「カール・メルセデス。虚無の使い手よ。
どうかな? この場で、我らの同士になってはくれないか」
そう言い放った男――彼を睨み付けながら、カールは思わず目を細めた。
また虚無と……隣にフーケと仮面の男がいるならそれを知っていても不思議ではないが、しかし、フーケたちから虚無云々を聞いているあの男は一体何者だ。
カブリオレの切っ先を向けることで敵意を示し、カールは声を張り上げた。
「出会い頭にいきなりそんなことを云われても、答えようがない。
お前は誰だ。どうして虚無なんてものを必要としている」
カールの声が渓谷に反響すると、男は不遜そのものである笑みを浮かべ、慇懃無礼に頭を垂れた。
「失礼した。私の名前はオリヴァー・クロムウェル。
一介の司教でしかない……と名乗りたいところだが、今は違う。
レコン・キスタの議会に所属し、今は総司令官に任命されている。
君を我が組織に招き入れようとするのは単純だ。聖地を奪還するために、その強大な力が必要なのだよ」
「……レコン・キスタ」
カールの背後で、ルイズが思い出すように呟いた。
レコン・キスタ。アルビオン貴族派をまとめ、王党派に牙を剥いている革命組織の名だ。
だが、何故そいつらが俺を――いやそもそも、誘いをかける前、クロムウェルは何を口にした?
全方位から向けられる敵意に注意を払いながら、カールはクロムウェルを見据え続ける。
「……分かった。それは良いさ。
けど、引っかかるな。
何故俺たちをこうも簡単に包囲できた?
加えて、どうして密命のことを知っている」
「云うほどのことかな?
戦いにおいて情報戦を仕掛けるのは至極当然のことだろう」
「だとしても、この任務が露呈する確率は酷く低いと思うんだけどな」
「ゼロではあるまい?」
……確かに、ゼロではない。
だが、姫殿下の右腕でもあるマザリーニ枢機卿にすら秘密で開始された手紙の奪還を知る者が、どれほどいるのだろうか。
炙り出すのは簡単だろう――いや、今はそんなことを考えている場合じゃない。
目の前にいる男こそがオリヴァー・クロムウェル。
そしてフーケと仮面の男はレコン・キスタに所属している。そのため、カールとルイズが虚無であるという誤解は広まってしまっている。
レコン・キスタは聖地奪還のために虚無を必要としている。
こちらの動きは、敵に筒抜けになっていた。
注意しておくべき点はこの四点だろうか。
最後の一点が気になると云えば気になる。
尾行されていた気配はなかったが――こちらに気付かれるほど敵も間抜けではなかっただけかもしれない。
斥候として先行していたワルドの偏在はどうなったのだろうか。こんな大規模な包囲を見逃すなんてこと、有り得ないとは思う。
いや、今はそれよりも、目の前の困難をどう解決するかに腐心するべきだろうが――
カールは緩く頭を振って雑音を頭から排除すると、意図して不敵な笑みをクロムウェルへと向けた。
「こんな物々しい雰囲気の中で抱き込むと云われ、はい分かりましたと頷く奴がいるか」
「この状況でそれだけの大口を叩ける豪胆さは見事だろうが……良いだろう。
敢えて云おう。
君たちはトリステインの未来を守るためにアルビオンまで出向いたのかもしれないが、そんなものに価値はない」
「……なんですって?」
大仰に、どこか酔った風に声を上げるクロムウェルに、ルイズが震えた声でこたえた。
それに応じたわけではないだろうが、彼は大きく頷いて先を続ける。
「もう一度云おう。君たちはトリステインの未来などに執着しているようだが、そんなものに価値などないのだ!
そうとも。我々が掲げているその目的を、君たちは知っているかな?
端的に云えば、ハルケギニアに散らばる始祖の血の流れた三国。それを統一し、纏め上げられた力で聖地を奪還しようというものだ。
トリステイン貴族である君たちは、ブリミル教徒であるはず。
ならば、聖地の奪還にどれほどの価値があるかも分かるだろう?
我らが手にする日々の糧、それを与えたもうた始祖ブリミルの悲願を……ああしかし、今の世ではどの国もブリミルを敬いながら、始祖に指し示された目標を忘れ去ってしまっている。
始祖が唱えられた大願を叶えることこそを至上の喜び、それを成就させるためにブリミル教徒は生きるべきであるのに、さて、今の世はどうだ。
ブリミルから賜った遺産を行使しながらも、感謝の念を忘れ、ただ日々を生きる家畜に成り下がっていると思わないかね?
貴族も平民も一丸となり、エルフから聖地を奪還してこそ人は人として生きることができる。
それが唯一、始祖に許された正義――」
「いい加減になさい!」
長々と続くクロムウェルの話を、甲高い声が引き裂いた。
唐突に上がった大声に、カールは、そしてワルドも目を見開き振り返る。
そこには肩を怒らせ、歯を剥きながらクロムウェルを睨み付けるルイズの姿があった。
彼女は瞳に怒りの火を灯しながら、光の杖の石突きを地面へと突き立てる。
「正義ですって? ふざけないで!
あなたたちに正義なんてないわ。
絵空事のような大義名分に酔って、守るべき民の悲鳴を無視しながら聖地の奪還を掲げている……そんなあなたに、人を率いる資格なんてない!
自分たちがどれだけ無意味なことをしているのか分かっているの?
聖地の奪還も、人を守ることも、貴族は両方をこなさなきゃならない。
それなのに一方を蔑ろにして聞こえの云い台詞を口にするあなたは、ただの道化よ。
アルビオン貴族派があなたみたいな奴に率いられてると思ったら虫酸すら走るわ!
ねぇ、革命を推し進めたらどれだけの血が流れるか分かってるの?
