控えめなノックの音が部屋の中に響いた。ザザが扉を開くと、一年生のマントを着た子が緊張した面持ちで立っていた。部屋の中に招き入れると、少女は頬を赤く染める。
監督生の部屋に呼び出されれば硬くなるのもしかたないな、とザザは苦笑した。
「そう硬くならなくてもいいよ。別に注意するために呼んだわけじゃないし」
「は、はい」
子犬のように、大きな瞳でちらちらとこちらの顔を伺ってくる。ひとつ学年が違うだけだが、相手からするとザザもずいぶん大人に見えるのだろうか。
ザザはここのところ休みの日には毎回、一年生を何人か連れて王都の見物に行っている。田舎から出てきたばかりの一年生が、王都で痛い目を見ないためのお守りのようなものだ。ザザもまだまだ田舎者だが、安全なところとそうでないところの区別くらいはつくし、二年生のマントが一緒にいるだけでも違ってくる。
一年前。ルイズたちと一緒に王都を見て回ったことは、ザザにとってはいい思い出だ。だが同級生には怖い目にあった子や、なけなしの小遣いをだまし取られた子が何人もいた。そんな子が出ないようにと考えたのだ。
思いつきではじめたこの企画はことのほか喜ばれた。寮のホールで適当に声をかけると、けっこうな人数がすぐに集まった。監督生と一緒の観光など、気詰まりで嫌がられるかと思っていたので意外だった。どうやらすでに痛い目にあった子がいたらしく、王都に行ってみたいけど怖いという子が大勢いたのだ。
さすがにそんなに多くはザザだけでは面倒見切れないし、それぞれで行ってみたい場所も違う。一年生に行ってみたい場所を聞いて数人ずつ、何回かに分けて連れて行っていた。ザザがあまり詳しくない場所はクラウディアなど、友だちの二年生にもついてきてもらった。
一年生とうまく顔見知りになれたし、一年生同士の交流も深まったようだった。それになにより、下級生に喜ばれ感謝されたことが、成り立ての監督生にはとても嬉しかった。
今日呼んだ彼女には間にはいって手伝いをしてもらったのだ。一年生たちの行きたい場所をまとめて貰ったり、班分けに協力してもらったりと、細々と働かせてしまった。
「助かったよ。やっぱり上級生があれこれ指図したら楽しくないって思ってさ。君には面倒な役押しつけちゃったかもしれないけど」
「そ、そんなことはございません。お手伝いさせてもらったおかげでお友だちがたくさんできました」
「それは良かった。今度は一年生だけで行ってきなよ」
危険なところは教えたし、商人たちとの会話も、ザザが間に入りながらある程度させてある。都会に必要なものは慣れと度胸である。それに、せっかく親元を離れてきたのに、学院でまで手を引かれていてはつまらない。自分の足と目でものを経験するほうが楽しいに決まっている。
「あの、また先輩に連れて行ってはいただけませんか?」
「別にいいけど、一年生だけの方が気楽じゃない? それとも、まだ不安かな」
「それもありますけど、その……先輩とご一緒したいのです」
真っ赤になった顔を隠すようにうつむける。
「王都に連れて行ってもらった者たちで先輩に憧れない子はいません。凛々しくてお優しくて、怖そうな商人の方たちにもちっとも物怖じしなくて……。ああやだ、わたしったらもう」
「あー、そんなにたいしたものじゃないよ。私も基本的には田舎者。去年の今頃は君たちと同じで、びくびくしながら王都を見物してたよ」
「で、でも。一年生のわたしたちにこんなに良くしてくれるのは先輩だけです」
「そこは監督生だからってことで。喜んでくれたなら、君たちの後輩に同じようにしてあげなさい」
ザザはそういうと机の上に置いてあった箱を手に取る。金糸などで彩られたかわいらしい小箱。ちょっとした高級店の菓子で、箱はそのまま使えるようになっている品だ。
「知り合いからのもらい物だけど、手伝ってくれたお礼」
差し出された菓子箱を見て、少女は嬉しそうに受け取ろうとする。だが、箱に触れようとしていた手がびくりと止まる。もじもじと、上目遣いに何か言いたげにザザを見つめてきた。
「どうしたの?」
