【おまけDISC】
診療院と工房を経営し、それぞれが多忙な日々を送っていても、たまにはみんなで羽を伸ばす日もある。
そんな一日。
「うう……」
『魅惑の妖精』亭の一角で、変な声を上げるのはマチルダだ。
テーブルに伏し、恨みがましく見つめる視線の先には古ぼけた木箱がある。ごくありふれた、何の変哲もない箱だ。
「唸っていても仕方ないだろうに」
私の言葉に返してくるマチルダの声音は、彼女らしくないほど凹んでいる。
「そうは言うけどさ~、10エキューだよ、10エキュー。大損だよ~」
「仕方がないよ、運が悪かったと思うしかないよ」
そんなマチルダに、対面に座るティファニアがやや困ったような顔でフォローに回った。
事の次第は、そう珍しくもない話だった。
先日、ちょっといかがわしい商人にレアな材料の調達を頼んだのだが、半額前金を払って数日後にその商人が工房を訪れ、材料が手に入らないと言って来たのだそうだ。
話が違う、金を返せと凄んだところ、渡した前金は既に別の借金取りの懐に消えていたとか。善意だけで構成された世界でもないからには、こういう感じに騙されることもあるわけで、そういうトラブルについては前世も今生も変わらない。どこの世も、浜の真砂は尽きるとも盗人の種は尽きまじということだろう。
結果、商人を番屋に突き出したところで払った10エキューは回収できず、打ちひしがれるマチルダを慰めるべく『魅惑の妖精』亭に繰り出したのがこの場の主旨となっている。
「私にも責任の一端が……やはりあの時お止めするべきでした」
最後にディルムッドが私たち一同に頭を下げる。
「いや、お前には責任はないよ。取引をするかどうかは店主であるマチルダの責任だからね」
いささか凹み気味のディルムッドにフォローを入れる。可哀そうだが、これは完全にマチルダの落ち度だ。肩書きに『長』という字が付く以上、権限と同時に義務も負わねばならない。私だって何があってもテファの責任にしたりはしないし。
「返す言葉もないよ。うう……」
その辺はさすがにマチルダも判っているので、その分余計に凹んでいるようだ。
「で、でも、最低限の形が取れて良かったじゃない」
泣きべそをかき始めたマチルダに、ティファニアが前向きは言葉を投げかける。
「形って言ってもねえ……」
マチルダは、何か汚いものを見るような視線を箱に向けた。
「それで店長、この中身は何なのですか?」
ディルムッドの質問に、マチルダはずいと木箱をディルムッド寄越した。
何でも、マチルダが単身先方に乗り込んで奪ってきたという、40サント四方の箱だ。ディルムッドも中身までは知らないらしい。
「中身を見ても?」
「いいよ~」
「では、失礼しまして……」
ディルムッドが蓋を開けるのを、ティファニアと私も首を伸ばして覗き込んだ。
「む……」
「な、何これ?」
「シックなデザインだね」
箱に収まっていたのは、黒っぽい、見慣れないデザインの陶器の皿だった。恐らくは飾り皿。日本の古い焼き物のような雰囲気のお皿ではあるが、ちょっとボロっちい気がしないでもない。
怪訝な顔をする私たちに、マチルダが不貞腐れたまま言う。
「何とかって言う芸術家が作った飾り皿だってさ。何でもこれを持っているとその家に幸運が舞い降りるそうで、換金すれば1000エキューはくだらないってさ」
「そ、それはさすがに難しいんじゃないかなあ」
家が買える金額に、さすがにティファニアが苦笑いを浮かべた。
「まったく、適当なこと言いくさって。ただのガラクタじゃないか。とんだただ働きだよ」
吐き捨てるマチルダの言葉で話題が終わりかけたその場に、ディルムッドが一石を投じた。
「店長……ガラクタというのはちょっと早計かもしれませんよ」
その声に忠臣を見ると、いつになく険しい視線を皿の表面に注いでいる。どこか、敵を警戒する野生動物のような雰囲気が漂っていた。
「……ちょっと、何変な雰囲気作ってんのさ」
