フィオの月、フレイヤの週、虚無の曜日。
この街で過ごす最後の休日にも拘らず、私とロッテは、ロマリアの修道女よりも早起きしてカシミール商店にやってきていた。
その目的は、旅に出るための荷づくり。
カシミール商店のみんなや(特にフーゴが熱心に)、蟲惑の妖精亭の女の子達も手伝う事を申し出てくれたが、最後の荷づくりだけは、ロッテと二人だけでやることにした。
好意はありがたいが、私の都合で彼らの貴重な休日を浪費させてしまうのは気が重いしね。
馬車、馬、食糧や寝具などの旅の荷物などは全て親方にお願いして、カシミール商店で(格安で!)発注してもらっていたので、私が実際自らの足で購入したのは、旅先で扱う商品と、細々とした雑貨程度だった。
本来なら、全てを自分の目で見て、交渉して、購入しなければならなかったのだが、今回は独立が決まってから出立までが急なスケジュールであったので親方が一肌脱いでくれたのである。
意外なのは、こんな雑用に関わらず、ロッテが珍しく文句もいわずに手伝って(?)いる事。
彼女は普段はめんどくさがりではあるけれど、仕事に対しては大真面目な所がある。
蟲惑の妖精亭での勤務態度は至って真面目であったし、業績も3年近くトップクラス。つまり彼女は遍歴の旅を物見遊山ではなく、きちんと仕事として考えてくれている事がわかる。
それがちょっと嬉しくて、私は終始にこにことしながら荷づくりをするのだった。傍目にはさぞかし不気味な事だろう。
「えぇと、オーデ・ケルン3ケース、デュッセルドルフの麦酒が2樽。アキテーヌのワインが……」
「おい、荷物はあらかた積み終わったし、少し休憩しようぞ。確認はそのあとでいいじゃろ?」
「うん、そうしましょうか」
燦々と降り注ぐ春の暖かな日差しの中、私とロッテは、財産の殆どを詰み込んだ馬車の荷台に腰掛け、玉のような汗を拭う。
そう、これが私達の馬車。
少し日に焼けて黄色くなってしまっているけれども立派な幌付きで、大きさはそれなり、ハンブルグ製ということで作りもしっかりとしている。
親方が他の商会から引っ張ってきたお古だが、馬具や修理具付きで120エキューという事を考えるとかなりのお買い得品といえるだろう。
もっとも、修理具を使う事はあまりないかもしれないけれど。
なぜなら、馬車や馬具には、ロッテのファンである土のラインメイジに《固定化》を掛けてもらったから(勿論無料)。つまり、ラインクラス以上の魔法を受ける以外、損傷する事はあまり考えられない。
「どうせなら、ちょっと試運転してみよっか? この子達がどのくらい走れるかもよくわからないし」
商店の庭先にある馬屋につながれた、葦毛と青鹿毛のごっつい馬達に目を向けて言う。
彼等は重種、ベルシュロン種といわれる大型の馬だ。見た目は寸胴だし、速度も遅いが、力だけは半端じゃない。
こちらはフッガー商会系列のツテで、南部の畜産牧場から直に取り寄せてもらった。
ちなみに馬の操作はもう完璧である。エンリコとオルベの村に出向いた時のような失態はない、と思って頂こう。ふふふ。
「ま、しなくても大丈夫じゃろ。力だけはありそうな馬どもじゃし。にしても、もう格好の良い馬はおらんかったのか? 不細工すぎるぞ、こやつら」
「格好のいい馬って、メクレンブルグ種とか、アルヴァン種とかそういう種類の馬?」
「そうそう、それじゃ。物語の王子役がのるような白い馬!」
「そんなひょろい馬じゃ荷馬車なんて引けないのよ。それに軽種は貴族も乗るから値段が高いしね。この仔達は一頭100エキュー。軽種なら安くても300はしちゃうのよね」
「夢が無いのう……」
「いずれはユニコーンでもペガサスでも買ってあげるから文句言わないの」
「むぅ、本当じゃな? 期待しておるぞ」
無邪気な少女のように目を輝かせるロッテ。こういうところが憎めないのよね、と私は苦笑する。
ちなみにユニコーンとかペガサスなんて高級な幻獣は、基本的に平民階級では買えませんし、売ってません。