「あ、あの、先輩。お礼はけっこうですから、ひとつお願いをきいていただけますか」
「まあ……私にできることなら。何?」
少女の頬は果実のように真っ赤に染まっている。言葉を出そうとしても中々出てこないようだった。それでも意を決したのか背筋をまっすぐにして顔をこちらに向けた。
「お、お姉さまと呼ばせてください!」
「へ? あ、あー……」
思いも寄らぬ少女の願いに、ザザは思わず間抜けな声が出てしまった。ずっと前に、キュルケにこんなことを言われたことを思い出す。
ザザが答えに詰まっていると、子犬のようにうるんだ瞳で少女がこちらを見上げてくる。。
「ご、ご迷惑でしょうか?」
「いや、そんなことはないけど……そんなことでいいの?」
「はい! ありがとうございます!」
勢いに負けて頷いてしまう。少女は感極まったのか祈るような仕草でザザを見上げてくる。
「じゃ、じゃあこれはみんなで食べて。箱は欲しい人がいればあげていいから」
ザザが菓子を渡すと、少女は大事そうにそれを抱きしめた。
「ああ、ありがとうございます。お姉さま」
何度もお礼を言ってから、少女はぱたぱたと小走りに出ていった。せわしない様子も本当に子犬のようだ。
走り去っていく背中を見送ってから、ザザは小さく溜息をついた。後輩との距離も、もう少し考えるべきなのかもしれない。
「お姉さま、ね」
末っ子のザザには気恥ずかしい響きだった。
部屋の中に戻り、窓を開ける。すると、待っていたかのように大きな鷹が窓から飛び込んできてザザの腕にとまった。
「君はどう思う? ミストラル」
春風にのって三つ編みが揺れる。去年より少し長くなった髪。たまにばっさり切ってしまおうかと思うけど、長年伸ばしてきた髪を切るのにはやはり抵抗があった。
新年度、という言葉も使い古される程度の時期になっていた。一年生たちはようやく学院になれてきたようだ。三年生はみな、来年のことを考えるので忙しい。そしてザザたち二年生は、召喚した使い魔とふれあうので手一杯だった。
使い魔はメイジにとっての目であり耳であり手足であり、かけがえのないパートナーである。そのメイジにとってもっともふさわしい使い魔が喚ばれると言われている。たとえどんなモノが呼び出されたとしても、生徒達は愛情をもって自分のパートナーと接していた。
ザザが呼び出したのは鷹の子供だった。風の名前をとって、ミストラルと名付けた。子供といっても、すでに普通の鷹くらいの大きさはある。高山にすむ巨大種で、成鳥になれば人間の一人くらいは楽に運べるようになるらしい。使い魔に乗って空を飛ぶのは憧れだったので、これは嬉しかった。
困ったこともある。ミストラルは無邪気にザザにじゃれついてくるのだが、子供なので加減というものを知らない。鋭い爪を食い込ませてザザにとまるものだから、腕や肩はたちまち傷だらけになったし、シャツもマントもびりびりにされてしまう。しかたなくザザは革の腕当てをつけるようになった。鳥を使い魔にしているメイジはたくさんいるので、腕当てや肩当てなど専用の道具が作られている。
他にも色々と苦労はあったが、やはり自分の使い魔は可愛かった。まわりを見てみると、同じように使い魔は可愛いもののようだ。カエルや虫など、ザザからみればちょっとキツい動物でも本人は猫かわいがりしている。
ただ、ルイズだけは事情が違った。
「このバカ犬ーっ!」
甲高い金切り声が聞こえたかと思うと、黒髪の少年が脱兎のごとくかけていった。少年は中庭の木陰に隠れて金切り声の主をやり過ごす。また何かやって機嫌を損ねたのだろう。
もはや日常となった光景だった。
ルイズが何十回という失敗の果てに呼び出したのは、平民の男の子だった。人間が呼び出されるなど聞いたこともない話で、それはまた笑いの種になった。使い魔になった少年は貴族に対する態度を知らず、多くの生徒からは疎んじられていた。
そんな中、ソニアはあの少年のことを評価していた。ソニアはかなり身分というものを重んじる考えの持ち主なので、これは意外だった。また、ヴァリエール派の子たちも少年に好意的だった。クラウディアに理由を尋ねると、「ルイズ様がいきいきとしていらっしゃるから」と言われた。
