幸福には翼がある。
つないでおくことは難しい。
何がきっかけになるかは私にも判らない。
それは不定期にやってくる。
しばしば、思い出したくもない夢を、私は見る。
ある男に組み敷かれる夢だ。
のしかかる体温は、夢とは思えぬほど生々しい。
泣こうが喚こうが、私の躰をまさぐり、着衣を剥いでいく手の動きは止まることなく、私の悲鳴が高まれば高まるほどその速度を増していくようですらあった。
この感触の生理的嫌悪感は、筆舌に尽くしがたい。
樽いっぱいにナメクジが入っているナメクジ風呂があったとしよう。
それがナメクジではなく、ゴキブリでも蜘蛛でも蛭でもいい。
この体験と、その樽に首までつかってのんびりするのとどちらかを取れと言われれば、私は一瞬も躊躇わずに服を脱いで手ぬぐい片手に樽に手をかけるだろう。
こればかりは男の人には絶対にわからないであろう感覚だ。
女性であっても、同じような境遇に遭ってみなければ真に理解をすることは難しいだろう。
その時に見た相手の顔は、私にとってはまさに悪魔の顔以外の何物でもない。
人を性欲処理の道具としてしか見ていない、歪んだ顔。
憎悪や憤怒や侮蔑や無念、あらゆる負の感情が私の世界を塗りつぶして、破裂した。
この夢を見るたびに、私は真夜中であっても悲鳴を上げて飛び起きる。
寝汗がひどく気持ち悪い。
今この瞬間もあの男の体温がそこにあるような気がする。
全身を掻き毟りたくなる嫌悪感だ。
荒い息を整え、私は水差しを取って貪るように水を飲んだ。
いつもこの瞬間だけはティファニアに頼んで記憶を消してもらいたいと考える。
精神の深部まで根を下ろしてしまったトラウマは、このままでは一生私を苛むと思うからだ。
将来、どこかで何かを間違って好いた殿方に肌を許す日が来ても、恐らくその瞬間に思い出してしまうことは間違いないと思う。
そう考えるだけで死んでしまいたい衝動に駆られるが、手籠めにされかけたことは事実ではあるものの、貞操を守れたことも事実だ。
あの時の耳朶を打つ豚のような悲鳴の記憶だけが、私の心を少しだけ軽くする。
それでも、花瓶の切り花が少しずつ萎れていくように、私の心が静かに壊れていくような感覚はついて回る。
しかし、これはテファやマチルダには言えない。
言ってはいけない。
テファは優しい子だ。
話の脈絡から、必ず自らを責めるだろう。
マチルダの心情も複雑だろう。
彼女の中では、私が彼女らと行動を共にした動機については、私もまた同じように親を王家に殺された者であるという同族意識が根っこにあると思う。
私とマチルダを結びつけているものはテファの幸せを願う気持ちで同一であるが、アルビオンの王家に対する感情では私のそれとは真逆の感情を彼女は持っている。
マチルダにとって、テューダー家は仇だ。
しかし、私にしてみれば、彼女に対して大公家の不始末で取り返しがつかない迷惑をかけてしまった負い目はあるものの、私自身は王家に対しては悪い感情は持っていない。
すべてはおとんの短慮が発端であり、すべての責任は彼に帰結するのだ。
マチルダには言ったことはないが、おとんの死については私は本当に何も思うところはない。
どこかの知らない誰かが馬鹿なことをやって殺されたくらいの感覚だ。
その気持ちも含めて、テファのところに行くまでの私の過去をすべて話した時、マチルダがそれを大公家縁の者としての勝手な事情と断じる可能性もないわけでもない。
私が、転生者としての神の視点から二人の救済を希求したことも、もちろん言えない。
彼女らを救済したがために、この先の歴史がどう流れるかは判らない。
しかし、アルビオン王家が倒れた時には、喜ぶマチルダの傍らで、私は伯父王を思って悲嘆にくれることになるに違いない。
思考の海に溺れかけ、私はベッドから抜け出して部屋の片隅の戸棚からワインを取り出して開けた。
体の中から消毒するのであれば、アルコールに勝るものはない。
私は手酌で一人、月を見ながら酒を飲んだ。
