一
勝利の余韻に浸る間もなく百鬼丸の無事を理解したシエスタは、先程までの衰弱ぶりもどこへやら、今は確かな足取りで、猛然と百鬼丸に飛びつく。
その勢いに耐え切れず、百鬼丸は彼女を抱きとめたまま、後ろへ倒れこんだ。
「うわっ、と」
「うっ、ヒャ……キマルさ……ん」
「ああ、怖かったろう」
それまで彼女を蝕んだ恐怖、そこから開放された安堵、彼が生きていたという事実、助けてくれたという嬉しさ。 最早うまく言葉に出来ないのであろう、涙を流しながら、聞き取りにくい嗚咽交じりの声で何度も何度も名を呼び続ける。
それを、赤子をあやすように軽く背中を叩きながら、何とか宥めようとする百鬼丸。
余りこういう事は得意そうではない。しかし離れるわけにもいかないのだろう。
ルイズも走り寄る。もう一人は、と後ろを振り向けば、コルベールは気力を使い果たしたのか、本来戦うために存在するための杖を、今は歩みの助けとしながら、おぼつかない足取りであった。大丈夫そうだ。しかし今は目の前のこの男。
「ヒャッキマル、大丈夫?」
「危なかったが、大丈夫だ。怪我も多分ねぇ」
「多分って何よ、もう、ほんとあんたと呆けた答えばっかり」
しかし今ばかりは、相変わらずな様子の百鬼丸に、ルイズは確かに安堵した。寛大な心で許してやろうと言う気にもなる。
「ほら、シエスタ。ヒャッキマルも疲れてるんだし、傷の手当もしましょ?」
ぶんぶんと顔を振り、百鬼丸の胸に頭をめり込ませんばかりに、額をこすりつけ、百鬼丸の着物を必死に握る、シエスタのか細い指先は血で滲んでいる。
閉じ込められた部屋で、彼女もかつてそこで死を恐れた誰かがそうしたように、壁を掻き毟っていたのだろう。僅かにはがれた爪が痛々しいが、しかしすでに脅威は去ったのだ。 やっとたどり着いたコルベールも、何とか百鬼丸に声をかけた。
「良かった、ご無事でしたか」
「ありがとう、助かった」
本当に危なかったのだ。もう少しコルベール達の到着が遅れていたのであれば、百鬼丸はあわや殺されるところだった。
未だ離れようとしないシエスタを何とか宥めようとしながら、百鬼丸は応答する。
「ところで、ヒャッキマルさん、怪我は無いと」
「ああ、大丈夫だよ」
「いえ先程、足ですが、千切れていたように」
「ああ、それなんだが、ええとだな、」
シエスタの背を軽くさすりつつ、言葉を濁す百鬼丸を不思議に思いながら、喋る事すら今は精一杯のコルベールは、続きを待つ。
突如、百鬼丸はシエスタを引き剥がした。その力強さと、唐突に失われた抱擁感にシエスタは驚きの声を上げるしかない。何をするのかと周囲が驚く間もなく、百鬼丸はその場でひっくり返り、四つん這いになりながら己の右目あたりを、両手で必死に押さえつけている。
「ちょっと、あんた」
「ヒャッキマルさん?」
「む……ぐ……、」
何かに苦しんでいる。
「まさかまだ魔神がっ?」
「違う……魔神は、仕留めたっ、……むぅっ」
「ではっ?」
心配そうに駆け寄るルイズとシエスタ。 その時、百鬼丸の顔から何かが落ちた、石畳の床にぶつかり音を立てる。 作り物の彼の目玉だ。
その異常な事態に、真近でそれを見ていたルイズは、魔神との戦いで、隠しているが実は何か大怪我をしたのでは、とシエスタと共に、再び彼の名を叫ぶ。
「ちょっと、大丈夫っ?」
肩で荒く息をする百鬼丸の顔を覗き込んだ。
不思議な事に百鬼丸の右目のあたりから、淡い光があふれている。恐らく先程落としたのは右目であると判断した。しかし何故、そして何だこれは。
光が治まったのかと思いきや、百鬼丸はその苦しみから解かれたようでで、次第に息を静めていった。 しばらくして、また唐突に顔を上げたかと思うと、ルイズの顔をまじまじと見つめてくる百鬼丸。その両目はたった今、片方を落としたはずであるのに、何故かきちんと二つとも揃っていた。
最早意味が分からない。
「ねぇ、どうしたの? 大丈夫?」
