寝癖をそのままに、カールは椅子に座って新聞をぼーっとした目で眺めていた。
時刻は早朝――ではなく、あと十五分で昼食になろうという頃だ。
この時間帯が彼にとっての起床時間である。
眠気のこびりついた表情には、普段の彼が見せる活力に満ちた色がない。
が、それもそうだろう。
教師という立場上、ルイズの前にいるときはそれなりに格好付けていたりする。
これはミッドチルダで教導隊の一人として技術を教えている時もそうだったが、その時の姿を目にした友人知人は、決まって爆笑していた。
「相棒、寝足りないならベッドに戻れよ。
もう一時間ぐらいは眠れるぜ? 俺が起こしてやっから」
「寝起きの頭で授業するのはなー。
それに、午後にはお客さんもくる予定だし。
大丈夫。飯食ったら血も巡りだして目が覚めるだろ」
云いながら、カールは再び新聞へと視線を落とした。
記されている日付は、ルイズの模擬戦騒ぎが起こってから二週間が経過したことを伝えてくれる。
カールはハルケギニアにきてからしばらくして――というか、臨時教師となって給与がもらえるようになってから、新聞を取るようになっていた。
この世界の情報を仕入れるという意味もあるが、それ以外にもコルベールやオスマンなどの友人たちと雑談するための話題作りのため、という面がある。
ミッドチルダと比べればこの世界には娯楽というものが少なく、トリステイン魔法学院はその閉鎖された環境から更に娯楽が少ない。
いや、少ないのではなく、ミッドチルダが多すぎるのかもしれない。
どちらが良く、どちらが悪い、とは云わないが、カールはこの世界でしばらくの間生きてゆくため、ハルケギニアのルールに慣れなければならないだろう。
人間、仕事だけしていれば良いというわけではない。車もガソリンがなければ動けないのと同じように、楽しみがなければ毎日を過ごすことなどできない。
そして今、新聞を読むこの時間が、魔法学院におけるカールの数少ない娯楽の一つだった。
相変わらず寝ぼけ眼のまま、ふーん、とカールは云う。
「レコン・キスタ、ねぇ……」
カールが目を通している紙面には、空中大陸アルビオンで起こっている革命についての記事が載っていた。
革命の是非など気にせず、カールはふとした疑問をデルフリンガーへと向けた。
「なぁ、デルフ。お前、長生きしてるんだし、聖地に何があるのか知ってたりしないか?」
「聖地だぁ? おいおい相棒、変なもんに興味持ちやがったな」
どこか呆れた調子で声を上げたデルフに、カールは苦笑した。
「ちょっと気になっただけだ。
一応、ブリミル教については調べたから、彼らにとってそれが大事ってのは分かってるつもり。
聖地の奪還はブリミルの悲願、故にその執念は子々孫々まで語り継がれ、宿命とされている――んだっけ?」
「ああ、そうだ。いい加減諦めた方が良いと思うがね」
やはりデルフリンガーは呆れたような言葉を上げるばかりだ。
何故彼がそこまでどうでも良い風に云うのは分からず、カールは首を傾げた。
「なんだよ。いやに食いつきが悪いじゃないか。
いつもだったら要らないことまで喋り出すのに」
「うーん……ああ、そうだ。
ここいらで相棒にもエルフのことを教えておくかね。
それを聞いたら、相棒だって聖地から興味を失うさ」
カチカチと金具を鳴らすデルフリンガーは、嫌なことでも思い出したような口調で先を続けた。
「相棒もエルフがどんなもんかは知ってるよな?」
「ああ。噂話程度だけどな」
人を頭からバリバリ食べるとかなんとか。
「ああ、それは全部忘れっちまえ。
エルフってーのは、聖地を中心に生活をしている亜人の名だ。
外見は、女なら別嬪、男なら美男子、背は高くて華奢、人と最大の違いは耳の長さかね。体つきと同じで細長いんだよ、連中。
見た目は良いんだが性格がこれまた慇懃無礼で最悪でな……まぁ、ここら辺は良いや。
問題は連中の使う特殊な魔法だ。
人間と比べて圧倒的に個体数が少ねぇのに未だ聖地が奪還できねぇ原因は、それだね」
「系統魔法じゃないのか?」
「おう、違うのさ。先住魔法、って呼ばれてる。
系統魔法と違って詠唱要らず。威力は馬鹿みたいに高い。終いにゃ、こっちがぶっ放した魔法をそっくりそのまま跳ね返してくるって卑怯技もあってなぁ。
ああ、云っておくけど魔法だけじゃなくて弓や剣なんかも跳ね返すぜ。
そのせいもあって、メイジはほとんど役立たずだ。スクェアクラスですら分が悪い。
戦場の主力がそんなもんだから、侵略なんてできんわけよ」
「戦力比はどんなもんなんだ?」
「おいおい、まさか戦ってみたいなんて云うんじゃないだろうな?」
「自分からおっかない連中と戦いたいなんて思うほど、俺は好戦的でもなければ酔狂でもないぞ。
お前にこの話を振ったのと同じく、興味本位だよ」
デルフの話から推察するに、おそらくミッドチルダ式魔法も系統魔法と同じく跳ね返されるだろう。
魔法、物理、それらに関係なく反射する。ならばこれは魔法に干渉するというものではなく、向けられた現象のベクトルを操作する類なのだろう。
やりようはいくらでもあるとは思うが、自分で云ったようにカールは自殺志願者でもなければバトルジャンキーでもなかった。
「十倍、って云われてる。
だが俺に云わせりゃそんなのは嘘だね。
エルフ相手に数揃えたってしょうがねぇよ。肝心なのは質だ。
虚無使いがいるって前提でようやく――」
そこまで云って、デルフは口を噤んだ。
が、すぐにわざとらしく金具を打ち鳴らすと、ともあれ! と話題を変えた。
「レコン・キスタって連中、どうせそこの大将はロマリアに関係する奴じゃねぇか?」
「良く分かったな。
オリヴァー・クロムウェルって司教らしい」
「だろうよ。
今時、聖地を奪還したいなんてクソ真面目に思ってる連中はロマリアぐらいだ」
「……あれ?
