「そ、それじゃあルイズ。授業を始めようか」
「……はい、先生」
どこか強ばった表情で口を開いたカールに応じて、ルイズも声を上げた。
ヴァリエール領にきて二日目。特にすることのない二人――そもそも休暇のつもりできたのだから当たり前だが――は、普段通り授業をしようと予め決めていた。
とは云っても、カールもルイズも疲れが抜けてはいない。そのため普段のように実戦をすることはなく、座学のみと授業となる。
が――それとは別に、カールとルイズが非常に居心地の悪そうにしているのには一つの理由があった。
そっとカールは視線を部屋の隅に向ける。
そこにはルイズの面影――というよりは、彼女から受け継いだのだろう――があるつり上がり気味の目をじっと自分たちに向け、無言で佇む女性の姿がある。
彼女はルイズの母親であるカリーヌだ。
何故彼女がここにいるのかと云うと、ルイズに教えられている魔法がどういうものなのか授業を通して理解したい、とのこと。
他にも、どんな風にルイズが授業を受けているのかに興味があるのかもしれない。
……正直、非常にやりづらい。それがカールの本音だった。
そもそもルイズの母親のことをカールは良く知らないし、その上、会ってから言葉を交わした機会は皆無と云っても良いのでどう接したら良いのか分からないのだ。
これがエレオノールならまだ良かった。良くも悪くも彼女は分かり易い人だとカールは思っている。
やや感情的な部分が強いものの、身内に向ける情は強い。そしてただ感情に振り回されるのではなく、相応に理知的。
未だ数度しか顔を合わせていないが、その度に深く突っ込んだ話をしたせいか、エレオノールの人間性はなんとなく掴めていた。
しかしカリーヌとなるとさっぱり分からない。
公爵の隣で話を聞きに徹している。そんなイメージしかない。
唐突に母親参観が決定されたことに、ルイズも緊張しきりのようだった。
……速く授業を始めて、普段の調子を取り戻せば楽になるかも。
そう考えながら、カールは咳払いを一つした。
「……ええっと、そうだな。
まずは今回の密命でルイズが行った戦闘のおさらいをしようと思う。
光の杖の戦闘記録にざっと目を通したけど、初の実戦だからかミスがあったね。
ワルドと戦ったことの是非はともかくとして、今は戦闘内容のことだけを整理しよう」
「はい」
そこからカールは話を始める。
まず最初は細かいところから。防御魔法のセレクション。射撃魔法のタイミング。
一度はルイズに教えたことだったが、やはり実戦の緊張感の中では上手く教えたとおりに動くことができなかったのだろう。
二度手間になることを理解した上で、カールは何度目になるのか分からない説明をルイズに行った。
敵の魔法、その形状によってこちらも防御魔法の選択をしなければならない。
敵が防御、回避体勢に入っている時に射撃魔法を放っても効果は薄い。
それらをゆっくり、ルイズの理解が及ぶように伝え続ける。
ルイズは神妙な顔で真っさらなノートにメモを取り、時にはカールに質問をして徐々に時間が経ってゆく。
そしてルイズへの解説は、ワルドとの戦闘、その山場へと差し掛かった。
「それじゃあ、ルイズ。ワルドとの戦闘で決め手となった攻撃についてだ」
「……はい」
カールに云われなくとも、ルイズは自分であの戦闘に無茶があったと気付いているのかもしれなかった。
表情はやや暗く、どこか反省が見える。
それでも彼女はすぐに顔を上げると、言葉を待つようにカールの目を真っ直ぐ見詰めた。
そのなんとも彼女らしい反応に小さく苦笑して、カールは口を開いた。
「今までの総評も含めてになるけれど……教えたと通り守りに徹していたのは評価できるよ。
数度の失敗はあったようだけれど、まだルイズは完璧を求めることができるほど成長してはいない。
初陣ということを加味すれば、教えたことを忠実に守って戦ったって云える。
……けれど、一発逆転を狙ってワルドを挑発し、流れを変えるために使ったことのない砲撃魔法を選択したのはいけない。
失敗する可能性と成功する可能性は五分五分だったんだ。
絶対に負けられない戦いに望んで、自ら不必要なリスクを冒すのは、勝負を投げることに等しいよ」
「……はい。
でも、先生。先生の言葉に反抗するわけじゃないんですけれど、それなら私はどう戦えば良かったんですか?」
「うん。当然の質問だ。
まず第一に考えられるのは、ワルドの精神力切れを待つことだった。
ミッドチルダ式と同じで、ハルケギニア式も魔法を使用できる回数には限界があるのは知っての通りだ。
そしてルイズが戦った相手は本体が僅かに劣化した偏在。劣化した能力の中には、精神力も含まれているだろう。
君は博打に出るまで、ずっと防御し続けることには成功していたんだ。
あまり綺麗な勝ち方とは云えないかもしれないけれど、精神力切れを待つってのも一つのやり方だっただろう」
「でも先生、ワルドは少しも精神力が切れそうな素振りは見せていませんでした。
まだまだ余裕がある風で……」
「当たり前だよ。
……これは、まだ俺が授業で教えてないことでもあるけれどね。
ルイズ。気分は良くないかもしれないけれど、ワルドの気分になって考えて欲しい」
「はい」
「相手は空を飛んでいる。そのため、自分の取れる攻撃手段は魔法のみ。ブレイドは届かないからね。
けれど魔法に使える精神力は有限。しかし敵の防御は強固で、生半可な攻撃じゃ抜くことはできない。
そんな状況で……自分の精神力がどれほど残っているのか相手に気付かれるような様子を見せるかな?
最大の弱みとも云える情報を晒すかな?」
「……あっ」
ルイズは当たり前のことのように気付いたといった風に、目を見開いた。
カールは頷きを返し、更に説明を続ける。
「戦闘は突き詰めてゆけば簡単な理屈で成り立っている。
要するに、強い行動をとり続け、相手の邪魔をしていれば勝てるってね。
けれどその理想的な流れを毎回取れるかというと、そうではない。
敵が自分より強かったり、互角だったり。格下と戦って優位に状況を勧めることが最上だけど、往々にして上手くはいかないものさ。
そんな時に取るべき手段の一つとして、相手にプレッシャーをかけるために大きな態度を見せるというものがある。
精神力がどれだけ減っていようと、敵にそれを悟らせないように……他にも色々と効果があるだろうね。敵の焦りを誘発したりとか。
さて、ルイズ。ワルドを前にして、君はどんな態度を取っていた?」
「……なんとかしないといけないって、焦っていました」
「そう。初の実戦ということで仕方のなかった面もあるだろうけど、彼は君のそんな面を良く分かっていた。
流石は魔法衛士隊の隊長、といったところかもしれない。
状況を把握し、不利なのだとしても敵に弱みを見せず、逆に不安や焦燥を煽る。心理戦じゃルイズは完全に負けていた。
それでも結果に結びつかなかったのは、ルイズが最後の最後まで心を折らなかったからだ。これは誇って良い。
諦めなかったからこそ、ルイズは勝つことができた」
「あ、ありがとうございます」
微かに頬を染めながら、ルイズはそっぽを向いて呟く。
「敵は格上。実戦経験豊富。あらゆる面でルイズには不利な条件が揃っていたんだ。
だからある意味、ワルドの知らない魔法でごり押しして勝利をもぎ取るという選択は間違っていなかった。
……やり方そのものは褒められないけどね。
ともあれ、そんなところだ。今回の戦闘で分かったかもしれないけれど、敢えて云うよ。
ルイズに最も足りていないのは実戦経験。でもこれは、自ら戦い続けるつもりがないなら磨く必要はない。
……どうする? ルイズが望むなら、授業内容に組み込むけれど」
「やります」
返事は即答という形で現れた。
ワルドとの戦闘は、ルイズの中になんらかの形で残っているのかもしれない。
正直なところ、カールの心境としては微妙なところだった。
カールがルイズに求めた実力は、あくまで自衛手段のレベルだった。
だが実戦を経験し、そして今後も今回と同じような目に遭わないと云い切れない以上、ルイズに実戦形式の授業をした方が良いだろう。
カールは何もルイズに意地悪をしたいわけじゃない。ミッド式を覚えて彼女が不幸になるようなことを避けたいだけだ。
そして実戦に慣れさせておかなければルイズが命を落とすかもしれないというのならば、こちらが妥協するしかないだろう。
昨晩のルイズの言葉をカールは忘れていない。
可能な限り避けるが、どうしても避けられない戦いが自分の身に迫ったとき、ミッドチルダ式を使うことを躊躇わない――と。
その"もしも"が訪れた時にルイズが死んでしまったら――そう考えると、何もしないでいるのは嫌だった。
強く言い切ったルイズに頷くと、分かった、とカールは呟いた。
「それじゃあ、次からは組み込むことにしよう。
それとも今日からやる?」
「え!? で、でも先生、疲れてるんじゃ……」
「魔法を使わなければ大丈夫だよ」
それは嘘でもなんでもない。
肉体疲労も確かにあるのだが、疲れ切って動けないというわけではない。
カールにとって問題なのはリンカーコアの痛みであり、それを除けば問題らしい問題はない。
「……でも先生、よくよく考えてみれば、実戦形式の授業って何をするんですか?」
「ん、簡単だよ。
俺が攻める。ルイズは逃げるなり戦うなりする」
「ああ、なるほど……って無理無理無理です!