「しかし随分と買い込んだものじゃ。まさか全財産をつぎ込んだんじゃあるまいな?」
「まさか。きちんと小口の現金として50エキューは手元に残してあるわよ。それだけあれば何かあってもとりあえずは大丈夫でしょう」
「50?! 1000はあったんじゃぞ? もう、それしかないのか?」
「馬車で120、馬2頭で200、組合への初年度登録で50、食糧寝具生活用品で約50、衣料費で約50、その他もろもろの雑貨で約30。ほら、これでもう500エキューよ?」
「ふむ。残り450は売りモノに換えたのか……」
「あと、親方へ口利きしてもらった辺境伯へのお礼ね。ま、彼から見ればゴミみたいなものだろうけれど、ああいうのは気持だからね」
「む、そんな事もしておったのか? アイツへの礼など妾の笑顔だけで十分だというのに……」
「そんなわけにはいかないでしょうが」
「普段はけっちい癖にこういうときは大胆じゃな、お主」
「そんな顔しないの。大丈夫、仕入は安定して売れるモノしか今回は仕入れてないし、辺境伯へのお礼だって大した額じゃないから。その代わり、今回分の仕入れでは、あまり利益はでないと思うけどね」
いかにも不安です、という表情のロッテを安心させるように言う。
私達がまず向かうのはゲルマニア北部、鉄の街、ハノーファー。
リピーティングクロスボウの提供者であり、ギーナ・ゴーロ兄弟の父であるベネディクトのツテを辿って、外国での競争力が高いゲルマニア自慢の金属製品を直接仕入れするつもりだ。
ベネディクトとは2、3カ月に一度くらいの頻度で手紙のやり取りを続けていたので、わざわざハノーファーに足を運ばずとも、彼の工房の品をこちらに送ってもらう事も可能だったが、やはり商品は自分の目で見るべきだし、その商品がどのような環境と過程で作られているのかも見たかった、というのがハノーファーへと出向く一つの理由だ。
もう一つの理由としては、いきなり国外で商売、というのはいくら無鉄砲な私でも無茶だと思ったからだ。まずはゲルマニア国内で確実に捌けそうな商品だけを扱ってみようと思ったのである。ちょっとした予行練習にも近い。
なので、今回私が購入した売り物となる商品は、北部の商館《フォンダコ》に持っていけば確実に売れるような、中流階層向けの西部産の香水や安酒、そして行く先々の村で確実に捌けるであろう、南部産の布や糸などのどこの農村でも必要なモノをカシミール商店ないし、フッガー商会、もしくはツェルプストー商会から購入した。
あまり利益は出ないだろうが、3年間の修行の末に貯めた金でいきなりギャンブルをする気にはならない。
チキンではなく、用心深いととってほしい。叩いて渡ろう鋼の大橋。
「そうか。ま、妾は交易についてはさっぱりじゃからな。その辺はお主に任せる」
「はっ! お任せ下さい、お姉様!」
「が、妾の金もた~っぷりつぎ込んでおるのじゃからな? それだけは忘れんように」
「だ~いじょうぶよ、もしちょっと失敗したってすぐに取りかえしてやるんだから。それより、アンタもちゃんと協力してよ? 特に荒事関係はさ」
「くふ、気が向けばな」
そう言って、にや、と形のいい唇を歪ませるロッテ。
「はぁ、期待してますよっと」
「うむ。しかし、とうとうこの街ともお別れじゃな」
「……うん」
「たわけ。めでたい事だというにそんな顔をするな。今日はパーティーに行くんじゃろ? そんな辛気臭い顔で参加されては場が湿ってしまうわ」
「パーティーね……、あ!」
はっ、と私は目を見開く。
「何じゃ、忘れておったのか? 仕方のない奴じゃの」
「あはは……まさか……」
すいません、本当は忘れていましたよ。
パーティーというのは、ツェルプストー商会を会場にして行われる門出の宴である。
これは毎年春に開かれている組合の定例行事。ケルン、もしくはその周辺都市において、この春見習いを卒業する者達が主役の激励会、そして祝賀パーティーだ。