心配そうに問いかけたが、しかしそれすらも聞こえていないのであろうか、いや、何かに喜んでいるように見える。ものすごい勢いで百鬼丸は立ち上がった。
「見えるっ見えるぞっ」
「ヒャッキマル?」
「お前、ルイズだな」
「え、ええ、他の誰だって言うのよ」
今度はシエスタの方を振り向く。
「シエスタかっ」
「はいっ」
「お前、シエスタだなっ」
「は、はい、シエスタです」
くるりと振り返り。
「コルベールさんっ」
「はあ、何でしょうか?」
「見えるんだよっ」
「はい?」
「目だ、おれの、おれの目だっ」
狂喜乱舞する百鬼丸と、それを眺め、あっけに取られたままの三人。あたりをきょろきょろ見回す百鬼丸は様々なものを、その目に焼き付けようとしているようだ。
ふと、ルイズと目が合った。それまで動き回っていた百鬼丸の視線は、今度はじっとルイズの顔へ固定されたまま。
双方動かない。
「ルイズ?」
「な、なに?」
「お前、生意気だけど、案外可愛いじゃないか」
「なっ、なな、なっ」
はっとシエスタが何かに気付いたように。
「ヒャッキマルさんっ」
「ん、何だ?」
「そ、その、私の……」
シエスタは言葉を詰まらせたまま、どこかもじもじと恥ずかしそうにしているが、目線は決して百鬼丸から逸らさない。彼女が今身に纏っているものは、簡素な意匠の黒いドレス。その嗜好は魔神のものかモット伯のものか分からない。
逃げ回り、激しい戦いに巻き込まれたせいであろう、破れた部分から、ところどころ彼女の白い肌が露になっていたおり、スカートの部分などは特に酷く、膝上辺りから完全に千切れている。
これは些か刺激的ではなかろうか、とは女のルイズでさえ思う。
まだシエスタを見つめたまま、まんじりともせず、しかしその目は確かに彼女の哀れな、そして脅威の去った今では、どこか儚く、扇情的ですらある姿を、余すとこなく、まじまじと眺める百鬼丸。
彼が何か口を開こうとしたその瞬間、ルイズは何故か急激に膨れ上がった衝動にその身を任せ、思いっきり百鬼丸の脛を蹴り飛ばした。
何故かむかついた。
二
「ヒャッキマルさん」
「何だよっ」
尻餅をついたまま、ルイズ相手にやいのやいのと言い合いを続けていた百鬼丸は、声を荒げて返事をする。問いかけたのはコルベール。
無理やりルイズに外套をかぶせられ、百鬼丸とルイズに取り残されたシエスタは、どこか不満気だった。
「足ですよ、足。それに、見える、とは?」
「あぁ……うん」
コルベールは痺れを切らし、先の続きを、ようやっと促した。
急激にしぼんだ百鬼丸の勢いからみるに、予想はしていたが、何やら少し話し辛そうだ。
まだ彼が何かを隠している、とは予感していた事だ。
しかしここへきてそれは到底、隠しきれるものではない。 千切れたのではなく、外れたと彼がそう言った、今はある両足。 以前見せてもらった作り物の目を押し出したのであろう、恐らく彼本来の眼球。 最早自分達は無関係とも言い切れず、それは百鬼丸も同様に思ったのであろう、神妙に語りだした。
「おれの体は、ほとんど魔神に奪われてるんだよ」
「体が奪われている?」
「ああ、そこに落ちてる目も、さっき外れた足も、それだけじゃない。手も足も、耳も、全部作り物だ」
そういって右の耳を造作もなく、かぽっと外す。
一様に驚く三人。しかし百鬼丸は開き直ったかのように、喋り続ける。
「耳だってほんとは何も聴こえない。心の声っていうのか、喋ってるのがなんとなく分かるんだ。味だって感じない。熱いのも寒いのも、痛みだって、おれには分からない」
「なんとっ」
「魔神は全部で四八体。奪われたのも同じ数だ。それと、今ので十体目。倒す度にへそだとか、髪の毛だとかを取り返してきた」
信じがたい事が続きっぱなしだが、今の出来事を見る限り、真実なのだろう。
「おれは、おれの奪われた体を取り返すために、魔神を追ってるんだよ」
百鬼丸の魔神への執着をようやっと理解した。
「なぁ、おれが気味悪いか?」