ブリミル教はトリステイン、アルビオン、ガリアの国教だろ?」
眉根を寄せたカールに、デルフは上機嫌に金具を上下させた。
「お、相棒らしからぬ発言だな。
よしよし、教えてやるぜ。
宗教ってのはな、それを信じることで救われるからこそ人に信仰されるんだ。
ブリミル教の場合、系統魔法って恩恵を目に見える形で授かっているから、たくさんの人間がその教えを信じてるのさ。
そして国がその宗教を支持しているのは、まぁ、王家の始祖がブリミルのガキってこともあるが、ブリミル教が国民の統治に上手いこと使えるのが一番大きいだろうな。
神が授けた権能を振るう貴族。大仰な云い方をすれば神様の眷属だわな。
その恩恵を授かることで平民の生活は潤う――だから平民はブリミルと、貴族を敬う。
ブリミル教ってのは、社会を潤滑に動かす歯車の一つなのさ。
が、ここで一つ問題がある。
ブリミル教は三国の国教だが、ブリミルの悲願である聖地の奪還、これを達成するには国を傾ける必要がある。
兵士の育成、導入、そいつらに食わせる飯、装備。分かり易いところを上げたが、実際はもっと色んなものが必要さね。
エルフを駆逐するって考えれば、かかる金は半端な額じゃねー。
投入する人材だって全部が生きて帰ってくるわけじゃねぇし、遺族補償も必要だ。
で、その金を出すのは誰だ? 勿論、国ではあるが――」
「……収入源は税金。つまりは、国民か。
話が見えたよ」
「そういうこった。
だから、王家の人間は聖地の奪還を使命と分かっていながらも、いつか出来たら良いねー、ぐらいにしか考えてねぇはずだ。
そんなこんなで時は流れて六千年。未だ聖地は奪還できず、不毛と気付いたのか、遠征軍もここ数百年はエルフの土地に踏み入ってねーよ」
カールが理解したことを悟り、デルフは話を切り上げた。
これはただそれだけの、単純な話。
ブリミル教は国を動かす歯車として重要な役割を果たしているが、しかし、聖地の奪還を本気で敢行してしまえば、肝心の社会を維持できなくなる。
そうなれば最後、ブリミル教から信心は離れ、飛躍すればブリミルから系統魔法という力を授かった貴族からも人の心は離れてしまう。
寂しい話だが、死んだ人間の遺言より、生きる人間の意思が優先されているということなのだろう。
益がなければ人は動かない。それはミッドチルダもハルケギニアも、やはり同じか。
「……しかそういう話なら、各国がレコン・キスタを警戒するのも頷けるな。
王族はアルビオン王家みたいに処刑されるのを警戒してるし、下についてる貴族は、その後の聖地奪還の果てに国が荒廃すると理解しているわけか。
エルフに関しては誰もが、触らぬ神に祟りなし、ってところなのかな」
「そういうこった。
……ん? ニュアンスは分かったが、相棒、今の例えはどういう意味だ?」
「ええっと……なんだったかな。
避けて通れば問題ないなら障害に進んでぶつかる必要はない、って意味だったか」
「うろ覚えなんだな」
「あー……まぁ、前にいた世界で聞いてな」
そう云って、カールはくすぐったそうに笑った。
デルフは彼の様子に何を感じたのか、キュピーンと刃を輝かせる。
「お、何やら女の気配。
そういや聞いてなかったぜ。
相棒、女性遍歴とか教えてくれよ。まだ童貞だったりするのか?」
「……もう飯だな。行ってくる」
「無視すんなよー!
武器の俺と以心伝心であるのが、戦士の在り方だろ!?
隠し事すんなよー!」
「じゃあなー」
「相棒――!」
月のトライアングル
ルイズ・ド・ラ・ヴァリエールは俯いていた。頭を抱えたい気分ではあったが、それだけはなんとか自制。
場所は学院の応接間。ルイズの座るソファーの隣には、カールがいる。
普段彼がいる場所ではなるべく真面目な生徒としてあろうとしている彼女ではあったが、今日だけは無理、と思っていた。
その原因は――
「待たせたわね」
ガチャリとドアが開き声が聞こえた瞬間、ルイズがビクリと身体を震わせた。
ルイズがおずおずと顔を上げれば、そこには、ややキツい目付きをし、手入れの整った長いブロンドの女性――ヴァリエール家の長女、エレオノールの姿があった。
エレオノール・ド・ラ・ヴァリエール。
ルイズの姉である彼女は、今日、ルイズが浚われた一件と、彼女が魔法を使えるようになったことに関して話をするために魔法学院へと訪れていた。
責任問題にまで発展させるつもりでないことは、公爵本人が赴いていないことから察することはできる。
が、お咎めなしとしては都合が悪いということで、こうして長女であるエレオノールが出向いたのだろう。
女ではあっても、エレオノールは公爵家の人間として立派にその責任を果たしている。
王立魔法研究所の主席研究員。公爵家の娘だからこそ、その職に就けたという部分もあるだろうが、仕事を全うできるだけの実力――貴族の力は、確かに有していると云える。
婚約が決まり、じきに嫁ぐ立場ではあるが、今はまだヴァリエール家の者であるという自覚があるのか。
ヴァリエール家の代表として、エレオノールはルイズたちの前に姿を見せていた。
彼女は最初はルイズに、そして次にカールへと視線を注ぎ、入り口からソファーまで歩いてきた。
カールが立ち上がったのを目にして、続いて、ルイズも立ち上がる。
「初めまして。
ルイズさんの専攻授業を受け持っている、カール・メルセデスです」
そうカールが口にした瞬間、エレオノールは眉根を顰めた。
同時に、何やってんのー! と内心で絶叫するルイズ。
物腰こそ柔らかで丁寧だが、カールの態度は同等の立場の人間が見せるそれだ。
メイジではあり、実力はスクウェアと名乗っても間違いではないとルイズも知っているが、この場では関係がない。
そう。カールはメイジではあるが貴族ではないのだ。
そしてエレオノールは公爵家の人間としてこの場に立っている。
カールなりに礼を尽くしているつもりでも、それは、天と地ほどの地位の差が存在している相手に対する態度ではない。。
『先生! 言葉遣い!』
『え?』
念話を送ってみても、本人に自覚はないようだった。
ただでさえ居心地の悪いルイズの胃袋が悲鳴を上げるが、しかし、彼女が予想していた様子をエレオノールは見せなかった。
落ち着くように吐息をつくと、初めまして、と返す。
おかしい、とルイズは汗を流した。
普段の姉ならばここで、ヴァリエール家を舐めてるのか貴様、と初対面の相手に喧嘩を売り、本来の目的を忘れての説教が始まってもおかしくはないのに。
そうして三人はソファーに腰を下ろした。
エレオノールは眼鏡のつるを指で持ち上げ、カールへと視線を注ぐ。
そんな姉の調子に違和感を覚えつつ、ルイズは事の成り行きを見守ることに徹する。
火中の栗を拾いたくはないのである。
「まずは最初に、ルイズが賊に浚われた一件の礼を云わなければならないわね。
助かったわ」
「いえ、ルイズさんを助けるのは魔法学院の教員として当然のことですから。
あの頃はまだ食客として滞在している立場でしたけれど、無視はできませんでした」
「そう。とにかく、ルイズも無事だし、公爵家としては今回のことを大事にするつもりはないから。
文句はここの学院長に云ったし、あなた個人には感謝してる」
……ルイズは浚われたあの一件を深く考えていなかったが、もしカールに助け出されても怪我を負っているような結果として終わったならば、どうなっていたのだろうか。
そう考えると背筋が凍る思いだった。
「それじゃあ、次の話に。
おちび、あなた、ようやく自分の系統に目覚めたそうね?」
「は、はい、お姉様」
矛先が急に自分へと向き、ルイズは背筋を伸ばした。
普段の姉ならば怒っても無理はないことが一つ二つと重なっているのに、まだ噴火していないのはどういうことなのだろう。
エレオノールには悪いがルイズからすれば、それが不気味でしょうがなかった。
が、
「良かったじゃない。
それも風だってね。お母様の小さい頃とそっくりなだけはあるじゃないの」
満面の笑みと共にそう云われ、ああ、とようやくルイズは理解した。
同時に、くすぐったい気分にもなる。
嬉しいと同時に恥ずかしくて、あまり自覚したくはないことだが――末っ子ということもあり、ルイズは姉たちから可愛がられているのだ。
次女のカトレアとは違い、エレオノールの可愛がり方はちょっと……ちょっと肉体言語な部分があったりするが、そこに親愛の情があることは良く分かっている。