私もエンリコが独立する時、一度出席させてもらったことがあるけれど、西部組合の資金が潤沢なためか、貴族達が行うパーティー並みではないかというほど絢爛なものだった。
今年はその主役の一人になれるのかと思うと、胸がちょっと高鳴る。ふ、私も乙女の端くれなのですよ。
また、このパーティーには、ケルン内の商会や商店に属している人ならば誰でも参加できるので、カシミール商店のみんなはもちろん、蟲惑の妖精亭のメンバーたちも祝う側として参加するそうだ。
それとは別にちょっと楽しみであるのが、クリスティアンの娘、つまりキュルケ嬢もこのパーティーに出席するということだ。彼女が公の場に出るのはこれが初めてだろう(といっても、貴族間の事はしらないが。とにかく私達の前に出てくるのは初めてなのである)。
彼女に弟でも生まれない限りは彼女自身、もしくはその夫がツェルプストー商会へと密接に関わってくるのだろうし、ケルンの商人達への顔見せの意味があるのだろう。
「んーっ! しかし、いい陽気ね」
「パーティーまでは時間もあるし、久しぶりに街でもぶらつくか?」
天高く昇った日に向かって伸びをしながら立ちあがる私にロッテが提案する。
「そうね。ケルンにはしばらく帰っては来れないかもしれないしなぁ」
「よし、では橋の向こうにある古着屋にでもいこう。あそこは、たまに掘り出し物があるからの」
「また~? 私は着せ替え人形じゃないのよ……」
「たわけ。一着しかまともな服を持っていないなんぞ、女ではないわ。妾なぞ20着はドレスを持っておるぞ?」
「アンタのは全部貢物でしょうが……。ま、いいか。行きましょ。丁度、旅着がもう一着ほしいと思っていたし」
この間の蟲惑の妖精亭の一件以来、私の着せ替えにはまっているロッテに、いやいやといった態度で言う私だが、内心実はまんざらでもなかったり。
私はそそくさと馬車を馬屋の中へと片づけ、パーティーまでの時間、故郷の空気を満喫することにした。
*
そして、夕刻。
たっぷりと街を堪能した私とロッテは、パーティー会場であるツェルプストー商会前へと来ていた。
礼装姿の(その殆どは借り物であろうが)商人達でごった返す大通り。パーティーの開始時刻はまだだが、既に会場への入場は始まっているようだ。
その比率はやはり男がほとんどで、たまに男装をした女性、ドレスを着た女性は私達以外はほとんどいない。飲食店関係のお姉さんくらいか。
かなり浮いている気がするが、気にしない。クリスティアンの言うとおりであるのなら、こういう場で下手に謙った恰好をした方が負けなのだ。
さて、カシミール商店のみんなは何所かな、と。
「おいおい、お前ら、場所間違えてんじゃねえの? ここはお嬢様の舞踏会場じゃねーんだぜ?」
私とロッテがきょろきょろと辺りを見回していると、ヘラヘラとした感じの若い男が、私達の行く手を遮るようにしてちょっかいをかけてきた。
その後ろにはその仲間のようなのが2人、いけすかない笑みを浮かべて立っている。
どれもこの辺りでは見かけない顔だ。おそらく、北のデュッセルドルフか、南のボンあたりから来た新人商人達だろう。
「お言葉ですが、私達も商人ですわ。すいませんが、人を探していますので失礼致します」
「は、商人? おいおい、ケルンじゃこんな嬢ちゃん達が商人になれるのかよ。あ、もしかして、『私の体が商品です』とかそういう感じ? で、君いくら?」
知性もユーモアも無い挑発に、後ろの連中がぎゃははは、と下品に笑う。
女の敵め。死ねばいいのに。
「下らん。行くぞアリア」
「うん」
余りの下品さにロッテが不愉快そうに踵を返し、私もまたそれに倣う。
ムカッ、とは来たが、こんな奴らに構うだけあほらしい。
「ちょ、待てよ。君達、ケルンの人でしょ? 街でも案内してくれよ?」
「お断りします。パーティーが始まってしまいますので」
「へへ、パーティーよりもっと楽しい事教えてあげるからさぁ」
と、今度は後ろにいた男が回り込んで立ち塞がる。
しつけえ。
