一
ルイズはひた走る。思いつめた様子で、多少の着衣の乱れなどどうでもよいと、その様子は彼女の心がける貴族にしては優雅さを欠く。
幾人かに危うくぶつかり掛けても、すれ違う人々に怪訝な視線を向けられても、周囲を省みる余裕は今の彼女には無かった。
ただ、弾けた何かが彼女の体を突き動かすのだ。
「ヒャッキマル……あんた、あたしに召還されたって本当なのっ?」
辿り着いたのは医務室の前。コルベールと百鬼丸の会話から、彼が医務室にいるということは分かっていたため、一直線にルイズはここを目指してきた。
コルベールは今は医務室の中にいるのであろう、百鬼丸は一人部屋の前でうなだれた様子で壁に背を預け、考え事をしているかのように俯いていた。
だが、今のルイズには百鬼丸がどのような様子であろうとどうでもよかった。彼の姿が目に入るなり、怒鳴りつけるかのように問うたのだ。
百鬼丸は驚き、訳が分からぬと言う顔で返す。
「答えなさいっ」
「なんだよ、知らねぇ」
「嘘っ、正直に答えなさいっ」
ルイズが興奮した様子であるということは容易に感じ取れる。それにしてもこの剣幕はいったい何事であろうかと考えながらも、百鬼丸はルイズの勢いに飲まれていた。
彼がルイズに召喚された、という事実、オスマンに口止めをされたがどうやら既にばれているようだ。
ならば誤魔化す理由も、上手い方法も百鬼丸は考えつかない。
「……俺はよく分からんが、聞いた話じゃ本当だ」
しかしながら、オスマンが口止めをした理由、彼の懸念は決して杞憂に終わらなかった。
「なんで……なんで今まで黙ってたの? あんたもあたしを馬鹿にしてたのっ?」
「違う、馬鹿になんかしない。だいたい俺だって聞いたのは今日だ。昨日お前に会ったときには知らなかった」
百鬼丸はルイズの事を快く思っている。馬鹿にするなど有り得ない。ルイズの発想も百鬼丸にとっては突飛なものだ。
しかしながらルイズにとってはそうではない。学園に入ってからというもの、魔法が使えない事を常に蔑まれてきた彼女にとっては、今回の件は疑心暗鬼になっても仕方が無いのかもしれない。己の召喚した使い魔が、己を認めていない。彼女にとってはそういうことなのだ。
「そう、そうなのね、わかったわ。許してあげる。知らなかったなら仕方ないわ。あたしも知らなかったんだし」
百鬼丸の言い分を聞き、先ほどよりも幾分か落ち着いた調子でルイズはぼそぼそと呟く。
息を大きく吸うと、百鬼丸を睨み付けるようにして再び声を大きくして続けた。
「あんた、あたしの使い魔になりなさい」
「はぁ? 何だって?」
「あたしの使い魔になりなさいって言ってるのっ」
突然の激しい口調と内容、そしてその居丈高な態度に一度は戸惑うも、百鬼丸も頭に血が上りだした。こんな理不尽、きけるものか。
「断る。おれは誰にも仕える気は無い」
互いに声が荒くなっていく。
「なんでよ、あんた、あたしに召還されたんでしょっ?」
「お前が勝手に呼んだんだ、おれは使い魔になんかならんっ」
何やら不穏な気配を感じ、コルベールが医務室のドアから顔を出す。誰が口論しているかと考えながら、二人を視界に入れた瞬間に驚くとともに、オスマンの懸念が現実になった事を理解した。これは不味い。
ルイズが口を開こうとする。ルイズの性格と鬱屈を知るコルベールには、彼女が次に何を口走るか予想できた。
事態が悪化する前に止めねば、とコルベールは二人の間に割って入ろうとするが、間に合わない。
「貴族のあたしが平民のあんたを使い魔にしてあげるって言ってんのよ」
「ミス・ヴァリエールっ」
百鬼丸の眉が僅かに跳ねた。
「平民のくせに貴族の言うこと聞けないって言うの?」
「なんだとっ」
「ミス・ヴァリエール、やめなさい」
「何でですかっ?」
割って入ったコルベールに対して、相手が教師であるにも関わらず、ルイズが睨み付けた。