……そう。そんな風に自分を家族が愛してくれると知っていたからこそ、ルイズは公爵家の人間として立派な貴族になりたいと思っていたのだから。
家族の向けてくれる暖かな感情を、ルイズは偽りのものだとは思わない。微塵も。
もし偽りであったなら、満面の笑みで姉が祝福の言葉を向けてくれなかっただろうから。
そして更に、ルイズは気付く。
ヴァリエール家の人間として相応しい行動を。
父と母に云われるのは当然だが、姉もそのことを口を酸っぱくしてルイズに云っていた。
翻して、それは他人にも当てはまる。ヴァリエール家の人間に対して相応の態度で接しろ、と。
一応云っておくならば、エレオノールはただ高慢なわけではない。
ヴァリエール家の存在に誇りを持っているからこそ、そして、人の上に立つ人間の振る舞いとして相応しい態度を取っているにすぎない。
だというのにカールに何も云わないのは――自分を賊から助け出し、その上、今まで誰も目覚めさせることの出来なかったルイズの才能を開花させてくれたからなのだろう。
ルイズとて、恩人と云っても過言ではないカールがエレオノールに叱責される姿は見たくない。
エレオノールは、きっとそれを察してくれたのだ。
さっきから続く姉らしからぬ言動は、きっとそんな理由があるからだろう。
だからこそルイズは嬉しくて――同時に、申し訳がなかった。
確かに風系統の魔法、フライに似せた飛行魔法は使える。
しかしそれは系統魔法ではなくミッドチルダ式という外法。もし本当のことを話してしまえば、きっと姉は深く落胆し、失望し、怒るだろう。
それがルイズには、辛かった。
ミッドチルダ式を系統魔法と偽るというのは、いわばルイズのワガママだ。
カールとオスマンは学ぶことを勧めてくれたが、本来、ルイズの目指す立派な貴族が行使する魔法となれば、ミッドチルダ式は相応しくない。
それでもルイズは『ゼロ』から脱却したくて――風のドットメイジという偽りの立場を手にした。
今更になってその事実がのし掛かり、ルイズはぎゅっと手を握り締めた。
しかし、姉の前で表情を陰らせたくはない。こんなこと、知られたくない。本当は知らせなければいけないのに。
ごめんなさい、お姉様――
心の中で呟いて、しかし口にするだけの勇気を、ルイズは持っていなかった。
その弱さが自分の目指す貴族に相応しくないという自覚があり、より一層惨めな気分になってくる。
「学院長の報告曰く、使えるのはフライとウインド・ブレイクだけって話だけど、どうなの?」
「風の呪文をより多く使えるようになるより早く、水の系統に目覚めるかもしれません。
まだまだ発展途上ですが、才能は豊富ですよ」
「そう。ラインまで見通しができているのね」
カールの言葉に今度は機嫌を損ねることもなく、エレオノールは笑顔をそのまま続けた。
そんな姉の表情が、痛くて――その時だった。
「大変ですぞ!」
バン、と勢い良くドアが開かれ、汗にまみれたコルベールが姿を現した。
エレオノールは思いっきり不機嫌な顔を、ルイズは驚きから身を竦ませるが、カールは慌てた様子でコルベールの元に小走りで駆け寄った。
「コルベールさん、どうしたんですか!?
何かあったとか?」
「ぜぇ、はぁ……さ、流石に教室からここまで走り続けと疲れる……。
そ、そうではなくですな。
聞いてくだされ!」
肩を上下させながらもコルベールは姿勢を正すと、息を整えた。
「アンリエッタ姫殿下が、ゲルマニア訪問からのお帰りにトリステイン魔法学院に寄ると通達がありましてな」
「姫殿下が!?」
コルベールの言葉を耳にした瞬間、異口同音でルイズとエレオノールは叫びを上げ、その場で立ち上がった。
「拙いわ。外行き用の格好ではあるけど、とても正装とは云えない……。
今からアカデミーまで取りに戻って……ああ、間に合うかしら!?」
「落ち着いて、お姉様!」
そう云うルイズも、大変なこととは分かっているが何からすれば良いのだろうと頭が真っ白になっていたりする。
そんな中、カールだけは不思議そうに首を傾げていた。
アンリエッタ姫殿下を迎える式典が終了すると、その頃にはもう日が暮れる時刻となっていた。
授業を丸々潰されてしまったカールは持て余した体力をどうするかと考えながら、一人、廊下を歩いている。
それにしても、と思う。
王族が訪れるということがどれだけの意味を持っているのかカールも分かってはいたものの、やはり貴族云々が絡んできてしまうと世界の違いを自覚させられる。
確かにすごいことではあったのだろう。が、ルイズと一緒になって慌てることができるほどではなかった。
不思議に思ったコルベールに指摘された時は、あまり実感が湧かないんです――と、嘘を吐いてはみたが。
どうにもままならない、と思わず苦笑した。
そうして動かし続けていた脚を、カールは止める。
目の前にはエレオノールが滞在する客間があり、彼女と話をするために、カールはここまで足を運んでいた。
ノックの後に声が聞こえると、カールは部屋の中へ。
彼女は昼間の姿――結局、大急ぎでアカデミーから正装を取ってきた――から普段着へと着替え終えており、化粧も薄くなっていた。
昼間はあまりまじまじと見ることはなかったが、こうして見てみると、確かにルイズに似ている。
桃色がかったブロンドのルイズとは髪の色こそ違うものの、緩くウェーブのかかった髪質や顔立ちはそっくりだ。
目元が少し鋭くはあるものの、そこが長所となっているスレンダーな美人。仕事のできそうな人。そんな印象だった。
「かけて良いわよ。
それで、ルイズの話ってなんなのかしら」
「はい」
勧められるままにカールは腰を下ろし、エレオノールと目を合わせる。
そして、どこか彼女が上機嫌に見えるのは、やはり妹が魔法を使えるようになったからだろうか――などと考えた。
カールは、ルイズから彼女の姉がどんな人物なのかを聞いていた。
だからこそ話をしようと思ったのだが――果たして、これがどちらに転ぶか。
それはカール自身にはさっぱり分からないことだった。
「……まず、最初に確認を。
オスマン学院長から、僕がサモン・サーヴァントによって呼び出されたことは聞いていますか?」
「ええ、聞いているわ。あなたの生活を考えずに召還したことは申し訳なく思っている。
臨時教師として学院から給与は出ているという話だけど、それ以外に何か必要なら、遠慮なく云ってくれて良いわ」
それはやはり、カールを呼び出した責任を負うという意味なのだろう。
ルイズが負うべきもの、とは考えず、ヴァリエール家が負う責任と考えているのかもしれない。
例えルイズという個人が行ったことでも、いや、ルイズが行ったことだからこそ、ヴァリエール家がその責任を持つということか。
家族想い――というよりは、似たもの家族だ、とカールは思った。
それは決して悪い意味ではなく、良い意味で。
「それにしても盲点だったわ。
確かにサモン・サーヴァントでメイジを呼び出せれば、それは教師としてこの上なく適任でしょうね。
呼び出されたあなたに云ってはいけないことだと思うけれど」
「いえ、そこはもう気にしていません」
云いつつも、カールはエレオノールが話に乗ってくれたことに嬉しく思い、また、居心地の悪さを覚えた。
これから話すことの内容、それの許可はオスマンとルイズの二人から得ている。
ルイズは自分から話すと云っていたが、こればかりは自分に任せて欲しかった。
そう、カールがエレオノールに伝えようとしている話の内容は――
「単刀直入に云います。
ルイズに僕が教えている魔法は、系統魔法ではありません」
僕、と呼称を変え、カールはエレオノールにとってショックであろう事実を口にした。
「……は?」
カールの言葉に、エレオノールはさっきまで浮かんでいた笑みを消した。
そして、即座に目が細められ、冷徹なまでの眼光が向けられる。
先を促されているようで、カールは口を開いた。
「僕が使っている魔法は四系統に属さず、また、虚無でもありません。
ミッドチルダ式、と呼ばれています。
……貴族が四系統から外れた魔法を身に着けることがどういう意味を持つのか、分かっているつもりです。
ルイズもそれを分かった上で、僕からミッドチルダ式を学んでいます」
「……四系統に属さない魔法? 虚無でもない?