そんなマチルダの言葉にディルムッドは唸ったきり反応を返さない。ただ、何かを確かめるような視線を皿に注いでいる。
「あ、あの、ディーさん、こういうのの価値って判るの?」
ティファニアが首を傾げて訊いた。
「詳しいとまでは申しませんが、これでも英霊の端くれ、霊的なものは多少判ります」
霊的と来たか……何だか話が穏やかじゃない方向に傾き始めたようだ。
「それで、何を感じるって?」
「主、これをよくご覧ください」
ディルムッドがテーブルの中央に皿の箱を押し戻して来るので、皆でそれを覗き込む。
「ただのボロい皿じゃないのさ」
「いえ、店長、その皿の中央のあたりをしばらくご覧ください」
「……」
言われたとおりに、私たち三人はまじまじと皿を見つめた。
異変が起こったのは10秒ほど後だった。
「い、嫌っ!」
鋭い悲鳴を上げて、ティファニアが雷に打たれたように立ち上がった。
「何これ~!」
「な、何よ、どうしたのさ?」
マチルダが青くなって泣きだしそうなティファニアに怪訝な視線を向けた。
「何があるって言うんだい?」
あからさまに怯えているテファの表情に、今一度視線を戻す。
一見すると、何の変哲もない皿だ。
黒っぽい、くすんだ色。皿の中央には、白い斑点が二つあり、それが模様のアクセントになっている。
白い斑点は真ん中に向かって弧を描く形になっており、人間の白目のようにも見える。それに気づいて黒目に当たる部分ははどうなっているかと言うと……。
「んぎゃ~~~っ!!?」
私と同時に、マチルダも悲鳴を上げた。
「な、何? どうしたの?」
慌てて接客中のジェシカが飛んできた。
「な、何でもないよ。ちょっと私の手が滑ってマチルダの乳を触って殴られただけだよ」
動悸を抑え、泡を食ってフォローに回る私に、ジェシカが白い目を向けてくる。
「先生~。触りたかったらチップを出して店の子をどうぞ。お身内だけでまとまってちゃお金が世の中に回らないでしょ?」
あれ、このお店ってお触り可だっけ?
「すまないね、今度からそうするよ」
「……主、今のフォローはあまり適当ではないかと」
「アドリブには弱いんだよ」
あんな状況で冷静に対処できる奴がいたら会ってみたいもんだ。
「姉さん、女の子が好きだって噂が立つと大変だよ?」
「そんなことはどうでも良いんだよっ!!」
話が見当違いな方向にシフトしつつある私たちに対して、小声で怒鳴るという器用な真似をしながらマチルダが件の木箱を指した。
「これはいったい何なんだい!? 人を『覗き込んでくる』皿なんて聞いたことないよ。ディー、あんたが知ってることを言いな!」
「いえ、推測に過ぎぬのですが……」
「何でもいいよ、知ってることをお言い」
マチルダだけじゃなく、私も知りたいことだ。正直、この皿は洒落にならない。どう考えてもまともな代物ではない事は間違いないだろう。
「は。恐らくこれは、贈答用に作られた呪いの絵皿であろうかと」
「呪いの絵皿?」
私たちの言葉に、ディルムッドが頷いた。
「どのような術式かは判りませんが、かなり強力な、厄を呼ぶ効果があるものと思われます」
「そ、そんなすごいものなの?」
目を丸くしてあっさり素直に驚くティファニアにマチルダが食って掛かる。
「すごいじゃないよ! 幸運を呼ぶはずの絵皿が何で厄を呼ぶんだい!!」
「恐れながら店長」
ディルムッドが慌てて間に入る。
「思いますに、先ほどの店長の取立てが余りに苛烈であったため、あの者が機嫌を損ねたものと思われます」
「何でさ?」
心当たりがないような顔をするマチルダだが、正直、その光景が目に浮かぶような気もしないでもない。マチルダのことだ、恐らく襟首つかんで家財道具を売ってでも工面しろとでも言ったのだろう。
「そんなに苛烈だったのかい?」
「は。何しろ、金がなければ小指か娘を持って来いと」
……私は自分の見積が甘かった事を知った。何て頼もしいお姉ちゃんだろうね。
「姉さん! そんなひどいこと言ったの!!?」