……いいえ、分かってないんでしょうね。
だからそんな楽しそうに、私や先生をレコン・キスタへ引き込もうとしているのよ」
叩き付けられた言葉に、クロムウェルの表情は一瞬で歪んだ。
光源が月の光しかないというのに、赤く染まったことすらも見える。
が、即座に彼は余裕を取り戻すと、ハハ、と短い笑い声を上げた。
「伝承者殿と比べ、未だ担い手たる少女は未熟であると見える。
君と話はしていないのだ。黙りたまえよ。
……さあ、カール・メルセデス。君なら分かるはずだ。
この場で何を選択することが正しいのか――」
クロムウェルの言葉に反応し、渓谷の中に甲冑の軋む金属音が一斉に鳴り響いた。
それはどんな言葉よりも、雄弁にカールへと事実を示していた。
この場で死ぬか、レコン・キスタに恭順するか。さあ選べ、と。
「……カール。これは少々分が悪いぞ。
ここは一度、頭を垂れて――」
「いや、その必要はない」
『ルイズ!』
『くっ……分かりました』
念話で指示を出した瞬間、ルイズはワルドに後ろから抱きついて目を塞いだ。
「なっ――ルイズ!? 何をするんだ!」
「お願い、我慢して!」
ワルドの悲鳴とルイズの怒声を背負いながら、カールは足下にミッドチルダ式魔法陣を展開。
渓谷が群青色の光で染め上げられる中、視線をクロムウェルとフーケ、そして仮面の男へと注ぐ。
クロムウェルは何が起こったのか理解できないのか、目を驚愕に見開いている。
フーケは杖を構えて警戒を。仮面の男も同じく。
兵士はクロムウェルと同じように驚愕で動きを止めた者が大半だったが、中には狂乱に駆られたか、それとも先手を取ろうと思ったのか、ルーンを唱える者もいた。
火の魔法が長い尾を引いて次々にカールたちへと肉迫する。
が、それらをワイドエリアプロテクション、ファイアプロテクションで弾ぎ、カールはトリガーワードを呟いた。
「――封鎖結界」
瞬間、蛍火のように群青色の光が浮かび上がると、世界が色を変えてゆく。
寒々しさすら孕んでいた景色が、僅かに極彩色の着色を得て広がってゆく。
そうして――結界魔法が完成すると、渓谷にはカールたち三人とグリフォンの姿だけが残された。
『……先生、これって結界魔法ですよね?』
『ああ、そうだ。
術式を読み込んでみれば分かると思うけど、設定はやや細かい。
俺、ルイズ、子爵、彼のグリフォン。
それ以外の生体反応を持つ者を、結界に閉じこめたんだけど――』
……下手を打ったか?
三人だけが残される。そのはずだった。
だが実際には違う。渓谷の上部、クロムウェルが立っていた周辺には、甲冑の影がいくつか見える。
腕が鈍ったとはあまり考えたくないことだが、事実として標的を取りこぼしてしまったことは確かだ。
「……これは?」
カールが己のミスに歯噛みしていると、呆気にとられたような声をワルドが上げた。
それで我に返ったカールは、気を引き締め直した。
「問答はあとだ、子爵。
先導を頼む。俺はルイズとグリフォンを守りに入るから」
「分かった。説明はしてもらうぞ」
「それはこっちの話だ。
先行させた偏在はどうしたんだ。全方位から包囲されるなんて冗談じゃない」
「……すまない」
杖を構えながら、ワルドはゆっくりと動き、そして敵に攻撃する気配がないと見ると、一気に駆け出した。
その後を追う形で、ルイズとグリフォンが、そして最後尾にカールが続く。
『……こんな連中から、逃げるしかないだなんて』
『我慢するんだ。勝てたとしても、それは俺たちがすべきことの分を越えてる』
おそらくクロムウェルに言い返したときの怒りが、まだ収まっていないのだろう。
それを宥め賺しながら、カールは防御魔法を組み立てる。
上方からの攻撃を警戒するカールだったが、しかし、魔法が降り注いでくるようなことは一度としてなかった。
指揮官が消えたから戸惑っている? いや、違う。そう、何か――まるで主人を失った人形のような。
じっとこちらを見詰め続ける甲冑たちの姿に、カールはそんな不気味さを抱いた。
「……光の檻、だね」
「お前が閉じこめられたという、例の虚無か?」
「ええ。発動した瞬間は初めて見たけど、これはあの時と一緒ね。
……僅かに色の変わった周囲の風景。
多分、出ようと思っても出られない」
諦めたように肩を竦めるフーケに、ワルド――偏在ではなく本人――は、感嘆の息を吐いた。
光の壁、光の礫、光の剣までを直接見た彼だったが、フーケが手に入れたいと願う光の檻は、今までの中でも別格と云える力を持っているだろう。
ただ効果範囲内にいる人間を閉じこめるというだけならば、系統魔法にも真似はできる。
火系統ならば人には越えられない業火の壁を生み出したり。水ならば雨天の時に限定されるだろうが、水の膜で一定範囲を覆ったり。
土ならば壁で囲い、風ならば竜巻で。
だがこの光の檻は、ワルドたちを閉じこめるだけではなく、魔法を使った張本人であるカールと、同行していたルイズにグリフォン、そしてワルドの偏在を除外した。
檻ではなく結界とでも云うべきだろう。
固有の世界を生み出して、そこに対象を放り込む。おそらくはそんな効果を持っているのではないだろうか。
……実に、素晴らしい。
エルフがいかに強大だろうと、この世界に放り込んでしまえば無力化したも同然だ。
虚無に対する心酔にも似た感情が、この時、更に高まる。
が、今は感心している場合ではないだろう。
ワルドはその感情を押し殺し、背後に立つクロムウェルへと振り返った。
「申し訳ない、司教。彼の虚無を甘く見ていたようだ」
「い、いや、謝ることはないとも。
そうか、これが虚無か……凄まじいな」
クロムウェルの言葉尻には、微かな怯えが含まれていた。
仮面の奥で眉を持ち上げながら、ワルドは首を傾げる。
「この魔法をご存じではないのですか?
同じ虚無の使い手であるあなたは――」
「わ、私の虚無は命を司るものだ!
彼の、戦を司る虚無とは違うのだよ!」
「これは失礼を」
頭を下げながら、そうか、とワルドは胸中で思考する。
クロムウェルが虚無の使い手であることに疑問は抱いていない。
死人に命を与え、操る所業は既に目にしている。その行いの善悪はともかくとして、力そのものはカールの用いる虚無と同じく凄まじいものであることに違いはない。
戦を司る――成る程。
カールとクロムウェルが直接戦ったら、その結果は云うまでもないだろう。
しかし人の命を操るという虚無の力は、軍勢を生み出すという意味では強力無比である。
圧倒的な個と、不滅の群体。
それらが衝突した際、どちらが勝つかは――戦の常識を考えれば後者だろうが、虚無という伝説の括りに当てはめるとさっぱり分からない。
おそらくは互角、と当たりを付ける。どちらも人智を越えた力だ。ワルドの物差しでは測れない。
……この二つの力が備われば、レコン・キスタに敵はない。
そう思いこの襲撃をクロムウェルに頼み込んだのだが、光の檻の効果はワルドの思惑を越えるほどだった。
この包囲は、カールを亡き者にするためだけに計画されたものだ。
数にものを云わせて守勢に回らせ、その背後から偏在がカールの命を絶つ。
ルイズは適当に気絶させ、ワルドが裏切る瞬間を目撃させなければ良い。
そうしてカールをクロムウェルの力で従えて、と。
……不意打ちに近い形でしか、ワルドはカールを殺せないと思っている。
いや、それですら怪しい。
虚無といえど所詮は人間。寝込みを襲えば――とは思うものの、そんな簡単は手段であのカールを殺せるのか?
