美しい。
ザザの向かい側に座っている少女――エステルは誰よりも美しかった。少なくともザザがこれまで出会った女性の中では最も美しかった。
色香ではキュルケが勝る。あの豊満で情熱的な色香はエステルにはない。ザザと同い年で、未発達な身体つきはキュルケと比べると青く魅力に欠ける。
気品ではルイズが勝る。生まれと育ちではぐくまれた高貴さは、平民のエステルには持ち得ないものだ。歩き方からティーカップの持ち方まで、ルイズの振る舞いからは高貴さがにじみ出ている。エステルの物腰も十分優雅ではあるが、エステルの振る舞いは高貴さを演出するためのものではない。
それでも、エステルは誰よりも美しかった。人格が優れているとか、立派な行動をしたとか、そんなお為ごかしではない。エステルはただ、美しい。誰もが彼女に目を奪われる。冷たく輝く宝石のように、人の目を惹きつけてやまない。
エステルが動くたび、長い白金の髪がさらさらと揺れる。ザザのクセ毛ではありえないなめらかさに目を奪われていると、エステルと目があった。淡い青色の瞳はザザの視線に気づくとくすくすと笑った。髪を何気なくかき上げて見せる。白金の髪がはらはらと白い首筋に落ちていく。
その仕草があまりに蠱惑的で、同性のザザですら少しどきりとしてしまった。
エステルの振る舞いは、ルイズのように優雅さを主張するものではない。エステルもそれなりに上品なのだが、ルイズと比べればよく言えば素朴、悪く言えばがさつだ。しかし、髪をかき上げる仕草。果物を口に運ぶ手つき。ふとした視線の送り方。すべてが一つの目的のために集約されている。エステルという少女の魅力を引き出すためだ。彼女は美という力に特化した純粋種だった。
美は女の武器である。それは時に杖よりもずっと暴力的な力をふるう。美はすべてのものに公平で、そして理不尽な力だ。
二人はアナベルに言われて下のカフェにやってきていた。半地下の店内は薄暗く、見通しも悪いため客の顔は見えにくい。
「こういうお店は初めてですか? ザザ様」
きょろきょろと店内を見回していたからか、エステルがそう言った。
「う、うん。私は春に田舎からでてきたんで、まだトリスタニアはそれほど詳しくないんだ」
「そうなんですの。この店は見ての通り密会向けのお店です。商売の取引や密談。人目をしのぶ人たち、身分違いの恋人や不倫の逢い引きなんか使われることが多いんです」
「へ、へえ……」
トリスタニアの裏通りとも呼べるチクトンネ街。退廃の香りが漂うこの通りにはザザはあまり来たことがなかった。男子連中にはこっそりと出入りしている者もいるらしいが、女子生徒にはあまり好まれていなかった。
「お客もそういった事情のある者がほとんどですから、この店の中で誰と誰が会っていたとかは、口外するひとはあまりいないでしょうね」
「裏通りのマナーってところかな」
「そうですね。ですから、わたくしのような女と同じテーブルにいたとも、噂になったりはしませんからご安心ください」
エステルの言葉に、なにも言えずに口をつむぐ。そんなことを気にしていたつもりはなかったが、エステルにそう言われてどこか安堵している自分がいるのも確かだった。
エステル。
ザザと同い年のこの少女は、娼婦だった。
二人の間に沈黙が目立つようになった。お互いのことを少し話したら、話題に困るようになってしまった。エステルが詫びる。
「すみません。わたくし、年の近い友人っていないもので。ザザ様と何をお話すればいいのかよくわからないんです」
「そうなの? その、同僚とかは?」
「一番近いひとで十九です。まだ水揚げも済んでいないのはわたくしだけで、どうにも子供あつかいされてしまって」
「水……? ごめん、貴族ぶる趣味はないし、少しはスラングも知ってるつもりなんだけど。水揚げって何?」
「ああ、すみません。娼館用語です。客を初めて取ることをそういうんです」