勝てるわけないじゃないですかっ!」
ぶんぶん頭を振って無理ですー! と主張するルイズだが、カールだってそんなことは分かっているのだ。
「勝てないものに勝てるようになる、って実に分かり易い指針ができたじゃないか」
「そうかもしれないですけど……」
ああ、と頭を抱えつつも、ルイズは首もとに下げている待機状態の光の杖を握り締めた。
なんだかんだ云って本人はやる気のようだ。もっとも、カールからすればやる気のないルイズというものが想像できないのだが。
カールはこの時になって始めてカリーヌの方を向くと、声を放った。
「ミセス・カリーヌ。
これから外で模擬戦を行いたいのですが、もし宜しければ戦闘の行える場所を貸して頂けませんか?」
「構いません。広さはどの程度が良いですか?」
「そう、ですね……空で戦うこともできるので、広さはあまり。
ただ、ミセスもご存じの通りにミッドチルダ式はおおっぴらに使うわけにはいきません。
人目の着かないところ、というのを気にしていただけると助かります」
「分かりました。ならば、中庭が丁度良いでしょう。
ルイズ、先生を案内なさい。私は準備をしてから向かいます」
……準備?
同じことを思ったのか、カールと同時にルイズは首を傾げる。
だがカリーヌがそれに反応することはなく、足早に部屋から出て行ってしまった。
「……じゃ、じゃあ俺たちも行こうか。
案内頼むよ」
「はい」
釈然としない風に首を傾げていたルイズは立ち上がると、こっちです、と先導し始めた。
カールは部屋の隅に立てかけてあったデルフを手にとって、部屋を出る。
ルイズに案内されながら、カールはゆっくりと城の中を歩き始めた。
昨日は到着してから内装を眺める間もなくルイズの家族へ説明をする必要があったため余裕がなかったが、こうして目にするとその豪奢さが良く分かる。
ハルケギニアの文化や美術といったものに疎いカールだが――無論、ミッドチルダだとしても分からないが――それでもヴァリエール家の内装や通路に飾ってる絵画などが高価なものだということぐらいには気付けた。
この広大な城を管理するためにどれほどの使用人が雇われているのだろうか。絨毯には埃の一つすらも落ちていない。
そういった面を一つ見るだけでも、どれだけヴァリエール家が力を持っているのか分かる。
「……道中の馬車で聞いてはいたけど、こうして目にしてみると驚く。
流石は公爵家って感じだなぁ」
「あはは、なんですか、それ」
カールの言葉に、ルイズは不思議そうに苦笑した。
「いや、こんなお城に入ったことは今までなくてさ。
魔法学院を見た時は随分と驚いたけど、これはそれ以上だ」
「ええ。なんと云っても、公爵の住まいですから」
どこか誇らしげにルイズは薄い胸を張った。
だがそれは自分のことというよりは、公爵という立場を任されている自分の父親を誇っているようにカールには映る。
父や母を尊敬している、とはルイズの言だが、決してそれは嘘じゃないのだろう。
そんな風に雑談を続けながら歩いていると、二人は中庭に到着した。
そこで再びカールは驚く。中庭と聞いてはいたが、その規模は魔法学院のヴェストリ広場ほどの広さがあったからだ。
湖というにはやや小さいが池があり、その中央には小島がある。
模擬戦をするにはやや気が咎めるほどに外観は整えられており、本当に良いのかとカールは微妙な気分になった。
物理破壊設定で戦わない限りこの中庭が荒れることはないだろうが、この場で戦闘の手ほどきをすること自体が場違いに思えて仕方ないのだ。
が、カリーヌの許可が下りたのはこの中庭である。
カールは気を取り直し、デルフリンガーを鞘から抜きはなった。
「デルフ、出番だぞ」
「うい。相手は娘っ子だったな。
魔法吸収やらなんやらの能力は使わない方向で良いか?」
「頼む。……しかし、公爵家についてから珍しく黙りっきりじゃないか。
どうしたんだ?」
「いやいや相棒。俺だって口を開くのに時と場合は選ぶぜ?
というか、ああいうお偉いさんと俺は相性悪いんだ。口調がこんなだし、今更改める気もねぇしな」
「何を偉そうに駄目なこと云ってるのよ、骨董品」
溜息を吐きながら、ルイズは光の杖を起動させる。
長杖を手にするとバリアジャケットを展開し、ルイズの身体は薄く桃色の輝きに包まれた。
その時、だった。芝を踏む小さな足音を耳にし、二人は中庭の入り口へと目を向ける。
そこにいたのは公爵夫人だった。しかし先ほどとは着ている服が違う。
レイピアを腰に下げ、乗馬鞭のような杖を手に持っている。マントを羽織り、その装いは運動――というよりは戦闘をしやすいもののように見えた。
「お、お母様……?」
「先生。私に構わず、授業を再開してください」
目を白黒させるルイズに構わず、カリーヌはカールに授業の再開を促した。
ルイズの様子に釈然としないものを覚えながらも、それじゃあ、とカールはルイズと距離を取る。
そして二十メートルほど間を開けると、念話――ではなく声を張り上げた。カリーヌに何をしているのか理解させるためにも、念話での会話は控えた方が良いだろう。
「それじゃあルイズ。
俺はデルフを使って接近戦を挑む。攻撃魔法の類は使わないけれど、飛行魔法は使わせてもらうよ。
君は俺から逃げ続けるなり、反撃をするなり、自由にして良い。
良いね?」
「は、はい」
カールの説明を受けると、ルイズは即座に飛行魔法を発動させて宙に浮く。
それを目にしてカリーヌは微かに目を見開いた。なんだかんだで、ルイズが魔法を使用した瞬間を目にしたのはこれが初めてなのだ。
今までのルイズを知っている分、驚いたのだろう。
カールはカリーヌから視線を外すと、息を整える。
そしてデルフを構え、
「いくぞ!」
その一喝と共に、一瞬でルイズとの距離を詰めた。
ルイズは飛行魔法で上昇しようとするが、カールは即座に跳躍すると振りかぶったデルフを全力で叩き付ける。
峰打ちではあるが、手加減はしない。この実戦形式の授業は、今までのものと比べてずっと危険だろう。
だがそれでも、ルイズには必要なことだと分かっているため、彼女がより多くの事柄を覚えられるよう真剣に向き合う。
走る斬撃にルイズはプロテクションを発動。桃色の障壁に刃は弾かれる――が、カールは即座に身体を踊らせ、返す刃で続く斬撃を放った。
苦しげなルイズの表情から、彼女が判断に迷っていると察する。
防ぎきるか、逃げるか。その二択で迷っているのかもしれない。
「バリアバーストを使うなら、プロテクションではなくシールドを!