「自分の部屋へ戻り給え、ミス・ヴァリエール」
「でもっ、こいつはあたしが召喚したんですよっ?あたしの……」
「部屋へ戻るのです」
怒りではない、だがさらに強い視線を返され、ルイズはたじろぐ。
ぐっと堪えたかのように俯くと、そのまま駆け出した。
擦れ違う瞬間に百鬼丸が何か彼女に向かって呟くのが、ルイズには聞こえた。
ルイズの小さな体が視界から消えたところで、右手で顔を覆いながらコルベールは息をつく。
ルイズの心情というのは察する事が出来る。貴族でありながら魔法が使えない事でこれまで散々侮辱されてきたのだ。彼女の劣等感は並々なものではあるまい。
使い魔を得られなかったことで、それも恐らく極限まで高まっていた筈だ。いつ感情が激発したところでおかしくはなかった。
出来る事なら彼女に使い魔を与えたい。だが、百鬼丸は魔神に関わる重要人物。彼女の思う通りにさせるわけには行かない。心苦しくはあるが、今はこうするしかない。
しかしその判断は生徒を思う教師としてはどうだったろうか。とは言え、下手をすれば国を揺るがす大事を、たった一人の生徒と天秤にかける訳にも行かない事も理解している。
「教師としては、いや、止むを得ますまい」
それにしても厄介な事になった。
そう思いながら、あからさまに不機嫌そうな百鬼丸に目をやった。
二
ルイズは部屋へ駆け込むと、マントを部屋の隅の椅子へと放り投げ、ベッドにうつ伏せに倒れこんだ。
キュルケと話してから、未だに動悸が治まらない。走ったからではない。耳元で鼓動が半鐘のように鳴り止まない。
思考は纏まらず、奇妙な喪失感に満ちてるが、それが何故であるか、考えるほどの余裕が無かった。失うものは既に何も無かったはずだ。
「最悪」
何が最悪なのかは良く分からないが、自分の心を表す言葉としては最適だったようだ。妙に納得がいった。
呟くとゆっくり目を瞑る。シエスタを助けたときに得た晴れやかな気持ちと自信は、何時の間にか吹き飛んでしまっていた。
「ミス・ヴァリエール?」
部屋の外から自分を呼ぶ声が聞こえ、彼女は目を開けた。窓の外が暗くなっている。どうやら眠ってしまっていた様だ。
ドアを叩く音に気付くと同時に、慌てて体を起こし、返事をした。
「あっ、はい」
「よかった、いらっしゃいましたか。ロングビルです」
「直ぐに開けます」
そう言うと、ベッドを飛び出し、まずは部屋にある姿見の前に向かった。
「やだ、皺になっちゃった……」
そう呟きながら、鈍い手で髪を梳き、服の皺を伸ばそうとする。くしゃくしゃに皺んだシャツは、なかなか整わないが、長い事待たすわけにもいかず、諦めて部屋のドアを開けた。
「すいません。お待たせしました」
「構いません。まぁ……ひどいお顔ですよ? お体が優れないんですか?」
「いえ、そんな事は、それよりもどうしたんですか? 部屋を訪ねて来られるだなんて」
ルイズはロングビルを知ってはいるが、それは彼女が学院長の秘書である、という程度でしかない。会話した事すら殆ど無い。その彼女がわざわざ部屋を訪ねてきたのだ。
だが、心当たりはある。
「学院長がお呼びです」
やっぱり。
「大分探したんですよ? 申し訳ありませんが直ぐに向かって頂いても、いえ体調が優れないようでしたらそのようにお伝えしますが」
「大丈夫、です」
ロングビルの後ろを歩きながら、ルイズは考えていた。
用件は分かりきっている。今後の己の処遇であろう。しかし最も危惧していた、退学という可能性は恐らくない。
百鬼丸がいるからだ。百鬼丸はルイズの使い魔にはなっていない。しかしルイズに召喚されたというのは紛れも無い事実である。
そして百鬼丸は今、学院に逗留しているのだ。オスマンは恐らく百鬼丸を知っている。彼が自分に召喚されたという事も知っているに違いない。
何にせよ召喚には成功している。しかし、コルベールの態度を見るに、そのまま使い魔になるとはいかないようでもある。