「あ、……そうなんだ」
ということは、エステルはまだ身体は売っていないということだ。その事実になぜか安堵する。
「うちの娼館では十七になるまで客は取らせないんです。あまり早いうちから客を取ると身体によくありませんし、高級娼婦と少女趣味は客層が異なりますしね」
「……じゃあ二年後?」
「そうです、もう今から楽しみで。うちでは水揚げのときにちょっとした催しをするんですよ。わたくしの『初めて』を競りにかけるんです。娼館と娼婦に選ばれた殿方たちが競ってお金を積みますの。決まった花屋で花を娼館に送って、一番たくさんの花を贈った殿方が勝ち。部屋中に贈られた花びらを敷き詰めて殿方を迎えるんです。もちろん、寝台にちりばめられる花は競りに勝った殿方のものです」
「そ、そうなんだ」
エステルの様子はまるでお祭りを前にはしゃぐ子供のようで、ザザにはちょっと理解しかねた。
「えっと……エステルはさ」
「はい、なんでしょう」
「どうして、娼婦になりたいの?」
あえて、なりたいという言葉をザザは使った。エステルは目を輝かせて答える。
「どうしてって、格好いいじゃないですか!」
「格好いい? ……そうかなあ」
貞女は二夫にまみえずと教えられて育ったザザには理解しがたい。
「格好いいですよ。美しさと教養だけで身を立てるんですもの。家柄も身分も関係ありません。純粋に実力だけが評価される世界です。そういう意味では、貴族の方の杖と同じようなものです」
「……まあ、そう、なのかな」
「そうですよ。殿方を惑わし、愛し、破滅させる。なんと甘美なことでございましょう。女に生まれたからにはかくありたいと思いませんか。考えただけでぞくぞくしませんか?」
「んん……」
感情では拒否感があったが、エステルの言葉には筋が通っているように思えた。
「わたくし、生まれはちょっと行ったところにある農家なんです。チーズの醸造をしていてそれなりにゆとりのある家でした。でもわたくし、チーズが苦手だったんです。味はなんとかなるんですけどあの臭いがもう。チーズ作りの手伝いをするのが嫌で家畜小屋の掃除をやってたくらいです。子供のころからチーズ農家だけには嫁ぐまいと思っていたものです。分かります?」
「いや、うちの村はチーズ作ってなかったから」
「そうですか。とにかく、わたくしは生まれた家が嫌で嫌で、早く嫁に行って出ていきたいと思ってたんです。10歳のときでした。父がトリスタニアにつれてきてくれたんですよ。そりゃあもう興奮したものです。人間よりも家畜のほうが多いような田舎に育ったわたくしにはなにもかもが別世界でした。見るもの見るものが珍しくってきれいで」
「あ、分かる。私もこっちに出てきたばっかりのころはそんな感じだった」
「でしょう? そのときに、高級娼婦の女のひとをみたんです。真っ赤な髪のひとでした。艶やかなドレスに身を包んで、羽が舞うように歩いていました。建物とか食べ物とかいろんなものをみましたけど、その女性に釘付けになってしまって。最初は貴族さまか王女さまだと思ってしまいました。それで父に尋ねたんです、あのひとは誰って。父は仕事が終わってお酒が入っていたのでしょうね。仕事仲間のひとといっしょになって下品なジョークと仕草で彼女のことを教えてくれました。そのときはよく分かりませんでしたけど、とにかく彼女が高級娼婦という人種で、貴族でもなんでもない女性だと知ったんです。衝撃でした、自分と同じ平民でもあんなふうにきれいな服を着て優雅に振る舞えるひとがいるんだって。憧れました。そのときから高級娼婦になろうって決めたのかもしれません。父たちに自分も高級娼婦になりたいって言ったら大笑いされましたよ。なにも分かってない子供の言うことだと思ったんでしょうね」
「まあ……、ふつうはそうだろうね」