そんな疑問がまとわりつき、どうしても実行に移せなかった。
それに、ルイズと一緒にいる状態でカールを殺すのは、彼女の信頼を失う可能性が存在している。
ただでさえ危ない橋を渡っているのに、これ以上の博打を打てるほど、ワルドはおめでたくなかった。
……どうしたものか。
光の檻という魔法ただ一つにより思惑は外れ、自分たちは足止めを受けている。
この場で旅を終わらせるつもりだったため、偏在には適当な言い訳をさせなければならないだろう。
カールたちから見れば、レコン・キスタに包囲された原因はワルドのミスなのだから。
「とにかく、まずはこの光の檻から出ねばならん!
ミス・サウスゴータ、あなたは以前、この中に囚われたことがあるという。
何か脱出する手立てはあるかな?」
「……あなた、虚無の使い手なんでしょう?
私に聞くより自分で考えた方が良いと思うけど」
「い、云ったはずだ! 私の虚無は彼と方向性が違うのだとな!」
もう良い! と肩を怒らせ、クロムウェルは部下へと指示を飛ばし始めた。
光の檻の果てにあるだろう壁に魔法の集中砲火を加えよと。
指示に従い、甲冑が立てる重い音と共にレコン・キスタの者たちが動き出す。
それを聞きながら、ワルドはフーケへと声をかけた。
「何故、あんな喧嘩腰の言葉を向けた?」
「……勘の域を出ないんだけど」
自分でも分からない、といった風な口調で、フーケは口を開く。
「あんたが云う司教の虚無の力は確かなのかもしれない。
けれど、どうにも……何度か目にした、国の権威に胡座をかいてる貴族に雰囲気が似てる気がするのよ、あいつ。
金メッキの自信っていうか……あたしは好きになれない」
「だとしても、力があることに変わりはない。
金メッキ云々も、それは司教の人間性にかかることだ。
実力とはまた別だろう。加えて云うなら、好きになれないのはお前の好みだ」
「まぁ、そうかもしれないけどね」
納得がいかない風のフーケから視線を外して、ワルドは光の檻へと攻撃魔法をぶつけ続けるレコン・キスタへと視線を流した。
そう。虚無を抜けばクロムウェル自身が矮小な人間であることぐらい、とうの昔に見抜いている。
だが、それとこれとは別だ。ワルドにとって重要なのはクロムウェルの人間性などではなく、虚無の力である。
なんとしても彼の力を手に入れてみせる。そして、母への贖罪を果たしてみせる。
自らの心根を強く意識し、ワルドは拳を握り締めた。
月のトライアングル
微かな疼きを感じる胸を手で押さえながら、カールは礼拝堂の入り口にある椅子に腰掛けていた。
差し込む月光により奥にあるステンドグラスは妖しく輝いており、見る者が見れば、荘厳な雰囲気を感じ取るだろう。
カールたちは渓谷を抜けると、その先にあった街の外れにある打ち捨てられた古城へと忍び込んでいた。
ワルド曰く、ここの城主は王党派なのだという。そのために城を捨て、今はウェールズ皇太子とともに行動しているのではという話だ。
城内は物取りが入り込んだのか荒れ果て、唯一落ち着いて過ごせそうなのはこの礼拝堂ぐらいだった。
他は部屋という部屋が荒廃し、金目のものはすべて剥ぎ取られている有り様だ。
寝床としてならまだ使えるかもしれないが、腰を据えて過ごすとなると落ち着けない。
そのため、休憩を取っているカールは礼拝堂にいる。
物取りにも良心があったのだろうか。人が入った痕跡こそあれ、ブリミルの聖像、そのレプリカなどには手を触れた跡すらない。
始祖ブリミルはやはり敬われているのだろう。そんなことを考えながら、服の上から胸元を擦った。
以前のような激痛はない。しかし、今度は痒みのような違和感がずっと続いている。
本当になんなのか――それを調べるために、カールは再び診断プログラムを走らせていた。
じっと待ち続けて十分ほど。その頃になってようやく、診断結果がウィンドウに表示される。
それを目にした瞬間、カールは目を瞑り、盛大に溜息を吐いた。
「そう、だな。
魔法が普通に使えるから気にしなかったけど、充分にあり得た。
……どこまで抜けてるんだ俺は」
額に手を当てて待機状態のカブリオレをポケットに突っ込むと、そのまま長椅子に横たわった。
どうするか――そんな疑問が脳裏に渦を巻くも、どうしようもない。
自分の患った病――というより怪我は、ハルケギニアに居続けては絶対に治せないだろう。
しかしミッドチルダへの帰還方法は未だ見付かっていないため、どうすることもできない。
この任務が終わったら、ルイズの教導と平行して、帰還方法の模索に力を入れるべきだろう。
ルイズの教導をしている場合じゃない、とは考えない。それはそれだ。
責任は取らなければだし、教え子はしっかり導きたい。
この怪我が命を脅かすようなものでないからこそ云える軟弱な意見なのかもしれないが、余裕がある以上、そうしたい。
……魔法という力。そして力との付き合い方。
それを教えるという約束はカールにとって、そしてルイズにとって決して軽いものではないだろうから。
彼女が真面目に魔法と向き合っている以上、中途半端なことをしてルイズの気持ちを馬鹿にしたくはなかった。
一刻も早くミッドチルダに戻りたいという願いは、今も胸に息吹いているが――
「先生、いますか?」
「ああ、お帰り」
蝶番の軋む音と共に、礼拝堂の扉が押し開かれた。
姿を現したのはルイズとワルドの二人だ。デルフリンガーは、ルイズが背負っている。
ルイズの両腕には、干し肉やビスケットの箱など、保存食が抱えられていた。
城のキッチンから探し出してきたものらしい。とは云ってもやはり物取りが荒らし回った後だから、量は多くなかった。
カールが持ち込んだものもあるが、これは最後の最後まで取っておきたいため、可能な限り現地調達でと決まっていた。
カールは起き上がってルイズたちの元へと近付く。
ルイズは近くの長椅子に荷物を置くと、デルフを背もたれに立てかけ、腰を下ろした。
「……このお城、酷く埃っぽいわ。
お風呂に入りたい」
「できなくはないけど、どうする?」
「……大丈夫です」
一瞬顔を輝かせたルイズだったが、そんなことをしている場合じゃないと思ったのか、肩を落とした。
そんな様子をワルドと共に笑い、三人は椅子にかけて保存食へと手を伸ばす。
ルイズはビスケット。カールとワルドは干し肉を。
ワルドが一囓りし、なんとか食べられると判断すると、それぞれはモリモリと食事を始めた。
が、三人で食べるには量が少ないため、念入りに咀嚼しながら食べる。
「……ここ最近、たくさんご飯を食べてたからなんだか物足りないわ」
「……おや、そうなのかい?」
「せ、先生に云われたからなの!
