一
それからいくつか決め事をして話し合いは終了となった。住む場所、食事、学院での立場、金の事など、魔神とは関係のない部分である。
住む場所については今彼が泊まっている来賓室。食事については、しばらくは昨日同様メイドが部屋に持っていくと言う形になった。
立場もそのまま、学院の来賓の異国の剣士という事である。少し違うのは彼の出自を細かく決めた事。出身地はロバ・アル・カリイエ、東方である。
コルベールが偶然旅先で百鬼丸の親と知り合い、その縁で魔法学院へ寄り、オスマンの好意で逗留しているということにした。もちろん全て嘘である。が統一させておかなければ襤褸が出る。
最後に金の事。オスマンはいくらか給金を与えようかと考えていた。いくら衣食住を保障しようとも、金があるに越した事はない。だがそれに対する百鬼丸の返事は簡単だった。
「家来じゃないんだ。金なんかいらん」
頑固に加え頭が固い。オスマンには金で百鬼丸を縛るつもりは更々ないのだが、百鬼丸は律儀にもそれを良しとしない。食事と住居に関しては与えるものなのに、とはオスマンも言わなかったが、鑑みるに、何かあれば働いて返すという気概なのだろう。
とはいえ、武器なり何なり恐らく必要になる事もあると、オスマンもコルベールも考える。そういった場合は、直接伝えてくれれば買い与えるという結論に達した。百鬼丸はそれすらも嫌がっていたようだが、魔神を倒す為の最低限の金である、と説明すると渋々ながらも頷いた。
二人が出て行った部屋の中でオスマンは一人目を瞑り、考えていた。魔神を討伐するための構想である。
現状詳細を知るのは百鬼丸とコルベール、そして自分のみ。いざとなれば止む無いが、コルベールを戦わせるのは酷だ。そして自分が動けば王宮の貴族は黙ってはいまい。無駄に長生きをすると、それだけで恐怖の対象になる。政治、力、この学院はオスマンを縛る檻に近い。動けるのは一人だけ。
差し当たってはもうすこし人数が欲しい。が当ても無い。いっそ捨て駒を、金で雇うのも手かもしれない。
いずれは王宮を巻き込み、軍人でも使いたいところではあるが、人の世を乱す魔神がいる、なぞと今報告しても信じてくれるはずもない。
恐らく王宮に住む頭の固い貴族達は、実物を見るなり、大きな事件が起こるなりしない限りは信じるはずもあるまい。今はまだ機ではないが、果たして何時その機がやって来るかもわからない。
ゆっくりと髭を撫でる。
問題がもう一つ、ルイズの事だ。彼女が大量の化け物を召喚したのは、多くの生徒が目撃している。なんと言って生徒達を説き伏せるか。彼女になんの処罰なく、学院に残すか。幾らか説得力のある理由が必要である。そして百鬼丸とルイズの関係。召還された事は黙っておくように、と彼にはきつく言ってある。ルイズの感情と、それを取り巻く環境とは複雑だ。百鬼丸を召還した事実を知った際、彼女がどんな行動に出るか分からない。そしてそれは百鬼丸の望むものでは無いだろう。魔神討伐に支障をきたす可能性は高い。どうしたものか。ルイズに限らず、使い魔とはメイジにとって重要なものなのだ。
今日は彼女達の学年の授業は全て休みにしてある。名目は、使い魔との交流の為の時間、という事にしたが、本音で言えば、問題の先延ばしである。早いうちに、いや、出来れば今日中に対策を練らねば。
煮詰まっている。
「のう、ミス・ロングビル、確かめたい事があるんじゃ。よいかの?」
いつの間にか部屋に入り仕事に取り掛かっていた、若く、美人で、有能な秘書に語りかける。彼女は椅子に腰掛け、自分の机の書類に向かって、何かをさらさらと書きこんでいた。挨拶が無かったのは気を使ってのことだろう。背筋は伸びており、足も綺麗に揃えて閉じ、スカートからすらりと伸びた長く白い脚が調度品のようで、オスマンには眩しい。