そんな魔法があるわけ――」
だろうな、とカールはエレオノールの言葉に頷き、足下にミッドチルダ式魔法陣を展開した。
群青色の輝きが部屋に満ち、鬼火のようにクロスファイアが三つ、浮かび上がる。
「これがそのミッドチルダ式魔法です。
この中のフライに似た魔法を、ルイズは既に習得しました」
静かにカールが告げると、エレオノールは即座に顔色を変えた。
細い目は一気につり上がり、口元は苛立ちで噛み締められる。
怒りで頬は朱に染まり、ダン! とテーブルが叩かれた。
「あなた、よくもそんなものをルイズに教えてくれたわね!」
「……理由はありました。
ですが、貴族が覚えて良い魔法だとは、僕も思っていません。
ルイズもそれを分かっています。それでも、覚えるしかなかった」
「ふざけないで! あなた、こんな……!」
怒りのあまり言葉すら浮かばないのか、彼女は睨み付けた眼光をそのままで、口を悔しげに引き結んだ。
カールは彼女の言葉を待たず、先を続ける。
「お願いします、エレオノールさん。
僕をいくら責めても良い。けれどどうか、ルイズの気持ちを汲んでやってはくれませんか。
そして、あの子の理解者になってやって欲しい。
これは、家族であるあなたにしか出来ないことだと思うんです」
お願いします、とカールは頭を下げた。
そうして十秒ほど経った頃、頭を上げなさい、と激情を押し殺した声がかけられる。
見れば、エレオノールは眼光こそさっきの鋭さを保っているものの、目に見える形での怒りは抑え付けたようだ。
「まず、聞くわ。
ルイズが四系統から外れた魔法を学んでいること、他に誰が知っているの?」
「ミッドチルダ式を学んでいると知っているのは、僕とオスマン学院長のみです。
他はルイズが学んでいる魔法を、四系統だと思い込んでいます」
「そう。馬鹿ではないのね。
それで? ルイズがそんな外法を学ぶ必要に駆られた理由ってなんなの?」
エレオノールに問われ、カールは自分が召還されてから起こった出来事をそのまま話した。
フーケを撃退したこと。それが切っ掛けとなり、賊を招き寄せてしまい、自分たちが虚無使いと誤解されてしまったこと。
それに合わせて、ルイズがミッド式に対してどう考えているのかも補足した。
彼女は決して魔法を覚えたいという欲に目が眩んだわけではないと。
自分の身を守るために覚えなければならない必要があったのだ、と。
そう長くない話が終わると、エレオノールは眼鏡を外し、目元を抑えた。
そして再び眼鏡をかけると、心底疲れ果てたように肩を落とす。
落胆したと、一目で分かる――やはりこうなったかと、カールは罪悪感に駆られた。
昼間、ルイズを交えて話をしていた時の彼女を思い出す。
妹が魔法を使えるようになったと知り、エレオノールはそれを自分のことのように喜んでいた。
だが今カールが聞かせた真実は、彼女を失望させのるに充分なだけの重さを持っていただろう。
それでも尚、カールはルイズの姉であるエレオノールにミッド式のことを知っておいて欲しかった。
カールはいつか、この世界からミッドチルダへと帰還する。
その後に残るのは、理解者を失ってしまったルイズだ。
誰にも明かせない秘密を抱えたまま、メイジとして生きることも許されない彼女。
孤独にしたって度が過ぎたそんな状態に、ルイズを晒したくはなかった。
だから教師として――彼女を教え導く者として、あの子の理解者を残しておきたい。
エレオノールがこの事実をどう受け取るのか、カールには分からない。
ルイズの話から、そして、昼間見た様子から秘密を打ち明けようとは思ったものの、カールはエレオノールという女性と、そして、貴族の誇りというものを把握しきっているわけではないのだから。
家族である彼女に理解されないのならば、最悪、ミッドチルダにルイズを連れて行くという線もある。
もっとも、これは最悪に近い手段だ。立派な貴族になりたいというルイズの夢を潰えさせてまでする必要はあるのかとすら思う。
最善なのは、カールが去ったあともルイズを理解してくれる者を残し、ルイズが望む貴族の姿勢を貫かせること。
それが自分の成すべきことだと、カールは信じている。
「……ルイズはね」
降りていた沈黙に、ぽつりとエレオノールが染みを落とす。
彼女は俯き加減のまま、何かを思い出しているような様子で言葉を紡いだ。
「小さな頃からずっと、魔法が使えるようになれと厳しい教育を受けていたわ。
それこそ、私やカトレア――次女ね。私たちが目を背けたくなるぐらいに。
精々できることと云ったら、泣いて逃げ出しそうになるルイズを慰めるぐらい。まぁ、私はそういったことが苦手で、叱咤ばかりしてたけど。
実際に手助けできたことなんて何一つなかったって思うわ。
それでもあの子は、ヴァリエール家の者として立派な貴族に――って、ずっと努力を続けてた。
そんなあの子が魔法を使えるようになったって聞いて、家族全員で喜んだわ。
ヴァリエール家の誰もが、ルイズが頑張っていたのを知っていたから。
夏期休暇で帰省したら盛大に祝ってやろう、ってもう決まってるの。
それだっていうのに……皮肉なものね。誰よりも努力をしていたあの子が、才能に裏切られていただなんて」
溜息を吐き、エレオノールは目を伏せた。
それでも尚、彼女は言葉を止めない。
吐露されるものはおそらく、愚痴のようなものなのだろう。
どうしてルイズが――と。
彼女に系統魔法の才能がないことは、カール以上に、家族であるエレオノールの方が良く分かっているはずだ。
ずっと見てきたのだから。
だからこそミッド式に適正があったという事実を否定せず、受け入れ、その上でこうも落胆しているのだろう。
「……あの子も馬鹿よ。
ルイズの性格は良く知ってる。ずっと厳しい躾を受けてきたから、嘘はいけないことだって理屈以上に感情で分かっているはずだわ」
そこで一度、エレオノールは小さく笑った。
その笑みは自分に向けたものなのか、それとも、"厳しい躾"を行ってきた人物に云ったのか。
「それでも風のドットって偽ったのは……ゼロから抜け出たと私たちに報告したのは。
どうしてあの子がそんなことを云ったのか、なんて、深く考えないでも分かるわ。
ルイズは私たちを喜ばせたかったんでしょうね。
そんなこと、もう拘らなくても良いのに」
「……ルイズは、公爵夫妻が魔法の才能に関しては諦めてると云っていました」
「ええ、諦めてるわ。
だからあの子には、自由な人生を歩んで欲しかった。お父様もお母様も、そう思っているはずだわ。
魔法学院に入学させたのは、勿論魔法が使えるようになって欲しいからだけど、一方で、ルイズに魔法を諦めさせるって目的もあった。
ヴァリエール家に相応しい者に、って言い続けた私たちがこんなことを云うのは傲慢だって分かっているわ。
それでも、私たちはあの子の幸せを願ってしまうの。
学院に入って魔法を使えるようになれば良し。
学院に行っても系統に目覚めることができなかったなら……希望を手折ることで、他のことに目を向けられるようになるかもしれない。
ルイズにとってはそれは絶望なのかもしれないけれど、生き方を変えるチャンスにはなる。
……そう思っていたけれど、まさか、四系統から外れた魔法に目覚めるなんてね」