相手の攻撃を受け止めた後でなければ、バリアバーストは効果的に使えないぞ!」
「は、はい!」
カールの怒声にも似た大声に戸惑いながら、ルイズは咄嗟にラウンドシールドを展開する。
そして切っ先が触れると同時にバリアバーストが発動する――が、シールドが破裂する直前に飛行魔法を操作し、カールは大きく迂回するようにルイズの背後へと回った。
ルイズはカールの動きに気付いているのか違うのか。彼女が爆煙の中から飛び出してきた瞬間を狙い、カールはデルフリンガーを振り下ろす。
眼前で止まった切っ先にルイズが息を呑んだことを確認すると、カールはデルフを下ろした。
「ワルドは気付かなかったかもしれないけど、バリアバーストは両刃の剣だ。
自分と相手の中心点を破裂させるわけだから、自然とルイズは後ろにしか退避できない。
他の方向に逃げることはできるけど、その場合はバリアバーストに吹き飛ばされる勢いを殺さないとだ」
「……はい」
未だに自分が未熟だと分かっているのだろう。
現にルイズのバリアバーストは完全ではなく、自分と相手の両方を吹き飛ばす強引な形でしか使えない。
苦し紛れや敵の虚を突く形で使えば成果は上げられるかもしれないが、現状では不意打ちでしか使えるレベルではないだろう。
もっとも、今のはカールが使うように誘導したため、一概に駄目と言い切ることはできないが。
「さあ、続けよう。
持てる技術を使って、抵抗してみせなさい」
「……先生にとって、まだ私は相手にもならないんですね」
唇を尖らせながら不満げに云うルイズに、思わずカールは噴き出してしまった。
むっとするルイズに悪い悪いと云うと、デルフを構えながら口を開く。
「俺が魔法を学んで戦場に出始めてから、もうかれこれ十年近く経ってるんだ。
魔法を使えるようになったばかりで、実戦経験はまだ一度。そんなルイズに追い付かれたら、俺の面目は丸つぶれだよ」
「むぅ……」
理解しているけれどやはり不満はあるのか、カールに応じる形でルイズも杖を構える。
そうして再び戦闘態勢を取ると、二人は再び模擬戦を再開した。
ヴァリエール家の中庭で空戦が行われたのは一時間ほどだった。
ルイズの疲労具合を見て、これで終了、とカールが云うと、彼女は着地するなり地面に寝転がった。
汗に濡れる頬に髪の毛は張り付き、胸は忙しなく上下している。
そんな彼女にフィジカルヒール――ルーンが発動しているため、リンカーコアは痛まない――を使用して疲労を和らげながら、カールは腰を下ろそうとする。
が、カリーヌが見ていることを思い出して自重すると、ルイズを見下ろす形で視線を向けた。
「お疲れ様。どうだった?」
「……つ、疲れました。
正直、ワルドと戦った時より堪えたかも」
「それもそうだ。ルイズに魔法を教えたのは俺だからね。
手の内は全部知ってるんだから、やりづらいのは当たり前だよ」
「そういうわけだ、娘っ子。
相棒に勝ちたいなら、相棒と同じ分だけ鍛えないとだぜ。
ま、その頃には相棒ももっと強くなってるだろうから、こりゃ永久に追いつけないかもな!」
「うっさいわよ骨董品!
あーもう、絶対にその内、一本取って見せますからね!?」
強がって大声を上げるルイズだが、やはり疲れているのか寝ころんだままだ。
そのせいかどこか子供の駄々のようで、微笑ましい。
そうしていると、
「先生。もしお疲れでなければ、お願いがあります」
不意にかけられた声に、カールは思わず振り返った。
ルイズも驚いて身を起こし、即座に直立不動となる。やはり母親の前ではしたない真似はできないのだろう。
「なんでしょうか?」
「先生の授業を見聞きし、今の模擬戦を見て、確かな実力を持っていると理解することはできました。
しかし、相手が娘であるせいであなたの力を正確に把握できたとは云えません」
ですから、と彼女は鋭い眼光をカールへと向ける。
「是非、ルイズに魔法を教えている先生本来の実力と、ミッドチルダ式がどういうものなのかを、この身で確かめさせては頂けないでしょうか。
……母として、娘に魔法を教授している者の力をどうしても知っておきたいのです」
「それは――」
当然か、とカールは思う。
そもそもミッドチルダ式という未知の技術を教えているというだけで、エレオノールのような反応を見せるのが普通なのだ。
だというのにカリーヌは一度たりともそういった反応を見せなかった。
それはおそらく、自分の目でそれを確かめるまでは信じないという、現実主義な考えの下からだったかもしれない。
そしてルイズの授業を通してミッドチルダ式がどういうものなのか確かめた今、今度は自分自身で未知の魔法がどんなものなのかを知ろうとしているのだろう。
……彼女が云うように、娘を想って。
断ることはできない。
神妙な顔でカールは頷くと、断りを入れた。
「分かりました。ですが、一つお願いがあります。
アルビオンでの無茶が祟り、僕は全力での戦闘ができない状態にあります。
それでも宜しいのならば、模擬戦を行いましょう」
「構いません。ならば私も、使用する魔法をライン・スペルまでと限定させてもらいます。
それで宜しいですか?」
「はい。ありがとうございます」
二人は条件を決めると、それぞれの得物を構えた。
お互いに全力を出さないとは云ったが、技を制限しただけで実力そのものは分からないのだ。
無論、技を限定することで戦闘中の選択肢は限られるだろうが、これは殺し合いではなく実力を確かめるための練習試合。
ならばこれでも問題はない。
カリーヌが知りたがっているのはカールの実力と、ミッドチルダ式がどれほどのものなのかという証明なのだ。
「ルイズ。合図を頼めるか?