どうせこの夢を見た後は、いつも朝まで眠気などやってこないからだ。
その日は休診日ということもあり、私とテファは一緒に街に買い物に出かけた。
ラグドリアン湖への旅支度だ。
先日のカトレアの診察の代償について、さすがは公爵家という金額を支払ってもらったため、今の私たちはちょっとしたブルジョワだ。
もちろんある程度は診療院の拡張資金として取っておくが、それでも平民としてはかなり贅沢な旅行が可能なくらいは用意できる。
さすがに泳ぐのは季節的に厳しいので、湖畔で何をするかと言えばのんびりと時間を捨てるようなひと時を過ごすことくらいしかアイディアはない。
私としては、良いワインと美味しい料理、そして穏やかな時間があればそれだけで充分だと思っている。
意外なことだが、ディーはアウトドア料理が得意であり、現地での食事は彼に一任することにしている。
何はともあれ、いろんな意味で楽しみなことだ。
そんな買い物の途中で、私は武器屋に寄った。
顔見知りのよしみで、ちょっとした往診だ。
武器は重量物であるため、職業病的に武器屋の主人も慢性的な腰痛に悩んでいる。
定期的に私のところに来てはいるが、今日はそろそろ膏薬が切れたころだと思うのでついでに届けてやろうと思っていた。
武器屋のドアをくぐると、鉄と錆と油の匂いがした。
初めて入ったテファは興味津々といった感じで並んでいる武器類を眺めている。
ランプの付いた薄暗い店内を見回すが、親父の姿は見えない。
「デルフ~」
私は乱雑に積み重ねられた剣の山に向かって声をかけた。
「あ~? 俺に話しかけるのは誰でえ?」
何とも面倒くさそうな声が剣の山から聞こえてきた。
ずいぶん怠惰な伝説の剣もあったものだ。
「私だよ」
「お、診療所の娘っ子じゃねえか。久しぶりだな」
御存じデルフリンガーは、今この時はまだ一山幾らの剣の中だ。
インテリジェンスソードと言うだけあって口が達者なだけに、人斬り包丁の機能の他にも店番までこなす優れもの。
これが100エキューというのは考えてみれば安い。
「ボヤッキーはどうしたね?」
「ぼやっきーって誰でえ?」
親父の外見のせいで、つい地球のネタを振ってしまったことに言った後で気が付いて私は頭をかいた。
「お前さんの売り主のことだよ」
「ああ、今日は腹の具合が悪いらしい。さっき中に入っていったぜ。出すもの出しゃ出てくるだろうよ」
「そうかい、ありがとうよ」
私が店の奥に大声で声をかけると、武器屋の親父は手を拭きながらすぐに出てきた。
「よう、おめえか。どうしたんだ、今日は?」
「そろそろ膏薬がなくなるころだろ? 近くまで来たから補充を持ってきたんだよ」
「おお、それはすまねえな」
渡すものを渡して代金をもらう。
「それにしても・・・」
先ほどから全く人が来ない店内を見回して私は言った。
「何だか景気が良くなさそうだね」
「まあな、と言いたいところだがちょっとこの先は判らねえぞ?」
「・・・どういう意味だい?」
「戦争だよ」
いつになく鋭い眼光で武器屋の主人は言った。
その眼は『夜』の輝きを放っていた。
かつてはその道では知られた、伝説の傭兵の眼力に私は一瞬呑まれかけた。
「アルビオンの一部の貴族が独自に議会を立ち上げたぜ」
その言葉に私は背筋に冷たいものを感じた。
本腰入れて動き出したか、『レコン・キスタ』。
クロムウェルが水の精霊から指輪を奪って1年半、散発的な反乱が続いていたようだが、いよいよ一気に王室打倒に向かって動き出したらしい。パリーに与えた警告がどのように機能したかは判らないが、王党派が後手を踏まないことを祈るばかりだ。
ガリアの無能王の差す手を上回るだけの根回しを、テューダー朝のスタッフがやっていればいいのだが。
「近々、有力貴族が連名で、共和制を上奏する名目の意見書をぶち上げるって話だ。早い話が王権を有名無実化する反乱の狼煙だな。こりゃ荒れるぜ」
王権によって国を統べるのはアルビオンだけではない。