どうすれば良かったのだろう。
言外に問われているような気がしたが、カールには何も云うことができなかった。
……ルイズは家族に恵まれている。そう強く思うと同時に、この優しさは彼女にとって苦痛ですらあっただろうとも。
再び溜息を吐くと、エレオノールは顔を上げ、凜とした表情を取り戻した。
「……恨み言はたくさんある。
けれどそれは、あなたに向けるべきじゃなくて、運命とでも云うものにぶつけるべきなんでしょう。
理屈は分かったわ。確かに、虚無と勘違いされ狙われているのなら、あの子には身を守る術を学んでもらう必要があるでしょうね。
そして、もう学び始めてしまった以上、今更止めようとは思わないわ。
私の方からも説明しておくけれど、いずれはお父様やお母様にも、あなたから話をしてもらうことになるでしょう。
……メルセデス先生、ルイズのことを、よろしくお願いします」
云いながら、エレオノールは会釈程度にだが頭を下げた。
それを目にして、カールは呆気にとられたように目を瞬いた。
ルイズをずっと見てきたのだから、貴族の、その中でも最上位に位置する公爵家の人間がどれほどのプライドを持っているのか知っていた。
そんな彼女が頭を下げて――ルイズのためにそこまでするのかと思い、思わず微かな笑みを浮かべてしまう。
失礼と分かっているので、すぐに打ち消したが。
こんな家族に囲まれればルイズも真っ直ぐに育つはずだと、実感した。
「ああそれと、念のために云っておくわ」
「はい?」
さっきまでとは打って変わって、氷のような冷たさを孕む声を向けられた。
あまりの変わり身にカールは追い付けないが、構わず、エレオノールはカールを見据える。
「もしルイズの使う魔法が外法と他人に知られたならば、命はないと思っておいて。
あの子の才能に関しては仕方がない。けれど、ミッドチルダ式とやらを認めるつもりはないの。
メイジですらない――それ以下の立場にまでルイズが貶められたらなんて、考えたくもないわ。
その時は容赦なく、ヴァリエール家の名にかけて、あなたを殺すから」
「……分かりました」
「そ、それに、私――じゃなくて、家族がルイズをどう思っているのかを教えても殺しますからね!」
「は、はい」
……なんだか締まらないオチがついた。
そんなことを思っていると――コンコン、と控えめなノックが鳴る。
エレオノールはカールを一睨みして制すと、どうぞ、とドアへ声を投げかけた。
ドアノブが回ると、そこには、ルイズの姿がある。
しかしその様子はどこかおかしかった。
姉の元を訪ねたから、というわけではなさそうだ。
肩は落ち、頭は俯き、顔色は真っ青。よく見れば、身体は小さく震えている。
「……ルイズ?」
カールとエレオノールが彼女の異変に気付いたのは、ほぼ同時だった。
まるで申し合わせたかのように立ち上がると、そのままルイズへと近付いてゆく。
顔を上げたルイズは最初にエレオノールを、そしてカールを見ると、口を開きながらも言葉は発せず、ただ唇を震わせるだけだった。
「……何か、あったのか?
まずは落ち着こう。何か温かい飲み物でも持ってくるから、椅子に座って待ってて」
ルイズの肩に手を置きながらそう諭すと、カールは部屋を出ようとする――が、ルイズに服の裾を握られ、立ち止まった。
見れば、彼女は未だに震えたままだが、瞳には縋り付くような色が浮かんでいる。
何がこうも彼女を怯えさせているのか――そう、怯えだ。
まるで小さな子供が悪夢を見たような、自分ではどうにもできない何かと対峙した様子に近い。
「おちび。何があったのか話してごらんなさい?」
ついさっきまでカールが対峙していた厳しさとは裏腹の、柔らかな声がルイズへと向けられる。
ルイズは迷うように視線を彷徨わせ、しかし、決壊を寸前で踏みとどまり、小さく頭を振った。
「……ごめんなさい、お姉様。
カールと話をさせて欲しいの」
「……分かったわ」
柔らかに笑んで、エレオノールはカールへを目を向ける。
お願いするわ。言葉として伝わったわけではないがそう云われている気がして、カールは頷いた。
行こう、とルイズの背中を優しく押し、促して、二人は部屋を後にした。
夜の学院、石畳の床をコツコツと叩きながら、進んでゆく。
向かう先はカールの部屋だ。二人っきりで話をしたいなら、誰かに聞かれる心配のない場所の方が良いだろう。
コルベールはまだ研究室から帰ってきていないだろうし、反対側の部屋は空き室だ。
そして、人を寄せ付けたくないのなら結界魔法すら使っても良い。
そんなことを考えてしまうほど、ルイズの様子はおかしかった。
そうして、カールの部屋へと辿り着く。
部屋に入り、ドアを閉めた瞬間、ルイズはカールの服を掴んで、胸板に額を当ててきた。
彼女らしからぬ行動だ。
まるで何かに縋り付いていなければ耐えきれないと、身体全体で叫んでいるような。
「……どうしよう。先生、私、どうすれば良いの?」
「ほら、まずは落ち着いて。
何に困っているのかを教えてもらえないと、何も云えないよ」
云いながら落ち着かせるためにルイズの頭を撫でると、それとなく椅子に座るよう促した。
そうして部屋の隅に置いてあるティーセット、ポットに水を注いで魔力を通し、炎熱変換を行って一気に温めた。
急な沸騰で味は壊れてしまっているかもしれないが、今は何かを口にして落ち着かせる方に意味がある。
二人分のカップに紅茶を注ぎ、片方をルイズに手渡すと、カールは向かい合う形で椅子に座った。
「それで、どうしたんだ?」
云いながら、少しだけルイズの悩み事を想像する。
カールが気にしたように、ルイズは家族に自分の口からミッド式のことを打ち明けるか否かを迷っているのだろうか。
いや、それはない。あるかもしれないが、ここまで怯える必要はない。
ルイズがどれほど気丈かは、良く知っている。
そんな彼女がこうまで動転しているからこそ、カールもエレオノールも心配しているのだ。
ルイズは湯気を上げるカップに一度だけ口をつけ、そして、ゆっくりと口を開いた。
「……さっき、私の部屋に、姫様がきたんです」
「……姫殿下が?」
「そう。あの、えっと、私と姫様は、その、幼馴染みで……小さな頃はよく遊んでもらったんです。
だからてっきり、最初は私、お忍びで近況報告を――って思って」
けれど違った、とルイズは云う。
アンリエッタ姫がルイズに云ったことは近況報告などではなく、一つの頼み事だったのだ。
レコン・キスタによって滅びつつあるアルビオン王家。
亡国となりつつある国のウェールズ皇太子とアンリエッタは従妹同士であり、また、幼い頃に将来を誓い合った仲だという。
その熱は今も冷めておらず、その恋慕から、アンリエッタはウェールズに一通の手紙を出したらしい。
内容は恋文。それだけならば問題はなかったが――しかし、今のトリステイン王国にとって、その手紙の内容が問題なのだという。
恋文の一節には、始祖に誓って、と綴られているらしい。砕けた云い方をするならば、神に誓って。
カールにはあまり実感の湧かないことだったが、始祖ブリミルの名を使った誓約には強い拘束力があると云う。
永遠の愛を神に誓って。それはとても素晴らしいことなのかもしれないが――しかし、アンリエッタ王女はゲルマニア皇帝の元へ嫁ぐことが決定されているのだ。