百鬼丸の驚くべきこの事実を知った人間は例外なく、これまで己を恐れ、或いは蔑んだ。その問いは百鬼丸にとっては当然の不安だった。
そして、彼のそんな、裡に抱えた恐れを読み取ったのか、出来損ない、という初めて出合った時の言葉の意味を、正しく理解したのであろうルイズにまず聞かずにはいられなかった。
「馬鹿言わないでよ、怖いはずないでしょっ」
「そうですよ、怖くなんかありませんっ。ヒャッキマルさんは、その、とっても素敵ですっ」
シエスタまで、恥ずかしそうにも、しかしルイズと張り合おうとしているかのように、堂々と大きな声で。
「お二人の仰る通りです」
その二人を満足そうに眺め、杖に寄りかかりながらも、確かな返事を返すコルベール。
魔神の喰い残した人間の部分である己を、それでも人として扱おうしてくれるその言葉は、そして一様に、惜しげなく優しく力強いその言葉は、存在しないはずの心の臓を打ち鳴らすかの如く、確かに大きく響く。
しかと抱き締めんばかりに己の心を締め付けるそれは、初めて感じるものでありながら、しかし決して痛みではないと確信できた。
もし今、魔神に奪われた涙が己の中にあるのなら、己を包むこの空間に染み渡らんばかりに、水浸しとなった一面の床をさらに覆うに違いない。
流す涙を今は持たぬ故に叶わぬ事を悔しいなぞとは、しかしながらも微塵も思わない。
己を伝える声もまた今は確かにここにあるのだ。
ありがとう、と
三
屋敷を後にして、門を出た。
あるべき場所へ戻ろうとしているのか、はたまたそれまで地上を支配していた闇達を、力強く押しのけようとしているのか、地平線の向こう浅紫の隙間から這い出した陽は、その存在を僅かに示そうとしていた。
骸骨達はすでにその姿を見せない。
恐らく、喰われ、彷徨い、死してなお逃げることの叶わなかった、かつて人であったもの達。 今はきっと魔神の呪縛から解き放たれ、肉こそ持たぬが人の形を取り戻し、その姿に喜んでいるに違いない。
見えこそせぬが、きっと思い思いの事をしながら、いずれ訪れる安息を待っているのだろうとルイズは思う。
「少し眩しいな……」
「もっと明るくなるわよ?」
夜は明けるのだから。
「ふふっ、きっと目を回すわ? 初めて見るんだもの」
「そうなのか、早く見てみたい」
「もう少し待ってなさい。大丈夫、逃げやしないわよ」
「それに朝日だって、とっても綺麗ですよ? ヒャッキマルさん」
東の空を見つめながら立ち止まる百鬼丸。その背にはシエスタを背負っている。その二人の隣でルイズは同様に立ち止まった。
幸せな心持で百鬼丸にしがみつくシエスタ。傷だらけであった指先は、ルイズが持参した水の秘薬、魔法によって作られた治癒薬である、それにより大分癒えているようであるが、念の為に包帯も巻かれていた。
「そうか、朝日だって見れるんだな」
「ええそうです、しかしお邪魔するようで申し訳ないですが、」
ふらつく体を必死に支えるコルベールは、立っているのもやっとではある。朝日を見たい、という百鬼丸の気持ちは分からなくもないが、いつまでもここで、ぼんやりいるわけにも行かない。
「お三方、早く帰りましょう」
「分かってますよ、ミスタ・コルベール。少し休まれてはいかがですか?もうすぐですし」
「もうすぐ?」
「ええ、もう夜明けですから」
ルイズの良く分からない返事にコルベールは首を傾げた。がその疑問は驚きと共に直ぐに解消される。
「ほら良い子達、ほんとに来ちゃった」
そうルイズが呟いた視線の先には、屋敷に突入する際に逃がしたはずの馬が三頭。 こちらへ向かってかけてくる姿が、疲れてかすんだ視界の中に、ぼやけながらも確かに映った。
「なんと、まるで、夢を見ているようです」
「ほんと、あたしも夢みたいです、ミスタ・コルベール。やっぱりちい姉さまの仰るとおり……」
「ええ、しかし何故」
「あたし、馬、好きですから」
