの言葉に思わず私も手を停めてしまった。
「私って、これでも結構動物には好かれる性質のつもりだったんだけど。やっぱりあれね、メイジと使い魔の絆には勝てないなって思ったわ」
ちょっとだけ悔しそうに笑うシンシアだけど、メイジと使い魔は一心同体だ。その関係に余人が介入する余地はないのだから仕方がない。
でも、その使い魔を失いながらも、エレオノールお嬢様はいつもと変わらぬ様子だった。その様子があまりにも自然すぎて、逆に不自然な気がしたのは私だけだろうか。
その日の夜。
翌日に備えて定刻通りに眠った寝入りばなで、私はゆさゆさと起こされた。
「ナミ、起きなさい」
「うにゅ?」
寝ぼけ眼で顔を上げると、夜着姿のメイド長が枕元に立っていた。
「……どうしたんですか?」
「一緒にいらっしゃい」
「はい?」
連れて行かれた先は、カトレアお嬢様の部屋だった。
「夜中にごめんなさいね」
真夜中、日付が変わってちょっと経ったあたりだ。まさに夜も絶好調と言う時間に、やはり夜着姿で起きていたカトレアお嬢様。
「何事でしょうか?」
こんな夜中に私なんぞを叩き起こすような用事だ、何かよほど妙な事態が起こったのだろうと思う。そんな感じに肩に力を入れている私にカトレアお嬢様が仰った言葉は、予想のはるか上をいった。
「ナミ、貴方に姉の傍にいてあげて欲しいの」
唐突な展開に、私は首を捻った。
「私がですか?」
正直、メイドの中で私とエレオノールお嬢様の接点は特段多くないし、先輩方の中には、私よりよほどエレオノールお嬢様と付き合いが深い人も少なくない。それにも関わらずの指名に、私は戸惑いを隠せなかった。
「ですが、私のような若輩より、エレオノールお嬢様にとって気心が知れた先輩の方が適任だと思うのですが」
「いずれも遠ざけられているのです」
私の問いに、メイド長が応えた。遠ざけられる、と言うと、今は一人にして欲しいとでも言われているのだろうか。
「そうなの。私やルイズもね。『私は大丈夫よ。変に気を回さないように』って言われて」
確かにそうされるのはエレオノールお嬢様らしい気がする。
「でもね、平気なはずないのよ。姉は気難しい人だけど、決して強い人ではないのよ。こんなことがあったのだし、できれば、今は誰か傍にいてあげた方がいいと私は思うの」
そこで何故私に白羽の矢が立つのだろう?
そんな私の思考を読んだのか、カトレアお嬢様が答えを言ってくれた。
「誰にお願いすればいいか考えてたら、貴方の事を思い出したのよ。使用人の中で、貴方には姉はちょっと他の人と違う感じで接していたから、もしかしたらうまくいくんじゃないかと思って。貴方でもダメだったらどうしようもないんだけど、どうかしら」
そこまで考えての事なら、私に断る理由はない。ダメでもともとのお仕事なら、そう難しく考えなくてもいいようにも思う。エレオノールお嬢様に追い返されたら、その時はその時だ。
「私では、本当にお傍にいるだけくらいしかできませんが……」
「それで充分よ」
そう言うと、カトレアお嬢様一枚の毛布を私に差し出された。
夜の使い魔塚。
日中であっても静謐な場所であるこの塚は、夜となると月明かりを浴びて、どこかこの世のものとは思えないような幻想的な雰囲気を漂わせている。
その塚の前にある小さなベンチに、背中を丸めた細い人影が見えた。傍らにはワインの瓶と、中身が半分ほどになったグラスが一つ。落ち葉を踏んだ私の足音に気づき、振り返られた。私の姿を認めると、どこか疲れた感じのエレオノールお嬢様が呆れたようにため息をつかれた。
「こんな夜中に徘徊? あんたも変わった癖があるのね」
「お邪魔して申し訳ありません。そのままではお風邪を召しますので」
私が毛布を差し出すと、エレオノールお嬢様は苦笑いを浮かべられた。
「カトレアね」
「はい」
「お節介な子ね、相変わらず」
私が頷くと、ちょっとだけぶっきらぼうな感じに受け取って下さった。そのまま肩に捲くように羽織られる。
「これでいいでしょ。心配しなくても、もうちょっとしたら戻るわ」
それだけ言うと、エレオノールお嬢様は私から目を逸らされた。帰れと、その背中が語っている気がした。
でも、その背中はエレオノールお嬢様には不似合いなほど丸くて、頼りなさそうだった。こういう背中を一人にしておいてはいけないと恐らく誰もが思うような、そんな儚い後姿をエレオノールお嬢様は私に晒していた。
ふと、視線を使い魔塚に向ける。
一度だけ触れたことのある、小さな黒い使い魔。まだ幼くて、おとなしい猫だった。私が今でも覚えているのは黒い毛皮の感触と、陽だまりの暖かさ。彼は、もういない。
春の使い魔召喚でエレオノールお嬢様が彼と主従の絆を結んでから半年ちょっと。それは、メイジと使い魔の関係を考えると、お世辞にも長い時間ではない。
『メイジと使い魔は一心同体』という言葉が、私の中でリフレインする。そして、あの日に見た黒い使い魔を抱き上げたエレオノールお嬢様のはにかんだ様な幸せそうな顔が脳裏をよぎった。私がそこに感じたものは、溢れんばかりの愛情だった。その愛情が今、諸刃の剣となってエレオノールお嬢様を苛んでいるのだということは私にも判る。