そのため、誓いは果たされることはない。
否、両者が心の底で想い合っていれば、それは誓いも守ることになるのかもしれない。
ウェールズは死に、アンリエッタはゲルマニアへ。悲恋ではあるだろう。
だが、この話は悲恋で終わらない可能性が残っていた。
好転するという意味ではなく、より最悪な展開を見せるという意味で。
元々アンリエッタが皇帝の元へ嫁ぐことには、ゲルマニアの身内となることで、国力に余裕のないトリステインがレコン・キスタから身を守る、という理由があった。
しかし始祖の名を引用した恋文がレコン・キスタに発見され、それをゲルマニア皇帝へと暴露されれば――アンリエッタは皇帝を手ひどく侮辱したことになる――婚約は破棄され、トリステインは孤立してしまうことになる。
男の視点から見ればこれは酷くふざけた話だ。
あなたと結婚してゲルマニアの力を貸していただきますが、心までは捧げません。
頭を下げるべき側にそんなことを云われ平気でいられる貴族は、例えゲルマニアでも存在しないだろう。
そして、婚約を破棄されればどうなるか。他国の力を借りなければ自衛すら危うい国が独り立ちなどできるはずがない。
結果、トリステインはレコン・キスタに国土を蹂躙され、王家は吊され、軍は戦に駆り立てられ、国民は戦のために搾取される。
昼にデルフとカールが話していた未来が、嘘ではなくなってしまうのだ。
……そして、それを防ぐために、アンリエッタはルイズに手紙の奪還を頼み込んできた。
一介の書生に何を、とは思う。それこそ王家の人間ならば秘密裏に人を動かすぐらいは――と。
しかし、あちらにも都合はあったようだ。レコン・キスタはアルビオンを確実に落とせると踏んで、既にトリステインへと間諜を忍び込ませているらしい。
誰が信頼できるかも分からない中で、迂闊に国の未来を左右する情報を漏らすわけにもいかず。
王家の右腕たるマザリーニにすら秘密で、アンリエッタはルイズへとこの任務を命じてきた。
……アンリエッタがルイズにこの任務を命じたのは、それができると思うだけの根拠はあったのだ。
フーケの一件は王宮へと報告されている。誰によって討伐されたのか。そして、討伐した者が何者なのか。
サモン・サーヴァントの事故によって呼び出された、スクェアクラスのメイジ、カール・メルセデス。
人間でありながらも使い魔となった彼は、その主であるルイズの力と解釈することもできるだろう。
ならば何故カールに直接云わず、ルイズに命じたのか。
これはそう深く考えずとも分かる。
カールはメイジであっても貴族ではない。
そのため、彼に直接頼み込むよりも、王家に忠誠を誓った貴族であり、カールの主人でもあるルイズに頼んだ方が断られないと考えたのだろう。
それはそれで、正しいのかもしれない。事実、ルイズは貴族としてアンリエッタの命を断ることができなかったのだから。
そしてまた、カール一人を戦地に赴かせれば良いというわけではない。
時間との勝負であるこの任務に、アルビオンの土地勘の有無など語るべくもないカールを向かわせては迅速な行動は期待できない。
加えて、ルイズはアンリエッタに手紙奪還の大使として任命されていた。
もしカール一人がウェールズの元に到着しても信用してもらえず、手紙を渡して貰うことはできないだろう。
そのため、この密命はルイズの立場と、カールの実力を前提として命じられたようなものだ。
だが――
「……先生。
私、どうすれば良いんですか?」
再び、ルイズはカールに問いかけてくる。
未だに彼女の瞳は迷ったままだ。答えを教えて欲しいと、揺れている。
だがそれは、
「貴族として、この任務をこなすべきって分かってる。
ここで私が逃げたら、トリステインそのものが危険に晒される。
だから、逃げられないって、分かってるけど――」
その両肩にのし掛かった責任の重さに押し潰されそうになりながら、しかし、それでも彼女は、
「先生との約束、破れないよ。破りたくない。
けど、ゼロのルイズのままじゃ、私は国なんて大きなもの、守れない……」
ミッドチルダ式を使ってはならない。
その約束を守りたいと、震えていた。
手にした力は使えない。しかし、トリステインの貴族として逃げることはできない。
蛮勇を振るい死んでしまっては意味がない。それは死に価値がないというわけではなく、失敗の許されない任務、という意味だ。
もし失敗すれば、トリステイン王国が危険にさらされてしまうのだと、ルイズは理解している。
理解していても尚、カールとの約束を破りたくないと、今にも泣き出しそうになっていた。
……今はそんな場合じゃないとカールの約束を反故にするのは簡単だ。
しかしルイズは、自らの信じる貴族として、カールとの約束を守りつつ任務を成功させたい――けれどその方法が分からないと、途方に暮れているのだ。
――誰だ、この子にこんな重いものを背負わせた馬鹿は……!
それはアンリエッタなのかもしれないし、聖地奪還を掲げて革命運動を続け、トリステインへ矛先を向けようとしているレコン・キスタなのかもしれない。
辿ってゆけば、フーケを討伐してしまった自分自身なのかもしれない。
やり場のない怒りとはこういうものを云うのだろう。
拳を握り、息を吐いて、ゆっくりと激情を解く。
ルイズがこんな状態なのに怒りを見せるほど、カールは馬鹿ではなかった。
いや、馬鹿ではあるが、それだけに人の心は大事にしたいと思える類の人間ではあった。
「ルイズ。一応、聞いておくよ。
今から任務を他の人に任せることはできないのか?」
「……分かりません。
私に密命を下すまで、姫様は他の手を打ってないみたいでした。
だから、私が断ったら、他の人に頼むかどうかは……」
分からない、とルイズは云う。
だからこそ、力が備わってない自覚があるというのに任務を引き受けたのだろう。
頼みを断れば、ウェールズが自ら手紙を処分することを願って、アンリエッタがこの件を放置した可能性もある。
そんな不確かなものに、トリステインの命運を賭けることなどできはしない。
だからルイズはこの任務を引き受けてしまったのか。
自分しかいない。自分しかできない。
そこに優越感を覚えるのではなく、こうして押し潰されそうなほどのプレッシャーを感じて。
「……そうか」
……それなら。
この子が実力を越えた障害に立ち向かわなければならないというのならば。
教師である自分が、力を貸してやるべきだ。
もしルイズが自らの力を過信していたならば見捨てていただろう。
もしルイズがカールとの約束を破ること前提で任務を受けていたら、今度こそ失望していただろう。
だが違う。
彼女はその気高さ故に苦悩しながらも、貴族としての責任を全うしようとしている。
その上で途方に暮れてしまっているのならば、誰かが手を引いてやらなければならない。
その役は……カールでなくとも、例えば、エレオノールだって良いのかもしれない。
しかしカールとしては、この正しく迷っている教え子を導く者は自分でありたかった。
「……大丈夫だ」
静かに、力強くルイズへ言葉を向け、カールは彼女の頭を一撫でした。
何も心配は要らないと云うように笑みを浮かべて、頷いてみせる。
「任務は手紙の奪還なんだろう?
