孤島のようだ。
馬車の窓から見た魔法学院はそんなふうに見えた。
どこまでも続くと思えた草原に、ぽつんと出てきた巨大な建物。土地なんかいくらでもあるだろうに、わざわざあんなに高く造っている。貴族の子女を預かる学舎は立派なものでなければならないからだろう。
くだらない見栄だ。ザザは鼻で笑い、持っていた本に視線を落とした。
ザザ・ド・ベルマディは田舎貴族の末娘として生まれた。ちっぽけな領地しか持たない辺境の貴族など、そこらにいる豪農と対して差はない。名前にありがたい額縁がついているかそうでないかの違いだ。ザザもまた、貴族というよりはただの田舎娘として育った。貴族としての教育やメイジの訓練も受けていたが、それが終わると近所の平民の子供たちとどろんこになって遊んだ。春には種をまき、夏には家畜の世話をし、秋には鎌をもって収穫を手伝い、冬には森に入って薪を拾った。
そんな家風の中で、入り婿である父だけが違っていた。トリスタニアの都会育ちだったザザの父は、泥臭い畑仕事によりつこうともしなかった。中央での華やかな暮らしが忘れられず、領地の経営もそこそこに社交にばかり出かけていた。たまに帰ってくると、平民の子供と一緒になって遊んでいるザザに顔をしかめはしたものの、入り婿という立場からか厳しく言うことはなかった。貴族の親子などそんなものなのかもしれないが、幼いザザが留守がちな父親を『親』として認識するようになるには時間がかかった。
親子の間には決して崩れない壁があった。母との距離が近かった分、その壁は明確なものだった。それでも、ザザは父を尊敬していた。お父さまは公爵さまや王さまのところによく出かけるえらいひとなのだと思っていた。それは平民の子供が描くお姫さまや王子さまのようなもので、現実を知らないから見れる夢だった。
十二才のときだった。公爵家主催の園遊会が開かれた。少女という生き物になりつつあったザザはこれに行きたくてしかたなかった。何度も父に連れて行ってくれとせがんだ。外で遊ぶことを控えてお作法のお稽古をまじめにうけた。やがて父も折れ、あまりワガママを言わない末の娘の願いを聞き入れてくれた。
ザザはおおはしゃぎして、友達にたくさん自慢をした。お父さまにえんゆうかいにつれていってもらうんだ、きれいなドレスを着て、おいしいものをたくさん食べるんだと。友達はみんなうらやましがって、ザザは自分が貴族だと初めて実感した気分だった。
園遊会に向かう道すがら、父と二人の兄は口ずっぱくザザに注意をした。貴族の子女として恥ずかしくない振る舞いをしろ、公爵家はもちろん他の家の方々に粗相のないようにしろ。そんな小言が延々と続いた。園遊会でも、下の兄がザザを見張るようにずっとついていた。公爵家には同い年の女の子がいると聞いていたのでお話をしてみたかったのに、許してくれなかった。
いろいろと不満だったけれど料理はおいしかったし、きれいな衣装や音楽で彩られた園遊会は、まるでおとぎ話のように華やかだった。こんなところにいつも来ているお父さまはやっぱりえらいひとで、その人の娘であることが誇らしく思えた。
だが、それはやはり子供の描く夢でしかない。貴族にとって社交の場に出るということはひとつの節目で、大人になる過程のひとつだ。社交というのは貴族の仕事の一部であり、どうしようもないほどの現実なのだ。
ザザは自分の父親の姿を見た。家では尊大に振る舞っている父が、公爵の取り巻きとしてへりくだった態度をとっていた。幼いザザには理解できなかったが、その園遊会には公爵家の長女も参加していた。貴族達は次代の公爵家の長の座を狙い、自分や息子を売り込むのに必死だったのだ。ザザの父もまた、息子を公爵令嬢の夫に据えようと躍起だった。だが、田舎貴族で立場も弱い父たちが、そうそう公爵令嬢の側に近づけるものではない。他の貴族に押しのけられ公爵令嬢に近づけずにいた。その姿は子供の目にも分かるほどみっともないものだった。
別に父が悪いわけではない。あれは父なりに貴族としてのつとめを果たそうとしていたのだ。しかし、その日を境にザザはちょっとだけ世界を斜めに見るようになった。無条件に信じてきた父や家庭教師の言葉を疑うようになった。平民の友達の中で、貴族である自分に気を使っている子を見分けられるようになった。それは、ザザにとってはあまり幸せなことではなかった。