「ええ、わたくしもそのときはどうすればなれるかなんて考えてませんでした。ドレスは無理でも、歩き方だけでもまねできないかなって思って、見よう見まねで歩き方の練習したりしました。ぜんぜん上手く行かなくて、ふつうの歩き方も変にぎくしゃくしちゃったり」
「あぁ、私もお作法の稽古のあとはそんな感じだったなー」
「それからちょっとずつ高級娼婦のことを調べるようになったんですよね。買い付けにきた商人さんとか、地元の領主さまのとこの人とか、都会とのつながりのあるひとにそれとなく聞いたりして。娼婦って職の意味を知ってもわたくしの中の憧れは燃え尽きませんでした。むしろ、よりいっそう熱く燃え上がりました。なんとかしてこの家から抜け出して高級娼婦になりたいって思いました。教養が必要な仕事だと分かってからは教会に通って勉強しました。最低限の読み書きと計算さえできればいいって子たちばっかりの中で、わたくしみたいな子は珍しかったんでしょう。司祭さまも詩や歴史なんかを喜んで教えてくださいました。それで、十二歳くらいになったころに気がついたんですよね」
「なにに?」
「自分が、とっても美しいってことに」
エステルの顔には一部の照れもなかった。
「……自分からいった人初めて見た」
「だって、事実ですし。わたくしが謙遜なんかしても嫌味なだけでしょう? 『そんなことありませんわ、ザザ様のほうがずっと素敵ですわよ?』」
「うん。すっごくムカつく。それでなくても嫌味だと思うけど」
「ねたまれるのは持てる者の特権ですね。それでまあ、自分にとって高級娼婦は天職だと思ったんです。こんなに美しい自分が高級娼婦になればものすごい人気がでるに違いないって。
で、両親に相談したんです。高級娼婦になりたいって。今思えば馬鹿でしたね。両親は敬虔な教徒でしたし、そんな生き方を許してくれるはずがなかったんです。でもそのころのわたくしは、親は話せば分かってくれると思っていたんです。最初は冗談だと思われたんですけど、話すうちにわたくしが本気だって分かったんでしょう。母は大泣きして父は怒鳴ってわたくしをぶちました。わたくしもかっとなってしまって口論になりました。親はとりあってくれずに使ってなかったチーズ蔵にわたくしを閉じこめました。
わたくしだって別に、家が嫌だってだけで高級娼婦になりたかったんじゃないんです。わたくしがたくさん稼いで家族を楽にさせたいって気持ちも半分くらいはありました。それなのに頭ごなしに否定されて、頭にきちゃったんです。その晩のうちに蔵を壊して抜け出して、荷物をまとめると村を飛び出したんです。お金は少しだけ持っていたので、それでなんとか行商の馬車とかを乗り継いだりしてトリスタニアにやってきました。考えてみるとぞっとしますね。子供ひとりで、どこでどんな目にあってもおかしくありませんでした。
トリスタニアについても娼館がどこにあるか分かりませんでした。わたくしは着の身着のままで旅をしてきてほとんど浮浪児のような格好でしたし、やっぱり田舎者ですから都会で知らないひとに声をかけることができなかったんです。それでまあ、最後の手段として街を歩いていたそれらしい女性に直接声をかけたんです。娼婦にはそれと分かる符丁のような飾りものなんかがあるのですけど、そのときはそんなこと知らないからあてずっぽうでした。そのときに声をかけたのが今の娼館のひとだったんです」
「それでそのまま転がり込んだの? よく入れてくれたね」
「最初はあしらわれましたよ。浮浪児が急に高級娼婦にしてくれってわめき出せば誰でも引きますよね。それでもすがりついてお願いしてたら、哀れに思ったんでしょう。娼館までつれていってくれてお茶を飲ませてくださいました。本当のことを言えば家に追い返されると思って、適当に嘘をつきました。たぶん、子供の浅はかな嘘なんて見抜かれていたと思います。そうこうしているうちに騒ぎを聞きつけて娼館の主がやってきました。その初老の女性のことを一目見て、ここで一番えらいひとだって直感したんです。それで、そのひとに言ったんです。娼婦になりたいんですって」