「くどいぞ。貴様ら。どこの田舎者じゃ? よくもそんな腐った泥芋のような顔で女に声を掛けられるものじゃな? あぁ、芋では芽はあっても目がないか。それでは鏡も見れぬわなぁ」
「あらあら、それは些か酷過ぎる物言いではなくて、姉様? まあ、本当の事だから仕方ないですけれど」
ロッテは上から目線で心底馬鹿にしたように言う。私はそれに乗じて追い打ちをかけてやった。
ケルンはゲルマニア西部では最大の都市。当然、ケルンの人間からすれば、西部の他地区の者は田舎者というわけだ。
そういえば、私もここに来た当初は随分フーゴに田舎者ってからかわれたなぁ。
「何だと? この女!」
「もういいからさっさと消えなさいよ。相手にされてないのもわからないワケ? ほらほら、みんなが冷たい目でアンタ達を見てるわよ。恥ずかしくないの?」
激昂しかけた猿……いや、男共にそう言って冷や水を浴びせる私。
当然、この騒ぎだ。集まった人達の多くが怪訝な顔でこちらを見ているのである。いい意味で注目されるのはいいが、こういう形で注目されるのは御免である。
やれやれ、こんなクソガキ共(年は私より上だろうけど)が独立とは、まったく、どんな商店で修行していたんだか。
「てめえら、ちょっと顔がいいからって調子に──うっ」
羞恥か、怒気か、顔を真っ赤にして、私に掴みかかろうとした男は、最後までセリフを言えなかった。
私が大きく振り上げた脚が金的に炸裂する前に、横から伸びてきた手が、男の襟首を持ち上げたから。
「そこまでだ、クソ野郎。汚ねえ手で女に触んなよ」
「あ、フーゴ」
男を持ち上げたのはフーゴだった。
「『あ、フーゴ』じゃねえだろ、お前は。何やってんだよ、こんなアホ共相手に」
そう言ってフーゴは乱暴に男を突き飛ばす。
どうやら騒ぎを聞いて駆けつけてきたらしい。やや息があがって肩で息をしている。
「その、ごめん。ありがとう」
「あ、いや、うん。どういたしまして?」
礼装姿がよく似合うフーゴが、不覚にもちょっと、ほんのちょっと格好よくみえた。
そういえば、昔、誘拐されたときもこいつが一番先に助けに来たんだっけ。まぁ、あの時は結局二人ともさらわれてしまったのだけれど。
私がそんな事を思い出しながら、上の空で謝辞を述べると、フーゴは照れたように頬を掻いた。
「くっく」
「な、何よ?」
「いや、青臭いのう、とな」
私達の様子を見て、ロッテは何が嬉しいのか、にやにやと茶化すような笑顔を浮かべる。なんかムカつくなぁ。
「おい、あいつ『アリア』って……」
「ま、まさか“あの”?」
「ケルン、女で商人、アリアっていったら、アレ、だろ?」
その横でひそひそと話す声に気付き、ふと声の方を見ると、こちらを警戒するようにして後ずさる先ほどの男3人組。こいつら、まだ立ち去っていなかったらしい。
そして、なぜか私を知っているらしい。何か、悪い予感が。
「ちょっと、アレって──」
何よ! と聞こうとすると。
「すいませんでしたぁっ!」
「ひぃっ! 動いたあっ!」
「こっ、殺さないでえぇ!」
3人はほうほうの体で、一目散に逃げ出して行った。
一体、何なんだ? 私に怯えているように見えたんだけど……。ロッテに怯えるならわかるけどさ。最後まで失礼な奴らだ。
「なんかしらねーけど、ま、いいか。行こうぜ、アリア、ロッテさん」
「親方達は?」
「もう会場に入ってる。蟲惑のお姉さん達も一緒だ」
「そっか」
話しながら会場へと早足で向かう私達。無駄に目立ってしまったので少し気まずいのである。
「あ~、この前は言えなかったけど、そのドレス、似合ってるな」
「そ、そう?」
「あぁ、その、綺麗だ」
「……あ、うん、ど、どうも」
その途中、フーゴは前を向いたままでそんな事を言う。
珍しく素直なほめ言葉を口にするフーゴに、私は紅潮してしまった顔を隠すように俯いた。
おかしい。同じようにエーベルにほめられたときは、全く何も感じなかった、むしろ不快なくらいだったのに……。
な、なんなのこのフーゴ? からかってるの? 馬鹿なの? 死ぬの?
