ロネ家の魔女、アナベル・ド・ロネはトリステインでは有名な女である。
ロネ・ブルーを生み出した調色師は彼女の母親のマルグリットであるが、ロネ家が今日の地位を築いたのはアナベルの才覚によるところが大きい。
それまでロネ家の生地は一部の粋人には人気だったものの、現在ほどの知名度はなかった。マルグリットに商売っ気というものがまるでなく、細々と好事家たちに売っている程度だった。それに目を付けた者がいた。豪商と繋がりのあったとある子爵家である。当時十四歳だったアナベルは、二十歳上のその子爵家の次男坊と結婚させられた。ロネ家の布地は金になると、家ごと取り込もうとしたのである。
当初は子爵家の狙いどおりとなった。ロネ家の生地は豪商を通じて売り出され、子爵家の懐を順調に潤させた。だがこの数年後、子爵家は没落の一途を辿ることになる。
アナベルはロネ家の生地を宣伝するという名目であちこちの社交の場に出かけていた。アナベルは蜂蜜色の髪をもったそれは美しい娘だったので、夫もそれを快く許した。金づるになってくれた嫁に遊び場を与えるくらいの感覚だったのだ。
アナベルは社交界で次々と高位貴族に接近した。ロネ家の布地で作ったドレス・たぐいまれなる美貌をエサに男女問わず貴族たちを引き寄せ、巧みな話術でその心をつかんでいった。いつのまにか、ロネ家の生地を売っているのはあくまでアナベルであるという印象が作られていた。そして生地を売らせていた豪商をも取り込んで、流通経路を自分のものとしてしまった。それはちょっと小金をもっているだけの子爵家とは比べものにならないくらい巧みで、そして悪辣だった。
子爵家はそんなことにはまるで気がつかなかった。二十歳にもならない小娘が、魔女のような手練手管で自分たちの手足をもいでいるなど思いも寄らなかったのだ。アナベルはそれをいいことに、子爵家に金を出させて高価な染料の素材を買い込ませ、紡績工場や倉庫をいくつも造らせた。もちろんロネ家の名義でだ。気づいた頃にはもう遅く、子爵家が持っていた利権と財産のほとんどがアナベルによってむしり取られていた。今では子爵家はアナベルにあごで使われる御用聞きと成り下がっている。
クラウディアの母親はそんな女性だった。
ロネ家の息女と友人になって家に招待されたと言うと、ザザの父はたいそう喜んだ。ロネ家はヴァリエール領内でも指折りの富豪である。近づいておいて損はない家だ。
ザザはお土産をたくさん持たされた。王都育ちの父はこういうときのセンスは良かった。高価ではなくとも、きれいなもの・かわいいもの・おいしいもの。女性の喜びそうな流行の品物を選んでいた。いちおう領主はアナベルの夫なのだが、ロネ家が事実上アナベルのものなのは誰の目にも明らかだった。
ザザの家からロネ家まではけっこう遠い。同じヴァリエール領とはいえ、ほとんど反対側だ。ザザは家を出て四日、予定よりも一日早くロネ家の屋敷に着いた。
クラウディアの家は思っていたよりも普通だった。ザザの家よりも少しだけ大きくて調度品に金がかかっている感じはしたけど、噂に聞いていたような富豪の屋敷には見えなかった。
ザザはアナベルによって出迎えられた。ザザは最初目の前の金髪の美女がクラウディアの母親だとは思わなかった。アナベルはせいぜい二十代半ばくらいにしか見えなかったし、末っ子のザザにとっては『母』とはもっと年老いた女性の印象があった。
「ごめんなさいね。娘は街に行ってしまって。貴女にあげるドレスを取りに行くんだって」
「いえ、いいんですよ。私も早く着きすぎてしまったみた……え、娘?」
「あらあら、そういえば名乗っていなかったわね。失礼したわ。わたしはアナベル。クラウディアの母親です」
アナベルは十五歳でクラウディアを産んでおり、まだ三十を越えたばかりだった。それにしても若い。容姿もそうだが言動の端々にあふれ出る快活さが、彼女をいっそう若く見せていた。
「あの子が帰ってくるまでお茶でもどう? 疲れたでしょうから足湯と冷たいものも用意させるわね。学院でのお話とか聞かせてちょうだい」
アナベルに連れられてバルコニーに向かう。バルコニーにはよく冷えた果実酒と果物、ハーブをたっぷりつかった足湯が用意されていた。クラウディアから聞いたのか、果物もハーブもザザが好きなものばかり。こういう気配りの細やかさに、この家の豊かさが現れていた。靴をぬいで湯に足をひたしていると、ザザは初めて訪れる家とは思えないくらいくつろいでいた。アナベルが学院でのことをあれこれ聞いてきて、いつの間にか話が弾む。