なら、飛行魔法でひとっ飛びだ。
俺が全力で飛んでルイズを引っ張れば、アルビオンまでそう時間はかからない。
そもそも姫殿下はルイズではなく、俺の力を当てにして命じたんだろう?
なら、ルイズが気にすることじゃないよ。任せておけって、ご主人様」
「……ごめんなさい。
ありがとう、先生」
最後に冗談めかすと、ようやくルイズは薄い笑みを浮かべた。
それは強張り、ぎこちなかったが、それでも迷い込んだ迷路の出口を見付けた喜びのように、カールには見えた。
この子に約束は破らせない。
そして、胸に抱いた気高さも汚させない。
カールはルイズの笑みを見ながら、そう、強く決意した。
どうしてこうなった、とワルドは一人、割り当てられた部屋で頭を抱えていた。
魔法衛士隊の一人としてアンリエッタ姫のゲルマニア訪問、その護衛についていたワルドは、現在トリステイン魔法学院の敷地内にいる。
だがこれは、彼にとって想定外の事態である。叶うことなら次の準備が整うまで、決して近付きたくはない場所だった。
だというのに魔法学院にいるのは、私人ではなく公人、子爵位の貴族として仕事をこなしていたからだ。
だが、それだけならばまだ良かった。
チャンスと考えろ、と発想を転換して、今まで連絡を絶っていた婚約者――ルイズに近付くとっかかりを得ることはできたから。
親同士が酒の席で決めた冗談のようなものだが、一応、ワルドの婚約者はルイズと決まっている。
だがそれも父が戦死した時点で価値が薄れ――ルイズとワルドの父が友人のじゃれ合いとして婚約を組んだのだから――今日という日まで放置されていた。
別にルイズのことが嫌いではないワルドだったが、しかし、その感情は異性に向けるものではない。
身内に向ける親愛の情。可愛らしい妹分と見ていたため、恋愛感情を育むために連絡を取ったりなどはしなかった。
たまの帰省で顔を合わせたときは、冗談めかして婚約のことを口にしたりもしていたが、ワルドも、そして様子を見る限りルイズも本気にはしていないようだった。
そんなワルドがルイズとの距離を今になって縮めようと思った理由は、フーケを通じて、彼女が虚無の素質を持っていると知ったからである。
ワルドの夢。大好きだった母の無念を晴らすために達成しなければならない、聖地の奪還。
そのためには強大な虚無の力が、どうしても必要なのだ。
だからワルドはルイズを手に入れようと思った。
将を射ずんばまず馬を射よ。ワルドが手に入れたいのは虚無使いとして発展途上のルイズではなく、既に虚無を会得しているカール・メルセデスの方だ。
その彼の力を借りていつか聖地を奪還するために、まずはルイズを手に入れて、ルイズを通じてカールの信頼を勝ち取り、目的を達成する。
時間はいくらかかっても構わない。母が死んでから今という時までずっと力を磨き続けてきた。我慢強さにはある程度の自信があった。
現状はまだワルドの夢にほど遠い。
その自覚があるからこそ、彼は自らの実力を磨きながらも、レコン・キスタ、そして虚無という、聖地奪還に必要であろう手段を模索している段階なのだ。
だが――
「恋文の奪還だと……? そのために明日からアルビオンに行けと……?
それも、ルイズと伝承者と共に……? レコン・キスタに楯突けと……?
なんだこれは。悪い夢か?」
ついさっき部屋に訪れ、アンリエッタから命じられた任務を思い出し、呻き声すら上げてワルドは頭を抱える。
酒でも飲まなければやってられない気分だった。
ルイズと共に任務をこなす。
だがこれを、渡りに船、とは思わない。
何故ならば――ワルドの目的を達成するためには、是非ともレコンキスタにはトリステイン王国を滅ぼしてもらわなければならないからだ。
その点に関しては問題がない。
トリステイン王国が蹂躙されると共に、おそらく王家に忠誠を誓っている公爵家も同じ道を辿るだろう。
だが、あの娘を溺愛している公爵のことだ。長女と次女はともかくとして、末っ子のルイズだけはなんとか生かしたいと思うはずだ。その点に関しては確信に近い自信があった。
そうして一人残され悲しみに暮れているルイズに付け入り、宥め賺して虚無を手に入れる――それが現状で最善のプランだった。
その時のためにルイズとの距離を詰めておくのは良い機会である。魔法学院に寄り道したいと言い出したアンリエッタに感謝すらしよう。
……寄り道をするだけだったら。
が、何が悲しくてレコン・キスタの邪魔をし、かつ、裏切りが露呈する可能性のある土地にルイズたちと向かわなければならないのか。
任務を断ることなどできなかった。国を左右するようなスキャンダルを聞いておいて任務を断れば、流石のアンリエッタといえどワルドを放置などしなかっただろう。
今、レコン・キスタはアルビオン王国に王手をかけている状態だ。決戦にはなんとしても参加し、武勲を上げて、クロムウェルの信頼を勝ち取っておきたい。
そんな状態だというのに監禁でもされたら、肝心な時に力にならない役立たずという烙印を押されてしまう。
だが果たして、その選択は正しかったのだろうか。今更になって後悔が押し寄せてくる。
汚名は返上すれば良い。しかし裏切り者と露呈してしまえば、二度とルイズは自分を信用しなくなるだろう。
レコン・キスタにおける地位と、虚無使い二人。どちらが重いとは云えない。どちらもワルドの夢を達成するには必要なピースであった。
任務は既に受けてしまった。
であれば自分にできることは、重要な虚無使い二人からの信頼を失うか、、クロムウェルとルイズ、両方の顔色を窺って現状維持に努めるか。
……本来ならば、アルビオン王家を滅ぼして信頼を勝ち取れるチャンスであったというのに。
それだけのことができる自信が、ワルドにはあった。
聖地の奪還という名目を掲げているが、レコン・キスタの中身、その大半は甘い汁を吸おうとしている傭兵と、誇りより実を取った貴族ばかりだ。
中には大真面目に聖地奪還という目的に付き従う熱心なブリミル教徒もいるが――
そんな連中に、戦士として正規の教育を受けていない者たちに、後れを取ることなど有り得ない。
魔法衛士隊の練度は、トリステイン、アルビオン、ガリア、ゲルマニア、ロマリアの各国の軍の中でも飛び抜けている。
でなければ、ロイヤル・ガードなどという役目に就かせてはもらえない。
そんなワルドだからこそ、これより始まる決戦で多大な戦果を上げ、クロムウェルの信頼を勝ち取るという手段を考えついたのだ。
青春を犠牲にして自らを高める日々に身を投じたワルドは権謀作術よりもそちらの方が向いていた。
磨き続けた力と技こそが自分の誇り――だが、それを生かすチャンスをみすみすドブに捨て、レコン・キスタの進行を妨げるような真似をするとなっては、やっていられない。
だが、レコン・キスタに荷担すれば虚無使い二人を失う。だが、チャンスを捨てたくはない――
不幸と云えば不幸すぎる状況のただ中に、ワルドはいた。
不貞寝したいことこの上ないが、策の一つも練らないで明日を迎えれば待っているのは緩やかな身の破滅である。
夢を諦めたくないため、全力で目を逸らしたい現実と対峙しながら、自分に何ができるのかをワルドは必死に考えた。
おまけ
――カールの給料
「ほい、カールくん。取り敢えず今月分の給料じゃ」
「……借りた100エキューがあるから大丈夫って云ったのに」
「あれはおぬしがフーケを捕まえた褒美じゃよ。
遠慮せずに受け取らんか」
ほれほれ、と差し出された袋を、カールは申し訳なさそうに受け取った。
やや重い革袋には、どれだけの給与が入っているのか。
非常に気まずい気分になりながらも、ええっと、とカールは声を上げた。
「そういえば、ハルケギニアの平均収入ってどんなもんなんですか?」
「成人男性一人なら年百二十エキューと云われとるよ。
とは云っても、これは成人男性一人が暮らすのに必要な額というだけで、平均収入というわけではない。
実際にはもう少し多いじゃろ」
「そうなんですか?」
「ああ。それに、基準となっているのは商人などが大半で、農民ともなればもっと低い。
が、彼らは自給自足ができる面もあるし、あまり食うには困ってないじゃろうな。
商人の方は破産の危険と隣り合わせだし、まぁ、釣り合いは取れてるんじゃろ」
「……ちょっと意外です。飢饉とか発生しないんですか?