「こ、言葉のあやだよ、言葉の」
テファの剣幕にマチルダは頭を掻きながら苦笑いを浮かべる。美人な上に上背もあるマチルダだ、そんな事を言いながら凄めば竹内力が演じる萬田銀次郎にも負けない迫力があったに違いない。
「それより、どうすんのさ、これ」
困った顔でマチルダが皿を指差す。
「どうすると言われてもねえ……あんたがもらったもんだし、工房に飾っておいちゃどうだい?」
「あんた今までの話理解してんのかい!? それとも理解したうえで言ってんのかい!?」
私の冗談にマチルダががーっと吼えた。
そうは言われても、うっかり捨てる訳にもいかないだろうに。
「私としては寺院に相談に行くのが最善と思います」
ディルムッドの意見は、いつだって建設的で助かる。
「そうよね、売るわけにはいかないし。寺院なら詳しい人もいるかも知れないよね」
テファもその意見に乗るが、マチルダはそうはいかない。
「でもさあ……それじゃ金にならないじゃないか」
「いや、この際金は諦めたほうがいいと思うよ。さすがにこいつはやば過ぎるシロモノだよ」
私の言葉に、テファもディルムッドも頷いた。
店の入り口のあたりが騒がしくなってきたのはそんな時だった。
見ると、でっぷり太ったマントを着た中年男が供の者を連れて店内に現れたところだった。
それを見たマチルダが毛虫を見たような渋い顔をする。
「げ、あいつ、チュレンヌじゃないか」
チュレンヌ……誰だっけ?
「知ってんのかい?」
「徴税官だとさ。この間工房に来て税金を追加で払えとか何とか難癖付けてきたんだよ」
ああ、思い出した。ルイズにあり金巻き上げられる木端役人じゃないか。そんなのいたっけね。忘れていたよ。
「その時はどうしたんだい?」
「お話したら判ってもらえたよ」
「お話?」
気味が悪いくらい黒い笑みを浮かべるマチルダ。ふと視線をディルムッドに向けると、ディルムッドは慌てて視線を逸らした。
私が知らないところで何をやっているのやら。
「……まあ、その辺は後で聞くとして。それより何だね、あの歩く成人病一直線は? 医者である私に対する挑戦のつもりかい?」
「性質が悪い野郎でさ。逆らうと重税で店をつぶしにかかるんだよ」
「ほほう」
まだうちの診療院には来たことはないが、そういう用向きで来たなら念入りに『治療』してやるところだ。
「ひどい!」
ティファニアは声を荒げて怒り出した。
「徴税官ならきちんと決まりに従ってお仕事するべきでしょう?」
純真なテファの言葉を聞きながら、私は事の成り行きに視線を向けた。
「これはこれは、チュレンヌ様。ようこそ『魅惑の妖精』亭へ」
いつも以上にくねくねしながらスカロンが接客に立つ。
「おっほん。店は流行っているようだな、店長?」
「いえいえ、とんでもない、今日はたまたまと申すもので。いつもは閑古鳥が……」
まるで嵐が過ぎるのを待つように頭を低くしているミ・マドモワぜル。ちょっとかわいそうな気もする。
「店長さん、何だかすごくかわいそう」
「あそこで強く出ても仕方がないのですよ、テファさん」
ディルムッドの言葉を聞きながら、私はふと思ってテーブルの上に視線を向けた。
そこにあるのは、件の皿。
それは天啓であったのかも知れない。この皿の正当な使い道は、これであるに違いないと私は感じた。禍福は糾える縄の如しだ。
そんな事を思いながら隣を見ると、マチルダもこっちを見ていた。その視線の中に、彼女の言葉が雄弁なまでに詰まっていた。さすがは我が姉、行き着いた結論は私と同じだったらしい。おぬしも悪よのう。
握った右拳をお互いに向け合い、
「じゃ~んけ~んほい」
と私はパーを出し、マチルダはチョキ。
「ちぇ」
パーをひらひらさせながらむくれる私の頭をマチルダはぽんと叩いて立ち上がった。
「ネタは?」
マチルダの言葉に、私はポケットのピルケースを取り出す。何かの時のために持っている、各種錠剤が入っている常備薬だ。
出されたマチルダの掌に、一錠乗せる。