「ふふ、あなたって面白い子ね。あの子が言っていたよりもずっと楽しい子だわ」
「クラウディアは私のことをなんて言ってました?」
「あの子は話がヘタだから。かっこいいとかきれいとか言うばっかりでぜんぜん分からないのよ」
「あはは」
アナベルは魔女という風聞がまるで似合わない女性だった。母親というよりはまるで姉のように親しみやすい人だ。ちょっと強引なところがあるけれど、それも含めてとても魅力的な人だとザザは思った。魔女だのなんだのという噂も、この人の美しさとロネ家の成功を妬んでの噂なのかもしれない。
すっかり打ち解けてきたころ、アナベルがこんなことを言い出した。
「ねえ、ザザって呼んでいいかしら。あたしのこともアナベルって呼んでいいわ」
「え? あの……でも、その……」
さすがに友人の母親を呼び捨てにするのは気が引ける。
「あら、嫌なの? じゃあ、ザザはあたしのことをなんて呼ぶつもりなのかしら? まさか、おばさんとでも呼ぶつもりじゃあないでしょうね」
初めて会ったとき、ルイズともこんな会話をした。ザザとルイズがゆっくりと時間をかけて歩み寄った距離を、この女性はずかずかと大股で踏み込んでくるのだ。ルイズとの間にあった身分の差という壁よりも、ある意味高いはずの年齢の差があるというのに。
「あの。じゃあ、アナベルさんで……」
「ええ。今はそれで許してあげる。でも……」
アナベルは立ち上がり、ザザに近寄ってきた。薄絹の手袋をするりとはずして、まっしろな手でザザの頬に触れてくる。
「帰るころには、アナベルって呼んでると思うわよ」
「え? え?」
足湯に浸かるために靴を脱いでいるザザは逃げられない。首筋を撫でる手を振り払おうとしたが、逆にその手をとって指を絡めとられてしまう。薄桃色の唇が耳元でつぶやく。吐息とともに言葉が肌をなでる。
「きれいな瞳……貴女みたいな子、好きよ」
スカイブルーの瞳がじっと見つめてくる。自分と同じ年の子供がいるとは思えない、少女のような無垢な瞳。香り立つサンダルウッドの香水。かぎなれない香りに頭がくらくらとふらつく。
「あ、あの……」
「赤くなっちゃって。可愛いところもあるのね」
ザザの手に、アナベルがそっと頬ずりをする。肌に味覚ができたみたいだった。アナベルに触れられるたびに、痺れるような甘い感覚が伝わってくる。甘い。とろけるように甘い。この甘美さに、もっとふれてみたい。
「お母さま! 何をやっているんですか!」
その声で、ザザは我に返った。見れば、バルコニーの入り口でクラウディアが真っ赤になって怒っている。
「あら、おかえりなさい。ちょっとご挨拶をしていただけよ。ね、ザザ?」
「えっと、あの」
「ふふふ。夕食のときにまたお会いしましょ、じゃあね、ザザ」
アナベルはそう言って去っていった。バルコニーには官能的なサンダルウッドの香りだけが残った。
「すみませんザザさん。母が失礼なことを……」
「う、うん……なんか、すごい人だね」
ザザはクラウディアに渡されたタオルで足を拭く。
「あの人はいっつもああなんです。気に入ったら男の人でも女の人でも見境なく……」
これまでにも色々あったらしく、クラウディアはブツブツと何ごとかつぶやいている。
ザザは学院でのうわさ話を思い出した。クラウディアの家はここ十年ほどで財をなした『成り上がり』なので、やっかむ声も多い。その手段もあくどいものが多かったから、クラウディアを悪し様に言う声も聞こえてくる。ザザもそういった声を耳にすることが多かった。その中でも許せなかったのが『ロネ家の姉妹は父親が違う』というものだった。ロネ家の成功をやっかんだ根も葉もないでたらめだと思っていたが、アナベルがいつもあんなことをしているのなら、そんな噂が立つのも仕方がないのかもしれない。
クラウディアは、そんな家の評判を気にしていつもびくびくしている。お茶会でも、クラスメイトとのつきあいでも。
「……クラウディア? 今日の私はいちおうお客様なんだけど?」
靴をはき直したザザは立ち上がってそう言った。うつむいていたクラウディアははっと顔を上げる。