レコン・キスタには国境などないだけに、その火がどこまで延焼するかは現時点では判らない。
「・・・どれくらいの勢力が貴族派に転んでいるんだい?」
この世界では情報は売り物だが、ダメもとで訊くだけ訊いてみた。
意外なことに武器屋はすんなり教えてくれた。
「力比べならまだ王党派が有利だが、今はまだ様子見の連中が少なくない。北部連合が転べば形成は一気に貴族派に傾くだろうよ。そうなったら内戦だな。アルビオンは地獄になるぜ」
「北部連合・・・」
私は、口の中に感じる苦いものを吐き出したくなった。
北部連合はアルビオン北方の有力貴族で結束している地域であり、王家との関係はすごく乱暴な喩をすれば、地球のイギリスの感覚で言うイングランドとスコットランドのそれに結構近い。もっとも、王権としては始祖直系のテューダー朝が正当であるため王は頂いていないが。
そして、その北部連合の有力な貴族が、私の母親の生家であるハイランド侯爵家なのだ。
「ともあれ、穏やかじゃないのは間違いねえ。詳しいことはまた会合で報告するからよ。お互い、下手は打たねえよう気を付けようぜ」
刃物のような眼光で私を見る『武器屋』に対し、私もまた『夜』の顔で答える。
「貴重な情報をありがとうよ」
振り返ると、テファが固い顔で私を見つめていた。
「どうしたね?」
私が問うと、テファは困ったような顔で言った。
「今の姉さん、何か恐いわ」
店の棚に嵌ったガラスに映った自分を見て、テファの言っていることが判った。
嫌な目だった。
感情を映さない、無機質な目。
まるで爬虫類のような目つきをしている自分に、さすがに強い自己嫌悪を感じた。
「ごめんよ」
テファに謝り、私は無理に笑顔を作って武器屋を後にした。
夜、工房組が帰ってきて夕飯を食べた後で旅のプランを話し合った。
まずは移動手段。これはせっかくなので馬車を借り出そうということになった。
懐具合がいいので、ブルームタイプの豪勢な馬車でも何とかなりそうなので、今回はそれで湖まで向かう。
平民なら誰もが憧れる贅沢な旅だ。
宿も、平民向けとしてはまずまずの宿が町内会の伝手で手配がつきそうだった。
ここ1年ちょっとくらい前から湖が増水しているのが気になるが、まだ幹線道路は問題なく通れるらしい。
そっちの問題はそのうち然るべき人たちが何とかするだろうと私が思っているのは他の3人には内緒だ。
食後のお茶を飲みながら皆できゃいきゃいと騒いでいた時、チャイム代わりの鈴が鳴った。
はて、夜も9時を回ったあたりに誰だろうか。
急患か?
「私が」
と立ち上がりかけたディルムッドを私が制した。
「いや、急患かも知れない。私が出るよ」
立ち上がってスリッパを鳴らして玄関に急ぐ。
ライトの魔法で明かりをつけ、ドア向こうに声をかける。
「急患かね?」
「お頼み申します」
慇懃な男の声だった。
それだけで平民の客ではないことは察しがついた。
それは同時に、ちょっと訳ありの患者という図式に繋がる。
ドアを開けると、身なりがいい初老の男が立っていた。
どこかの使用人のように見える。
「このような夜更けにどうされました?」
「夜分誠に申し訳ない。当家のお嬢様が急病に倒れまして、直ちに当家までご足労いただきたいのですが」
やや言いにくそうな物言いに、私は首を傾げた。
「やんごとなきお家の御令嬢ですか? 私のような市井の藪医者より貴族のメイジの方が確実かと思いますが?」
「あまり公にはできぬ事情があるとお察しください」
「そちらの家の水メイジは?」
「遺憾ながら、今日は手配がつきません」
「恐れながら、どちらの御家中でしょう?」
「・・・アストン家の者にございます」
男は消え入りそうな小さな声で答えた。
アストン家と言えばタルブの辺りを治める歴とした伯爵家だ。
うちみたいな平民に声をかけてくるだろうか。
私は首を傾げた。
「私も使いの身なれば、申し上げられることと致しましては、さる高貴な身分のご婦人の、女性としての体面に関わる事情でして・・・」
何となく察しがついて来た。