「ええ、なんでしょう? オールド・オスマン」
いぶかしみながらの返事。
ロングビルは常々、この偉大なる学院長のある行為に頭を悩ませていた。
尻を触るは当たり前、下着の色を確かめようと覗き込む、最近は彼の使い魔であるハツカネズミを机の下に忍び込ませる。部屋に忍び込まれ、下着を盗まれた事もあった。もちろん忍び込んだのは使い魔である。使い魔とはメイジにとっては重要なものなのだ。
さてそれは置いて、オスマンが気になったのは百鬼丸の左腕。軽く脅した際に、何かの音がした。金属の擦れる音。暗器だろう。
とりあえず机から大き目のペーパーナイフを二本を取り出しロングビルに渡す。
「ちょいとそこの扉の前に立って欲しいんじゃが、うむ、その辺でよい。渡したナイフをゆっくり擦り合わせてくれんか?」
「はぁ、よろしいんですか?」
「そんなもんいくらでもあるから多少欠けても構わんわい」
じゃり、と音がする。
少し違う。
「もうちょっと力を入れてもらってよいか?」
また違う音だ。あの時の音はもう少し重かった。仕込んであるものは一体何なのか。また暫く考える。
「あの、偉大なるオールド・オスマン、これは一体何の意味が?」
「ううむ、ちょっと待ってくれんか? もう少しで閃きそうなんじゃが……」
「はぁ」
「そうじゃ、次はもっと早くっ」
真剣な面持ちでそう頼んだ。もう少しだ。望んでいるものに近付いている。
何度も同じ動作を繰り返すように指示する。もっと早く、力強く、もう少しで。
「おほっ、良い揺れ具合じゃっ」
「のう、ミス・ロングビルや?」
「何でしょう、偉大なるオールド・オスマン?」
ぼろぼろになった顔を左手で擦りながら声をかけた。
「年寄りは大切に……、冗談じゃ、冗談。ええと、ミス・ヴァリエールをここに呼んできてくれんかの?」
がたっと音を立てロングビルは立ち上がる。椅子が勢いよく床に倒れた。
「次は生徒ですかっ、あなたという人はっ」
「いや、違う違う、誤解じゃ誤解っ、真面目な話じゃよっ」
まだ顔を抑えながら慌てて否定する。
とりあえず分かった事はある。暗器はナイフよりは余程大きい。
そして間違いなく、もっと痛い。
二
目覚めはルイズにとっては意外に爽快であった。眠れば嫌な事は忘れてしまうほど、自分は図太かっただろうかと少し悩んだが、それでも気分が悪いよりはましである。だが状況は昨日から何一つ変わっていないという事は、ルイズももちろん分かっていた。
召喚魔法自体は発動していたようなので、物は試しと起き抜けに呪文を唱えてみたが、結果は変わらず爆発が起こるのみ。轟音と、その意味する現実に一気に目が覚めた。
未だ魔法は使えず、使い魔も得ていない。殆どの学友達の、ルイズを恐れるような視線も相変わらずであった。
いや、一晩経って落ち着くどころか、あれこれといらぬ想像でもしていたのだろう、昨晩よりも恐れや困惑といった感情は強くなっていたように思える。朝食に赴き食堂にて浴びた視線からそのように感じた。
彼女に話しかけてくるものは誰一人としていない。
とは言え、彼女は魔法が使えぬせいで常にからかわれ、もとよりはみ出し者のような部分もあった。こんな事件が起こる前でも掛けられた言葉といえば嘲りの類が多かった。
しかし馬鹿にする言葉すら投げ掛けられないというのは、よほど彼女が恐ろしいのであろう。触れてほしくないので都合が良い、という強がりはあるが、何故か馬鹿にされるよりも辛く、寂しかった。
朝食を終え、授業へと赴く。
本日の授業は全て休講。使い魔との交流に当てるべし。
やってきた教師に開口一番にそういわれた時、ルイズは安堵を感じると共に、聡明な頭で休講の理由を察して、軽い自責の念に囚われた。爽快な目覚めに反し、時間が過ぎれば過ぎるほど、現実を目の前にするほど気持ちが暗くなる。