「そ、そうでしたわ。失礼しました。ザザさんのために色々準備していたんですよ」
「私も、ウチで造ってるシードルたっくさん持ってきたんだ。寮ではあんまり飲めないし、夏休みくらいはとことん飲もう」
「うふふ。楽しみです。あんまりたくさん飲んだことないので手加減してくださいね」
クラウディアは屋敷や庭園の中をいろいろ案内してくれた。
庭園には大きな温室があって、染料に使うための植物がいっぱい栽培されていた。その隣にあった調色の実験小屋にも入れてもらったが薬品のあまりの匂いにすぐに出てきてしまった。クラウディアはそれが落ち着くというのだから、育った環境というのは恐ろしいものだ。
領主である父親にも挨拶をしようと思ったのだが、なんでもクラウディアの父親は仕事で王都の屋敷に住んでいて滅多に帰って来ないのだそうだ。仕事というのは建前で、結局の所は別居なのだろう。祖母と祖父は少し離れた別邸に住んでいるそうだ。
庭園にある小さなガゼボでお茶を飲んでいると、女の子がふたり木陰からこっちを見ているのを見つけた。茶髪とくすんだ金髪で、どちらもクラウディアによく似ている。すぐに妹だと分かった。クラウディアは妹を追い払おうとしたが、ザザはそれを呼び止めた。ザザも末っ子で、兄や姉に遊びに混ぜてもらえないととても寂しかったのだ。
上の妹がコレットで十二歳、下の妹がニコールで九歳。コレットは背伸びをしたい年頃らしく、たどたどしい貴族言葉で話そうとするのが可愛かった。ザザもこんな年頃には自分なりに大人のまねをしていろいろ失敗をしたものだ。
それ以上に面白かったのがクラウディアだった。世間の大多数の兄や姉と同じく、クラウディアも妹たちにはまるで君主のように接していた。いばっているクラウディアというのがとても珍しく、ザザが思わず笑ってしまうとクラウディアは真っ赤になって怒った。
そして夕食の前に、ザザはクラウディアからドレスを贈られた。
独特の光沢が美しいロネ・ブルー。ロネ家お抱えの仕立屋とデザイナーが造ったということで意匠も一級品だ。これ一着でザザの数年分の小遣いが軽く消える値段である。
ザザは三つ編みをほどき、家から連れてきた使用人に髪を結ってもらう。そして贈られたドレスを着て、夕食の席に出ていった。
「ど、どうかな?」
ドレスは身体にフィットしたシンプルなデザインのものだった。ザザの長身と体型、そしてドレスの生地の美しさがもっとも映える形だ。
「とってもお似合いです! 思っていた通り、ザザさんにはそういうデザインが似合いますわ!」
クラウディアが興奮してザザを前から後ろからジロジロと見つめる。それをまねをして下の妹のニコールもザザのまわりをちょこちょことしていた。
「あ、あんまり見ないで」
肩から背中が大胆に開いているのだ。髪を結い上げているので背中が丸見えで落ち着かない。今日は女性ばかりだから別に大丈夫だけど、男性がいる場で着るのは勇気が要りそうだ。
夕食会と言っても、出ているのはアナベルとクラウディアたち姉妹、そしてザザだけの簡単なものだ。ザザのドレスの試着を兼ねたお遊びのようなもので、堅苦しいものではない。
「ふふ。きれいね、ザザ。そのドレスなら派手めのアクセサリーの方が映えそうだわ。ほら、あなたたち。ザザが困っているでしょう? 早くお座りなさい」
アナベルが娘たちを座らせる。彼女のドレスは白地の地味なものだ。この女性には似つかわしくないかもしれないが、これは招待側としてのマナーだった。今日はザザが主役の夕食会だ。ザザの着るロネ・ブルーを美しく見せるために、アナベルやクラウディアたちは比較的地味なドレスを着ていた。
夕食会は和やかに進んだ。アナベルはとても話し上手の聞き上手で、彼女と話していると自分まで話が上手くなったように思える。ザザとクラウディアの学院での話を中心に、話はとても盛り上がった。
ただ、クラウディアは母親がザザのことを呼び捨てにするのが嫌なようだ。夕食のあと、着替えてクラウディアの部屋でお酒を飲んだのだが、クラウディアは酔うとずっとアナベルの愚痴ばかり言っていた。なれなれしいだの、あの人のせいでわたくしが苦労するだの。悪い酒だなと思いつつ、ザザは友だちの話に耳を傾けていた。