私は自分を支配していく謎の感情に抗うように、心の中で予期せぬ行動を取るフーゴへと罵声を浴びせた。
「それと」
「?」
「あとで話がある。パーティーが一段落してからでいいけど、時間、いいか?」
「は、はい」
いつになく力を込められたフーゴの言葉に、私は思わず「うん」ではなく「はい」で肯定の意を返した。
*
パーティーは、ツェルプストー商会の2階にある、巨大なホールにて行われた。
そこに集まっている人の数は、ざっと見て300人は超えていた。それを軽々と収容するのだから、このホールがとてつもない大バコである事がわかると思う。
具体的にいうと、商館≪フォンダコ≫の中でも大きい部類に入る、カシミール商店の倉庫と比べて3倍ぐらいの広さかな。
大貴族の運営する、これまた大商会の本部であるここでは、商人だけでなく、商売をたしなむ貴族達を招いたダンスパーティーなども行われる。そのためか、その内装は非常に豪奢で、優雅だ。
純白の壁には見るからに高価な彫刻や絵画が飾られ、床には見事な大理石が敷き詰められている。
天井からは豪奢で美しいシャンデリアがつり下がり、備え付けられた長い長いテーブルには、レース地で編まれた純白のテーブルクロスがかけられていた。
ただ、今日のパーティーは商人、つまり平民向けのものであるので、そこに並べられた料理は庶民的なモノに近く、ワインもどちらかといえば大衆向けのもの、もちろん、食卓に花束などは飾りつけられてはいなかった。
まぁ、ここで貴族用の料理を出したとしても、普段質素な生活をしているだろう、今日の主役達の口には合わないと思う。そういう意味ではこのくらいでちょうどいいのかも。
「お集まりの新人諸君! このたびは見習い卒業おめでとう!」
会場に、クリスティアンの声が響く。
その声に呼応するかのように、わっ、と拍手が巻き起こる。
パーティーの始まりは、まずクリスティアンの激励から始まるみたいだ。
彼の快活な声が響き渡るなか、私は少し離れた所で壁に寄り掛かるように立っていたフーゴの横顔をぼんやりと見ていた。
コイツが私に話って何だろう。
もう、私がケルンにいる時間は少ない。そこで何かを決意したように掛けられた言葉。
また、『先輩』としてのアドバイスとやらだろうか。
それとも、『好敵手』として、激励でもしてくれるのだろうか。
いや、でも、もしかして。いや、そんなわけない。だってコイツは曲りなりにも貴族なのだ。
貴族にも色んな人がいることは知っている。クリスティアンのように平民に対してでも親身になってくれる(女限定)貴族。ヴェルヘルミーナのように高慢ちきだけれど、何処か憎めない貴族。ロッテのように吸血鬼な貴族……? いや、これは違うな。
……とにかく、ステレオタイプでない変わった貴族もゲルマニアには多いけれど、いくらなんでも平民相手、それも歯牙ない農民出身の娘に対して、仮にも貴族家の子息が……。
って、そんなわけがないのだ!