人間を召喚してしまったという事が自体をややこしくしているに違いない。いや、それだけではなかった。初めに召喚した巨大な狐を初め、ルイズは数多の化け物を召喚している。
あれは一体どうなったのか。その中に百鬼丸に殺されたものもいるとキュルケの話から推測も出来る。百鬼丸がなぜ異形を殺したかのか。疑問が多すぎた。
「ミス・ヴァリエール?」
名を呼ばれ、意識を戻せば既にそこは学院長室。思索に耽り込んでいた為、ロングビルに呼ばれるまで気がつかなかった。
「本当に大丈夫ですか?」
「ええ、申し訳ありません。考え事を少々」
「そうですか。それでは」
そのまま部屋へ入る。
「おお、待っておったぞ、ミス・ヴァリエール」
「申し訳ございません。お探しするのに大分手間取ってしまいまして」
「いや、構わんよ、ミス・ロングビル。ああ、悪いんじゃが席を外して貰えるかの?」
ミス・ロングビルの疑わしげな声。
「学院長……」
「馬鹿もんっ わしゃ教師じゃ」
「まだ何も申し上げておりません」
「ぐぬ、ええい、いいから出ていかんかい」
ルイズには良くわからなかった。
ロングビルは一瞬ルイズを心配そうに見遣ると、そのまま一礼し、部屋を出て行ってしまった。
「突然呼び出してすまんの、ミス・ヴァリエール。それよりおぬし顔色が優れぬ様じゃが、そっちの椅子にでも掛けるか?」
「いえ、お気遣い有難うございます、偉大なるオールド・オスマン。大丈夫です」
どうにもオスマンが白々しく感じられる。いや、自分が考えすぎているだけかもしれない。
「あの、私、そんなにひどい顔してますか?」
自分では特に不調は感じないが、あまりに体調を気遣われる為、心配になり尋ねる。
「元気そうには見えんがの。いや、大丈夫ならばよいが」
室内が奇妙な緊張感に包まれてた。単純に、居心地が悪い。
オールド・オスマンの泰然とした様子が更に不安を煽った。
「おぬしを呼び出した用件じゃが、使い魔召喚の儀についてじゃ」
来た。無意識にルイズはスカートの裾を握る。その様子を見て、オスマンは一呼吸置くと努めて優しく語りかけた。
「大丈夫じゃ。契約できなかったとは言え、召喚の儀は成功しておるのじゃ。多少肩身は狭かろうが、何の問題も無い」
ほっとルイズは息を吐く。予想していたとは言え、やはり事が事である。緊張せずにはいられなかった。自分が思っていた以上に、ルイズはこの学校に留まる事に拘っていたらしい。不出来ではあるが、貴族として生きる事はひとまず許された。
だが、オスマンの言う様に、何の問題も無いとは言い難い。
「使い魔は、どうすればよいのですか?」
「今はおらぬが、おぬしが召喚した幻獣を捕まえればよい。あれだけ巨大な幻獣じゃ。卒業までに、などとは言わん。彼らをいずれ得る為に、今はしっかりと励み、精進するがよい」
幻獣、とオスマンが言ったのは、当然魔神達のことだ。何しろ魔神という言葉を使わずに彼らを表す言葉が他に思いつかない。在るとすれば『悪魔』が適切なのかも知れないが、生徒が悪魔を召喚したなぞと言える筈も無い。
そして彼らはその大きさも、姿かたちも、何も一括りにできないのだ。『幻獣』とでも言っておけば、詮索のしようもなくなるため、オスマンはこの言葉を使う事にしていた。
だが、当事者のルイズにとっては、あれらの存在に関して、そう易々と思考を放り投げる事は出来そうにない。
「幻獣、ですか?」
「うむ、ミスタ・コルベールに聞いた話では、このハルケギニアでこれまで確認されたどのような生き物にも当てはまらない。発見されていないというだけかも知れぬが、それにしても尋常ではない姿ともな。ならばそれは幻獣ではないかね?」
些か乱暴な理屈ではあるが、ルイズにも分からない事が多いため、否定も出来ない。だが、彼女の直感が言っている。あれは幻獣と言う言葉で括るべき存在ではない。あまりに恐ろしいのだ。その大さが、姿が恐ろしいのではない。