ザザは一週間ほどロネ家に滞在した。クラウディアが家の生地をつかってドレスに合わせるための手袋を作ってくれたり、コレットとニコールたちに勉強を教えたりして過ごしていた。
実家に帰る前夜。ザザは与えられた客間で帰り支度をしていた。クラウディアの意外な一面が見られたし、コレットやニコールとも仲良くなれた。次の休みには、ザザの実家にクラウディアを招待しようか。そんなことを考えていると、部屋のドアがノックされた。
ドアを開けると、そこにはアナベルが立っていた。ゆったりとした寝間着姿だ。手にはグラスが二つとワインのボトルを持っている。
「こんばんは、ザザ。ちょっと、お話しない?」
「え……えっと」
最初に会ったときのことが思い出され、ザザは顔を赤くして後ずさった。
「ふふ。とって食べたりはしないわよ、ちょっと渡したいものがあるだけだから。それにクラウディアったら貴女を独占しちゃって、ちっともあたしと話させてくれないんだもの」
そういうとアナベルは部屋に入ってきた。後ろには使用人が大きな箱をいくつか持ってきている。使用人は化粧台の上に箱を置くと、足早に部屋から出て行った。
「開けてみて」
ソファに座ったアナベルが言う。言うとおりに箱のひとつを開けると、中にはドレスが一着入っていた。夕食のときに着たのとは違う、シックな装いの黒いドレス。もう一つの箱には、スミレのような鮮やかな紫のドレス。他にも、ショールや扇子など、ドレスに合わせる小物が入った箱もあった。そのどれもがロネ家の高級生地を使った一品だった。
「あたしからよ。遠慮せずに受け取って」
「い、頂けません」
ヘタをすれば下級貴族の年収を超えるものだ。簡単に受け取れるはずがない。
「気にしなくていいのよ。このくらいはあたしにはたいしたものじゃないし、貴女への親愛の証だと思って?」
「だ、だめですよ。ここまでして頂く理由がありません」
その答えに、アナベルは楽しそうな笑みを浮かべた。
「どうして? 貴女はクラウディアを助けてくれた。その対価だと思えばいいんじゃない?」
「……あれは、私が私の戦いをしただけです。それに、私は対価を得るために友だちをたすけたりしません」
「ふふ、ふふふ。良い! 良いわよ貴女、予想以上だわ」
アナベルは本当に楽しそうに笑う。ザザはその姿に、初めて会ったときの蠱惑的な怪しさとは別の何かを感じた。
ふたつのグラスにワインが注がれる。チョコレートも一緒に用意されていた。
「お座りなさい、ザザ。あたしは考えを変えたわ。ちゃんと貴女に理由を教えてあげる」
「……はい」
アナベルの隣のソファに座る。
「どこから話したものかしら……そうだ。貴女たち、ヴァリエール家の子と仲が良いんだっけ? あそこが三姉妹なのは知っているわね。ヴァリエール家はトリステインでも最も大きな家の一つよ。そして、我らがトリステインの王家、次代の世継ぎはアンリエッタ姫殿下しか今のところいないわ。しかもその前はマリアンヌ様。我らが王家は女系が続いている。これがどういうことか分かる?」
「え? いや、何の関係があるんですか?」
急にトリステインの貴族事情を話されても、さっきの話と何の関係があるのだろうか。
「関係は大ありよ、ザザ。この国の次代の人材で、身分が高い人を上から見てみると女性がとっても多いの。これが何を意味すると思う?」
「えっと、家の相続が面倒になりそうだとしか」
「そうね、女じゃ領主になれない。だからよそから男を連れてこないといけない。この国のほとんどの人がそう考えるわ。でもね、ザザ。あたしは違う考えを持っているの」
熱っぽく語るアナベルは普段よりももっと美しく見えた。蝋燭の明かりに、蜂蜜色の金髪があでやかに照らされている。アナベルはひとくちグラスに口をつける。
「女の時代が来るのよ、ザザ。女が王に、議員に、領主になって、家から出て意見を言うようになるの。今でもマリアンヌ様を王にとの声は強いわ。アンリエッタ様が即位なさるようなことがあれば、時勢は一気に傾くでしょうね。ロネ家の次の当主は娘たちの誰かになるかもしれないわ」
まだザザには話が見えなかった。女性の権利が拡大したとして、それがザザのドレスに何の関係があるのだろうか。
「ふふ、まだ分からないって顔してるわね。もう少しよ。女が社会に出るようになるとどうなると思う?」