そうでしょう!?」
ワルドに問われ、ルイズは大慌てで声を上げた。
くつくつと笑いながらも、そうだね、と頷く。
「元々ルイズの食が細かったんだよ。
最近のがようやく、普通よりもちょっと多いぐらい。
でもまぁ確かに、保存食じゃ物足りないってのは分かるけどね」
ブチリ、と干し肉を噛み千切りながらカールは云う。
微かに味付けされていて良かった。味のない肉を噛んだって美味しくもない。
「そ、そういうこと。
ワルド、分かった? 別に私は大食いってわけじゃないのよ」
「はは、別に僕は君が大食いだなんて云っていないよ、ルイズ」
「それでも! それでも大食いってわけじゃないのよ!
ああ、もう……」
ビスケットを口に放り込んで、ルイズはそっぽを向いてしまう。
カールとワルドは相変わらず笑ったままだが、どちらも、彼女を馬鹿にしているわけではない。
ルイズもきっと分かっているのだろう。それでもこんな態度を取るのは、ただ恥ずかしいからかもしれない。
「大食いだって別に気にすることじゃないと思うけど。
ルイズは痩せすぎなんだよ。最近になって少しは変わってきたけどね。
ややふくよか、ぐらいが丁度良いと思うけぞ。ねぇ、子爵?」
「……ん? ああ、そうだな。
やや、の塩梅が人によってかなり違うだろうが」
「男の人って、もう! 緊迫感もないんだから!」
もう一つビスケットを取り上げ、囓りながら、ルイズは微かに頬を膨らませる。
それはリスの如くほっぺたに食べ物を蓄えてるわけではなく、今度こそ怒ってしまったからかもしれない。
「休憩中なのだとしても、もう少し焦りましょうよ……」
吐露された言葉は、しかし、怒りというよりは焦りに濡れていた。
それもそうだろう。封鎖結界を使用したことで難を逃れたとはいえ、結局、敵が自分たちを追っているという事実は何も変わらない。
ただでさえレコン・キスタが王党派と衝突する前にウェールズ王子の元へ辿り着かなければならないのに、ここにきて追っ手の出現。
敵を振り切ることが出来ずに王党派の元へレコン・キスタを招くようなことなどできない。
しかし、敵の追跡を振り切るのはどうすれば良いのか――
「……そうだね。気持ちは分かる。
実際、僕たちは余裕のない状況に追い詰められてるのだし」
現実を突き付けるように云うと、ワルドはルイズの肩に手を置いた。
ルイズの表情は一気に沈み込み、俯いてしまう。
今の状況は正直、笑えない。
レコン・キスタを振り切って王子の元へ行かなければならないというのがまずそうだし、その打開策もまともなのが上がっていない。
今は食事の時間となっているが、ルイズたちが食料を探しに出る前、三人で案を出し合っていた。
一度話を打ち切ったのは、気分転換のためだ。
いや、有用な案が出なかったということもあるが、ワルドの偏在がレコン・キスタに気付けなかったこと、そして連中がカールの魔法を虚無と呼んだこと。
それらお互いの痛い腹を探り合い、雰囲気が非常に悪くなったため、一時中断していた。
今の所上がった案は、どれも実行するのに躊躇いを覚えるようなものばかりだった。
三人での強行突破。可能かもしれない不可能かもしれない。それに追っ手を振り切れなかった場合、やはり王子のもとへレコン・キスタを招くことになってしまう。
ワルドとカールの偏在を使って(カールのは幻影魔法)敵を攪乱する。手段としては悪くないかもしれないが、ルイズがいないことを警戒されてしまえば意味はない。
既にルイズが大使であることは見抜かれているのだ。虚無云々はともかくとして、手紙の奪取に敵が狙いを絞ってきたら、大使であるルイズを真っ先に狙うだろう。
ワルドが身を隠し、カールとルイズが飛行魔法で一気に王子の元へ行く。
これはカールたちにとって最も確実な手段だと思えるが、ミッド式を知らないワルドからすれば自殺行為に等しいため猛反対された。
アルビオンにきたときと同じように、滑空しながら王子の元へ。
これを行うには、グリフォンの消耗が激しすぎる。回復を待っていたらレコン・キスタと王党派の衝突が始まってしまうかもしれない。
……どんな手を使って敵の追跡を振り切り、王子の元へ行くべきか。
カールとルイズからすれば、そこにワルドを納得させる理由というものが追加され、冴えたやり方は一向に浮かんでこなかった。
「……そうだ、二人とも」
ルイズの一言で生まれた沈黙を、ワルドの言葉が破った。
カールが視線を向けると、彼は酷く真剣な顔で、上へと視線を向ける。
「そう珍しくもない風習だが、アルビオンでは教会の鐘を特定回数鳴らすことで、教会で行われている行事を周囲に知らせるらしい」
「それがどうかしたの?」
ルイズが不思議そうに問うと、ワルドは大きく頷いた。
そしてやや大仰に腕を広げると、芝居がかった様子で口を開く。
「打ち捨てられた王党派の古城。今にもレコン・キスタとの戦いが始まろうとしている中、そこの鐘が鳴る。
しかも、僕たちが追っ手から逃げ出した場所に近い……敵はこれを、どう捉えるかな?」
「どう、って……」
どうにもならない、といった風に眉根を寄せるルイズに、ワルドは大きく頷く。
「そう。不審ではあるが何が起こっているかは断定できない。
そして、だ。レコン・キスタが戸惑っているところに、王党派の戦力が現れたら……どうなると思うかな?」
「敵は迷わず攻め込んでくるでしょうね……って、ちょっと待って、そんなことしたら、わざわざ私たちの居場所を教えるようなものじゃない!」
「そうだ。敵は我々がここにいると思い込んでくれる」
「……敵を引き付け、その隙に本命が王子の元に急ぐって寸法か?」
「ご名答」
カールが呆れた風に云うも、ワルドは大真面目な顔で尚も言葉を続ける。
……城の鐘を鳴らし、敵を注意を引き、その上で王党派がここにいると示し、この城へと招き寄せる。
確かにそうすることでこの付近に展開しているレコン・キスタを引き寄せ、開いた穴を抜ける形でここから離れることはできるだろうが――
「……待って、ワルド。王党派なんてどこにいるの?」
「実際にいる必要はない。
レコン・キスタへ攻撃を加える者が、王党派の城から出てきたとなれば、連中が勝手にそう解釈してくれるだろう。
いや、そうだな。偏在を向かわせ、僕が噂を流してこよう」
「ちょ、待って。つまり――」
「ああ。誰かが王党派と誤認される役をやらなければならない」
「馬鹿げてるわ! 無理に決まってるじゃない!」
ルイズはその場で立ち上がると、燃えるような瞳でワルドを睨み付けた。
彼はそれを真っ向から見詰めながらも、微塵も気圧されず、ゆるく頭を振る。
「敵の注意を引き、包囲網に穴を開ける。
そこを抜けて一気に進めば、僕らの任務は達成される。
ルイズ。もともとこの任務は、非常にリスクの高いものなんだ。
レコン・キスタに君とカールが狙われているというイレギュラーは発生したが、それがなくとも、内乱の地を進み王子の元に辿り着くのは生半可なことじゃない。
どう転んだとしても、犠牲はつきものだったと思う」
「けど……っ!」
「だったらルイズ、何か良い案を出してくれ。
僕の考えだしたものより効果的で、かつ、犠牲の少ないプランを。
……厳しいことを云っている自覚はあるよ。すまない。
けれど、ルイズ。君はこの任務がどれだけ大事なものなのか、分かっているだろう?