それと、俺たちから距離を取っててくれ」
「は、はい」
慌てた様子でルイズは駆け出すと、城の前まで退避して光の杖を抱き締めた。
そしておっかなびっくりという様子でカールと母親を眺め、
「それじゃあ……始め!」
甲高く開始の合図が響くと同時、二人は地を蹴った。
カリーヌはバックステップを刻み、カールはデルフリンガーを構えて突撃を。
疾走するカールに対し大気が凝縮して風の槍が射出されるも、射線を見切って僅かに体勢を変え、回避する。
次いで、ウインドカッターが地面を抉る。だがそれは何もない場所――もしカールが大きく回避行動を取っていれば直撃しただろう空間を引き裂いた。
「なるほど」
感心した風に頷き、カリーヌは右手にレイピアを、左手に杖を持ちカールを迎撃すべく後退を止めた。
やはり実力を計られているのだろう。今の先読み攻撃が正にそれだ。迂闊な回避を選んでいたならば、ウインドカッターの直撃を受けていたのだから。
しかしカールが取った行動は、射線を見切った回避。それで最低ラインをクリアしたと認めたのかもしれない。
カリーヌを間合いに捉え、カールは横薙ぎにデルフリンガーを振るった。
細身のレイピアで大剣のデルフを受け止めることはできない。カリーヌもそれを良く分かっているのか、すり足で斬撃を回避すると、カウンターの要領でレイピアを振るった。
放たれた刺突はまるで閃光と形容するに相応しい。カールは咄嗟に頭を傾げて回避。続けて迫る二撃目を引き戻したデルフの柄で弾き、後ろへと跳躍した。
が、着地のタイミングを狙って再び風の刃が大気を薙ぐ。それを飛行魔法で回避し、警戒しつつデルフを構えて着地。
「相棒、俺の出番は?」
「今は俺の実力を確かめられてるんだ。
お前の力に頼っちゃ、失望される」
「了解。その男気は分からないでもねぇぜ。
しっかりやりな」
短いやりとりを終え、再びカールは地を蹴った。
魔法を避け、時には防御しながら切り込むタイミングを探る。
カリーヌも同じように考えているのか、放たれる魔法はどれも短い詠唱で放てるものばかりだ。
外から見れば演舞か何かのように映るかもしれない。一定以上の実力者同士が隙を窺い技を小出しにする様は、確かに踊っているように見えるだろう。
カリーヌと戦いながら、強い、と素直な感想をカールは抱く。
もしスクウェア・スペルまで使われ偏在まで投入されたら、非常に苦しい戦いになっただろう。
ルイズに云った言葉ではないが、カリーヌとカールでは闘争者としての年期が違うのか。
ただ、戦いながらカールはカリーヌの動きに微かな違和感を抱く。まるで、そう。自分の動きに苛立っているような。
それはスクウェア・スペルを封じているからというわけではなく、まるでブランクに苛立っている風に見えた。
カールの推測だが、やはり公爵夫人という立場上、戦う機会は多くないのかもしれない。戦場から遠離れば勘が鈍るのは必然だ。
勘が鈍ったカリーヌと、カール。お互いに一定以上の技を封印している今、両者の実力はほぼ互角と云えた。
だがそれでも、カールはガンダールヴのルーンを使用している。
もしこれがなければ、やはり楽な戦いにはならないだろう。尤も、カールとてリンカーコア障害というハンデを負ってはいるのだが。
「それで相棒、どう攻める?」
「お前の間合いで勝負ってのが無難だな」
レイピアが届かず、魔法の詠唱が間に合わない……とは云っても、それを向こうも分かっているからカールの接近を許さない。
もし許したとしても、今度はデルフが振れない距離まで張り付かれ、レイピアが閃光の如く瞬く。
カリーヌの剣技に対し、練度が高い、というのが正直な感想だった。
カールもアベレージ・ワンという二つ名の通り剣技を修めてはいるが、飛び抜けて優れているわけではない。一流ではあるが、超一流ではない。
そのため、正面切って剣技のみでカリーヌを打ち倒すとなると難しい。不可能ではないだろうが――
微かに胸の痛みを気にしながらも、カールは小さく息を吐いた。
このまま戦闘が続いても泥仕合の様相となるだけだ。そして疲労とリンカーコアの消耗が蓄積するだけ。
ならばここで勝負を決めよう。そう決断し、カリーヌと距離を取ると足下にミッドチルダ式魔法陣を展開した。
「これで決めます」
「良いでしょう」
カールに応じる形で、カリーヌも杖を握りつつレイピアを構えた。
こちらの動きを探っているのか、カリーヌは微動だにしない。それもそうだろう。
ミッドチルダ式魔法はハルケギニアの人間にとって未知の塊と云って良い。逆もまた真なりだが、どちらにせよ先に仕掛けることにはリスクが発生する。
一気呵成と畳みかけるか、後の先を取るか。どちらが良いとも云えない。強いて云えば個人の性格が出る部分だろう。
そしてカリーヌは――カールがスフィアを形成すると同時に、詠唱を開始した。
なるほど、とカールは思う。
先に仕掛けてくるのか、それとも迎撃に回るのかが分からない。
彼女が口にするルーンからどの魔法を放とうとしているのかデルフに問おうとして、止めた。
先にも云ったように、これはカールの実力を計る戦いだ。デルフも装備としてカールの力、と言い切ることはできるだろうが、それはどうにもカールの趣味ではなかった。
そのため、カールは己の力のみでカリーヌと戦う。
そんな彼が選択した魔法は――
「スティンガー・スナイプ!」
トリガーワードを口にした瞬間、群青色の輝きが長い尾を引いて射出された。同時に、カールはデルフを下段に構えて疾走する。
カリーヌは咄嗟に竜巻の防壁を展開し、魔力弾は直撃――しない。誘導式である攻撃は速度をそのままに弧を描いて竜巻を回避すると、カリーヌに肉迫した。
竜巻の風切り音が木霊する中、小さな舌打ちが発生する。次いで射出される風の槍。その先にはスティンガーが存在しているが、もし打ち落とせなくとも風の槍はカールを射線上に捉えている。
上手い、と思いながら、カールは迎撃を選択した。
放たれる二本の風の槍とスティンガーが激突し――その両方を踊るようにスティンガーは食い破った。
だがそんなことをすれば、流石にスティンガーも無事には済まない。込められた魔力の大半を相殺され、纏う群青の輝きが弱々しくなる。
だが、スティンガーはその場で螺旋を描き、魔力を充填。更に加速を得て、再びカリーヌを猛追する。
スティンガー・スナイプ。
ミッドチルダ式射撃魔法、誘導弾にカテゴライズされるこの魔法は、今のように特殊な性質を持っている。
射撃魔法は一度射出されれば魔力切れか目標に着弾すると同時に効果を失うのが普通だが、スティンガー・スナイプは違う。
目標に命中した後のコントロールすることが可能であり、魔力を充填することで再び牙を剥く。一対多の戦闘で真価を発揮する魔法だ。
そしてカールは、カリーヌの魔法を叩き落とし、体勢を崩すべくこの魔法を選択した。
そしてカリーヌにとって未知の魔法であるこれは、カールが意図した成果を確かに上げている。
スティンガー・スナイプと共にカールは攻め込み、拮抗していた状況は傾く。
詠唱が必須であるハルケギニア式魔法は、その間を与えなければ発動できないという大きな欠点が存在している。
そのため、余裕を与えずカールが攻め込んでいる今、カリーヌが執れる手段は手に持つレイピアだけであり――
「――っ、まだまだ!」
踏み込みと同時にカリーヌは襟元へ手を伸ばした。
彼女は即座にマントの留め具を外し、勢い良くそれを投げる。
今度はカールが舌打ちする番だ。接近した今、視界を奪われればスティンガー・スナイプを正確に叩き込むことができなくなる。
それだけではない。デルフを振ろうにも、迂闊に斬撃を振るえばカリーヌに酷い怪我を負わせる可能性もある。
そのため――
「スタートアップ、カブリオレ!」
瞬時に起動させたカブリオレを左手に握り、ワンドフォームに形成された魔力刃でマントを切り払う。
それによって開けた視界の中では、カリーヌがレイピアで突きを放とうとしているところだった。
だが、それはカールも同じだ。振り切った左手に引かれる形で、独楽のようにデルフを振るっており――
「……」
「……」
両者、得物を相手の首に突き付けた状態で静止した。
鋭い眼光が至近距離で絡む。言葉もなく続きをするのかと意思を交わし、同時に苦笑する。
「お見事。まだ若いのに立派な実力です」
「そちらこそ」
「いいえ。既にこの身は前線から退いていますから。
後続にただ追い抜かれるのを待つだけです。
褒めたところで、何も出ませんよ」
そう云いながら小さく笑い、カリーヌはレイピアを鞘へと収めた。
カールも同じようにデルフを鞘に収め、カブリオレを待機状態に戻す。
「あなたの実力を認めましょう。教師としてはともかく、闘争者としての実力は充分。
あなたの技術を、どうか娘に教え込んでやってください」
「あ……はい」
小さく頭を下げるカリーヌに、どう返答したものかとカールは視線を泳がせた。
どうやら実力そのものはお墨付きのようだが、教師としては微妙らしい。
「……あまり聞いて良いことではないのかもしれませんが、僕の教え方は悪かったでしょうか」
「強いて云うなら厳しさが足りません。
丁寧で、ルイズの性格をよく知った上での授業であることは分かりますけどね。
人を導く人間は、もっと毅然としなければなりませんよ」
「……覚えておきます」
ええ、とカリーヌは頷くと、カールに切り払われたマントを手に取る。
だが布地が切られていないことに驚いたのか、微かに目を見開きながら、それを腕に抱いた。
「それでは先生。今後もルイズのことを宜しくお願いします。
頑固で融通の利かない部分もありますが、根は素直な子ですから。
あなたが誠意を見せるなら、それに応えない不義理をすることはないと思います」
そこまで云って、カリーヌはすっとルイズに視線を向けた。
ルイズはおっかなびっくりといった様子で目を瞬くと、こくりと頷いた。
それで満足したのか、カリーヌは城の中へと戻ってゆく。
その後ろ姿を眺めていると、カチカチとデルフが金具を打ち鳴らした。
「……相棒」
「なんだ?」
ルイズに聞こえないようにしているのか、声はやや抑え気味だった。
カールも同じように声をひそめる。
「お前、本当に大丈夫か?