だが、陽は憎らしいほどに照っていた。
使い魔のいないルイズは、休講の建前である、『使い魔との交流』に時間を当てる事が出来ない。教師の言葉を聴くと、逃げるように一目散に部屋へと戻った。その小さな体で椅子を窓辺まで引きずる。そのまま腰掛け頬杖をつきながら、広場で使い魔と戯れる学友達を眺めた。
羨ましかった。悔しかった。悲しかった。
誰かと話がしたい。この苦しみを聞いて欲しい。慰めて欲しい。
いや、聞いてくれなくてもいい。ただ、誰かと話すだけで良い。
そんな軟弱な感情が生まれた事に驚く。素直に認める事は出来なかった。貴族とは強くあらねばならないと、彼女はそう考える。故に弱い己を認められない。
彼女の心は常に『貴族』にという言葉に縛られていた。そして己が貴族に足りぬと自覚すれば自覚するほど、彼女を縛る鎖は更に太く、強固になっていく。その事に気付いていながらも、貴族である彼女には鎖を脱ぎ捨てる事は出来なかった。
何をするでもなく窓の外を、手の届かぬその光景をただ眺め続けていた。
どれほどそうしていただろうか、ふと気がつくと広場の中に見覚えのある姿を見つけた。身を乗り出し目を細める。給仕をするシエスタだった。
彼女の黒髪はこの国では目立つ。姿はおぼろげにしか見えないが、遠目にも分かるほどの艶やかな黒髪。それだけでも十分に、彼女であると確信は持てた。
ぽつりと
「貴族は平民を大切にするのよね」
ルイズはそう呟く。誰かと話をしたいという欲求を解決するための言い訳だったのだが、それでも話す相手と理由を得た彼女は、その望みのままに、シエスタのいる広場へと向った。
三
広場には机や椅子などがいくつか出されており、紅茶を飲みながら、あるいは菓子をつまみながら使い魔の相手をしている者達も少なくない。折角の休息の時間をせめて有意義に使おうとしているのだろう。そんな生徒達にシエスタは給仕をしていた。
しかしどうにも使い魔達に落ち着きが無い。大きな使い魔が突然吼え、小さなものは辺りを忙しなく走り回る。空を飛ぶものはくるくると同じ軌道を描いているかと思うと、突然地面すれすれに滑空し、また同じ事を繰り返すなど、給仕がしにくくて仕方が無い。
契約を交わした使い魔と主人とは深く繋がっている。そのため使い魔の感情は主人の感情に大きく左右される場合が多い。使い魔の知性が高く、自立している場合はその限りでないが、知性の高い使い魔というのは結構に珍しい。
また、主人が使い魔を完全に御し切れているのであれば、使い魔の感情に関らず抑える事が出来るが、まだ若い学生達が使い魔を御しきるには、たった一日では時間が足りなかった。
生徒達を不安にさせている原因はもちろん昨日の騒動である。そしてルイズの感じた通り、彼らの不安は昨日に比べて一層酷くなっていた。
目にした不可解な出来事をあらん限りの想像力で補う。あれは何だと聞かれても誰も正確に答えられない。そのうち誰かが恐る恐る、思ったままに口に出す。あれは悪魔だ。ルイズが悪魔を召喚したに違いない。
なるほど、そのおぞましい姿と、それらを前に感じた恐怖を思い出せば、誰しも肯定するしかなかった。笑い飛ばす事など出来ない。
想像だけが一人歩きし、恐怖を膨らませ伝染する。今は済ました顔で過ごす生徒達も、その心の裡は小刻みに震えているのだった。
さてそんな中、ともかく給仕がしにくいとは思いながらも、使い魔にも主人である貴族達にもよもや文句を言うわけにもいかず、走り回る動物をかわし、恐ろしい咆哮に耐えながら、シエスタはなんとか給仕を務めていた。
やっとテーブルに無事辿り着き、ほっと息をついた。さて持っていたケーキを配ろうとしたところで、予想だにしなかった、突如地面が盛り上がる。シエスタは驚いて小さく声を上げた。