国を救うんだ」
「分かってる、けど……でも……」
尻すぼみに消えてゆく言葉と共に、ルイズは力なく座り込んでしまった。
……あの子だって馬鹿じゃない。ワルドの挙げた作戦がどういうものなのか理解していたからこそ、声を荒げたのだろう。
「……なぁ、子爵。横槍を入れて悪いんだけどさ」
「……何かな?」
「……その敵を引き付ける役は、誰がするんだ?」
「勿論、僕が引き受けよう」
「……ワルド」
迷いなく云い切ったワルドに対し、ルイズは何を云えば良いのか分からないようだった。
カールだってそうだ。どうしてそんなことを簡単に口にできるのかと、言葉を失った。
そんな二人に何を思ったのか、ワルドは苦笑する。
「……元々この状況に追い込まれた原因は、僕が偏在でレコン・キスタを発見できなかったことにある。
責任を取るという意味でも。そしてトリステインの貴族として、連中に戦いを挑もう」
「……馬鹿げてる。一人であれだけの敵を足止めできると思っているのか?」
「偏在を用いたゲリラ戦なら、混乱させられるだろう。
もっとも、それだって長時間は保たないだろうがね」
「ワルド、あなた死ぬ気なの?
ねぇ、待ってよ。確かに貴族としてレコン・キスタに戦いを挑むのは立派だと思うわ。
けど、何も命を賭けなくたって……別の方法があるかもしれないじゃない!
一人が足止めをするより、三人で突破する方が――」
ワルドの考えを変えようとしているのか、ルイズは必死に早口でまくし立てた。
しかしワルドは緩く頭を振ると、苦笑を浮かべたまま口を開く。
「良いかい、ルイズ。この任務は生還することが目的ではないんだ。
確かに手紙を回収し、かつ三人が生きてトリステインに帰るのが最上だろうとも。
けれど何よりも重要なのは、手紙を回収してトリステインを危機から救うこと。
それを忘れてはいけない」
「確かに、そうかもしれないけど……!」
けど、と言葉を続けようとして、しかしルイズは口を開くことができなかった。
彼女も分かっているのだろう。ワルドの意見を否定するのならば、それよりも良い案を出さなければならないと。
そしてルイズにはアイディアと云えるものがないのか。
きつく握り締められた手と噛み締められた口が、黙して語っているようだった。
「……悪くない案だな」
「そう云ってもらえると助かる」
「先生!?」
怒声にも似た声を浴びせかけられるが、カールはルイズに構わなかった。
ワルドの目を正面から見据え、正直見直した、と胸中で呟く。
密命を任されるほど姫殿下から信頼されているというなら、ワルドは信用しても良いのかもしれない。
そんな気持ちでワルドと共にアルビオンへ向かったが、到着してからのミス――レコン・キスタの待ち伏せ、偏在の不調、その二点から信頼はできないと思っていた。
が、その責任を取る一方で、ルイズと似た覚悟をもって命を張ると彼は云っている。
そんな彼を死なせてしまいたくなくて。そして、ルイズの婚約者を捨て駒になんてしたくなくて。
「ただ一点、変更を要求する。
囮役は子爵じゃなくて、俺がやろう」
だから危険が充分にあるというのに、思わずそう口にしていた。
勢いで云ったわけではない。確かにそれもあるだろうが、彼よりも自分の方が生還できる可能性が高いというのは事実。
それに――クロムウェルの言葉を聴き、カールにはこの地でやるべきことができていた。
が、そんな風に建前を並べたとしても、カールを突き動かした衝動は、ワルドをここで殺したくないという一点だ。
まだ時間を共にして一日と経っていない人間なのだとしても死なせてしまっては気分が悪いし、何より、ルイズが可哀想だ。
長い間連絡を取っていなかったのだとしても、彼とルイズが親しい仲であることは見れば分かる。
教師として――は度が過ぎているか。ならばこれはカール個人として、ルイズという女の子の幸せを守りたいのだろうか。
なんともくすぐったい気分になりながら、カールはワルドに苦笑を返した。
「クロムウェルの虚無云々はまったくの誤解だけど、それでもそう呼ばれるだけの実力は持っているつもりだ。
任せて欲しい」
「それは……いや、駄目だ。
僕は貴族として――」
「貴族の名を出すなら、手紙の回収だけを考えれば良いでしょう、子爵。
それだけじゃない。あなたは軍人なのだから、国を守るため、確実に王子の元へルイズを連れて行かなければならない。
そうでしょう?」
「……すまない」
カールの言葉にワルドは目を逸らすと、手で口元を隠した。
僅かに肩を揺らす様は、まるで笑いを堪えているよう。だがまさか、この場でそんな表情をするわけがない。
そうと決まれば、とカールは腰を浮かせようとした。
だがその瞬間、ルイズの手が服の裾を掴む。
視線を送れば、ルイズは今にも泣き出しそうな顔で、じっとカールを見上げていた。
「……どうして? どうしてですか?
先生がそんなことする必要、どこにもないのに」
縋るルイズの手を解き、カールは緩く頭を振った。
そして諭すような口調でルイズに言葉を落とす。
「云っただろ?
そうした方がより確実に任務を達成できて、生還する確率が高くなるって。
それだけだよ。
じゃあ、俺はもう休む。二人も、仮眠ぐらいは取った方が良いだろ」
そう言い残して、カールは礼拝堂の出口へと向かった。
ルイズたちから顔を背け、さて、と考えを巡らせる。
敵がどういった形で陣を広げているかにもよるが、どんな手を使って戦うべきか。
明日の戦場を想像しながら、カールは自らの寝床へと歩き出した。
重々しい音と共に閉じられた扉を、ルイズはじっと眺めることしかできなかった。
……力を貸してと云って、その果てにこんな無理難題を彼に頼むことになってしまうなんて。
あまりの罪悪感に頭痛すら覚える。
確かにカールはメイジとして規格外の力を持っていると、ルイズも知っている。
けれど軍隊を相手にして――と考えると、途端に分からなくなってしまう。
カールは強い。ミッド式を覚えだしたルイズでも、未だメイジとして彼の背中には遠く届かない。
だとしても、こんな――けれど、どうすれば良いのか、ルイズにはさっぱり分からなかった。
「ルイズ、そんなに悲しまないでおくれ。
これは必要なことなんだ。それに、彼が死ぬと決まったわけじゃない。
レコン・キスタを振り切った魔法を見ただろう?