「あの、エレオノールお嬢様」
思い切って声をかけると、エレオノールお嬢様は再び私の方を振り向いた。
「何よ?」
「うまく言えないんですが……」
一生懸命言いたいことを整理して、かけるべき言葉を探す。
「その……短い間でしたが、あの子は、幸せだったと思います」
「……どうしてあんたにそんなことが判るわけ?」
訝しむようなエレオノールお嬢様の視線を、目を逸らすことなく見つめ返す。
「判ります。あの時、同僚のメイドが抱っこしてても、エレオノールお嬢様が来られたら腕の中から飛び出して駆け寄ってました。ですから、きっとあの子、エレオノールお嬢様の事が大好きだったんだな、って……」
動物には好かれる性質だと言っていたシンシアを袖にしていったんだ、あの子がエレオノールお嬢様が嫌いだったわけがない。そんな私の答えに、エレオノールお嬢様は驚いたように目を丸く見開かれた。そして、少し考え込まれて宙を仰がれた。
「そうか……そうだったわね。あんた、あの子に会ったことあったのよね」
「はい。とても可愛い使い魔でした……残念です」
そんな私の言葉が、エレオノールお嬢様の中でどのように繋がったのかはその時は判らなかった。深くため息をつかれ、エレオノールお嬢様が語られる。
「あの子が死んでから、あんたが初めてよ。あの子の事を口にしてくれたのは」
「え?」
「学院でも家でも、皆、私のことは気にかけてくれたわ。気を落とすな、とか、元気を出すようにとかね。そんなことは言われなくても判っているのよ。私はヴァリエールの長女よ。こんなことくらいでめそめそなんてしていられるもんですか」
まるで自分に言い聞かせるように、エレオノールお嬢様が言葉を紡がれる。
「でも、私を気遣ってくれる人はたくさんいたけど、あの子の事を悼んでくれる人は誰もいなかったわ。そりゃそうよね。あの子、全然他の人に懐かなかったんだもの」
少しだけ寂しそうなエレオノールお嬢様の微笑みが、どこか悲しかった。
「そんなちょっと気難しい子だったけど、でも、できれば私以外の誰かにも、あの子の事を悲しんであげて欲しかったわ。せっかく私のところに来てくれた使い魔なのに、誰も悲しんでくれないんじゃ可哀そうじゃない。そんな勝手なことばかり思っていたのよ、私は」
それだけ言うと、エレオノールお嬢様は静かにルーンを紡いで杖を振られた。土魔法がお得意とは聞いていたけど、彼女の錬金を見るのは初めてだ。淀みのない流れで浮き上がった土がキラキラと輝き始め、宙で綺麗なワイングラスに変成されていく。
できあがったそれを手に取り、ワインを注いで私に差し出した。
「飲みなさい」
多分、差し出されているものは、ワインだけではない。これはエレオノールお嬢様が抱えておられる何かを、分かち合うことを許された証のようなものだと私は思った。
「……頂戴致します」
やけに苦く感じるワインを傾けている私に、エレオノールお嬢様が静かに言葉を続けられた。
本当に、ぽつり、ぽつりと。
紡がれるのは、短くとも楽しかった、使い魔との日々だった。
最初の頃は、トイレの場所を間違えて大騒ぎを起こしたこと。
朝、起床時刻の5分前になると寝ているエレオノールお嬢様の顔を両手で踏み踏みと押すこと。
お風呂に入れようとしたら凄まじい勢いで大暴れしたこと。
夏前には、抱っこする度にものすごい量の毛が服についてしまって困ったこと。
使い魔なのに感覚の共有以外にさして取り柄がないことを口にしたら、その言葉の意味が判ったのかやたらと申し訳なさそうな顔をして俯いて落ち込んでしまい、ご機嫌を取るのに苦労したこと。
庭の小鳥を狙って忍び寄って行って、飛びかかる直前に逃げられて、振り返ったら見ていたエレオノールお嬢様と目が合ってしまい、ばつが悪そうにその場でごろんと死んだふりをしてごまかしたこと。
わずか半年。それだけの間に織り成されたエレオノールお嬢様とノワールとの思い出の数々を、静かに語られるエレオノールお嬢様。
本来なら、その話はいつ尽きるともなく続くはずだったのだと思う。
でも、その言葉たちはやがて小刻みな震えを伴いはじめ、次いで言葉が言葉の体をなさなくなり、そしてただ静かな嗚咽に置き換わっていった。
名家の長女であるが故に自らにそれを許さなかった涙を、エレオノールお嬢様がはらはらと零していた。
月光の下、静かに涙を流されているエレオノールお嬢様の傍らで、私は夭逝した小さな使い魔を思う。
黒衣を纏った彼と会ったのは、たった一度きりだった。もっと機会があったなら、いろいろしてあげられたこともあったことだろうとも思うけど、それも今となっては詮無き妄想に過ぎない。
そんな彼のために同じ主に仕える者として私がしてあげられることは、彼の主であったエレオノールお嬢様のお傍にいてさしあげることくらいだ。
それが無力な私の、もういない彼にしてあげられる精一杯だった。
見上げると、そこに広がる星が散りばめられた夜空。
彼が昇ったその夜空から、彼が静かに彼の主であった姫君を見守っていると信じたかった。
晴れた夜空とは裏腹な、心は冷たい雨模様だった一日。