地面は更に盛り上がる。シエスタは体勢を崩し、盛大に後ろに転がった。あまりの驚きに悲鳴まで上げてしまったが、仕方が無いことであろう。ばっと体を起こし、怯えながらも盛り上がった部分に目を遣るが、土の瘤はそのままゆっくりと元の平坦に戻った。
なんだったんだろうと、地面に尻を着けたまま考えると、露になっている自分の足が目に入り、慌てて肌蹴たスカートを元に戻した。
「おい平民っ」
突然振ってきた怒声に顔を上げると、いままさに配膳しようとしていた貴族の少年が目の前に立っていた。シエスタを鋭い目で見下ろしている。黒いマントの隙間から見える上質そうなシャツに、チョコレートがべっとりとついていた。
何故怒鳴られたか理解した。健康な、少し陽に焼けた顔がみるみる青くなる。ばっと立ち上がり何度も何度も頭を下げた。
「もも、も申し訳御座いませんっ。どうか、どうかお許しくださいっ」
必死に謝るシエスタを、貴族の少年はじとりと冷たい目で眺めている。使用人にしては可愛らしい顔立ちと、先程露になった美しい脚を思い出し、少年は嗜虐的な笑みを浮かべた。顔を上げたシエスタの鼻先に杖を突きつける。
ひっ、と声を上げ、シエスタは尻餅をつき、そのまま体を引きずりじたばたと後ずさる。大きな瞳にはじわじわと涙が溜まり、今にも溢れようとしていた。何の力も持たぬか弱い少女が、貴族に杖を向けられたのだ。命の危険を感じずには居られない。
「ひっぅ、どうか、どうか命だけは……」
涙と息の混じったか細い声に刺激されたのか、少年はますますいやらしい笑みを作り、杖をシエスタに押し付けるようにゆっくりと近づいていく。騒ぎに気付いている生徒達も、まるでそれがただの見世物のように眺めるだけ。
少年に限らず、陰鬱とした気分を吐き出す捌け口が欲しかったのだろうか。笑っているものは多くいたが、止めようとするものはいなかった。
いや、一人
「やめなさいっ」
広場へと降りてきたルイズである。事の顛末は分からないが、広場に出て突如目に入った光景に、反射的に体が動いていた。
鈴のような声を今は強く鳴らし、その小さな体に見合わぬ毅然とした態度で近づいてきた。少年とシエスタとの間に体を捻じ込むと、きっ、力の篭った宝石のような瞳で少年を睨みつける。
「あんた恥ずかしくないのっ? 平民の、それも女の子を杖で脅すだなんてそれでも貴族? なによ、その目、どうせいやらしいことでも考えてたんでしょっ、最低っ」
「ミス……ヴァリエール?」
シエスタは驚く。涙にぼやけた視界の中央にルイズの小さな背中と、淡く輝く桃色の髪があった。
ルイズは威嚇するようにずんずんと体を前に押し出す。少年はルイズのあまりの剣幕に後ずさってしまった。数歩下がり、ルイズにぶつけられた言葉を遅れて理解する。少年の顔にさっと朱が差した。
「な、なんだと、『ゼロ』のルイズっ」
「なによ、もう一回言ってほしいの? 弱い者いじめしか出来ないお坊ちゃんなんて貴族失格って言ってるのよっ」
「黙れ、『ゼロ』の癖にっ」
「あら、それしか言う事がないのかしら? 確かにあたしは『ゼロ』よ、認めるわ。でも反論出来ないって事はあんたも自分が最低って認めるのね」
今まで散々馬鹿にされてきたせいである、その自衛のために、ルイズは口が達者であった。
そして今まで大嫌いだった『ゼロ』のあだ名。悲しいかな今となっては最早認めざるを得ない。
だがそれでも彼女の心は貴族だ。気高く生きるその志こそ、『ゼロ』でありながら貴族であれる理由となろう。自棄も無くは無いが、そう呼ぶなら呼べばいい。魔法が使えなくても、そうだ、貴族は血でも魔法でもない。ならば自分は貴族だ
少年の顔が赤みを増してゆく。
