わたしは多分、この御屋敷で唯一ご主人さまに手をつけられていない使用人だと思う。
ジェニス、平民ゆえ名字もなにもないただのジェニスはそう結論付けた。
気だてが良くてむっちりとした体つきのアデラがお気に入りというのは見ていてわかるし、お堅いと噂のアリックスもご主人様は例外で。
そして、ついこの間屋敷に入ったばかりのヨランダが、昨日間違いなくご主人さまのお手がついたということで、また、ただ一人に戻ってしまった。
ジェニスが伯爵のお情けを頂いていない理由は顕著だった。幼いころの事故により顔や上半身に酷い火傷を負い、醜い傷跡があったからだ。胸の大きさや腰のくびれは標準以上でもあったが、男たちはジェニスの右半身を見ると、そういった欲望を減少させてしまうらしい。
らしいというのは、もちろん直接ジェニスが言われたことがないだけで、まあ察しているということなのだが。
そんなジェニスも不相応にも、厨房の使用人に恋をしたことがある……だが結果は明らかだった。気味の悪い化け物呼ばわりは、さすがに堪えた。もう、恋なんて絶対にしないと決心するほどには堪えた。
つけ毛とスカーフと長そでで隠せばなんとか見栄えはつき、裏方の細々としたメイドの仕事には美醜は問われないとはいえ、あの伯爵がジェニスを解雇しないのには、わけがあった。
先代の遺言である。
平民とはいえ、女の顔に傷をつけてしまったのは自分の至らなさのせいである、死ぬまで面倒をみてやるように。
ああ、先代は真の意味で女好きだった。
かくて、哀れな火傷娘はモット伯爵家に終生使えることとなったのである。まあ、これは今現在、実は解雇されない理由の一つでしかない。
傷跡のせいもあり、引っ込み思案で内気なジェニスは終生雇用ということへのやっかみ込で、屋敷で孤立していた。回される仕事といえば、浴場の掃除やカーテンの繕いや銀細工磨きやら、果ては他のメイドの服の修繕まで。
人目につかない所に追いやられ、見下されてこき使われる日々、唯一よかったことといえば、よりご主人様の寵愛を受けていると他のメイドと張り合わないですむことだけだろうか。
そんな、薄暗い毎日があの日あの時から変わった。
伯爵の蒐集品を集めた厳重な中にもさらに厳重に閉ざされた部屋、そこの整理と掃除を命じられたのである。「場違いな工芸品」とも言われるそれらは、いったい誰がどう描いたものか、あまりにも生々しい男女の姿がさらけ出された書物。
くねくねとしていたり、カクカクとしていたり、複雑に線がからみあう文字は、異国の文字だ。それが文字であるということはわかるが、ただそれだけの。
この時代、平民が文字を覚えるなど限られた者しかいないが、幸い終生雇用ということにされたジェニスには、後々も便利に使えるようにと文字と計算が教えこまれていた。
ふと、読んでみようと思ったのは魔がさしたのか、始祖ブリミルが背中を押したのか。
時間はなかった。
終生雇用とは、終生こき使われるということだ。
だが、作った。
恋をしたときの胸の高鳴りとは明らかに違う何かに、ジェニスは没頭していった。男を魅了する裸体を持つ女達に添えられた文章は、いったい何をつまびらかにしているのか、知りたかった。トリスタニアではない、トリステインではない、まったく別の……ロバ・アル・カリイエかもしれない(女達には黒髪もいた)……世界。
ジェニスは、ただの笑顔にしか見えなかったその奥に、作り上げられた笑顔を見つけた。
結局、当り前だが全てを読み下すことはかなわなかった。
何度も出てくる「、」や「。」が文章を区切るものだということ、文章の頭にある複雑な文字が、この女の名前で、その下に続く文章がその女が言った言葉ではないだろうか、くらいである。まったくそのままを書き写すことはできるが、口に出して発音することも読むこともできない。
さらに「が」や「は」は、どうやら文と文と繋げる役目があるらしい。この「は」がくせもので、文章の途中や頭に出てくると、その役目ではない……
語尾に多いのは「た。」「す。」「る。」……
いつしか、ジェニスは解読を諦め、「場違いな工芸品」の中身を想像するようになった。
それは夢物語。
その国には茶色や金髪、黒い髪と瞳の人がいて、少ない布地の不思議な縫製の服と肉感的な姿で男を惑わし魅了する。絵画よりもなおも精密な彩色の中に収まった異国の美姫達が、蕩けそうな表情の奥に毒牙を隠して、水辺や室内でほほ笑んでいる。
そして今、主である伯爵に「場違いな工芸品」がちょっと読めるなどと誤解されてしまったジェニスは、以前とは比べものにならないほど重用されている。
嘘か真かどうせ確かめるすべもないだろうと、ジェニスはその通りですという振りを続けることにした。これは確かに嘘だが、誰にも迷惑をかけない嘘だ。
異国の女達の爛れた淫らな生活を、想像だけででっちあげるのは存外簡単だったから(ご主人様の蔵書のそれ関係の充実率は素晴らしいです)。
思い浮かばなかったら、ここは読めませんと言えばいい。たった一つ注意するべきことは、同じ場所を「読む」時は、まったく同じ内容を言うことだけだが、これは自分の努力とご主人様の曖昧な記憶力でどうにかするしかなかった。
かくして、ジェニスを得て、さらに「場違いな工芸品」集めに精が出るようになってしまったモット伯爵である。
「これは読めるか? ジェニス」
「申し訳ありませんが、読むことができませんご主人様」
キラキラする金属のような光沢を持つ円盤、でも金属ではなく軽い。それが同じく金属ではない何か別の素材の四角い入れ物に入っている。その表面を彩るのは、東方の民族衣装っぽい何かをだらしなく着た女と後姿だけ登場のがっしりとした体つきの男。にぎにぎしい文字が派手に踊っている。
実際、わかるのは「、」で文章が二つに区切られていることだけだ。
「そうか」
「ですが、この入れ物に書いてある文字なら、なんとか読め……ます」
「なんと書いてあるのだ?」
「むちむち奥さま、うきうき間男狩り。いやよいやよ大好きよんです」
「む、お前は他ではまったくの役たたずだが、この才だけは優れているな」
「もったいないお言葉でございます、ご主人様」
「むちむち奥さまか……そうか……むちむち……」
今日もジェニスは、伯爵家で唯一お手のついていないメイドのままである。
終