トリスタニアの朝は、日の出とともに動き出す。
往来を行きかう行商や運搬の音を聞きながら、私は目を覚ました。
およそ7時くらいであろうか。
職人に比べれば遅い朝だが、主観的にはかなり早い。
のそのそと芋虫のように起きだして、玄関の外にある牛乳受けから牛乳を取り出す。
左手は腰、正面に向かって斜め45度で立ち、ビンを持つ手の小指は天を指す。
これが様式美というものだ。
身長140弱。
私に胸周りのサイズを最後に訊いた奴は、街外れの墓場に眠っている。
今年で20歳なのに、どこから見ても10かそこらの小娘のこの体。
対抗する手段としては今飲んでいる魔法の薬しか思いつかないのが目下の最大の悩みだ。
「先生!」
人の流れを見ながら私が口の周りに白い髭を作っていると、通りの向こうからでかい声ととも大男が数名駆けてきた。
「何事だね?」
男は顔見知りの鍛冶屋の頭領だったが、後ろに徒弟と思われる体格のいい大男数人が戸板のような板を持ち、その上に一人の青年が苦悶の表情を浮かべて横たわっていた。
「ジャンの奴が昨夜から腹抑えて苦しんでてよ、今朝になったらあまりにも様子がおかしいんで連れて来たんだ。頼む、何とかしてくれ!」
確かに苦しみ方が尋常ではなかった。
「そのまま処置室に運んどくれ。靴はお脱ぎよ」
私は院内に戻り、急いで壁にかかった白衣を手に取る。
「テファ!」
「は~い」
打てば響くタイミングでキッチンから朝食の準備中だったテファが出てくる。今朝も相変わらず美少女全開だが、今はそれを愛でている場合ではない。
「大鍋にお湯を沸かしといとくれ」
様子を見て、すぐに目つきが私の助手としてのものに変化した。
「急患ですね。すぐに」
テファがお湯を用意する間に診察室に患者を運び込み、マスクと手袋をはめる。
「そこに寝かせたら、親方以外は外で待ってておくれ」
聴診器付けて患者の具合を診察し、その間に親方から食べたものや嘔吐などがあったか等を確認する。
聞けば、典型的な症状だった。
「……食中毒だね」
「しょ、食中りかい?」
「熱がある。食中りより、もうちょっと性質が悪いね」
O157とかこの世界にあるのか知らんが。
「し、死んじまうのかい!?」
「まあ、このままなら下手すりゃ葬式コースだけどね。心配はいらないよ。この道でおまんまをいただいているんだ、これくらいなら何とかしてあげるよ」
私は棚からいかにもポーションな形をした薬瓶を取り出す。
「ほら、苦しいかもしれないが、頑張ってお飲み」
親方に手伝ってもらいながら無理やりに患者に飲ませた。毒消しの魔法がかかった秘薬だ。
何度かせき込みながらも青年はきちんと飲みこみ、数分で呼吸が落ち着き始めた。
「このまま半時もおいておくといい。力が戻ったら帰っても構わないけど、今日明日は一日静養して、ミルク粥みたいな柔らかいもの以外は食べないこと。酒は禁止だよ」
「もう大丈夫なのかい?」
大丈夫といえば大丈夫だが、私にはちょっとした予感があった。
「この患者はね。大丈夫じゃないのはこれからだろうね。ほれ、おいでなすった」
待合室の方から聞こえた悲鳴のような声に私は呟いた。
「先生、うちの人が!」
あの声は角の酒場のおかみさんだ。運ばれてきた旦那を見ると、苦しみ方が先の男と良く似ている。
「集団食中毒かい。今日は忙しそうだ」
私はため息をついた。
「お湯沸きました……まあ、また急患ですか?」
鍋を持って入ってくるなりテファが目を丸くした。
ミトンの手で口元押さえる。
「何事だい、朝から?」
入口のところから、起き抜けのマチルダが首を出している。
「すまないね。ちょいと今日は大変かもしれないよ。廊下にも患者を並べなきゃならないかも知れないから、ちょっと騒がすよ」
「おやまあ、大丈夫かい? 手伝おうか?」
「主なところは内科の範囲だから、私とテファで何とかやってみる。困ったらディーに声をかけるよ」
「はいよ」
その日、運ばれてきた患者は25人。
問診をした結果、全員が市で行商人が売っていた魚の酢漬けを食べていた。
すぐに親方の丁稚を番所に使いに出し、まだ市で商売をしていた商人を抑えてもらう。
細かいところはお役人に任せてこっちはこっちでお仕事だ。
「お疲れさま」
夜になってようやく椅子に座れた私に、テファがお茶と菓子を持ってきてくれた
「ありがとう」
お手製のクッキーは実に美味い。
「ご飯、もうじきできるからね」
さすががに腹がすいた。朝牛乳を飲んだきりだったのだ。
「すまないね。さすがにもういないだろう」
その時、扉が開いてディーが入ってくる。工房組も、今日はもう帰って来ている。
長身細身の美丈夫だ。右頬の絆創膏がチャームポイント。
「看板はもう裏返しておいてもよろしいでしょうか?」
「ああ、すまないね。頼めるかい」
ディーは一礼して出ていく。気の回る男だ。
肩の力を抜いて、両手でカップを持ってしみじみと紅茶を啜る。
それを見たテファがおかしそうに笑う。見た目が美の権化のような娘なだけに、こういう無垢な笑顔はもはや凶器に近い。
「何か変かい?」
「姉さん、しゃべり方も立ち居振るまいもお婆さんみたいなのに、そういう仕草だけは年相応の女の子に見えるね」
「う、うるさいね」
何だか結構失礼なことを言われているような気がする。確かに身長は彼女の胸のあたりくらいまでしかない。
見た目はどう贔屓目に見ても幼女以上の少女未満だ。
この手の商売では何かと不自由ではある。
「……何とか、大きくならないもんかねえ」
テファと自分の胸元を見比べて、私は深くため息をついた。
日が暮れたチクトンネ街。
表通りに面した玄関脇にある、小さな看板。
文字と合わせて、薬瓶の絵柄と、杖に絡まった一匹の蛇が表わされている看板だ。
長身の男は丁寧に看板を裏返し、手をはたきながら玄関のドアを閉めた。
看板の文字にはこう書いてあった。
『トリスタニア診療院』