魔法学院の草原で髭と戦った時は、もっとガンガン魔法使ってたじゃねぇか。
あの時の調子でやりゃあ、あのオバサン相手でも有利に戦えただろ?
そこまで弱ってるのかよ」
「……否定はしない」
「……そっか」
やや暗くデルフが声を上げると、カールは胸元に手を当てた。
ほとんど魔法を使っていなかったからか、胸が軋むようなことはない。
ただ、もっと勝負が長引けばどうなっていたかは分からない。ただ小技を続けて出すだけでも魔力は消費され、リンカーコアは稼働する。
その結果、リンカーコアは傷付き続ける。この世界で戦えるように、カールの身体は出来ていないのだ。
だが、
「先生、大丈夫ですか!?」
母親の姿が見えなくなったからだろ。
まるで子犬のように駆け寄ってくるルイズに苦笑を返しながら、デルフに云ったような弱音を隠す。
まだまだ。自分にはやるべきことが残っている。
だからせめて、この子が一人で歩き出せるまで、しっかりしていないと。
心配そうにカールの様子を気にするルイズに笑いかけながら、平気、とカールは強がった。
模擬戦が終了した後昼食をとり、さあ午後はどうしようか――と思っていると、カールはカトレアからお茶に誘われた。
いきなりのことに驚いたカールだったが、ルイズが是非にと勧めてきたので気後れしながらも誘いに乗る。
招かれた先はカトレアの部屋にあるテラスであり、カールとルイズが到着する頃には、焼き菓子と紅茶が用意されていた。
「いらっしゃい、先生。どうぞ座って」
「……はい。お招きありがとうございます」
やや緊張しながら、カールは苦笑いを浮かべる。
カリーヌと同じように、カトレアとは初対面のようなものだった。
昨日はほとんど言葉を交わしていない。ほぼ顔を合わせただけのようなものなのだ。
だというのに好意的な、柔らかな笑みを浮かべている女性を前にして、カールはどうしても戸惑ってしまう。
忘れてはいけないが、カールはヴァリエール家の者からすれば決して良い風に見られてはいない。
エレオノールやカリーヌが辛うじてカールに高圧的な態度に出ていないのは、ルイズの教師だからという面が大きい。
もしそうでないならば、大切な娘、妹にミッドチルダ式という外法を与えた輩として目の敵にされているだろう。
ルイズが自ら望んで魔法を習得したという点が辛うじて態度を和らげてくれているものの、もしそうでなかったらと考えればゾッとする。
だが目の前にいるルイズの姉は、先の二人とはどうやら違うらしい。
公爵領に向かう途中の馬車で優しい人だとは聞いていたが――。
勧められた椅子に腰を下ろすと、カールはカトレアにじっと視線を注いだ。
すると彼女はあらあらと、どこかくすぐったそうに笑う。
「そんなにじっと見られたら照れてしまうわ」
「あ……すみません」
「気にしないで。
それにしてもお疲れ様。お母様と模擬戦をしたのでしょう?
結果は……」
「引き分けだったの!」
どこか誇らしげに、ルイズはカトレアへと報告する。
それを聞いた彼女は驚いた風に口を手で押さえると、まぁ、と声を漏らした。
「あのお母様を相手に引き分け……それでも充分凄いと思うわ。
ルイズの先生なだけはあるのね」
「いえ、そんな……」
どうにも居心地の悪さを覚えながら、カールはティーカップを口に運んだ。
紅茶はストレートで、仄かな苦みが口腔に広がる。同時に香りも。桃のような甘い香りは決してくどくはなく、アクセントとして楽しませてくれる。
高いんだろうなぁ、と思いながら、カールはカップをソーサーに戻した。
「少し自慢になってしまうかもしれないけれど、お母様は昔、魔法衛士隊の隊長をしていたことがあったのよ。
マンティコア隊、って云ってね。武勇伝もたくさんあって。
そんなお母様と引き分けだなんて、とても凄いことだと思うわ」
「……道理で」
あの確かな実力は、並のメイジとは決して云えないほどだった。
魔法衛士隊――その単語で真っ先に浮かんでくるのはワルドだったが、同じ隊長と云うのならばカリーヌもまたスクウェア・クラスの使い手だったのだろう。
彼女が制限無しに全力を出せば、勝敗は見えなかっただろう。そんな予感がある。
「あなたも、有名なメイジだったりするのかしら?」
「……いえ、俺は名声と無縁のメイジですよ」
少なくともハルケギニアではまったくの無名。
アルビオンではカールの魔力光を元に妙な噂が立っているようだが、それでもカール本人を示しているわけではない。
つれない反応とも取れる声を返すカールに、カトレアは不思議そうに首を傾げた。
「そうなの……。
魔法学院の先生をしているという話だから、立派なメイジなのだと思っていたけれど」
「臨時教員なんですよ。
ちょっとしたトラブルで魔法学院に呼び出されて、その機会にルイズと知り合い、この子の授業を受け持つことになったんです」
苦笑気味にカールがそう云うと、ルイズはバツが悪そうに肩幅を寄せて小さくなった。
が、カトレアはそれに気付いているのか違うのか。
ルイズの様子を気にした風もなく、先を続けた。
「そうだったの。
じゃあ先生は、ルイズの授業を受け持つ前は何をしていたのかしら。
私は身体が弱くてあまり外に出ることができないから、外の話を聞くのが楽しみなんです。
是非聞かせてくれないかしら」
「あ、それ、私も聞いてみたいです」
「えっと……そうだな」
どう説明したものか――と考えると同時、そういえば、と思い出す。
ハルケギニアでミッドチルダのことを話すのは、オスマンに続いてこれが二度目になるだろうか。
彼の場合は次元世界の説明を交えてだったため事実をそのまま口に出来たが、今は違う。
オブラートに包みつつ説明しないと、と気を付けながらカールは話を始めた。
「俺の生まれたところは、そんなに変わった場所ってわけじゃないですよ。
街から少し離れた住宅街……ええっと、小さな村で。
少し遠出すれば海が見えるような土地。
兄弟はいなくて、家族は両親を含めて三人だけ。
メイジの素質がある家系には生まれたけれど、家自体は平凡そのもの」
次元世界の説明を省いてしまうと、こうも記号的なものしか口に出来ない。