「服……ですか? よそ行きの服がもっと必要になって、ロネ家の生地がどんどん売れるってことですか?」
ザザは話の流れからそう答えた。
「その通りよ。トリステイン中の女性がロネ家の布地を欲しがり、女王がロネ家の布地で着飾って公の舞台にたてば、王室御用達の印章を貰うことだってできるでしょう。そうなれば、公爵領から独立することだってできるわ。まあ、これは予想というよりは夢っていった方がいいかもね」
「むしろ野望って言った方がしっくりきますね」
王室御用達の印章はこのトリステインでは重いものだ。王家に献上したことがあるとか、王族が利用したことがあるとか、それだけで与えられるものではない。王室の名を与えるにふさわしい実績と品格があって初めて与えられる。
もしロネ家が王室御用達の印章を受ければ、今日ザザが貰ったロネ・ブルーの価値はさらに上がるだろう。そうなれば公爵領から独立というのもあながち夢物語ではなくなる。
アナベルには夢があるのだ。夢があって、そのために生きているから、こんな風に若々しく見えるのだろう。
ザザはアナベルの過去を思いだした。彼女は二十も上の夫と家の事情で結婚させられたのだ。彼女の夢は、そんな過去から来ているものなのだろうか。
ザザはワインをひとくち飲んだ。苦手なドライワインだったので思わず顔をしかめる。それを見たアナベルが笑った。
「こういうワインは苦手かしら? チョコレートを一緒に食べると、美味しいわよ」
そう言って、アナベルはチョコをつまんでザザの口に近づけてくる。ザザは顔を赤らめてそれを手で押しのけた。
「ふふ、残念」
「……と、ところで、さっきの話と私のドレスとまだ話が繋がってないと思うんですけど」
「さっきのはあたしの理想。理想を実現するには現実的な手段が必要なの。それが貴女よ、ザザ」
ザザはちびちびとワインをなめながらアナベルの話を聞いた。アナベルは結論を後回しにしてザザに考えさせようとしていると分かった。
「貴女は学院で人気があるでしょう? それは何故だか分かる?」
「面白がってるだけですよ、みんな」
「ある意味それは真理ね。貴女は他の子と違うから目立つ。ヴァリエールのお嬢さまも同じだけど、彼女ともまた貴女は違う。彼女はみんながもっていないものを持っているから目立つ。貴女は他の子が出来ないことが出来るから目立つ」
「他の子が出来ないことって?」
「男に逆らうことよ」
たしかにザザは気に入らない男子生徒をぶっ飛ばしたことがある。しかし、男子生徒にものを言うくらいは誰でもやっていると思う。
「違うわ。他の女の子たちがやっていることは、飼い猫がちょっと手をひっかいたり、カゴの鳥がうるさくさえずるのと変わらないわ。許された範囲で騒いでいるにすぎない。男からみればダダをこねる子供と変わりないわ。男と対等にケンカをするなんて、普通の女にはできないのよ、ザザ」
「……それが、貴女の言う理想?」
「そう思ってくれてもいいわ」
「私が着飾ってきれいにしていれば、みんなは私の意見を肯定的に見ると?」
「目立つ貴女のことを理解しようとするでしょう。何人かは、貴女と同じようなことが出来るようになるかもしれない。そういう子が増えれば、時代が変わる下地になる」
「大きな夢の割りに、地味な下準備ですね」
「夢とは現実の積み重ねのことよ、ザザ。それに」
「それに?」
「貴女が学院でドレスを着てくれれば、それだけでロネ家の宣伝になるしね。地味で背の低いうちの娘じゃあこうはいかないわ」
アナベルがくすくすと笑う。ザザは苦笑するしかなかった。
「どう? あたしのやりたいことが理解できた?」
「貴女が、夢見がちな現実主義者なのは分かりました。でも、私が貴女と同じ夢を見れるかどうかは別なんじゃないですか?」
「あら、意外なことを言うのね」
「これでも私は乙女なんですよ。貴女の夢も魅力的だけど、男の子に尽くして良き妻、良き母になるというような夢も、悪くないと思っています」
「ふぅん……じゃあ、やりたくなる理由を一個追加してあげましょう」
「はい?」
アナベルはそう言うと、チョコをひとつ手に取った。
「このチョコレート、貴女がお父さまから持たされたお土産ね。あの方は相変わらずこういうところはソツがないわ。その他はてんでダメだけど」
「父が、何か?」