怒りのままに杖をルイズへと向けた、瞬間少年は昨日の召喚を思い出したのか、ほんの一瞬ではあるが僅かに恐れが見え隠れした。ルイズは目聡くもそれに気付き、追い討ちを掛ける。
「あら?魔法が使えない『ゼロ』が怖いのかしら? それともなぁに、『ゼロ』が召喚した化け物がそんなに怖かったのかしら? ほんと、それで女の子虐めるんだから、とんだ臆病者ね」
気絶した自分の事は棚に上げ、余裕の態度で言い放つ。ふん、と鼻を鳴らし少年の方に見下すような目を向けた。
しかし、やりすぎであったとルイズは気付いた。
ここまで虚仮にされては少年も既に引き下がれない。もっともそれ以前に完全に頭に血が昇っていた為、引き下がるという選択肢が無くなってしまっている。
精々いたぶってやろう、と呪文を唱え、少年は杖を振る。卵よりは少し小さい程度の石が数個、少年の周りに浮き上がった。これをぶつけるだけ。死なぬ程度に痛めつけるには確かに具合がいい。
ルイズも遅れて杖を取り出す。ろくな魔法は使えないが、必ず起こる爆発は憎らしい事にこの状況では武器にはなるだろう。
だが出足が遅かった。呪文を唱えようとすると、石が一つ、彼女の杖を持つ腕目掛けて飛んできた。したたかに右手を打たれ、杖が遠くに弾かれる。痛い、が気丈にも決して声など出さない。
打たれた右手を押さえながら、体は前を向いたまま、後ろにゆっくりと下がる。しかし逃げるつもりなど無い。貴族は逃げない。なにより後ろにはシエスタがいるのだ。ぐっと拳を握り、シエスタを守るように堂々と立ちふさがる。
平民だから守るのか、シエスタだから守るのか。
「ミス……ヴァリ、エール……」
どうして、とシエスタは言葉を続けたかったが、口が言う事を聞かない。
少年がまた口元に、ルイズにとっては気分を害する笑みを浮かべた。
「謝るなら許してあげようかな? 『ゼロ』のルイズ」
「嫌よ、絶対に嫌。誰があんたみたいな、願い下げだわ」
今でさえルイズは歯を食いしばるほどに悔しいのだ。頭なぞ下げてしまえば、きっと悔しさで死んでしまう。
ルイズの言葉に少年は顔を醜く歪めると、杖を振るった。数個の石が同時に、勢い良く撃ち出された。せめて、とシエスタの小さな体を、更に小さな己の体で、ルイズは力いっぱい掻き抱く。来るべき痛みを堪えようとぎゅっと目を閉じ、歯を食いしばった。
鋭い音が数度、辺りに鳴り響いた。
何時までも体を襲わぬ痛みを不思議に思い、ルイズはゆっくりと目を開ける。状況を確かめようと恐る恐る振り向いた。
そこに居たのは男である。黒い靴に黒いズボン、白いシャツに包まれた大きな背中、束ねられた黒く長い髪の毛。ルイズには黒髪の知人は二人しかいない。そのうち一人は女性だし、なにより今抱きしめている。
左手には細長く紅い杖、右手には見慣れぬ剣を握っていた。どうやらその剣で飛来する石礫を全て叩き落したらしい。
剣をゆっくりと下ろすと、顔の半分だけルイズたちのほうへ向け、にやりと不敵な笑みを浮かべた。
百鬼丸である。
事情は知らないが、シエスタをルイズが庇っている。放って置くわけにはいかなかった。小さな体でシエスタを守ろうとするルイズのその姿に、百鬼丸は素直に感心していた。
「よう、やるじゃないか」
「な、何がよ」
助けてもらったというのに、ルイズは少しぶっきらぼうな声を出してしまった。
「お前って良い奴だよな」
「なっ」
それだけ言うと、まだ何か言おうとしていたルイズから目を外し、剣を構えて腰を落とす。本来の彼ならば直ぐにでも飛び掛かっているところだ。喧嘩は先手必勝である。相手も得物を持っている場合は特にだ。
だだコルベール、オスマンのことを考えると生徒をむやみに傷つけるのは躊躇われた。大きな怪我をさせぬように刀を返す。峰で打てば打ち所が悪い限りは死にはしない。