「それで?」
「そのまま居着きました。浮浪児もどきでも、わたくしの美貌はそのままですからね。金になる子だってオーナーは思ったんですって。しばらくしたら出て行くかとも思ったらしいですけどね。あいにくとわたくしは姉様たちといっしょにレッスンを受けて今日こうなっています」
嬉々として自分のことを話すエステルを、ザザは不思議と受け入れてしまっていた。
ザザは最初、彼女を哀れんでいた。同い年で体を売らないといけないなんて、なんてかわいそうなんだと思っていた。
勘違いもいいところだ。エステルは哀れまれるような人間ではなかった。彼女は、自分から望んでここにいる。将来を力ずくで選択してここにいる。そんな人間を哀れむ必要はない。ザザも好きで茨の道を歩んでいるのだ。エステルを哀れむということは自分のことを否定することになる。
「……楽しそうだよね、エステルって」
「はい。とっても楽しいですよ」
欲望のままに生きる少女は、なぜだか少し照れくさそうに笑う。気を使うのももう馬鹿馬鹿しく、ざっくばらんにザザは話し出した。相手のことばかり聞くのも気が引けて、自分のことも話した。
「……娼館ってどんなこと勉強するの?」
「ふふ、ザザ様が想像しておられるようなことはあんまりないですよ」
声を潜めてお互い話す。ザザも年頃の女の子だ、こういったことには興味は尽きない。
「そうなの?」
「ええ、わたくしたちにまず求められるのは教養ですから。美しいだけではいけないんです」
やや拍子抜けしながら、エステルの話に耳を傾ける。
「ザザ様たちとあまり変わらないと思いますよ。歴史・文学・政治・話術。詩作や舞踏、楽器の演奏。カードやチェスなどの遊技も一通り」
「へえ、チェスなんかもするんだ。ちょっと意外」
「勝負ごとは贈り物の口実になりやすいですしね。殿方が『私が負ければこの大粒のルビーをあげよう』と言って指すんです。それでわざとまける。もちろん、はっきりと分からないように上品に負けるんです。それでルビーは女に贈られて、男は女の愛を手に入れる。立場が逆になることもありますけどね。中にはチェスが本当に強い娼婦って言うのもいます。寝台よりもチェス盤で語り合うことが多いって噂ですよ。そうでなくても、得意なもので売りがあると人気が出ます。たとえばオデット姉様は詩作がとても堪能で、詩集を出版したこともあるんですよ」
「詩集? すごいなあ。っていうか、政治とか歴史とかの話って、男のひと嫌がるもんだと思ってた。学院の授業でも女がその手の授業を取れるようになったのは最近だって言うし」
「男っていう種族全体ではそうなんでしょうね。でも、ひとりの個人としては自分のことを理解してくれる優れた女性が欲しいんです。服にだって、部屋で着るゆったりしたものと、よそ行きのきっちりしたものがあるでしょう? そんなものだと思います」
「どっちが部屋着で、どっちがよそ行き?」
「それは、ひとによるかと」
意地が悪い笑みを見せる。
自分の家は社会的に格好をつけるためのよそ行きで、本当にくつろげるのは愛妾の家。そんな人物もいるのだろう。その逆もまた。女性だって、サロンに若い男性を集めて恋愛ごっこをするのはよくあることだ。ザザの家はそんなに裕福ではないが、もしかすると父もどこかで妾の一人でも囲っているのだろうか。思春期のザザにはあまり考えたいことではなかった。
「そういえば、エステルはオデットさんの、付き人みたいなものなのかな?」
「ええ、そんなところです。ザザ様と同じで、勉強のためにたまにお手伝いさせてもらっています」
「ふうん……やっぱり、将来のお客に顔見せって意味もあるの?」
「いいえ。あくまで侍女として居させてもらっています。オデット姉様の愛人はみんなオデット姉様に夢中ですしね。それに、あのひとたちは今が脂がのりきってる時期ですから。わたくしがお客をとるようになるころにはもう盛りを過ぎているでしょう。今からそういうお客に目を付けられると、若い殿方は割り込めません」