「知ってる? もしかすると貴女は、クラウディアのことを姉と呼んでいたかもしれないのよ?」
その言葉の意味をしばらく考えて、ザザは顔をしかめた。ザザには二人兄がいる。片方は家を継ぐが、下の兄はそうはいかない。ザザと同じように他の家に政略結婚のあてを探して、父は色々と画策しているのだ。その一つにロネ家もあったということだ。
「うわぁ嫌な話聞いた……」
「そんな話はすぐに蹴り飛ばしてやったけどね。貴女には悪いけど、ベルマディ家にはそんな利点は無かったし」
「でしょうね……よかった」
ザザは下の兄があんまり好きではないので、クラウディアとの結婚はあまり見たいものではない。
だが、すぐにアナベルが続ける。
「でも。貴女みたいな子が親戚になるなら、考えてもいいかもね。コレットやニコールも居るんだから、そっちをあげても良いし」
「じょ、冗談でしょう?」
ザザのためにわざわざ娘の一人を使うなど、この女性がするとは思えない。
「今のところは冗談だけど、そういう選択肢もあるという話よ。さ、ザザ。お返事は?」
「……貴女は、そういうことが嫌いで世の中を変えたいんじゃないんですか?」
政略結婚のような、家の事情に縛られることはさっきの話と矛盾しないだろうか。
「政略結婚で嫌な思いをするのは女だけだと思ったらそれは思い上がりというものね。それにあたしは女を守りたいんじゃないわ。権利を与えたいだけ。時代が変わろうと場所が変わろうと、男だろうと女だろうと、力のない子は利用されるしかないのよ」
アナベルの言葉は、強い言葉だ。理想を伴う強い言葉。ザザの中には共感と反発が同時にあった。だが、共感している自分も反発している自分も、アナベルの行為を否定は出来なかった。むしろ憧憬があった。自分のやりたいことを貫けるその姿勢に。
それでもザザが言葉を濁していると、アナベルは立ち上がってザザの方に近づいてきた。ザザを覆うように、ソファにもたれかかる。
「今から貴女を押し倒してあたしのものにしちゃおうかしら? そうすれば、あたしの言うことをなんでも聞いちゃうようになるだろうし」
「え……うわ……」
いつの間にか手が絡めとられていた。足の間にアナベルの足が割り込んでくる。足を閉じようとしてもどいてくれない。ワインとチョコレートの香りにまじって、アナベルの甘い体臭が香ってくる。
絡め取られていた右手から、アナベルの指がゆっくりと腕をなめるように登ってくる。首筋につめたい指がふれたときには、ザザの心臓はもう破れそうなくらい早鐘をうっていた。
「抵抗しないってことは、期待しているの?」
アナベルがザザの指を口に含んだ。アナベルの唾液が絡みつき、舌が生き物のようにザザの指をなめ回す。まるで指が溶けていくような感覚。たまらずにザザは叫んだ。
「わ、分かりました。分かりましたから、もう勘弁してください!」
「あら、ここからがいいところじゃないの」
そう言いつつ、アナベルはザザから離れてくれた。どこまでが本気か分からない。
ザザは頭を落ち着かせようとワインを飲み干す。ワインの辛味が、頭をすっきりとさせてくれる。
「良かった、引き受けてくれて。アクセサリーは自分で選びなさい。安くてもいいからドレスに合うものを探すのは楽しいわよ? 宝石には想いが宿るの。それは値段には変えられないものよ」
「……そういえば、クラウディアにボーイフレンドがいるって知ってます? 宝飾職人の家系なんですよ」
「あら? それは初耳ね。ちょっと詳しく聞こうかしら」
アナベルが母親の顔になって食いついてきた。ザザは自分が助かるために友だちを売ったことを心の中で詫びた。
ひとしきり話したあと、アナベルは言った。
「……ザザ、あの子をお願いね。あたしにあんまり似ないで気の弱い子だから」
「クラウディアはけっこうしっかりしてますよ。私なんかよりもずっと」
「ふふ。貴女がそういうなら安心ね。それじゃ、そろそろおいとましようかしら」
アナベルは立ち上がってドアに向かった。ザザも見送ろうとそれに続く。扉を開けようとしたとき、不意にアナベルがこちらを振り向いて抱きついてきた。唇が触れあい、わずかにチョコレートの味が口に広がる。
「おやすみ、ザザ。明日から馬車なんだから、早く寝るのよ」
悪戯っぽく笑うと、部屋から出ていってしまった。
さすがに、しばらく眠れなかった。