多少乱れながらもどこか整然と波打つ彼女の桃色の髪が、朝日のなかでうっすらと輝きを放ちながら、そう呟くルイズ。その姿はコルベールの目にはとても神聖なもののように感じた。
「そうですか」
きっと百鬼丸もシエスタも、自分と同じものをルイズに感じているのだろう。彼女の姿に見とれるように眺める二人を目に、間違いでなかろうとコルベールも微笑んだ。
「さて、では馬車でも拝借しますか」
「そうですね、御者は私が勤めます」
「しかしですな、」
「ミスタ・コルベールもシエスタも、お疲れでしょう?」
「俺もやるよ、景色が見たいんだ」
「それでは、お言葉に甘えるとしましょう。正直、立っているのも、結構つらいので、お願いします」
「あたし、引いてきますね?」
言うや否や、彼女達の元へ戻ってきたうちの一頭へ飛び乗ると、屋敷に向かい馬を馳せた。きっと彼女を昨晩背負ってきた馬であろうと、コルベールは何故か思う。
四
「なあ、ルイズ?」
「なぁに?」
馬車を引く馬の上で、揺られながら二人は言葉を交わす。初めはきょろきょろと辺りを見回していた百鬼丸であるが、しばらくして満足したのか、唐突に、問いかけた。馬車の中では、コルベールとシエスタが眠りについている。
「なんであの時逃げなかったんだ?」
「聞こえてたのね」
あの時、というのはコルベールが、彼女とシエスタを魔神から必死に守りつつ、逃げるように促していた時の事だ。
「あたしは貴族よ。敵に背を向けないものを貴族というの。あたしはそう思ってる」
「死ぬかもしれなかったのに?」
「ええ、それにあんたとミスタ・コルベールを見捨てて逃げるなんて、なおさら出来るわけないじゃない」
強い意志を伺わせながらも、ルイズは穏やかにそう応える。
百鬼丸の嫌った侍達も、時折同じような事を口にするものがあった。その美学とも呼べる信念を否定するつもりはないが、百鬼丸には些か理解し難い。しかし、自分とコルベールを見捨てられなかったという彼女の言葉には共感を覚える。
「やっぱりおまえって、いいやつだな」
「そう?ありがと」
「でも、おれは死にたくないな」
「あたしだって死にたいわけじゃないわ。それにあんたもシエスタをかばって、その、死にかけたじゃないの」
「まあ、そうなんだが」
「それとも、あんたを放ったらかして逃げてほしかったの?」
頭を捻る。少し違う気がする。うまく言葉に出来ないが、己が何を言い伝えたいのか、それを手伝おうとしてくれているかのようにルイズがまた。
「じゃあ、あんたなら、どうしたの? あんたなら、あんたがあたしなら、あの時逃げた?」
「いや、多分逃げないな」
「でしょ? あんたなら多分、そうすると思ったわ」
「だから逃げなかったのか?」
「違うわ、さっきも言ったけど、貴族は逃げないのよ」
「でも死ぬかもしれなかったんだぞ、死ぬのが怖くないのか?」
「怖いわ、多分、とっても怖い。でもあたしは貴族なの」
「平民とは違うってことか?」
「ごめんなさい。そんなつもりじゃないわ」
責めたつもりは無い。
謝られた事に、ちくりと胸が痛む。自分がそうであるように、ルイズも心に複雑な思いを抱えているのだ。 今なら、共に生き延びた今なら、何でも話せる気がしていた。
そんな思いが百鬼丸の口を軽くさせている。
これ以上は話さない方がいいのかもしれない。また、むやみに彼女を傷つけてしまう。 しかし、彼女も自分と同じように、何でも話せると、そう感じているらしい。
今、この時間だけかもしれないが、心の裡をさらけ出す事に何の抵抗もないかのように、ルイズは真っ直ぐに、きっとこれが本来の彼女なのであろう、話を止めようとはしない。
「ごめんなさい。あたし、あなたの事を馬鹿にした」
「平民の癖にって?」
「ええ、あたしね、平民を守らなくちゃいけないって思う。それが貴族だと思うの」
「うん、偉いじゃないか」
「違うわ。平民の癖にって、あなたに言ったわ。あたしは、守らなくちゃいけないのに、見下してただけなんじゃないかって。だから平民の癖にって言っちゃったんじゃないかと思う」