ほんの少し惜しいと思いながら、カールは先を続けた。
「ルイズには話したことがあると思うけど、前にしていた仕事は……軍隊になるのかな。
そこで兵士を鍛える職についてた」
「そ、そうだったんですか」
「どうしたんだ?」
「てっきり私、傭兵家業の傍らで家庭教師をしていたと思ってて……」
「まぁ、ちゃんと明言しなかったから勘違いするのは仕方ないか。
その職場には十歳……いや、十一の頃からだったかな。魔法の勉強もその頃から始めたんだ。
意外に思われるかもしれないけど、俺は最初、魔導師……メイジになろうと思っていたわけじゃなかった。
子供の頃は船乗りになりたいと思っていたし」
「そうだったんですか?」
「そう。けど友人連中に、才能が勿体ないって云われてさ。
それで説得されて、メイジの道を歩み出したんだ。
幸いなことに才能はあったし、相応の努力もしたから、今の実力を手にすることができた」
云いながら、カールは少しだけ懐かしい気分になった。
言葉に嘘はない。カールは子供の頃、操舵士になりたかった。
しかしそれは操舵士という職業に憧れていたわけではなく、ただ友人たちと同じ職場に就きたいという安易な考えから。
が、別にそれが間違っていたとは今でも思っていない。
魔導師である自分を否定するつもりはないが、友人たちと楽しく過ごしていたいという気持ちは今もあるから。
「今は故郷から離れて、魔法学院にいるのよね?」
「ええ、そうです」
「トラブルで学院にきたと云っていたけれど、それから帰ることなくルイズに魔法を教えてくれているんでしょう?
ご家族やお友達は、やっぱり心配しているわよね」
「……かもしれません」
カトレアの言葉に、僅かに込み上げていた帰郷の念が強まった。
せめて一言、自分がこの世界にいることを伝えたい。それだけできっと友人たちは安心してくれるだろうから。
だというのに自分は連絡を入れずに――ルイズに魔法を教えなければと思っていても、やはり申し訳なさはあった。
「……そう、ですね。
出来ることなら手紙の一つぐらいも届けたいんですけど、それは無理なんです。
なにぶん、故郷は遠いので」
「そうなの? てっきり私はトリステインの出身だと思っていたけれど」
「そうなんですけどね」
カトレアの言葉に、再びカールは苦笑する。
こればっかりは説明のしようがないことだから、曖昧にお茶を濁すしかない。
ふと、カールはルイズの表情が沈んでいることに気付いた。
視線を向けると彼女は顔を上げ、あの、と口を開いた。
「先生、夏期休暇になったら一度帰省しましょう。
先生を強引に呼び出した私が云って良いことじゃないかもしれませんけど、やっぱり便りの一つもなしに魔法学院に居続けるのは駄目ですよ」
「……そうだね」
「……ごめんなさい」
「良いよ。気にすることじゃないって。
ルイズが俺をサモン・サーヴァントで呼び出したのは、事故みたいなものだったんだから。
もう今更だ。責めるつもりはないさ」
「あら? 先生は、ルイズがサモン・サーヴァントで呼び出してしまったの?」
「ああ、そうなんですよ」
昨晩公爵と会話をしていた場にいなかったカトレアは知らないことだ。
そんな彼女に示すよう、カールは左手の甲を差し出した。
「……使い魔のルーン。本当なのね。
ルイズってば、人をサモン・サーヴァントで呼び出してしまうなんて、おっちょこちょいなんだから」
「うー……仕方ないじゃない。
私、苦手なんだもの」
何が、とは云わない。
苦手なのはハルケギニア式魔法、と云いたかったのだろうが、カトレアには隠しているのだろう。
が、そこでカトレアは何かに気付いたように目を瞬いた。
あらあら? と首を傾げると、カールとルイズを交互に見た。
「なんですか?」
「何? ちい姉様」
「えっと、些細な疑問なのかもしれないけれど。
ルーンが刻まれているってことは、コントラクト・サーヴァントをしたのよね?」
「そうなります」
「うん、そうよ」
何を当たり前のことを、とカールとルイズの二人は首を傾げたが、
「ルイズったら、私よりも先にキスを済ませちゃうだなんて」
「あぁっ!?」
いやだわ、と恥ずかしそうにはにかむカトレアに対して、ルイズは顔を真っ赤にしてわなわなと震えていた。
ギクシャクとした動きで彼女はカールを見ると、更に顔を真っ赤にする。
そして回らない口をパクパク上下させると、先生! と声を上げた。
「あれは不可抗力だったんですっ!」
「そ、そうだね。分かってるよ」
「つ、使い魔召還儀式は神聖なもので、呼び出した使い魔とは契約しなければいけなかったんですにょ!」
酔っぱらっているわけでもないのに、ルイズの呂律は回っていない。
真っ赤なままであわあわと口をわななかせると、怒っているのか恥じらっているのか微妙な視線をカールに向け続けた。
「し、知ってる」
「ちなみにあれは私のファーストキスだったわけで、先生はどうだったんですか!?」
「先生、どうだったの?」
「それは……ん?
え、何この流れ」
ルイズは真っ赤な顔のまま真っ直ぐにカールを見てくる。
一方カトレアは相変わらずの笑顔だが、それはどこか悪ノリしているように見えた。
どう答えたら良いものなのか……。
「……あう」
そんな風に困っていると、カールが答えるよりも先にルイズが折れてしまった。
彼女は真っ赤なまま俯いてしまうと、誤魔化すようにティーカップを煽る。
そんな様子にカトレアは残念そうに溜息を吐いて、よしよしと頭を撫でた。
「先生。こういう時は、嘘でも本当のことでも、即答してあげないと」
「……嘘なんか聞きたくないもん」
「ルイズも拗ねないの。
まったく、気難しいんだから」
唇を尖らせてそっぽを向いてしまったルイズ。
そんな彼女にどんな言葉を向けて良いのかカールが困っていると、甲高くノックの音が響いた。
テラスから部屋の中へと、カトレアは声を張り上げて返事をする。
そうして開かれた扉からは執事が現れ、彼はテラスまで進むと一礼した。
「お楽しみの所、申し訳ございません。
メルセデス様。お客様がおいでになっています」
「……客?」
自分に?