家を出てから十日。がたがたと揺れる馬車にも慣れてきたころ、ようやくその建物は見えてきた。田舎娘であるザザにとって、こんな遠くにまでやってきたのは初めての経験だった。
今回の魔法学院行きでも、父は口ずっぱくザザに注意をした。大貴族の子女に失礼のないようにしろ、馬鹿な男に引っかかるな、無駄遣いはするな、などなど。中でも、同級生になるという公爵家の三女とは仲良くなっておけと念入りに言われた。園遊会のときの父のように、へらへらと笑って公爵家のご機嫌取りをしてこいということだ。汚らわしい大人の仲間入りをするようでいい気はしなかった。
十五才になったザザはすらりとした痩身の少女になっていた。暗めの青髪は束ねて一本の三つ編みにまとめてある。いかにも田舎娘といった風情だが、ザザのクセ毛ではこれ以外の選択肢はなかった。村の中では一番の器量よしだと言われたが、ザザ自身は都会に出れば自分くらいの娘はいくらでもいると思っていた。父親はザザをどこかの有力貴族に嫁がせようと色々とやっているらしい。魔法学院で変な男に引っかからないかと気が気ではないようだ。
成長してしがらみが増えた。それでも、家を出て新しい生活を始めるのは楽しみだった。口うるさい父も、意地悪な兄もいない新しい世界。期待をふくらませて、ザザは足取りも軽やかに馬車から降りた。
「あぁ、ザザお嬢さま。それはあっしが持ちますんで」
荷物を下ろそうとしていたところを、家からついてきてくれた使用人のアランに止められた。
「これくらい持てるわよ。来るときだってずっと私が持っていたじゃない」
「そのぅ、旦那さまから言いつけられておりまして。ほら、お嬢さまも出発のときに言われておったでしょう?」
「……そう言えば、そうだったわね」
淑女らしく重いものを持つなということだ。そんな見栄をはっても、農作業を手伝ってマメだらけの手は隠せるものではないというのに。考えて見れば、家で一番良い馬車を用意してくれたのも、使用人がいつになくちゃんとした服を着ているのも、同じ見栄のためだろう。恥をかかないようにと思ってのことだろうが、安っぽい虚栄心がザザにはむしろ恥ずかしかった。
ついてきてくれたアランは、幼い頃から面倒をみてくれた初老の男だった。何かと家を空けることが多い父よりも、ザザにとってはよほど身近な存在だ。そんな彼を困らせるのも悪いと思い、ザザは大人しくこの場に居ない父の望み通りにふるまった。
簡単な手続きが終わると、寮監だという女性が女子寮まで案内してくれた。白髪交じりの髪をまとめた目つきのきつい、典型的なオールドミスといった風情の女性だ。道中、寮生活における決まり事をこれでもかというほど聞かされた。
「魔法学院では生徒の自主性を重んじております。講義の選択などもそうですが、寮生活においても同じことが言えます。ご実家ではどうだったかは存じませんが、ここでは自分のことは自分でやっていただくことになります。使用人はあくまで学院の使用人であり、生徒のものではないということを理解してください。わかりますね?」
女子寮に入る前に、寮監はザザの後ろについてきていたアランを見てそう言った。そらみたことかと、ザザはばつの悪い思いをしながら、アランから荷物を受け取った。
「アラン。ここまででいいわ」
「へえ、お嬢さま。どうかお体に気をつけてください」
「ありがとう。アランも元気で。お母さまやお爺さまによろしくね。落ち着いたら手紙を書くわ」
なじみの使用人に別れを告げ、新しい住まいとなる女子寮に入った。寮は立派なもので、むしろ実家の屋敷よりも快適そうだ。寮の中の案内が一通り終わると、寮監から自室の鍵が手渡された。
「貴女の部屋は二人部屋になります。ルームメイトは一足先に入っていますから、分からないことがあれば彼女に聞きなさい」
「分かりました」
「部屋替えはよほどのことがないかぎり行いませんので、ルームメイトとは仲良くね」
「はい。私は同じ年頃の貴族とはあまり付き合ったことがないので、少し不安ではありますけど、楽しみでもあります」
「よろしい」
教えられた部屋はすぐに見つかった。戸を叩くと、一人の女生徒が出てきた。栗色の髪をした、そばかすの多い子だった。
「ザザ・ド・ベルマディさんかしら?」
「ええ。あなたは?」