クリスティアンの素晴らしいであろう激励もほとんど頭に入らず、私はそんなことばかりを、繰り返し繰り返し考えていた。
あぁ、もう! 本当なら、このパーティーを利用して、同志であり競争相手である新人商人達と親交を築いたり、カシミール商店のみんなや、蟲惑の妖精亭のお姉さん達と別れを惜しんだり、取引のあった商家の旦那達へと挨拶周りをしなければならない(前日までに一通り挨拶周りは済ましているけれど)というのに。
あの馬鹿! 馬鹿フーゴ!
どうしてこんなにもフーゴの事が気にかかるのか、この時点の私にはまだ理解できなかったのだ。
「では、これより、今年度の門出の宴を始める! 帝政ゲルマニアに! ケルン交易商会組合に! そして君達の輝かしい未来に! 乾杯!」
そうやって私がループ思考に陥っていると、いつの間にか演説が終了していたらしく、乾杯! というたくさんの声が会場に響きわたった。
私はあわてて手に持っていたワイングラス(中身はジュース)を天高くかざして「乾杯」と呟き、近くにいたカシミール商店の面々と杯を合わせた。
ヤスミンも、ギーナとゴーロも、後輩達もいい笑顔で私を祝ってくれている。それが素直に嬉しい私も、また笑顔になる。
ロッテはどうやら蟲惑の妖精亭のみんなが集まっている方へと行ったらしい。積もる話もあるのだろう、3年間もお世話になったんだしね。
「あー、あと、これがウチの長女、キュルケだ。まだ3歳になったばかりだが、将来的にツェルプストー商会に関わるだろう。みんな、覚えておいてくれ!」
私がふっ、と顔をあげると、いつの間にか、クリスティアンの前に、赤を基調としたロリータ系のお嬢様ファッションをした赤毛の幼子が立って、いや、立たされていた。
愛らしいご令嬢の登場に、がやがやと会場中がどよめく。私も唸った。
ヤスミンなどは顔を上気させて「かわいい」を連呼していた。仕事中に見せる鬼のようなイメージとはかけ離れているが、彼女はカワイイ物が大好きなのだ。
ふ~む、あれがツェルプストー家の長女、キュルケ嬢か。
この場が退屈なのか、ただ単に眠いのか、それとも緊張しているのか彼女はしきりに欠伸を噛み殺すような仕草をしている。
大口をあけて欠伸をしないのは、躾の賜物だろうか。
あ、今度は体がゆらゆら揺れている。やっぱり退屈なのか。そりゃそうよね、まだ3歳だし。
「きゅるけ・あうぐすた・ふれでりか・ふぉん・あんはるつ・つぇるぷすとー。けるんのしょうにんのみなさま、いご、おみしりおきを」
会場のどよめきが収まるのを見計ったかのようなタイミングで、キュルケ嬢はスカートの裾を持ち上げながら、舌っ足らずながらも上品な挨拶をした。
そのあまりの破壊力に、再び会場は賛辞と溜息によるどよめきに包まれる。萌えた。
ヤスミンは鼻を押さえて蹲っていた。他人のふり、他人のふり。
ん~、それにしても、やっぱ小さい子の仕草って癒されるなあ。
どうみても彼女が将来的に好色な問題児になるようには見えない。やはり“原作”はアテにならないな、うん。
クリスティアンの影響を受けなければ、だけど。無理かなぁ。
はぁ、私もいつか、子供を産む時がくるのだろうか。
誰の?
って、また変な方向に! 第一、それは駄目だろう、年齢的にも、鬼姉との約束的にも!