「効き始めまで5分ってところだね」
「んっふっふ。了解」
マチルダは肉食獣のような笑みを浮かべてテーブルの上の木箱を取った。そのまま壁際に歩いて行き、チュレンヌに嫌悪の表情を向けているジェシカにぼそぼそと話しかける。いつもは明るいジェシカだが、珍しくその表情には嫌悪感が溢れており、漏れ聞こえてくるチュレンヌの無銭飲食や女性の扱いについての言葉はお世辞にもきれいなものではない。商売人としてプライドが高い彼女にしてみれば、夜のルールを踏みにじる輩は余計に許せないのだろう。
「え? 何? 何が始まるの?」
「後で説明するよ」
慌てるティファニアをよそに、私は沈んだ顔のスカロンを呼んだ。
「あら、先生。ごめんなさいね。ちょっと雰囲気悪くなっちゃったわね」
「いいんだよ。それより、ものは相談なんだけどね」
「相談?」
「あのおっさん、いつも酒代踏み倒すんだって?」
ごついスカロンと顔を突き合わせて小声で話し出した。
「そうなのよ。いつも飲み放題食べ放題触り放題で帰るのよ。たまんないわよ」
「被害総額は毎回幾らくらい?」
「いつも大体30エキューくらいはやられるわ」
おいおい、随分な豪遊だね。これはますます良心の呵責がなくなって来たよ。
「ならば、10エキューであいつら追い出してあげるって言ったらどうするね?」
いつも世話になっている誼だ、ここは原価で済ませようと思う。
「荒事は困るわよ。目を付けられたら大変なんだから」
「そこは抜かりは無いさね。もちろん後腐れもなし。成功報酬でかまわないよ」
しばし考え、スカロンは頷いた。
「……お願いするわ」
「毎度」
スカロンとの密談の終了を待って、ティファニアが話しかけてきた。
「ねえ、姉さん。さっきのお薬、何?」
「さっきのって?」
「マチルダ姉さんに渡したやつ。まさか毒じゃないよね?」
「ああ、ただの頭痛薬だよ。お、そろそろ始める気らしいね」
さて、女という種族の恐ろしさを、あのデブチンには骨の髄まで味わってもらおう。
「女王陛下の徴税官に酌をする娘はおらんのか! この店はそれが売りなんじゃないのかね!?」
何が女王陛下だ。アンアンの前で同じことが言える訳でもあるまいに。虎の威を借る狐を絵に描いたような下衆野郎だね。
いつもがいつもなので、店の子は誰一人チュレンヌに近寄ろうとしない。当然だろう。誰もただ働きはしたくないに決まっている。
そんな感じに、店の空気がいよいよ険悪なものになろうとした時だった。
「お待たせしましたわ、徴税官閣下」
やたらに鼻にかかった甘ったるい声にチュレンヌとその取り巻きが振り返ると、そこに妖艶な美女がしなを作っていた。
『魅惑の妖精』亭独特のきわどい衣装を絶妙に着こなし、蛇のような絡みつくような流し目でチェレンヌを見つめるマチルダ。
「お、おおおおおお……」
チュレンヌ一味だけでなく、店内にいる連中から老若男女問わずに深いため息が漏れる。中には何人か前屈みになっているのもいる。エッチな奴らめ。顔は覚えておこう。後で然るべき報いをくれてやらねばならん。
「と、トレビアン……」
スカロンすらもあっけに取られる始末。まあ、気持ちは判るが。
「お、お前、見慣れぬ顔だな」
再起動を果たしたチュレンヌが、精一杯の虚勢を張っている。つくづく時代劇で印籠の前に土下座すると似合いそうな奴だ。
髪をいじり、化粧も厚めの今のマチルダだ。チュレンヌも以前会った工房の女主とは気付かないだろう。
「今宵、素敵な閣下のためにデビューですわ。お見知りおき下さいまし」
手にしたグラスをチュレンヌに手渡し、自分もグラスを構える。粘っこく腰に伸びてくるチュレンヌの手を払う。
「あら、まずはお近づきの一杯から参りましょう、閣下」
艶っぽい声を鼻から出してグラスを合わせる。
「姉さん、すごい……」
「あれで落ちぬ男がいたら見てみたいものです」
家人二人の意見には私も同意する。間違ってもマチルダにこういう商売をやらせてはダメだと思う。下手したら国が滅びそうだ。