「クラウディアです。クラウディア・ド・ロネ」
「よろしく、クラウディア。……中に入っても?」
「あら、ごめんなさい。どうぞ」
部屋は思っていたよりもずっと広かった。二人部屋だということを差し引いても、実家のザザの自室よりもずっと広い。両側にベッドとクローゼット、机が一揃え置いてある。左側がクラウディアのスペースらしく、雑貨や絨毯などで彩られていた。まだ色のついていない右側がザザの場所になるようだ。
荷物を置き、ベッドに腰掛けるとどっと疲れが出てきた。自分では体力があるつもりだったが、見知らぬ土地で思ったよりも疲れが溜まっていたらしい。軽い眠気を振り切って、ザザは荷ほどきをはじめた。
クローゼットにわずかな私服を詰め込んでいると、クラウディアが話しかけてきた。
「ベルマディ家の方なら、わたしのことをご存じかしら?」
知らないはずはないだろう、そう言いたげな物言いだった。
(やれやれ)
心中で嘆息する。どこにでもいる手合いだ。人間関係で上下をはっきりさせないと気が済まない。平民にもそういったのはいくらでもいる。貴族の子供なら、親の真似をして権力ごっこがしたくなるのも普通なのだろう。
「田舎育ちなもので世事には疎くてね……。でも、ロネ家のことは知っているよ。父からも聞かされている」
ヴァリエール公爵領ではそこそこに大きな家だ。ザザの父がおべっかを使っている相手の一人である。クラウディアの居丈高な態度は、ザザのことを明かに「格下」と見ているものだった。
「……そうですか。まあ、お互いのことはこれからゆっくり知っていけばよろしいですわね」
「そうだね。よろしく、クラウディア」
「ええ、よろしくお願いしますわ。ザザさん」
ザザの物言いが気にくわなかったのか、クラウディアの表情に少し不快さが表れる。しかしすぐにそれを消して、にこやかに笑って見せた。ザザもまた、不快感を腹の奥に押し込めて笑顔をつくる。
ある程度荷ほどきが終わると、クラウディアがお茶を入れてくれた。実家から持ってきた良い葉だとかなんとかいう自慢は鬱陶しかったが、疲れた身体に熱いお茶はありがたかった。
「そういえば、ヴァリエールのお嬢さまが同級生にいるんだって? もう寮に入っているのかな」
「ああ、ルイズ様ですね。まだいらしていませんが、そろそろ入寮されると聞いていますわ」
「ふうん……。クラウディアは会ったことあるの?」
昔一度だけ遠目に見た公爵令嬢の姿を思い浮かべる。
「もちろんですわ」
クラウディアは誇らしげに胸を張ってみせた。
「私はロネ家の長女として、小さい頃から社交の場に出ておりますから。ルイズ様とも大変親しくさせていただいていますわ」
「そうなんだ。どんな人?」
「大変お美しい方ですわ。桃色がかった金髪がとてもお綺麗で、羨ましいくらいです。ルイズ様がいらしたら、ザザさんのことも紹介してあげますね。同じヴァリエール領の仲間ですもの、みんなで仲良くしましょう」
「あー、その、ええと……。大貴族の方には縁がなかったから、正直どう接して良いかよく分からないんだ」
「まあまあまあ! そんなことを気になさっていたの? ザザさんは堅く考えすぎですわ。普通にしていれば大丈夫です。ルイズさまも大変きさくな方ですわよ」
学内で“ヴァリエール派”のような派閥に組み込まれるのは嫌だったのだが、ルームメイトと波風を立てるのはもっと面倒だ。実際、クラウディアも善意から交流を深めようと思っているのだ。あくまで自分が上の立場でという前提はあるが。
「そうだね。今から会うのが楽しみだ」
ザザはぎこちない笑顔でそう返すしかなかった。
教科書や制服の受け取りなど雑事を終え、夕食をすませたころにはザザはへとへとになっていた。体力的にもそうだが、狭い田舎で暮らしてきたザザには知らない顔ばかりという環境は精神的に疲れるものだった。部屋に戻ると倒れ込むようにベッドに入った。
天蓋付きのベッドにはカーテンがついていた。カーテンを閉めるとようやく一人きりになれる。このベッドの上だけが、唯一ザザに許された個人的な空間だった。
明日からずっとこんな生活が続くのだ。ヴァリエールのお嬢様がやってくればさらに騒がしくなるだろう。授業がはじまればなおのことだ。その事実にちょっとしためまいを覚えつつ、沈みこむようにザザは眠りに落ちていった。