あれらが放つのは、心の奥深くから這い上がってくるような、その存在自体への恐怖だ。
出来れば御免被りたいのだが、果たしてあれらを使い魔にできるか。
だが、異形を目の当たりにした訳ではないオスマンに、その感覚を伝えたところで共感は得られないだろうと、諦めて他の幾つかの疑問を投げかけてみる事にした。
「なぜ、あんなにたくさん召喚してしまったのでしょうか? それに幻獣、は、あれらは今何処にいるんですか?」
あの禍々しい存在達を幻獣と言うには正直ルイズには抵抗がある。
それにルイズも色々と不安があった。学院の最高位であり、伝説のメイジとも名高いオスマン。例え答えを得られなかったとしても、オスマンに分からなければ、学院の誰に聞いても分かるまい。
オスマン相手に疑問をぶつける事で、ルイズは少しずつでも心の平穏を得ようとしていた。
「幻獣たちの行方については現在調査中じゃ。なぜ召喚されたのが一体だけでなかったかは、わしにも分からんの。あるいはおぬしの才能の片鱗なのかも知れぬな」
「止めてください。私、一度も魔法を成功させた事無いんです。才能だなんてそんなの……あるはず、ない……」
オスマンに悪気は無いのだろうが、こんな出来損ないの自分に才能が在ろうはずが無いと、ルイズは自分が惨めに思えた。
俯き、歯をくいしばる。
「世迷言でもないと思うぞ? 異常ではあったが、召喚魔法は成功しておる。そして数多の幻獣を召喚したのじゃ。おぬしは何か特別なものを持っているのかも知れぬ、とわしは考えておる。もっともそれが何かはわしにもまだ分からんが。あながち的外れな推測とも言い難いと思うがの?」
今回の出来事は常識の範囲を超えている。ならばその根源であるルイズに何かあると考えたほうが自然だ。
何故ルイズが魔神と百鬼丸を召喚したのか、オスマンは理解できないし、推論さえも立たなかった。しかし、メイジの力量を測るには使い魔を見ろ、と言われるほどに、使い魔とはメイジの資質を測る上で重要な存在である。魔神を召喚したルイズが凡庸である等とは、オスマンには到底考えらない。
問題は、彼女の召喚した魔神達が、人に仇なす存在であると言う事だ。彼女の持つであろうまだ咲かぬ才が、世に益するものであることを願うばかりである。そういう面では百鬼丸という好人物の存在は救いとなっている。
「私は、魔法が使えたら……使い魔がいたら、誰も私を……」
ルイズは努力家である。せめて、と励みになる言葉をオスマンは掛けたのだが、効果は無かったらしい。ぼそぼそと聞こえるか聞こえぬか程の声で、ルイズの小さな唇から、弱弱しい言葉が漏れた。
伝説のメイジとも名高いオールド・オスマンの言葉。ルイズはその言を、己の才能を信じたくはあるが、これまでの彼女の人生が、それを否定した。
努力は常にしてきたが、微塵も結果が出ない。せめて、人並みに魔法さえ使えれば、使い魔さえいれば、そんな思考が頭を埋めた。
そうだ、使い魔だ。
沈黙が続いていた。あまりの痛ましさにオスマンが声を掛けようとした時、ルイズは徐に顔を上げる。決意と言うには大仰だが、何かしらの意思を見て取ったオスマンは心中身構えた。
「ヒャッキマルは……、ヒャッキマルを使い魔にしてはいけないんですか?」
「ヒャッキマル君を使い魔と?彼は人間じゃぞ?」
コルベールから報告は受けている。百鬼丸がルイズに召喚されたという事実を彼女は知った。彼女達の交渉が決裂した事も知っている。それをオスマンが知っている、というあたりをつけた上での提案なのだろう。
とぼけるでもなく、隠すでもなく、余計な詮索を入れられぬよう、オスマンは話す。
だが、賢い生徒だ。きっと何かに感づいている。
「やはりご存知……いえ、その、あいつは、ヒャッキマルは私に召喚されたのでしょう? 使い魔にしても問題はない筈です」