カールのハルケギニアにおける交友関係は皆無と云って良い。
魔法学院の教師たちならともかくとして、今、彼らは学院で授業をやっている頃だろう。
だというのにわざわざヴァリエール領までくるということは可能性が低い。
ならば誰だろうか、と目を瞬いていると、執事はハンカチに包まれた何かを差し出した。
「この宝玉を見せれば分かるとお客様がおっしゃっていたので、預からせていただきました。
失礼ながら、ディティクト・マジックで調べましたが、危険はないと思われます」
「……先生、それって」
執事が差し出した宝玉を目にして、ルイズは目を丸くしていた。
だがそれはカールも同じだ。これは宝玉ではない。デバイスのコア。
差し出されたコアを手に持ってみれば、ガンダールヴのルーンが間違いないと教えてくれる。
「……おそらく、同郷の人間だと思います。
これから部屋に戻りますから、その人を案内してもらえませんか?」
「承知いたしました。それでは」
一礼と共に、執事はゆっくりとカトレアの部屋を後にした。
カールは近くにカトレアたちがいることも忘れ、手元のデバイスコアに視線を注ぐ。
どうしてこんな物を――それにカールにこれを見せるということは、ひょっとしたら――
今まで少しも手にすることができなかった、ミッドチルダに帰還する方法。
もしくは同じミッドチルダ出身の人間がいるのかもしれないと期待し、カールは席を立った。
「失礼する」
やや無機質な声を共に入室してきた男へと、カールは視線を向けた。
旅装束なのだろう。やや薄汚れた外套を身に纏う、痩身長躯の男。
彼はカールに頭を下げると、椅子に座ろうともせずその場で口を開いた。
「お初にお目にかかる。
カール・メルセデス。君はミッドチルダ式の使い手であることに間違いはないか?」
「……いきなりだな」
歯に衣着せぬ物言いで、唐突に核心を突いてきた男に、カールは苦笑した。
腹の探り合いなど不要とばかりに真っ直ぐな態度に対し、カールも同じように出る。
彼は執事から手渡されたデバイスコアを掲げると、真っ直ぐに男を見据えた。
「ああ、そうだ。あなたが云うように、俺はミッドチルダ式の魔導師だよ。
それで、あなたはなんだ? デバイスコアを名刺代わりに差し出して、俺をミッドチルダ式の使い手だと云う。
まず最初に聞かせて欲しい。あなたは、ミッドチルダ人か?」
「いいや、違う」
「……そう、か」
簡素な言葉に、カールは落胆を覚えられずにいられなかった。
もしミッドチルダ人であるならば、帰る方法がまったく分からないという現状を打破することができたかもしれないからだ。
しかし返答は否であり、彼はミッドチルダ式を知ってはいるが、ミッドチルダ人ではないと云う。
完全に希望が潰えたわけではないものの、カールが最も望む答えは得られなかった。
だがそんなカールに構わず、彼は先を続ける。
「まず最初に、自己紹介をさせてもらおう。
我の名前はビダーシャル。ミッドチルダ人である君たちは亜人に偏見がないと聞く――」
云って、ビダーシャルは微かに目を閉じた。
瞬間、ビダーシャルの姿が蜃気楼のように揺らぐ。
その直後、彼の身体に生じた変化に、カールは目を見開いた。
「……え、エルフだぁ!?
なんでてめぇらが……相棒、気を付けろ!」
「あ、ああ……」
部屋の壁に立てかけてあったデルフが素っ頓狂な声を上げるも、カールは目を瞬くだけで臨戦態勢を取ったりはしない。
ビダーシャルに敵意がないことは察することができるし、また、彼が口にしたようにカールには亜人への偏見というものが薄かった。
ハルケギニアで亜人がどういう扱いをされているかは知っているが、それはそれとして、管理局員であるカールは多少の見た目の違いで驚いたりはしない。
次元世界に出れば標準とされる外見から外れた者と会うことも稀にあるのだ。
「警戒するな、剣。我らは争いを好まぬ。敵意もない。
それでも敢えて姿を誤魔化すような真似をしたのは、人間が我々をどう見ているのか理解しているからだ」
「……まぁ、耳をそのままにしてたら人里まで降りてくることはできないだろうな」
「その通りだ。
話を聞いて貰うという立場でそのようなことをするのは失礼に値すると理解しているが、そうでもしなければ君の前に出ることすら叶わなかった。
許して欲しい」
「気にしてない。
それで、話って?」
「単刀直入に云わせてもらう。
どうか、ミッドチルダ式の封印の力を、我々に貸して貰いたい」
「封印……? 封じたい何かがあるのか?
いや、それに……ミッドチルダ式がマジック・アイテムを封印できることを知っているんだな」
「ああ。ミッドチルダ式の使い手に助力を乞うのは始めてではない。
今まで過去何度も君の同胞に力を貸して貰い、我々は封印を行ってきた」
「……それで? 封印したい物ってのはなんなんだ?
何度も封印してきた、って聞くと、物騒な物ってのは想像がつくけど」
「その認識に間違いはない。
……我の口から説明しても良いのだが、おそらく抽象的なものになってしまうだろう。
デバイスの中に記録されている、おんせいふぁいる、というものを聞いて欲しい」
「……分かった」
ビダーシャルの言葉に頷いて、カールはデバイスに魔力を込めた。
それに呼応し、シャットダウンされていたデバイスが立ち上がる。
微かな光が宝玉に宿り起動を確認すると、カールはデバイスのデータベースにアクセスした。
デバイスの中には、数多もの音声ファイルが記録されていた。その数は百に近い。
同時に、魔法の術式は一切記録されてないため、このデバイスがメッセージを伝える役目にしか使われていないことを理解する。
カールはナンバリングされた音声ファイルの中から、最も古いものを開く。
微かなノイズと共に再生される声に、カールはじっと耳を傾けた。
『……エルフたちに発見されたミッドチルダ人がこのメッセージを聞いていると思う。
おそらく君たちは、僕と同じようにこの世界へと流れ着いてしまったのではないだろうか。
自己紹介をしたいのは山々だけど、今は先に用件を伝えよう。それが帰還の手がかりになると信じて』
帰還の手がかり――このメッセージを残した人物は、ミッドチルダに帰ることができたのだろうか。
そんな疑問が脳裏を過ぎるが、一方通行の言葉に問いを投げることはできない。
カールはじっと、続く言葉を待った。
『既に試したかもしれないが、この世界で転送魔法を使用して次元を跨ごうとしても、望む座標に転移することは叶わない。
僕の技術に問題があるのか、他の要因があるのか……僕は後者に原因があると考え、その謎を解くために考え続けた。
旅を続け、自分なりの解釈をしながら原因を探り……その果てに、僕はサハラへと辿り着いた。
気付いたのだ。この世界には、微弱な次元震が発生し続けていることに』
「……次元震だって?」
だからなのか――と、カールは今までの謎が氷解したような気分になった。
次元震とは、大雑把な説明をするならば、次元空間に発生する地震のようなものである。
それによって空間が歪み、その規模が大きくなれば、世界が歪みに巻き込まれて消滅することすらある。
次元震について詳しいというわけでもないカールでも、局員である以上その驚異は良く知っていた。
そして次元震が発生し続けているというのならば、転送魔法が上手く発動しないことにも頷ける。
その原因を取り除くことができれば、あるいは……。
『次元震の発生源は、一つのロストロギアだ。エルフの間ではこれをシャイターンの門と呼んでいる。
その正体は原始的な魔力炉心。制御を失って暴走を続けるそれが、次元震を誘発させている。
……私がサハラに辿り着いた時点で、既に幾度か封印を施された痕跡があった。
そして話を聞いてみれば、僕よりも前に、同じミッドチルダ人でシャイターンの門を封印しようとした者がいたらしい。