それにしても巧い。甘えるそぶりを見せながら、チュレンヌのボディタッチを手品師のようにかいくぐっている。太守の娘なんていう良家の子女のくせに、どこで覚えたんだ、あんな手管。まあ、とても大公の娘には見えない私が言えた義理ではないが。
そんなタイトロープのようなやり取りが続くこと数分、私のイメージ通りの時間にチェレンヌの動きが急に鈍くなった。
「あら、どうされたのですか、閣下?」
さも心配そうにマチルダがチュレンヌの顔を覗き込む。
「う、うむ……」
チェレンヌはこめかみを押さえ、言葉を濁す。
「ちと頭が痛くなってきてな」
「まあ、それは大変」
「姉さん、さっき薬、本当に頭痛薬だったの?」
「本当だよ。ただの『頭痛』薬さね」
慌てるテファだが、心配はない。ピエモンからもらった3時間くらいで効果が切れる偏頭痛の薬だ。都合が悪い話し合いの時に相手に盛るのが本来の用途だとか。飲んでも死にはしない。結構痛いらしいけど。
医者たる者、患者に毒を与えることはもってのほかだが、別にあいつは患者ではないからヒポクラテスの誓いにも抵触しない。むしろ、いっそのこと終身効果の不能薬でも盛ってやりたい気分だった。
「痛たた、頭が割れるようだ」
チュレンヌは堪えられんとばかりに席を立った。
「今日は帰るぞ」
「あら、寂しいですわ。では……」
いよいよ仕上げだ。マチルダはジェシカを呼ぶと、ジェシカはラッピングされた40サント四方の箱を持ってきた。
「ちょ、姉さん、あれって!」
「静かに」
血相を変えるテファの唇に人差し指を押し当てて黙らせる。
「これ、私からの心ばかりのお近づきの印ですわ」
「む、なかなか殊勝な心がけだな」
「また今度いらしたときに可愛がってくださいませ」
「ふふ、愛い奴め」
最後にマチルダの頬を撫でてから箱を受け取り、チュレンヌは鈍い足取りで店を出て行った。
箱を受け取って店を出ていく徴税官を見送るテファが、蒼い顔で声を震わせている。
「……ね、姉さんたち、たまに怖いよね」
そんな私たちのところに衣装そのままでマチルダが戻ってくる。周囲の妖精さんたちからは拍手喝さいだ。
今日この場を凌げたことが嬉しいのだろうが、うまく行けば未来永劫、奴がこの店のドアをくぐることはないだろう。
「お疲れ」
一仕事終えたというか、苦行から解放された感じでマチルダは息を吐いた。
「たまんないね、ああいうのは。息は臭いし、手は脂ぎってるし。偉ぶるんなら、もうちょっとその辺の身だしなみをしっかりやってもらいたいもんだわ」
う~む、やはり私が行った方が良かったのではなかっただろうか。
私なら『徴税官閣下にプレゼントなのです。にぱー☆』とでもやっていれば触られたりしなかっただろうし。
貧相な体も、時には便利なこともあるということだ。
「ありがとう、助かったわ」
そう言って寄って来たジェシカからおしぼりを受け取り、顔や肩を拭いているマチルダ。
さすがにすべてを回避することは無理だったようだ。
「何カ所触られた?」
「3カ所。まだまだ甘いね、私も」
「あの野郎……」
マチルダにとっては許容範囲なのかも知れないが、あんな脂ぎった手で我が姉の面貌や肢体に触れるとは。
「ディルムッド」
「は」
既に立ち上がっている我が忠臣。表情を見ると、彼もまたいささか立腹しているようだ。
結構。その怒りが正当なものであることは私が保証しよう。
「3カ所分だよ。加減は好きにおし」
「お任せを」
かき消すように、ディルムッドは夜の闇に消えた。
翌日、徴税官が帰り道に何者かに襲われて半殺しになったというニュースがトリスタニアに飛び交ったのはまた別のお話。
また、同日の夜、件の徴税官の邸宅が謎の火災を起こして全焼したというのも別のお話。
そして、マチルダが『魅惑の妖精』亭で働きだしたというデマを聞きつけた街の男どもが夜な夜な大挙して店に押しかけてくるようになったのは、さらに別のお話。