たしかに、ルイズは以前とくらべると変わった。張りつめた糸のような緊張感がなくなった。見ていて危なっかしい感じがしなくなった。それは良い傾向だと思うし、ソニアが評価しているのもきっとこういう変化を見越してのことなのだろう。
だが周りがどういおうとも、ザザはあの少年が好きではなかった。別に身分がどうこうという話ではない。ザザはむしろそういうことに関してはいい加減なほうだ。女子寮に男を入れることで、監督生のザザにいろいろとしわ寄せがきたことも、それほど気にしているわけではない。
なら、なぜザザは少年を嫌うのか。ザザ本人は認めていないものの、近しいものから見ればその理由はわかりきっていた。
うらやましいのだ。
ザザは嫉妬している。自分にはできなかったことをしていることに。もう、やりたくてもできないことをしていることに。ルイズを支え解放する。近くで一緒に笑いあい、怒りあう。それがなぜ、自分ではないのか。なぜ自分では駄目なのか。どうしようもなくそれが妬ましい、羨ましい。
子供じみた嫉妬だった。ザザに友だちが増えたとき、ひっついてきたクラウディアと変わらない。人前では格好付けているものの、ザザはまだ十六歳の少女だった。自分がずっとめざしていた場所に、いきなり出てきた少年に割って入られて笑っていられるほど、大人ではないのだ。
ルイズが少年に気づかず走り去っていったあと、ザザは木陰に近づいた。なんとなく、一度話してみようと思った。
「……ルイズはもう行ったみたいだよ」
きょろきょろと周りをみまわしてから、少年は木陰からでてきた。
「お、サンキュー……えっと、誰だっけ?」
「ただの通りすがりさ。また何かやってご主人様を怒らせたのかい?」
「俺はなんにもしてねえよ。あいつの怒るタイミングってたまに良くわかんねえ」
「もう少し、貴族に対する礼儀を正せば、怒られることも少なくなるんじゃないか?」
お前はルイズにふさわしくない。そんなトゲをできるだけ出さないように話す。
「その貴族ってのがなぁ……。俺のいたとこじゃ貴族なんていなかったんだよ」
「貴族がいない? そういえば、そんな話を噂で聞いたな。本当なの?」
「嘘ついてどうすんだよ。こっち来てずいぶんたつし、いろいろ分かってきたつもりだけど。やっぱ慣れねえ」
どこかすねたように少年は言う。きっと、ルイズや他の生徒たちから嫌というほど言われたんだろう。
身分についてあれこれ悩むのは、ザザにも覚えがあった。ルイズのような大貴族なら、自分と平民は違うものだと自然と理解できるのだろう。だが、ザザは平民と貴族という、境界線を意識するようになるまで時間がかかった。それゆえ、平民との距離の取り方には悩んだ時期があった。
「ふふ」
「悪かったな。どうせ俺はこっちの常識なんかしらねえよ」
「いや、私も同じようなこと考えてたことあってね」
「貴族でもそんなこと気にするもんなのか?」
「貴族って言ってもピンキリだからね。お作法やダンスよりも、泥だらけになって虫取りや魚釣りやってた子もいるってことさ」
「へー」
少年は感心したようにザザを見る。その反応が少し心地よい。優越感のようなものがあったのかもしれない。身分制度の初歩の授業でもしてやろうかと思ったが、どうせそんなことはルイズや他の子がしているだろうと、別の方向から話をすることにした。
「じゃあ君、この薔薇をひとつの国だとしよう」
ザザは中庭にあった薔薇を指さす。真っ赤な花がいくつもついた中、ちいさな蕾をつまんでみせる。
「この蕾がルイズだ。さて、平民はどこだと思う?」
「……葉っぱとか茎ってことか? 光合成で栄養つくったりしてるし」
「ん? 何それ?」
「植物は光と空気から栄養作ってるんだよ」
「ああ、そういうこと」
ハルケギニアでも光合成くらいは解明されている。ただ、魔法学院で教える一般教養レベルまでは浸透してはいない。当然、ザザも光合成なんていう専門用語はしらなかったが、農村育ちのザザはそれを肌で学んでいた。