あまり詳しくないんですけど、えっと、畑が痩せたりとかで」
カールの中にある学生時代の風化しかけた知識からそんな言葉が飛び出るが、オスマンは苦笑しつつ手を振った。
「ないない。なんのために土のメイジがいると思っているんじゃ」
流石は土のメイジ。
理論は分からなくとも、元気になーれ、とイメージしながら魔法をかければ痩せた畑も復活するのだろう。
生活という面に限れば、ハルケギニア式魔法は酷く便利だった。
「ま、その土メイジを呼ぶ代金もあまり安くはないが、生活を切り詰めなければ、という程でもなし。
よっぽど劣悪な環境で農業を営み、かつ、メイジを呼ぶ資金的余裕がない状況でなければ、不作などそう起こらんよ」
そーなのかー、とカールは頷く。
そんな様子に何を思ったのか、オスマンはにやりと笑みを浮かべた。
「ちなみに最下層の貴族であるシュヴァリエの給与は年五百エキューに固定されとる。
魔法学院の教諭は、これと同じ給与を貰っておるよ。おぬしもな」
「臨時なんだからもっと安くて良いですよ!?」
貴族と同じ給料を貰ったと聞いて、カールは唐突に大声を上げた。
それを楽しそうに眺めながら、いやいや、とオスマンは頭を振る。
「嫁をもらって家族を作ったらと考えてみると良い。
四人家族止まりじゃぞ? 子供は金がかかるからのう。
ミス・シュヴルーズなんぞは家を購入するための資金を作るために本を出しておるし……。
それほど高給取りというわけではない」
「……なんだ、ただのサラリーマンか」
「さらりーまん?」
「いえ、こっちの話です。
じゃあシュヴァリエって、結構貧乏なんですか?」
「ああ。実際に貧乏貴族、と云われておるよ。
財産となる領地もないしのう。
もしあったら、国に収める税金の他に徴収して生活を豊かにすることも可能じゃがな。
ともあれ、シュヴァリエですらそれじゃ。
男が見栄張って家庭を女に任せるとなると、まぁ、普通は楽な生活が出来んじゃろう」
最低位のシュヴァリエでそれならば、爵位を持たず国に仕える軍人などはどんな有様なのだろうか。
と、そこまで考え、カールは再び疑問を抱いた。
「貴族は分かりました。じゃあ、メイジの給料はどんなもんなんですか?」
「ふむ、面白いことを聞くのう。
ならばやや脱線して話を膨らませるとするかの。
ミス・ヴァリエールの面倒だけを見ているおぬしには関係のないことじゃが、トリステイン魔法学院を出たメイジの進路を話してやろう。
まず火と風のメイジ。これらの大半が軍に入るか、傭兵になるかの二択じゃな。
トライアングルまで大成すれば戦場の星となれるから引く手数多じゃが、ドットとなるとかなり哀れじゃ。
魔法は使えても精神力はドット故に多くないから、手柄を立てる機会も自然と減ってしまう。
だから卒業までにラインクラスになれと云うとるのに、ガキ共はこっちの話を聞きはせん」
……後になって教師の話が正しかったと知るのは、どこの世界も同じなのか。
「次は水と土のメイジ。こっちは働き口が多いぞ。
まず水のメイジは医者じゃな。いつの時代でも人は生きている限り、病や怪我と戦わなければならん。
だから医者はいくらいても足りないぐらいで、卒業シーズンが近付けば、学院と縁のある病院からは卒業生を寄越せと口うるさく云われとるよ。
土のメイジは土木建築や、さっきも云ったように農村の助っ人じゃな。
これも生活に密着している分、働き口は減らん。それに土のメイジは軍の方にも転向できるしの。
最も進路の開けた系統は、おそらく土じゃろう。だから最上、とは思わんが」
「……今の話聞くと、火と風のメイジは薄給、水と土はそうでもない、って風に感じました」
「そうじゃ。ただ、土と水のメイジは、貴族が最も必要とする名誉を手にするチャンスがない。
儂も含めてメイジは夢見がちじゃから、人の目が集まる方向に流れてしまうもんじゃよ。
……まぁ、系統なんぞ関係なしに、大人しくトライアングルクラスまで実力を磨けば良いだけじゃが。
社会に出たら腕を磨く時間など取れないから、学生の内に努力をせいっちゅーのに」
「存外シビアなんですねぇ……」
「ああ、シビアじゃ。
そしてメイジの収入じゃが、火と風が足を引っ張り、水と土が底上げして……そうじゃな。
三百といったところではないかのぅ」
「……なんだかんだでシュヴァリエ、結構もらってるんですね」
「一人暮らしと考えればな。
いつの時代も、男の一人暮らしこそが自由を謳歌できるという訳じゃよ」
「はあ、そうかもしれないですね」
いまいち分からない、といった風にカールは首を傾げるが、オスマンはそれを目にして面白そうに笑った。
若いな若造。思わず二度云ってしまうほどに。
「まあ、その自由を犠牲にしても惜しくないほど、妻というものは、家族というものはいいものじゃが」
「そんなものですかね」
「ん? ぶしつけな事を聞くが、元々いた世界にそういった相手はおらんかったのか?」
「え、ええ、まあ……」
云われ、思わずカールは目を逸らす。
いたにはいた。が、あの頃のカールは今に輪をかけてガキだった。
家庭を持つ云々まで考えても、それは夢想の域を出ない代物だった。
「ほお、そうかそうか、分かったわかった」
「何が分かったんですか……」
「おぬし、女を知らんのか、そうか、そうか、ほぉほぉほぉ」
「男にもセクハラをするのかあんた……!」