「確かに彼はおぬしに召喚された。しかし彼には自らの意思がある。彼が合意すれば問題はないがの」
「でも、でもあいつは平民、です」
「人間を使い魔に召喚したなぞ前例がない。彼は召喚に巻き込まれた、とわしは考えておる」
方便だ。オスマンとて彼女達の契約には賛成だが、百鬼丸が望まぬのであれば、諦めざるを得ない。今だけは、彼の機嫌をこれ以上損ねたくはない。ルイズの後押しは出来なかった。
「それに幻獣たちを使い魔にした方が体裁もよいぞい? なにも平民の使い魔を選ぶ事はあるまい」
これはオスマンの正直な感想だ。百鬼丸には悪いが、彼を使い魔にするよりは、話に聞いた魔神のほうが、使い魔としては評価されそうなものである。早く使い魔を得たいというルイズの欲求は理解できるが、百鬼丸を使い魔にしたいという提案は意外であった。
だがオスマンは魔神と向かい合ってはいない。おぞましい化け物を使い魔になぞしたくないというルイズの心情までは読めない。ルイズもその時の恐怖を上手く伝える事はできないだろうと諦めていた。他に言い返せず、ルイズは黙るしかなかった。
学院長室でオスマンは独り、ぐったりと椅子に身を預けていた。気疲れは久しぶりだ。体の疲れと違って爽快感が無いのが何より嫌だった。
百鬼丸をルイズが召喚したという事を、何故教えなかったのか。その問いがなかったことにひとまずは安堵した。だがルイズは疑問に思っているはずだ。尋ねるべきでないと勘が働いたのかもしれない。
上手く誤魔化せる自信は無い。というより嘘をついても、直ぐにばれる気がしてならない。オスマンが最も望まない方向へ、ルイズも百鬼丸も、わざわざ向かっている気がしてならない。あるいはこれも始祖の導きかなのか。
「なるようになる、かの」
監視をつけようにも遠見の鏡の件もある。メイドとコルベールには出来るだけ彼から目を話さぬように言ってはいるが、それ以上の手だても無い。
本当に無責任だが、二人の関係に干渉する事をオスマンはやめることにした。
「だってわし、忙しいもんね?」
自分にそう言い訳する。考えても仕方ないものは仕方ない。手のつけられるものから処理していこう。指し当たっては、百鬼丸と生徒の喧嘩騒ぎをどう収めるか。
秘書の机の下で彼の使い魔のハツカネズミ、モートソグニルが鳴いた。
今日も白、だそうである。ミス・ロングビルには黒が似合うと思う。
三
ルイズと言い争った百鬼丸は部屋で思索に耽っていた。魔神の事は勿論であるが、ルイズとの諍いも彼の心を掻き乱す。裏切られたような気分だ。出会いから、この部屋でのやり取り。そしてシエスタを助けた姿を思い出すと、彼女を悪く思うことは出来ない。だがそれは結局偽りだったのだろうか。自分をメイジだと思っていたからこそ対等に談笑できたのか。だが平民のシエスタを助けようとした姿は紛れも無く本気だった。心優しく、そして気高い少女、そう思っていた。
しかし、平民の癖に、とそう叫んだ時のルイズは彼の嫌う横暴そのもの。どちらが彼女の姿なのだろう。
出会ってまだ一日しかたっていない程度の彼女を、何故これほどまで気に掛けるのか、自身の事でありながら、彼は困惑していた。
考えても仕様が無い。そう思っていたところへ、ドアを叩く音。
そろそろ夕飯の刻限だ。部屋へ通すと、やはり昨晩同様シエスタがいた。が昨晩と違い、料理は持って来ていない。疑問に思ったが、別のところに用意してあるとのこと。何でも助けてくれた礼がしたいとの事である。そしてそれは彼女のみならず、学院で働く平民達、彼女の友人や上司からの誘いであった。
学院の厨房に連れられ、下にもおかぬ扱いを受ける。どうにも居心地が悪い。だが不当な扱いを受ける少女を助けるため、勇敢にも剣一本で貴族に立ち向かい、これを撃退した百鬼丸は正しく平民達の待ち望んだ英雄の姿だったのだ。