まずは手に持っているものを狙うか、と当たりをつける。コルベールは魔法を披露する時は必ず杖を握った。戦わないと宣言した時は杖を手放した。大きさは全く違うが、魔法を使うにはきっとそれが必要なのだろう。
そう百鬼丸が考えていたところで、少年が脅しをかける。
「なんだ、平民。使用人か? 貴族に逆らってただで済むと思うなよ」
「俺は使用人でも平民でもない。そっちこそ骨の一本は覚悟しろ」
売り言葉に買い言葉。百鬼丸はむやみ矢鱈に威張る人間が大嫌いだ。弱いものを虐げるのであれば尚更に。手心を加えてやろうと言う気持ちは大分薄れた。それに事情はよく分からないが、女を虐めるなど碌な男ではない。言葉通り、骨の一本くらいでは罰は当たるまい。既に頭に血が上っている。
昨日の召喚の時とは、百鬼丸は服装が違う。昨日の彼が元着ていた服、この国では目立つ格好ならば、ここに居る平民はあの化け物の一匹を殺した謎の剣士、と特定できたかもしれない。それならば少年もむやみな挑発はしなかっただろう。だが今の姿はここでは実にありふれている。
昨日大立ち回りを演じていた男の顔を、恐怖の中ではっきりと覚えていられた人間は殆どいなかったし、男が召還された事さえ知らない者も少なくなかった。気絶していたものもいた、そうでなくても覚えていないほどに混乱していたのだ。
少年にとっても、野次馬にとっても、一風変わった剣を握った平民が乱入してきたに過ぎなかった。平民が貴族、メイジ相手に勝てるはずも無い。それでも立ち向かう平民の姿が実に新鮮だったのだろう。いつの間にか騒ぎが大きくなっていたようだ、気付けば出来上がっていた人垣に、ルイズもシエスタも驚いた。
度重なる乱入に思わぬ余興となったと、興味深そうに覗いている生徒が多いようだ。
魔法学院は学び舎であり、娯楽は少ない。日々の退屈を持て余し、また陰鬱な感情を晴らす為の刺激を求める生徒達にとってはこれ以上ない見世物だった。
そんな周囲の考えている事が分かるわけではないが、ルイズは野次馬達に対して苛立ち、強く歯を食いしばった。こんなものは貴族ではない。
ルイズの腕の中、そのざわつきに更に恐ろしさが増したのか、シエスタが肩を震わせながらルイズのマントに必死にしがみついて来た。恐らく意識しての事ではないのだろう。にらみ合いを続ける二人の方へと顔を向けたまま、ルイズは再びシエスタを、今度は赤子をあやすように、大丈夫、と優しく抱きしめた。
「せいぜい死んで後悔しろ、平民」
「痛い痛いって泣くんじゃねぇぞ? お坊ちゃん」
少年の口は三日月のように歪んでいる。笑いながら、馬鹿め、と呟くと呪文を唱え出した。遅れてなるか、とすかさず百鬼丸は駆け出す。そう、先手必勝だ。
獣の如き敏捷さで身を屈め、素早く踏み込む。少年の眼前で飛び上がるかの如く体を跳ね上げると同時に、上段に思い切り刀を振りかぶった。
百鬼丸が刀を振り上げた瞬間、全ての光景が止まったかのように周囲の人間には感じた。まるでよく出来た絵画を見ているかのように、力を持たぬ平民の、鋼の牙を剥く様が驚くほどに猛々しい。
野蛮でありながらも、原始的でありながらも、漲る生命が今にも躍動せんと満ち溢れ、見ていた者達の瞳に焼きついた。何故斯くも雄雄しく、美しい。その一瞬の光景に、誰の例外もなく囚われてしまった。シエスタも、そしてルイズも。
刹那、銀の刃が陽光を受けてか、光を撒き散らす。
まさに電光石火。ごっ、と鈍い音があたりに響いた。
気付いた時には既に、得物を握る少年の右腕に刀が振り下ろされていた。剣の軌道は誰の目にも捉える事が出来なかった。
また時が止まる。意外すぎるその光景。取り落とされた少年の杖。メイジは杖なしに魔法を使う事ができない。
しばしの静寂。
あっけなくも、微塵も想像だにしなかったその光景の意味する事を周囲は理解し、数瞬遅れて歓声が沸き立った。
決着。