「見下してなんかないだろう。シエスタといるお前を見てたら分かる」
「違うの、聞いて? あたし、魔法が使えない。使い魔だっていない。それでも、守らなくっちゃいけないって勝手に思って」
「うん」
「でも、ヒャッキマルはとっても強くって、守ってくれた」
「守ってなんかいない」
「シエスタが苛められてた時、助けてくれたでしょ? そのあとね、あなたがあたしに召喚されたって聞いて、あなたみたいな強い使い魔がいれば、あたしは貴族として認められるんじゃないかって」
「そうか」
「いいの、もう使い魔になんかならなくったって。ただ、その時ね、あたしが召喚したのに、言う事を聞いてくれないって。だからあたしはやっぱり駄目な貴族なんだって思ったの」
「駄目なんかじゃないさ」
「いいえ、駄目よ。あなたに謝る事も出来なかった。わかってたの。あたしが悪いんだって。でもあたしの言う事を聞くはずなのに、あたしが謝るなんて、魔法さえ使えないのに、そしたらますます惨めになるような気がして」
ルイズの抱えていた鬱屈を聞いていくうちに、彼女はやはり何処と無く、自分に似ていると、百鬼丸はそんな気がした。
出来損いの人間である自分は、人間に戻り、人間として生きる事に必死に縋り付いて生きている。
同様にルイズは、彼女の掲げる理想の貴族として生きるために、必死に彼女に足りない部分を追い求めているのだ。
「でも、今ならちゃんと言えるわ」
「いいよ、もう怒ってねぇ」
「聞いて?ヒャッキマル」
「わかったよ」
既に百鬼丸にはどうでもよかった。ルイズは素晴らしい人間なのだと気付いたのだから。 しかし、だからこそ気が済まないのだろう。
「ごめんなさい。あたし、あなたの事何も知らないのに、酷い事言ったわ。許してなんて、自分勝手だけど、ほんとにごめんなさい」
「もう怒ってなんかねぇ。だからそんなに謝らなくて良い。それにおれは、貴族なんてのはよくわからんが、お前は立派だって、そう思う」
「嬉しいわね。でも、ううん、何でもない……、ありがと、ヒャッキマル」
「ああ、どういたしまして」
彼女は決して認めないだろうが、きっとルイズは立派な貴族なんだろうと、百鬼丸は思う。 そしていつか、彼女は自分の理想の貴族に辿り着けるのではないか。そんな気がした。
「ヒャッキマルは?」
「ん?」
「ヒャッキマルは、どうして逃げなかったの?」
「シエスタを置いて逃げるわけにもいかないだろう?」
「ええ、でもさっき、あの時あたしに逃げて欲しかったって、そう思ってたみたいに聞こえたから」
「逃げて欲しかったんじゃない。死ぬのが怖くないのか、って思ったんだ」
「ええ、さっきも言ったけど、あたしは怖い。そう、死ぬのは怖いわ。でも貴族じゃなくなる方が、あたしはきっと怖いの。あんたも、死ぬのは怖いって。でも逃げなかった。あんたがあたしでも逃げなかったって、さっき言ったじゃない?」
「ああ、多分逃げない」
「死んじゃうかもしれなかったのに?」
「いや、死ななかった」
「どうやって?」
「わからん。でも死なない」
ルイズが多少呆れているのが分かる。だが、彼女は見せたくなかった心の裡をさらけ出してくれた。だから自分もさらけ出す。
「おれは絶対死なない。死にたくないから、絶対死なない。何が何でも生きていたい。おれは、人間になりたいんだ」
「あんたは十分人間じゃない」
「その言葉は嬉しいな。でも違うよ。おれはまだ人間じゃない。目を取り返した今ならそれが尚更良く分かる」
見飽きる事のない景色を再びゆっくりと、確かめるようにぐるりと見渡す。
「うん、やっぱり景色ってのは綺麗だなぁ、ルイズ。本当の人間ってやつはきっと、もっと沢山、綺麗な景色が見えるんだ。もっと沢山知ってるんだ」
「そうなのかしら?」