中でも料理長の、貴族嫌いのマルトーの興奮といえば大層なものであった。「我らの剣」なぞと呼ばれてはたまったものではない。
そして山のような料理。腹は減っていた。勢い良くかきこむと、うまい、と一言。味は感じぬが、マルトーが精魂込めて作ってくれた料理である。そう返すのが礼儀であろう。だがうまい、と言ったのは決して形だけではない。使われている野菜は、虫食いもなく、きれいに切り揃えられ、歯応えも絶妙。肉は果たして肉とも思えぬほどに柔らかく、その食感だけで、使われている食材が上等である事が百鬼丸にも理解できた。如何に自分のために手間を掛けてくれたのか推し量れる。きっと『うまい』のだろう。百鬼丸には味覚がない。口惜しいとはこの事だった。改めて、自分の体を早く取り返したいという思いに百鬼丸は駆られた。
「ところでよ、どうしたらそんなに強くなるんだい?なあ、おれにも教えてくれよ」
マルトーは貴族が大層嫌いなのだそうだ。平民を平気で足蹴にする貴族というのは実に多く、昼の件から百鬼丸もなんとなく感じた。更に公職に付く貴族達でさえ、不正、賄賂は当たり前。そしてそのような貴族の殆どが、自ら苦労してその立場まで上り詰めたわけでなく、先祖代々受け継いだ地位と財産の上に胡坐をかいているとか。叩き上げの料理長にとっては尚更気に入らないのだろう。何処でも似たようなものだが、ともかくそんな貴族の鼻を明かした剣技についてどうやら興味を抱いたらしい。だがどうしたら、尋ねらても、人に教わったわけで無いものを、どう説明すればよいのか。
「毎日命がけで剣を振り回してりゃ扱い方も上手くなるんじゃないのか?」
「なるほどねぇ、俺には無理そうだな」
「こんなもん持たないで済むに越した事はねぇ」
戦いが嫌いだとまでは言わないが、百鬼丸とて好きで魔神との戦いに身を投じた訳ではないのだ。己の体を取り戻したい。人間として、みなと同じように生きていきたいだけである。もし魔神と関わることなく、五体満足で生まれていれば、と未だに夢想することがある。それは彼にとっては最早手に届かぬ憧れなのだ。
魔神を討つことでしか己は人並みになれぬ。
「はぁ、お前さんも色々苦労してんだなぁ。よし、なんか困った事があったら何でも言ってくれ、我らの剣よ」
「その『我らの剣』てのは止めてくれないか?」
「だから照れるなって。貴族に勝ったんだぜ?」
「照れてない。柄じゃないから止めてくれ」
「そうか?ヒャ、ヒュ……お前さん謙虚なんだな」
「百鬼丸だ」
わはは、とマルトーが熊のように笑うと、百鬼丸もつられて声を上げて笑った。
しばしの談笑の後、お開きとなり百鬼丸は些か良い心持だ。さて、部屋へ戻る道すがら、百鬼丸は己をつける存在に気が付いた。
わざと歩みを落とし、おびき寄せる。
キュルケ・アウグスタ・フレデリカ・フォン・アンハルツ・ツェルプストー。ルイズの悪友であり、学院で数多の男を虜にする、自他共に認める恋多き女性。
胸元を少し広げたブラウスと短いスカートは女性らしい肢体を余すことなく見せつけ、浅黒い肌が野性的な色気を醸し出す。燃え上がったかのように赤い髪と、情熱を秘めながら僅かに潤む赤い瞳は扇情的ですらある。その男好きのする容姿を持ちながら魔法の実力も学院で一、二を誇るという才媛。
ただし惚れっぽく飽きやすいという厄介な性質も持っている。彼女を囲う男も、飽きて振られた男も最早どれほどいるか分からない、という始末なのだ。ともかくその恋多き女性は、今は異国の剣士に首っ丈なのだった。
「見つけた、ダーリンッ」
女である事に自信を持つ彼女は、まずは出会い頭に抱きつく事で自身の魅力を分からせようと、異国の剣士に飛び付いた。
勢い良く頭を抱え込もうとした手は空を切る。立ち直り、剣士を探そうと体をひねると、まず目に飛び込んできたのは濡れた様な刀身。
「えっ」