「……将来性のある人を狙っているってことか」
「そんな大げさな。普通のことでしょう」
当たり前のことだ。だけど、それが何かひっかかった。自分の中に生まれた違和感を無視して、ザザは話を続ける。
「上で何を話してるか知ってる?」
「あら、ご興味が?」
「無いって言えば嘘になる」
「そんなたいしたことじゃないですよ。オデット姉様はもうすぐ仕事をお辞めになるんです。以前から懇意にしていらした宮廷医の愛妾になられるんです。それで、最後のお披露目にドレスをと相談に来られたそうですよ」
あっさりとエステルの口から語られた事実は、ザザには拍子抜けなものだった。
「なんだ。そんなこと?」
「どんなことを想像してらしたんです?」
ザザはばつが悪そうな顔をするしかなかった。エステルが苦笑する。
「だって、わざわざ私を追い出すしさ」
「あれはザザ様よりもわたくしを追い払いたかったんだと思いますよ。アナベル様はわたくしがお嫌いですから」
「そうなの? 気が合いそうなのに」
ザザの何気ないひと言はエステルのつぼに入ったらしかった。声を上げて笑われてしまった。そんなふうに笑い転げる様も可憐だった。
「いまの、アナベル様に言ったらものすごく怒られると思いますよ」
「……悪かったね。私みたいなのからすれば、君やアナベルなんかは似たように見えるんだ」
どっちもよく分からないという点では共通している。
「わたくしはザザ様とあまりに異質だからまだ分からないだけです。アナベル様は意図的に分からないようにしているんですよ」
「それは、なんとなく分かるけど」
「アナベル様は思わせぶりなことをよく仰るでしょう? ああいう物言いには、実はほとんど意味はないんです。これは娼婦の話術でもあるんですが、相手に想像させることが目的なんですよ。相手の中に都合のいい自分の姿をつくらせるんです。空想だけが勝手に大きくなって、それに相手は振り回されてくれます」
「それは……」
エステルはアナベルという魔女の魔法を解体していった。ザザの中のアナベルという偶像に杭が打たれているようだった。ザザはそれなりにアナベルのことを信頼している。自分の中に造ったアナベルを壊されるのは、恐ろしかった。
「あの人が、私を騙してるって言うの」
「そこまでは言っていません。ただ、上手く使っているというだけです。娼婦が男を色香で狂わせるように」
「私は、あの人と同じ目的を持ってるつもり、なんだけど」
「今はそうかもしれませんが、将来はどうでしょう。人は変わるものです。とくにあの方は強欲です。貴女とは違う方向に目を向けることもあるでしょう。そのときに、貴女はあの方と戦うことができますか?」
「そ、そのときにはきっと私だって」
「そのときって何時ですか? 五年後? 十年後? それまであの方にくっついているつもりですか? あの方に与えられたものが、あの方に通用するとお思いですか?」
エステルはアナベルよりずっと暴力的だった。悔しさを握った手に汗がにじむ。
「あの方は権謀術数の特化型です。なぜ、そうなったか分かりますか? 突出したものがないからです。美しさも、魔法の実力も、家柄も、財力も、全てそこそこでしかありません。だから手駒を増やし、つなぎ合わせて実際以上のものにするのがあの方の手腕です」
取り込まれているという自覚はあった。それでも、アナベルは自分を助けてくれているのだから仕方ないという思いがあった。そして、どこかでアナベルの優しさに期待している自分がいた。
エステルからすればザザの姿勢は甘えでしかないだろう。身ひとつで、娼婦になるため全てを捨てて都会に出てきた彼女からすれば。
「……なんで、そんなことを言ってくれるのかな。君には、私のことは関係ないのに」