高い身分であろうと平民であろうと、男と女がいる限り、未来永劫なくならないであろうトラブルの類だろう。
「ご懐妊か?」
「それ以上はご容赦ください」
やはり、言葉の端々から読み取れる情報としてはそっち方面のトラブルをどうにか内々で済ませたいらしいと思われた。
「・・・承知しました。支度をしますのでしばしお待ちを」
私は院内にとって返し、相応の準備をして鞄に荷物を詰め込んだ。
詳しいことが判らないので最低限の用意をそろえ、足りなければまた後で補充を取りに戻るということで良しとする。
『高度な柔軟性を維持しつつ、臨機応変に対処する』という奴だ。
充分な情報がなければ診療はできないと門前払いすることは簡単だが、今現在苦しむ患者がいるからには無碍にも断れない。
「急患なの?」
私がごそごそやっていると、診察室にやってきたティファニアが私の様子を見て訊いてきた。
「あまり穏やかな話じゃなさそうだよ。ちょっと行くだけ行ってみるさね」
「一人で大丈夫?」
いかんせんブラインドデートだ。
最低限の安全策は取るつもりだった。
「頼りになる用心棒に来てもらうさ。ディルムッド!」
私が声を上げると、打てば響くのタイミングでディーが現れる。
「これに」
「ちょっと往診に行くから、念のため供を頼むよ」
「御意」
馬車に揺られてしばらく進む。
行く先はアップタウンのようだった。
よほど体面を気にしているのか、馬車には家紋は入っていない。
何があったのか知らないが、そもそもアストン伯爵の家系などは私あたりが知る訳がない。
依頼内容は恐らく堕胎だろうとはあたりはつけているが、子宮外妊娠や切迫流産など、可能性は考えだしたら切りがない。
馬車が止まったのは、屋敷街のはずれにある、古風な屋敷だった。
記憶違いでなければつい先日まで空き家だったはずだが、買い手がついたとは知らなかった。
「こちらにどうぞ」
あまり人の気配がない屋敷だった。
明かりも少なく、建物にも生活感がない。
貴族であればどこかに家紋のレリーフの一つもありそうなものだが、そのようなものも見当たらない。
何だかホラー映画のような雰囲気に、ディルムッドが滑るように寄ってきて囁く。
「主・・・大丈夫でしょうか?」
「気を付けるよ。何かあったら守っておくれな」
「は。一命に代えましても」
そんな会話をしながら、私たちは建物の中に歩みを進めた。
家の中はそれなりに掃除が行き届いており、買ったばかりの屋敷をこれから自分色に染めていこうという気配は感じられた。
ホールから2階に上がり、ある部屋のドアの前に着いたときに執事が慇懃に頭を下げた、
「この先は女性だけということでお願い致します。侍従の方は控えの間に」
この先は女性の寝室ということだろうか。
私はディルムッドに待つように指示し、部屋に入った。
明かりが灯された部屋の中には豪勢なベッドがあり、その真ん中に患者が寝ていた。
「医師のヴィクトリアと申します。お召しによりまかり越しました」
声をかけてもベッドの人物に変化はない。
怪訝に思ってベッドに寄ってみて、私は自分の迂闊を呪うことになった。
寝ていたのは、うまく作られた藁人形だった。
事の仔細は判らない。
ただ確実なことは、ここの家の住人は間違いなく私に害意を持っているということだ。
気配を感じてとっさに懐の杖に手をかけて後ろを振り返ると、そこに黒いマントを着た白い仮面の男が立っていた。
髪が長く、マントの裾からレイピアのような長い杖が見える。
足元には拍車。
私は驚愕した。
訳が判らなかった。
何故だ?
何故お前が私に絡んでくるのだ?
ジャン・ジャック・フランシス・ド・ワルド!
混乱する理性をよそに、本能は全力で声帯を振るわせ、同時に念の波を飛ばした。
「『ディルムッド!』」
叫びながら私が杖を抜くより早く、白仮面が杖剣を引き抜く。
「イル・ウォータル・スレイプ・クラウディ」
そのルーンが眠りの雲の魔法だと理解した瞬間、私の意識は闇に落ちた。