「何の用だ?」
「あん、もう避けられちゃったの?つれないお方」
後ろから忍び寄り、手の届く距離から飛びついたのだ。だというのに一切触れる事が出来いとは恐れ入る。突きつけられた切っ先に、キュルケは軽口とは裏腹に幾分か背筋が冷えていた。ただ、キュルケの行動がそうであったように、剣士からも余り害意は感じない。突然飛び掛ってきた相手を牽制しているに過ぎないのだろう。
「おい、だから何の用だ?」
「驚かしてごめんなさい、でもその前にその危ないものをしまって頂けないかしら、ミスタ。女性に向けるには些か物騒じゃなくって?」
両手を上げ、敵意が無い事を表す。
「いきなり飛び掛ってくるからだ」
刀を納める百鬼丸。キュルケはこっそりと安堵の息を漏らした。傷つけるつもりは無いと分かっていても、気持ちの良いものでは到底無い。たかだか平民、たかだか剣と見くびっていたかもしれない。
「女に飛び掛られた事くらいあるでしょ?」
「化け物なら何度も」
余程波乱に満ちた人生だったのだろう。メイジすらも脅かしうる剣士。危険な男。ますます熱が上がる。
「それで?」
「それでって?」
「何か用があるんじゃないのか?」
「そうそう。あたしはキュルケ・アウグスタ・フレデリカ・フォン・アンハルツ・ツェルプストー。ゲルマニアの留学生よ。二つ名は『微熱』。『微熱のキュルケ』よ。素敵でしょ」
「長……いや、百鬼丸だ」
「ええ、あたしあなたの事知ってるの、ミスタ・ヒャッキマル。ねぇえ、あたしに仕えない?」
「何処から聞きつけたかは知らんが、おれは誰にも仕えるつもりは無い」
髪を掻き揚げ、色めいた調子で話しかけるも、いい加減にして欲しいと百鬼丸は呆れ顔でだ。
「なんだってそんなに」
自分を家来にしたがるのか、とぶつぶつと独りごちている。何度もこんな風に誘われたのだろうか。
「あら、あなたヴェリエールの使い魔じゃないの?」
「ちがう。使い魔なんかじゃないし、誰にも仕えん」
「そうなの、でもあの子に召喚されたんじゃないの?」
「召喚されただけだ。だれがあんなやつ」
募る苛立ちを隠そうともしない百鬼丸の顔を見ながら、キュルケはこの手の話題には触れない方がよいと理解した。元来好奇心旺盛な彼女ではあるが、今尋ねなくとも、陥落させてしまえば後でいくらでも聞きだせる。ルイズを嫌っているようなその口調は気にかかるものの、むしろ百鬼丸への関心こそどんどん膨らんでいく。欲しい玩具を手に入れる前にも似た、この高揚が堪らない。
「ふぅん、そうなの、ごめんなさいね? 気に障ったみたいね」
燻り続けた熱量は既に微熱と言う段ではない。何時にもまして本気の自分がいることをキュルケは理解した。
キュルケの尋常ならざる雰囲気の変化を感じ取り、百鬼丸は僅かに警戒した。何やら嫌な予感がする。外れたことは無い。ただいつもの、刺すような感覚ではない。
この後彼を襲ったものはかつて無い衝撃と戸惑い。どれ程の闇を払ってきたか知れぬ彼にしても、如何に応じるべきか答えの見えぬものだった。
にじり寄るキュルケ。
「ねぇえ?」
百鬼丸は何かに縛り付けられたような感覚に陥った。うまく動けない。
「だったら、」
耳に聞こえぬのに鼓膜から脳を撫ぜる熱を帯びた声。
すでに手の届く距離。
「あたしの、」
嗅覚を持たぬ百鬼丸をして鼻腔を溶かすような芳気。
もはや一足先。
「恋人に、」
首元に回された柔らかな腕は焼け付くようで。
吐息が感覚を持たぬ皮膚を撫ぜた。
盲人に認識できぬ筈の瞳が脳髄から背骨を貫く。
「なって、くださらない」
「……う、……」
「?」
微塵も動かない百鬼丸を訝しく思い、抱きすくめた腕を僅かに緩めると、乱暴に振りほどかれる。きゃっと声を上げ、キュルケは尻餅をついてしまった。
それをした男、百鬼丸は素っ頓狂な声をあげ、
「あん、もう……意外と初心なのね。可愛い……」
逃げ出した。