きっと彼なら上手くやってくれるさ」
「……そんなのは言い訳みたいなものよ。
私たちが先生に押し付けたって事実を誤魔化そうとしているわけだわ。
先生だけを危険に晒すなんて……」
「……僕も悔しいんだ、ルイズ。でも適材適所というものだよ、これは。
囮役はルイズじゃ無理だし、僕では大軍相手に長時間戦えない。
それに、これは彼にとってとても名誉なことだ。
その身を祖国の礎に捧げる……ならば僕たちは彼の名誉を守るために、必ずこの密命を成功させなければね」
「どうしてカールが死ぬこと前提で話をするの!?
それに――」
続いて口にしようとした言葉に、ルイズははっとした。
……そうだった。そもそも彼は教師として自分に付き合ってくれただけで、彼個人がこの任務を請け負う必要なんてなかった。
ぎゅっと手を握り締めると唐突にルイズは立ち上がって、礼拝堂の出口へと駆け出した。
背後からワルドの呼び声が届いたが無視して、そのまま城の中を走る。
城の構造を完全に覚えているルイズではないが、実家が実家なため、道に迷うということはない。
寝室として使えそうと目をつけていた部屋を一つ一つ覗き、そうして、ようやくカールを見付けた。
スフィアを明かりの代わりに浮かべ、彼はベッドに腰を下ろしながら一人で煙草を吸っていた。
ルイズが部屋にきたのを見ると、吸い途中だったそれを割れた花瓶に押し付けて火を消す。
「どうかしたのか?」
「……話しがしたくて」
「そっか」
座ると良い、とカールはルイズにベッドを手で示し、ルイズはカールの隣に腰を下ろした。
何を云うべきなのか。それを頭の中で整理しながら、あの、と口を開く。
「……すみませんでした。こんなことになって」
「ルイズの頼みを引き受けた時点で、こうなる可能性はあっただろうさ。
ただ、フーケと仮面の男がレコン・キスタに所属していたとは思わなかったけどね。
俺は大丈夫。だからルイズは、子爵と一緒に手紙の回収をこなせば良い」
どこか元気付けるようにカールは云うが、しかしルイズの表情が晴れることはなかった。
それを見て何を思ったのか、彼は苦笑すると安心させるように、ルイズの肩にやや力強く手を置いた。
「確かに大変な戦いにはなるだろうけど、こんなところで死ぬつもりはないよ。
まだルイズにはミッド式を教えきってないからな。
それに、俺だってまだまだ生きてやりたいことが残ってる。
充分に敵を引き付けたら逃げに回るさ」
「違う。そうじゃ、ないんです」
だが、ルイズは頭を振る。
違う。安心したいからカールの元に訪れたんじゃない。
ただルイズは、カールに謝りたかった。そして――
「……逃げてください、先生。
先生一人なら、魔法学院に戻ることはできるでしょう?」
「……いきなり何を言い出すんだ?」
僅かに呆然としたあと、微かな怒りすら滲ませて問いをかえすカールに、再びルイズは頭を振った。
分かってる。自分を大事にしてくれるカールの気持ちは感じているし、ワルドの強引な頼みを断らなかったのも、任務を果たすため――ルイズに命じられた密命を成功させたいからなのだと。
けれど、違う。そもそもから間違っていた。
ルイズが貴族の責務としてこの任務を請け負うのだとしたら――貴族ではないカールを、これに巻き込んでしまってはならなかった。
それなのに自分には力がないという理由でカールに縋り、この旅に巻き込んでしまって。
だからそんな間違いを今ここで正すために、ルイズはカールの元へきていたのだ。
「先生はメイジだけど、貴族ではありません。
貴族は国に忠誠を誓って、その力を国に捧げなければって決まってる。
けど先生は、違うじゃないですか。先生は私たち貴族が守るべき、トリステインの民なんです。
そんなことを云っている場合じゃない……なんて言葉は、きっと逃避なんです。
そういった大義名分の元に私たちは動いてる。なのに事情があって道理を曲げて、この任務が終わったらまた貴族のルールを……そんなの、不誠実じゃないですか。
理想だけじゃ国は守れないって分かってます。けど理想がなければ、なんのための貴族なんでしょう。
……だから先生は」
戻ってください、と続けようとしたルイズの言葉を、カールは遮った。
「だとしても、ルイズ。
俺抜きで手紙の奪還はできない。そうだろう?
敵陣を抜けて、ワルドと二人で王子の元へ行くことは不可能だ。
それが火を見るよりも明らかだったから、俺は君に力を貸そうと思ったんだ」
「そうかもしれません。
けど、無理じゃない。私には、先生が教えてくれたミッドチルダ式があります」
「……ルイズ」
咎めるような声が何を意味しているのか、ルイズは分かっていた。
ミッドチルダ式は自衛以外で使ってはならない。
その約束を破ると、ルイズはカールに云っているのだ。
分かっている。しかし分かっていて、ルイズは彼にそう云っていた。
「……理由こそあれ、密命を受けたのは私。
ならその責任はちゃんと負います。逃げはしません。
その結果、ミッドチルダ式を先生から教えてもらえなくなるのだとしても」
「……ミッド式を学べなくなるだけじゃない。この際それは置いておく。
いいか、ルイズ。死ぬかもしれないんだぞ? それだけの危険がある。
それを分かっていて、そんなことを云っているのか?」
「……そう、ですね。
死にたくない。死ぬつもりはない。そんな精神論で現実が覆らないのは分かってます。
貴族っていう理想論だけじゃ駄目なんだって。
でも……現実を言い訳に理想を曲げても、きっと駄目だと思うんです。
何故か、って問われたら、はっきりと応えられませんけれど……」
……理屈の面で何故駄目なのかは、分からない。
けれど貴族として――幼い頃から教え込まれた、国を守る人間として、それを歪めてしまってはいけない。
そんな甘いことを云っている場合じゃないのかもしれない。手段を選ばず、どんなことをしてでも国を守るために手を汚さなければならないのかもしれない。
けれど――国を守れればそれで良いの?