「よし、これにてウチの娘自慢は終了!じゃ、あとは新人同士新興を深めるもよし! 同じ商家の奴らと別れを惜しむもよし! 女の子を口説くのもよしっ!」
そんな演説の締めにどっ、と会場が笑いに包まれると、クリスティアンは眠たそうに目をこするキュルケ嬢を抱きかかえて、壇上を降りる。
それにつられるかのように、会場の人々はぞろぞろと動きだす。
ここぞとばかりにタダ飯を食らって酒を呷る者。
仲間達と泣き、笑い、騒ぎ、別れの晩餐を大いに盛り上げる者。
抜け目なく組合や大商家のお偉方に近づき、ご機嫌を取ろうとする者。
十人十色の行動を取る新人商人達の中、私はカシミール商店のみんなをはじめとした、顔見しりの人達だけに軽い挨拶を済ませ、すぐにフーゴの元へと向かった。
何をおいても、今は彼の真意が一刻も早く知りたかったから。
「フ―ゴ」
「おう」
「あのさ、今更改まって私に話って何? 用件があるなら、手短に頼むわ」
「ここじゃ、言えない」
私は苛ついたような口調でフーゴを問い詰めるが、彼はその態度を気にした様子もなく淡々と答える。
「じゃあ、どこなら言えるのよ」
「そうだな。ちょっと外に出ようぜ」
フーゴはホールの大きなゴシック調のガラス窓を親指で差して言う。
何というか、変だ。いつもなら私が突っかかるような物言いをすれば、絶対に言い返してくるのがフーゴなのに。
「う~、わかった」
「んじゃ、行こうぜ」
そんなフーゴの様子に毒気を抜かれた私は彼の提案に頷き、差しだされた彼の手を握る。
強く握られた手は少し痛かったけれど、彼の手が昔よりもたくましく感じられた事に気を取られ、私は何も言わずに彼に付いて行った。
「飛ぶぞ」
「は?」
会場から出て、壁のない、剥き出しの渡り廊下に出た所で、フーゴがそんな事を言い出した。
「【飛行魔法】≪フライ≫」
「ちょ、ま」
フーゴがそう叫ぶと、彼によってすばやく脇に抱きかかえられた私の体が、ふわりと宙に浮かぶ。
全身が羽になったかのような不思議な感覚。
慣れない感覚に慌てる荷物である私を余所に、フネであるフーゴはどんどんと高く高く上昇していく。
きゅう、と彼の腕が私を離すまいとするかのように腰を締めつける。私も振り落とされまいと彼の首っ玉にかじりつく。
「手、離すなよ?」
「な、何やってんのよ、いきなり! この馬鹿!」
「歩きだと遠いからな」
「何処行く気よ?」
「そりゃ、ま、お楽しみだ」
いきなりの凶行に驚く私に、フーゴはいつもの口調で答え、さらに飛行速度を上げた。
春の冷たい夜風が頬に強く当たり、多少ぐらぐらと揺れる飛行だったが、私を支えるフーゴの体温が暖かく、私はあまり不安を感じなかった。
とくん、と胸が跳ねる。
「いい眺めね」
気恥ずかしくなった私は、顔を逸らすように空からの景色を見て呟く。
眼下に映し出されるのは、月明かりとランプの灯で、仄かに照らし出される夜の街。
『僕』の記憶にあるような、ぎらついたネオンの光や、眩しい程のライトアップはないけれど、それはとてもとても綺麗な光景だった。
その上空を鳥のように生身で飛び回るという平民ではあり得ない経験に、私の鼓動は早くなるばかり。
「お前、この街大好きだしな。こうすりゃ、ケルンを一望できるだろ? 今日用意したプレゼント第一弾だ」
「へえ、第一弾って事は、他にもあるのかしら、素敵なプレゼントが」
「まあな。それは後のお楽しみってやつだ」
気の利いた贈り物に、先ほどまでの苛立ちはどこへやら、私が嬉しそうに言うと、フーゴは悪戯っぽい笑みを浮かべてそう答えた。
「それにしても、あんた、いつの間にこんな魔法が使えるようになったの? 昔は不細工な石人形を作るくらいしかできなかったじゃない?」
「不細工は余計だろ。ま、今なら鉄の騎士くらいは出せるぜ。あの時の吸血鬼野郎くらい余裕でブッ倒せるかもな」
「それはどうかしらねえ」
「信用ねえなぁ……」
「現実的な判断を下したまでよ?」
「はいはい」
調子に乗るフーゴに水を差すように言うと、苦笑で返される。