エステルの言葉は、厳しいがザザには必要な言葉だった。初対面の彼女が、わざわざ教えてくれるのは理由があるはずだ。
「わたくしはザザ様が好きです。それだけじゃいけません?」
「君みたいな美人にそう言われるのは嬉しいけど、それでほだされるほど初心でもないつもりだよ」
「ふふ、アナベル様があまり好きじゃないってのもありますね。それに、貴女がたがどうなろうとも、わたくしには関係のないことですから」
ザザやアナベルのことを、関係ないと切り捨てる。当然のことのようにエステルは言う。
「わたくしは数年後、最高の娼婦になります。これはもう確定事項です。
トリステイン中の殿方たちがわたくしに愛と金を差し出すでしょう。わたくしはそれを貪り尽くすだけ。貴方がたが血眼になって求める権力なんかにはこれっぽっちも興味がありません。たとえザザ様がどんな力をもってわたくしを邪魔だと思っても、夜と官能の世界に居る限りわたくしは誰にも負けませんから」
可憐な唇が醜悪な言葉を吐く。
それでも、ザザは彼女を美しいと思った。姿かたちではなく、その心を。欲望以外の全てをそぎ落とした少女。それはザザにはまぶしく思えた。こんなふうに目的だけに走ることが出来れば、迷うことも振り返ることもないのだろう。
彼女はエステル。魔性の少女。幼き夜の姫君。破滅を呼ぶ悪女。愛と欲望を集めた化身。
人とのつながりを血肉とするなら、この出会いも糧にしたいとザザは思った。
帰りの馬車の中、アナベルは真っ先に聞いてきた。
「で、どうだった。あの子?」
エステルのことだ。ザザは言葉を選ぼうと思ったが、適当なものが思い浮かばなかった。
「うまく言えないけど……強烈だった」
「でしょうね」
「色々、話をしたよ。お互いのこととか、アナベルのこととか」
「苦手なのよね、あの子」
「向こうもそう言ってたよ。っていうか、私に押しつけないでくれ」
「あたしはもう無理だけど、貴女なら上手くやれるんじゃないかって思ったのよ」
同世代のエステルはザザには衝撃的だった。同い年で、あそこまで突き詰めた考えを持っている人間はこれまでいなかった。エステルから聞かされたことも、とても参考になった。関係無いと言いきれるからこその意見なんだろう。
これまで、アナベルに甘えてしまって居たんだとザザは思った。ザザの近くではいちばん権力にちかい人だったし、ザザに優しいようにも思えた。きっと、アナベルは今のままのザザでは物足りないに違いない。あとについて行くのではなく、共に歩むからこそ、パートナーと言えるのだ。
「アナベル。私、今度からこっち来るのやめるよ」
「そう? どうして?」
「学院で、今しかできないことがたくさんあるって気づいた。いや、思いだしたのかな」
エステルが気づかせてくれた、背伸びしてアナベルの手伝いをするよりも、大切なこと。
ザザが社会に出た頃、同じように活躍するのは同世代の彼らなのだ。彼らとのつながりを作るのは、アナベルには出来ないザザの仕事だろう。もしかしたら、エステルとの関係も。それに、社会勉強もたしかに大事だけど、魔法学院で得られる友人は今しかつくれないのだ。社会に出てからの関係はどうしても利害を含んでしまう。それを越えて理解しあえる関係は、この時期にしかできない。
メイド服は卒業だ。ザザが着るべきなのは魔法学院の制服だった。
「……そうね。あたしは、途中でやめちゃったから」
珍しく寂しそうな顔をアナベルが見せる。彼女は結婚して学院を去ったという。過ごせなかった学院生活。取り返せない過去。振り返ることが、彼女にもあるのだろうか。
「先輩がさ、子供の社会でうまくやれない奴は大人の社会でもダメだっていってた」
「へえ、面白い子ね。なんて言う子?」
「教えない。向こうはアナベルのこと怖がってたし」
「えー、ザザのけち」
馬車の中でふざけあう。楽しそうに笑うアナベルは、いつもよりどこか子供っぽくみえた。