そんな疑問が、ワルドの案を聞いてからずっと脳裏に残っている。
勿論、ミッド式を使わず、誰も欠けず任務をやり遂げることが最上なのだと分かっている。そのためにはカールの力を借りるのが一番だとも。
けれどそれはやりたくない。
嫌だという以上、他の案でこの任務を果たさなければならなくて――
だからルイズは、ミッドチルダ式とカールとの繋がりを捨てて果たすと云っている。
きっとそれが、責任を果たすということだろうから。舞い降りた任務とはいえ、引き受けた以上、もう不満も何も口にすることはできない。
そう、ルイズは信じている。
「……本当に君は」
呆れたようにカールは溜息を吐くと、額に手を当てた。
自分でもこれは呆れてしまっても仕方がないと思うものの、そんな云い方はないんじゃないかとルイズは口を尖らせる。
が、すぐにカールの表情が苦笑に変わると、彼女は目を瞬いた。
「君がそういう子だって、知ってたのにな。
……そう。だから俺は、ルイズにミッドチルダ式を教えようと思ったんだ」
「……先生?」
「そもそもルイズがミッドチルダ式を覚え始めた原因であるフーケと仮面の男……その背後にいるレコン・キスタ。
連中が存在する限り、俺も君も面倒ごとに巻き込まれてしまうというのなら……」
何か強い決意のようなものを燻らせながら、カールは俯き加減で拳を握り締めた。
「やっぱり、この戦いは良い機会だ。
俺のやり方で話をつける」
「だ、だから、先生はもう学院に帰っても……!」
「そうだな。
それが安全に過ごせる唯一の方法で、賢い選択なんだろうけど……何、ルイズを助けるのはもののついでだ。
俺は俺の目的のために戦う。ルイズが貴族の責任として国のために戦うように、自分の責任を果たすために」
……何それ、ずるい。
ルイズが責任を持ちだしてカールを帰そうとしたら、今度はカールが責任云々を持ち出して帰らないと主張する。
なんだか屁理屈を言われたような気がして、かつ、相応の覚悟をもってカールの元にきた身としては、非常に納得ができない。
思わず頬を膨らませると、何がおかしいのかカールは小さく笑い声を上げた。
「……笑うようなことですか?」
「……いや。
揺るがないな、って思っただけだよ。
そうだ。そんな君だからこそ、俺はミッドチルダ式を教えたいと思った。
約束を破られた時だってそう。だからあんなにも怒ったし、ルイズなりの道理に従って魔法を使ったから許そうと思えた。
ルイズなら正しく魔法を使ってくれる……そう思えたから」
「……私だから?」
「そんな君だから、俺は力を貸したいと思った。
……正直な話、どうしてこの依頼を受けたんだって苛立ちがないわけじゃなかったよ。
けれどルイズは、ルイズなりの道理の下に動いてるって分かったから、今こうしてこの場にいる。
それが俺は気に入っててさ。今回だけじゃない。君が生徒に射撃魔法を向けた時も、だからこそもう一度チャンスを与えたいって思った」
どこか子供っぽくカールは笑う。
それが癪で、意味が分からなくて、ルイズはむっとした。
「……馬鹿にしないでください。
私は自分の手に余ることだって分かっていながら、この任務を引き受けたんです。
……確かに、先生に縋りはしました。
けどそれが間違ったことだって今更に理解したからこそ――」
不満は怒りへと僅かに傾き、ルイズは尚も食い下がった。
だが言葉を途中で遮り、良いか? とカールは口を開く。
「だとしても、俺は戦う。
君が何を云おうと、そう決めた」
「けど、私は、貴族で――!」
「貴族だけど、俺の生徒だ。そうだろう?
生徒を守るのは先生の役目。
ルイズにそう呼ばれている以上、俺は逃げたりなんてしない」
……どうしてそんな風にカールが云うのか、ルイズにはよく分からない。
ルイズですら危ないと分かっている戦いに、どうして向かおうとするのだろう。
命が惜しくないと考えているわけじゃないのに――
そこまで考え、ああそうか、と少しだけカールのことを理解できた気がした。
きっとこの人は、自分が貴族であることに誇りを抱いているように、教師であることに自負があるのかもしれない。
その教師として、戦地であっても私を導こうとしてくれている。
貴族の誇りと形は違えど、そんな彼の心をとても気高く思えて、ルイズは溜息を吐いた。
頑固者。そんな文句を口の中で転がして、しかし僅かに頬を緩ませながら、俯く。
この人の生徒になれて良かった。そんな場にそぐわない考えが湧いてしまって、浮かんだ表情を見られたくなかったから。
「……明日は早い。
夜が明けるまで数時間もないけれど、お互い横になって疲れを取ろう」
「はい、先生」
頷き、ルイズは腰を浮かばせて最後にカールを見た。
朝になれば過酷な戦場に立つと分かっているはずなのに、彼は穏やかに――自分のことよりもルイズを心配しているような目付きをしている。
ありがとう。もしこの任務が終わったら、心からそう云おうと決めて、ルイズは小さく頭を下げた。
「おやすみなさい、先生」
ルイズが立ち去り、一人礼拝堂に残されたワルドの偏在は、微笑みを浮かべていた。
思惑通りにルイズはカールを説得に向かった。
名誉。その単語を口にして彼の死を意識させれば、絶対にルイズはカールの元に行くと読んでいた。
これで、ルイズの説得の結果がどうなるかはわからないが、今更に作戦の変更は有り得ないだろう。
ならば問題はない。逃げるか戦うか。どちらでも、好きな方を選べばいい。
もし逃げるのならばそうすれば良い。だがルイズは絶対に逃げない。貴族はそんなことをしないから、だ。
愚かしくも羨ましさすら覚えるその馬鹿正直さに、もし呪縛に囚われていなければ惚れ込んでいただろうとすら思う。
だが、それはそれだ。哀れだが、躊躇はしない。
ルイズと二人っきりになるならばむしろそれは好都合だ。
クロムウェルの虚無は、死者だけではなく生者をも操る。
手紙の奪還と同時にウェールズの暗殺をこなした後、操ったルイズと共にトリステインへと帰還。
ルイズを餌にカールを呼び出し、油断しきったところを背後から刺せばそれですべてが手中に収まる。
また、カールが戦うならばそれでも良い。
彼が戦うのは古城近辺の戦力などではない。レコン・キスタの総軍だ。
戦力差は既に挙げることすら馬鹿らしい。カールの死は戦いに望んだ時点で決定的と云って良いだろう。
そうなれば手に入れる順序が逆になるだけだ。先にカールを操り、それを使ってルイズを籠絡すれば良い。
ワルドはルイズが魔法に対し強い執着を持っていることを知っている。その魔法を教えてくれる教師を餌にすれば、レコン・キスタに傾いてもおかしくはないはずだ。