く、フーゴの癖に! これではこっちの方が子供みたいではないか。
「でも、お前を守る事くらいは出来ると思うけどな」
「え? どういう事?」
「そろそろ着くぞ」
意味深な言葉を呟いたフーゴは、私の疑問には答えず、ゆっくりと地上に向かって下降し始めた。
着地点はケルン北の森。
クリスティアンの撃ちだした業火により、丸坊主になってしまった森だ。跡地と言った方が適切かもしれない。
昼間は老人達の散歩コースになったりしているらしいが、さすがにこの時間においては人っ子一人いないようだ。
「懐かしいだろ?」
抱えた私をゆっくりと地上に降ろしながら、フーゴが言う。
「すっごい厭な思い出しかないんだけど、私は」
そう、ここは私があの間抜けな吸血鬼によって攫われ、連れて来られた場所。
いいイメージなどあるわけもない。どうしてこんなとこに連れてきたんだろう。
「でも、終わってみりゃ、いい思い出じゃねぇ?」
「まぁ、普通は体験できないわよね。それに、あれのお陰で辺境伯とも知り合えたし、確かに悪いことばかりではなかったかも」
「……俺はさ、あれがきっかけで魔法も、商売も真面目にやろうと思ったんだ。いわば、ここが今の俺の原点ってワケ」
「ほほう、それまでは不真面目だったと?」
「まぁな」
「ふーん? 私はてっきりヴェルヘルミーナ様に発破でも掛けられたのかと」
「それは言うなよ……」
「あはは……ごめん。苦手なんだっけ、あの人」
話の腰を折られて、恨みがましい視線を向けるフーゴ。
どうやら未だに母親に対する苦手意識は消えていないらしい。
ちょっとした沈黙の後、少し鼓動が落ち着いてきた私は最初の疑問に立ち戻る。
「で、結局、何の話? こんな所まで来て」
「さっきの話、まだ理由を言っていなかったよな。何で俺が変わろうと思ったかっていう」
「ん? 聞いてほしいの?」
「その理由が、今日お前に話したい事だ」
「じゃ、聞くね。どんな理由?」
中々核心に至らないフーゴに、業を煮やしたように催促する私。
「お前に色々と負けてる事に気がしたから。俺なんて何もできない奴だな、ってわかっちまった。男としては、女に負けっぱなしじゃ格好がつかねえだろ?」
「何よそれ。もしかして、今更ライバル宣言?」
真面目な顔で言うフーゴに、私はがっかりとしたように言う。
なんというか、拍子抜けだ。
ここまで来て私への対抗心を明確にされても、なぁ。
いや、何か別な事を期待していた訳じゃないけど……。うん……。
「そうじゃない」
「違うの?──」
じゃあ何? と続けようとした所で、フーゴは私の肩を掴んで、正面を向かせた。
緑がかったブラウンの目が真っすぐに私を射抜く。
一度落ち着いた鼓動が、さっきよりももっともっと激しく脈打つ。ばくばくと無遠慮に鳴る心臓の音が耳触りだ。
「あのままじゃ、お前の隣に居るには、ふさわしくねえと思った」
「え?」
「実は今もまだ、お前には負けてる気はするけどさ」
そこで、ぐい、と掴んだ肩を引き寄せられる。
「……ん」
私の体はフーゴの腕の中にすっぽりと収まった。
正面からの情熱的な抱擁。それは壊れるほどに強く、熱く、優しかった。
通常であれば、怒り狂って彼を跳ね飛ばし、罵声を浴びせて軽蔑する程の行為。
しかし、私は甘く吐息をもらしただけで、不思議と抵抗する気は起きなかった。むしろ心地よいくらい。
私は期待していたのだ、次に彼の口から吐き出されるであろう言葉を。
顔が、硬い。胸が、苦しい。息が、荒い。頭が、熱い。
そして。
「好きだ」
期待していた通りの、簡単で、短く、しかし私の全てを打ち抜く言葉が、私の耳元で囁かれた。
それは荒れ狂う春の暴風雨のように、どうしようもなく私の心をかき乱す。
私は嬉しいのか、苦しいのか、それとも切ないのか、自分の感情が整理できずに、何も答えられず、ただ立ち尽くすだけ。
でも、今ひとつだけ、わかった事がある。
そっか。
私も、こいつの事が。
好きなんだ。
つづけ~