「ああ、そうだ。それだけじゃない。綺麗な音を聞いて、良いにおいをかいで、美味い飯を食って。それがきっと本当の人間なんだ。だからおれは、まだ人間じゃない」
「良いことばっかりじゃないかも知れないわ? 見たくないものだって、あるかもしれないじゃない? あたしは、その、あんたの気持ちは良く分からないけど、熱いのも寒いのも好きじゃない。それに、そうね、痛いのだって、あたしは嫌い」
「おれも多分、まだ分からんが、お前と同じ気持ちになるんだと思う。でもそれが本当に生きてるって事なんだと、おれは思う。今こうしているおれはな、ルイズ、まだ生きていないんだ」
「あんたは生きてるわよ。怒って、笑って、シエスタも助けて、今だってあたしとおしゃべりしてる。生きてるじゃない?」
「そうかな?」
「そうよ。でもあんたの言う事、なんとなく分かる。多分だけど」
「ありがとよ、それと、お前だって生きてるんだ」
「ええ、知ってるわ」
「だから、死ぬのは良くない」
「良くない、か。そうかもね。いえ、あんたがそう言うのなら、きっとそうなのね」
「そうだ。死ぬのは良くない。それにお前が死んだら、家族が悲しむ」
「そうかしら?あたし、貴族なのに魔法が使えないのよ? ヴァリエール家の汚点だわ。一応、あたしも公爵家だもの。あたしの家柄って、自分で言うのもなんだけど、結構偉いのよ? でもあたしだけ魔法が使えないの。そんなあたしに、みんな悲しんでくれるかしら」
「ああ、悲しむと思う。それにコルベールさんとシエスタは、間違いなく悲しむ」
「そうね。きっとそう、悲しんでくれる」
「おれだってそうだ」
「そう、ありがと」
「ああ、どういたしまして」
「そうね、じゃあねぇ、あたしも死なない」
「へぇ、それじゃ、そうだな、逃げてでも?」
「わかんない。逃げなきゃいけない時は、逃げるのかも。でも今日みたいな時は、これからも絶対逃げない。あたしは貴族だもの」
「貴族はにげないから?でも逃げるかも、って」
「うん、あたしが思ってた事、ちょっと違うのかも」
「違うって?」
「そうねぇ、きっと守るべきものを守るのが、貴族なのかもしれないわね。それが何なのかは、まだ良くわかんない。名誉だったり、大事な人だったり」
「死ぬのが分かっていてもか?」
「ええ、そう。でもあたしは死なないの」
「どうやって?」
「わかんない。でもあたしも、あんたと同じよ、死なないの」
そうだ、きっと百鬼丸は自分はそう伝えたかったのだ。死んで欲しくないと、そう伝えたかったに違いない。
「笑わないでよ、もう」
「いや、すまない。それが良い」
「あははっ、そうよ。それが良いの」
悲しいのは嫌いだ。例えそれが生きているという証拠であっても。
そして今、確かに彼女は生きていて、自分は生きようとしている。 空を仰ぎ、眼を細める百鬼丸。産まれて初めて目にした太陽は、とても眩しくて、ルイズが教えてくれたように、本当に目を回しそうなくらいだ。
「あれが魔法学院か」
「ええ、そうよ。どう、綺麗でしょ」
「ああ、それに大きいなぁ」
「ふふっ、近くで見るともっと大きいわ」
「そりゃ、楽しみだ」
そしてこんな自分にも、隣で朗らかに笑う少女にも、分け隔てることなく、等しくその光を与えてくれる。
「ふむ、仲良き事は、実に良き事です」
馬車の中で眠るシエスタの胸元、白い布に巻かれた小さな両手によって包み込まれた百鬼丸の義眼は、ここが居場所だと、彼女の指を離れようとはしない。幌の隙間から差し込む埃まみれの光に、時折ちらちらと返事を返していた。
「はぁ、しかし……疲れましたな。どれ、もう一眠り……」
疲れているのも本当だが、野暮は良くない、幸せそうに眠るシエスタの無事をもう一度確かめながら、コルベールは大きな欠伸を一つ、そのまま目を瞑った。
暴力は嫌いだし、戦う事も楽ではないが、たまには人を守る為にそうするのも悪くない。
「さあ、帰りましょ?」
そうだ、帰ろう。
自分の今いる場所は、こんなにも明るく、美しいのだから。
ようこそ、ここへ