どうあってもカールは殺すべきだ。強大な力を持ち、かつ己の意思を強く持っている人間は御しづらいものだ。
ワルド本人が良い例だろう。風のスクウェアとしてトリステインでも一目置かれている存在故に、こんな任務を言い渡された。
だがワルドは王国に忠誠など誓ってはいない。彼が殉じているのは己の罪悪感であり、いつしか抱いた呪縛を解くことこそを至上の目的としている。
だからこそトリステインを侵す猛毒として、アンリエッタの密命が刻一刻と破綻してゆくのだ。
任された任務などよりも、ワルドは己の目的を優先するが故に。
ワルドから見て、カール・メルセデスは善人であるように見えた。
力を出し惜しみしつつ、一方で犠牲が出るとなると矢面に立とうとする。
その行動は戦えるだけの力があるという自負に裏打ちされているのだろうが、それでも、命の危険があることに変わりはない。
そこまで考え、成る程、と思う。ルイズが呼び出すわけだ。形こそ違え、その善良さは彼女と通じる所がある。
ああ――そんな確固たる我を持った彼を貴族としては素晴らしいと思いながらも、ワルド個人としてはひたすらに煩わしい。
一刻も早く聖地を奪還したい。そしてそこに何があるのかを確かめたその時こそ、己の目的が果たされる。
だから殺す。何、なんならルイズさえも殺してしまったって構わない。
死人を蘇らせ操るクロムウェルの虚無にかかれば、カールもルイズも物わかりの良い人形へと変貌してくれることだろう。
カールにクロムウェル。二人の虚無が揃った状態ならば、まだエルフと戦うことは怪しいが、トリステインぐらいならば容易く落とせる。
次はガリアか、ゲルマニアか。
ロマリアということはないだろう。連中はレコン・キスタの掲げている目的が目的なため、十中八九傍観を決め込むはずだ。そんなところに攻め込むのは最後で良い。
例えハルケギニアが火の海に呑まれようと、どれほどの哀絶が響こうと、婚約者を手にかけたとしても、ワルドには関係がない。
抱き続けている罪悪感を捨て去る。
その唯一の手段として、母が終始口にしていた聖地の奪還を果たせるのならば、どこにだって尻尾を振ろう。
だが――トリステインでもレコン・キスタも、どこに属したとしても、それはあくまでワルドの目的を果たす手段でしかないのだ。
――そんな風にワルドは考えてるが、本来の虚無の在り方から考えれば、これは酷く穴のある計画だった。
ワルドはカールとルイズを虚無と断定しているが、しかしそれは半分正解で半分間違っている。
虚無の使い手が命を落とせば、その資格は別の者へと明け渡される。だが始祖の祈祷書に記されるその情報を、ワルドが知る術はない。
尤も、これは大した問題ではないとも云える。ワルドが欲しているのは虚無であるが、その実、彼が目をつけたのはミッドチルダ式だ。
アンドバリの指輪を使って蘇らせることで、生前と同じように魔法を使うことは可能かもしれない。だが、確証はない。
ハルケギニアのメイジをリビングデッドとして操ることができるのだとしても、魔導師はどうなのか。
試してみなければ何も分からないだろう。
翌朝。空に浮かんでいるということもあるのだろうが、まだ大気が冷え切っている時刻に、カールは空に浮かんでいた。
眼下にはルイズとワルドが残っている古城と、その城下町が広がっている。
冷たい風に頬を撫でられながら、彼は視線を街の向こう――草原に展開しているレコン・キスタの軍勢へと向けた。
彼の右手にはカブリオが握られている。背中にはデルフリンガーが。
朝日の中で穏やかに輝くルーンを眺め、意思を持たない相棒に頼むぞを声をかけた。
そうしていると、背後でカチカチと金具が打ち鳴らされる。
「どうした?」
「なに、負け戦に挑もうとしている相棒に最後の激励をな。
話によるなら、敵の数は五万らしいじゃねぇか。
や、それの全部を相手にするわけじゃねぇだろうが、生半可な数を相手にすることに変わりはねぇ。
相棒、死ぬぜ? そりゃ、ガンダールヴが千の敵を前にして~とか伝承じゃ云われてるけどよ」
「なんだ、もう隠さないのか?」
「死ぬって決まった奴に隠し事してどうするよ。
なんなら虚無のことも聞くか?」
「やめておく。縁起でもない。
生憎と、死ぬつもりはないんでね。
……確かに敵の数は多いが、まぁ、四桁までなら相手をしたことがある。
それに敵を全滅させる必要があるわけじゃない。ルイズとワルドに追っ手が追いつけなくなるまでの時間を稼げば良いんだ。
無理じゃないさ」
「ハッ、そこまで自信満々に言い切られたら、暗くしてるこっちが馬鹿みたいだな。
よしよし、なら一発やってやろうじゃねぇかよ相棒!」
「ああ、そのつもりだ」
デルフを言葉を交わしながらポケットのカートリッジを確認し、小さく頷く。
最後に胸元を緩く握り締めて、再び眼下の軍勢を見下ろした。
そうして――打ち合わせの通り、古城の鐘が鳴り響く。
等間隔に打ち鳴らされる鐘はまるで戦いの火蓋のようで、カールの思考はこの時、教師ではなく教導隊の魔導師へと切り替わる。
「……往くぞ、デルフ、カブリオレ。
目標は敵の中枢、オリヴァー・クロムウェル。
速攻で奴を叩き虚無を諦めさせた後、古城の前に展開し防衛戦を開始する」
「良いのかい?
敵の軍勢一つをおしゃかにしちまっちゃ、管理局法とやらに引っかかるんじゃねぇのか?」
「レコン・キスタを叩き潰すつもりはない。使うのは非殺傷設定だ。
ただ、"お話"をするだけだよデルフ。
奴にはここで、俺とルイズを諦めてもらう。推測だが、あの男は自らの野心と国を天秤にかけて、自分の衝動を優先する奴のように見えた。
そんな男を放置したら、今後、何が起こるか分からない。
なんとしてでもここで釘を刺しておく必要がある。
アルビオンが陥落すれば次はトリステインだ。絶対に放置はできない。
……それにこの戦場で敵を叩いたとしても連中の進行が遅れるだけで、王党派の滅亡は揺るがないだろう。既に、それだけの戦力差がある。
ならここで俺が引き起こす戦いは、蛇足以外の何ものでもないのさ。
加えて云うなら、ありがたいことに連中がミッド式を虚無と誤解してくれるからな。
異世界の存在が露呈することもないだろう」
「うい。ま、相棒がそう云うならそうなんだろうな。
んじゃまぁ……行こうぜ、相棒!」
デルフの声に応え、カールは群青色の魔力光を纏いながら空を駆ける。
同時、鳴り響いた古城の鐘を警戒して上がってきたであろう竜騎士が何体か視界に上がってきた。
それらを見据え――ルイズの前では決して見せない冷酷な瞳を、カールは注ぐ。
嵌められた策から抜け出すことができるのか、否か。
この時点ではまだ、何も分からない。