自前の知識が軽く流されたことが、少年は少し面白くなさそうだった。ザザはそれがちょっと小気味よい。
「ま、葉っぱがどうのは置いとくとして、花が王族や高位貴族だとすると、葉っぱや茎は普通の貴族、平民はここだよ」
ザザはしゃがみこんで、薔薇の根元を指さす。
「……根っこか」
不快げな声で答える。話の内容というよりも、ザザが優越感に満ちた表情で話しているのも気にくわないのだろう。思わずこぼれそうになる笑みを押さえて続ける。
「君はこう考えている。貴族様から見れば平民なんて土の中に埋まってる根っこ程度のものでしかないと」
「違うのかよ」
「や、確かにそういう側面もある」
あっけらかんと答える。
「だけど、根は言葉通り植物の根幹だ。土の中で葉や茎を支えている。大体の植物は、根っこさえあればまた芽を出して元通りになる。それに、土の中にいるってことは、冷たい雨にさらされることも、激しい風に吹かれることもない。
役割分担だよ。
貴族は華やかな花や潤った葉。確かに華やかで目立つかもしれないけど、風雨にさらされるつらい場所だ。虫や動物にも食べられやすい。私みたいな、心ない人間によって手折られることもある。根と違って、手折られた花は一人では生きていけない」
ザザは小さく呪文を唱えて薔薇を一輪切り取る。トゲだらけの薔薇をそっとつまむ。
これがザザの理解の仕方だった。平民の友だちは、成長して分別がつくにつれどうしても距離ができてしまった。幼いザザなりに、身分というものを理解しようとしたのだ。
「私なりの考え方だからね。納得できなくてもいいさ」
「……おまえの言うこと、難しくてよくわかんねえけどさ」
不服そうな顔をしていた少年は、ザザの手から薔薇を奪うと、それを地面に突き刺した。
「花だってこうすればちゃんと根っこ生えるだろ?」
そう言って悪戯っぽく笑う。
ただの屁理屈だった。少年はザザに言われっぱなしなのが悔しくて、小学校で習った挿し木で揚げ足をとっただけだ。
だが、その子供っぽい屁理屈が、ザザにはとてもおかしく思えた。いつも考えすぎる自分が、なんだか馬鹿みたいに思えた。
「はは、あはははっ」
声を上げて笑ってしまう。ひとしきり笑ったあと、しんみりとした声で言った。
「そうだね。もしかしたらルイズも、そうやって根を生やして生きていけるのかもしれない。できれば、花を咲かせてあげたかったけど……。君が根になってくれるのなら、それがいいのかもね」
「……よくわかんねえけど、お前。あいつと仲良かったのか?」
素朴な少年の問いかけ。無知ゆえに、ザザの傷を深くえぐる。
「さあね」
はぐらかすことで、せめてものプライドを守った。そのまま少年に背を向ける。少年も、追ってくるようなこともなかった。
きっと、ルイズはもう大丈夫なのだ。ザザがいろんな人とで出会っていろんなことを経験したように、ルイズも多くのことと出会って大きくなっていくんだろう。自分ではなく、あの少年と一緒に。
ザザはようやく、自分の中の嫉妬に気づいた。羨ましかっただけなのだ、自分にできないことをしている少年が。悔しかっただけなのだ、ルイズのそばにいれるということが。
彼女に必要なのは、自分ではない。その事実を受け入れることは、まだ子供のザザにはつらかった。
涙がこぼれそうだった。悔しさや嫉妬と、そんなものに負けてしまう情けない自分に。
部屋に帰ったら思い切り泣こう。クラウディアに愚痴を聞いて貰おう。妬みや悔しさを全部ぶちまけながら酒でも飲むんだ。格好わるく、だだっ子のように。
それが終わったら、またいつも通り頑張っていこう。ソニアの嫌みを聞きながら監督生の仕事をしよう。ノエルやクラウディアと一緒に遊ぼう。下級生の面倒もみないといけない。アナベルやエステルにもたまに会いに行こう。実家にももう少し手紙を書こう。
ルイズがこれから、どんな道を歩むのかは分からない。彼女が立派な貴族を目指すのなら、どこかで道が重なるときもあるかもしれない。そのとき、ルイズが自分に自信を持っていれば。お互いに大きく成長していれば。また、一緒にお茶を囲むこともできるだろう。
そのときを夢見て、ザザは静かに空を仰いだ。