だが結果は失敗。封印を行うには、シャイターンの門の出力は高すぎたんだ。
……そして僕も、封印することはできなかった。
沈静化させることには成功したが、完全に機能を停止させることはできなかったんだ。
……悔しいと思う。帰還方法がようやく見付かったというのに、それを達成するだけの実力が僕にはなかった。
加えて、じきに僕は魔法を使えなくなってしまうだろう。魔力素濃度が原因であるリンカーコア障害によって。
その前に、知る限りの情報を残すため、僕は自らのデバイスを記録媒体として遺そう』
濃い後悔と悔しさが、流れ続ける音声に滲んでいた。
それもそうだろう。見ず知らずの世界に呼び出されて、帰還方法の目処が立ったというのに帰ることはできない。
心を折るには充分すぎる理由だ。
それでもこうしてデバイスに声を残したのは――せめて声だけでも同郷の人間に遺したいという、執念なのかもしれなかった。
最初の音声ファイルを聞き終えると、カールは次のファイルを開く。
そうして次々に遺言を聞き続けていると、それぞれの人間が調べ上げた真実が浮き彫りになって行った。
サハラが砂漠となっている原因は、次元震の影響である。
シャイターンの門を放置し続ければ、徐々に砂漠が広がってゆくだろう。
また、地殻変動が起こってもおかしくはない。
過去の大隆起と呼ばれる天変地異は、風石の結晶化のみが原因ではない。
シャイターンの門は人工物である。
何者かが生み出した魔力炉は制御技術が追い付かなかったため、暴走を開始した。
音声ファイルを聞く限り次元断層に巻き込まれたり、転送事故でハルケギニアに迷い込んだ人間が大半のようだが、例外もある。
高い魔力資質を持つ人間がサモン・サーヴァントを行使すると、稀にミッドチルダ人が召還されることがある。
これはサモン・サーヴァントを考案した人間が、シャイターンの門を封印する人材を呼び寄せようとしたからなのかもしれない。
エルフはシャイターンの門を建造した人間から、門の管理を任せられている一族である。
人間もそれを認め、ある時まで共存していたが、ブリミル教に傾倒する時の権力者が始祖から与えられた役目を簒奪しようとした。
その結果、ブリミルの遺言は改竄され、エルフは人間の敵と認識され、埋めがたい溝が生まれてしまった。
そんな風に、封印に関係のあるものからないものまで、様々な情報がもたらされる。
誰もが必死に、己の得た情報を後輩へ伝えようとしていた。その様は必死そのものであり、何かを遺さなければという妄執すら感じる。
だが仕方ないのかもしれない。迷い込んだ先はミッドチルダと遠く離れた土地で、自分という存在をなんとかして残したいと思ってしまう気持ちは理解できた。
それは音声の最後に誰もが、家族、友人、恋人へ自分のことを伝えて欲しいと願う声から十二分に察することができる。
音声を聞き続けていると、いつの間にか窓からは夕日が差し込んでいた。
その間ビダーシャルは立ち続け、じっとカールの反応を待っている。
カールは重々しく口を開くと、静かな声を放った。
「……話は、分かった。
君たちは暴走するシャイターンの門を止めたい。
俺はシャイターンの門を停止させ、元の世界に帰りたい。
門を止めるという点が一致する以上、手を組むことに不都合はない」
「いや、これは我々に科せられた使命の一つ。
本来ならば我々の力のみでシャイターンの門を封じるべきだ。
だというのに君たちの力を借りるのだから、感謝と謝礼は必ず果たす。
どうか、我々に力を貸してもらいたい」
深々と頭を下げるビダーシャルに、カールは止めてくれと慌てた。
そもそも次元震を止めなければ元の世界に帰れない。
いくらこれがビダーシャルたちにとっての使命なのだとしても、カールにとって避けて通ることができない事態であることに代わりはないのだ。
「もう答えは出てる。行くよ。
俺を連れて行って欲しい。シャイターンの門へ」
そう、答えはとうの昔に出ているのだ。
この世界に呼び出された時点で、カールはミッドチルダに帰りたいと願っていた。
今もその気持ちは変わらない。確かに生徒であるルイズに愛着は湧いているし、オスマンやコルベールとは仲良くやっていきたいとは思っている。
だが、それはそれだ。カールが生きるべき世界は向こうであり、やりたいことも何もかも、置いてきてしまったままだ。
カールには時間がない。戦えば戦うほど、魔法は使えなくなってゆく。
だからその前に、ミッドチルダに帰らなければならない。
何があろうと、それだけは変わらない。
カールが去ったあとのテラスには、未だルイズとカトレアの姿があった。
ルイズはぶすっとした顔で、黙々とお茶菓子を口に運んでいる。
そんな妹の様子にカトレアは苦笑しながら、ティーカップを傾けていた。
「ルイズ。そんなに拗ねなくても良いでしょう?」
「拗ねてないもん」
「あらあら」
「もう! ちい姉様、なんであんなことを先生云ったの!?
私も先生も忘れていたことなのに!」
「そうなの?」
「そうよ! だって、気まずいじゃない!」
ぷりぷりと怒るルイズに対し、カトレアは困った風に笑みを浮かべ続ける。
愛らしい末っ子が気難しいのは今に始まったことではないものの、これはなかなかに大変かもしれない。
そんなことを考えながら、彼女は首を傾げた。
「でもルイズ。どんなことでも初めてって、とても大切なことだと思うわ。
それを忘れてしまうなんて悲しいことよ」
「そ、そうかもしれないけど、あれは事故みたいなものなの!
犬に噛まれたようなものなの!」
「なんでもないって思っているなら、そんなに慌てなくても良いじゃない」
「……うー」
今のは少し意地悪すぎたかもしれない。
けれどこうでも云わないと、ルイズは変な風に自分の気持ちを固めてしまいそうだから。
だからカトレアはわざわざ揺さぶりをかけるようなことを口にする。
カトレアはルイズの貴族像を否定したいわけじゃない。
身体が弱い自分は何があっても戦場に立つことはできない。
そのため、物語の中に出てくるような騎士道精神や高潔な貴族の在り方は、遠い世界のことのように思えるからこそ、美しいと感じる。
だがその一方で、貴族の在り方をそんな風に思えるカトレアだからこそ、微かな疑問を覚えてしまう。
いや、疑問というほど明確な形を持っているわけではない。
ただ、カトレア以外の家族が誰もルイズの気持ちに――女の子らしい部分に触れようとしないから、姉の自分がしっかりしなきゃと考えているのだった。
ルイズがカールにどんな気持ちを向けているのか、カトレアには分からない。
そもそも家に引きこもってしまっている彼女は、色恋沙汰に縁がない。
そのため助言らしい助言を彼女がルイズに向けることはできない。
出来るとしたら精々、今のようにルイズにカールを先生ではなく一人の人として見るよう促すぐらいだった。
しかしそれでも、まだまだ幼いルイズには効果があったのだろう。
今まで見たこともないほどに真っ赤になってしまっている末っ子は、どうして良いのか分からないといった風に頭を抱えていた。
「ねぇ、ルイズ」
「……何?」
「先生がヴァリエール家にきたんだし、今度はルイズが先生の故郷に行ってみたらどうかしら」
「ど、どうしてそうなるの!?」
「良いじゃない。ルイズ、先生がどんな人なのか興味あるんでしょう?
夏の小旅行ってことで、きっとお父様たちも許してくれるわ」
「でもでも、別に、私が先生の故郷に行く理由なんてないし……」
「理由なんて要らないわ。
行きたいから行く。見てみたいから、で充分よ。
それとも、ルイズは先生の故郷に興味がないの?」
「………………ある」
たっぷり間を置いて、ぶすっとしたままルイズは呟いた。
そんな妹がカールに抱く感情がなんなのか、カトレアには分からない。
けれど彼女からすれば、そんな風にルイズが成長してくれることが嬉しくてたまらなかった。