遍歴の旅──
一旗上げようという野心を持った、若い商人達(もしくは職人達)の修行の旅路の事である。
彼等の大多数は商家を経営する親方の下、見習いとしての修行を終えて独立した一個の商人であり、ある程度の商売知識は心得ているのだろう。
しかし、知識があるだけでは、それはまだ一人前の商売人とは言えないのだ(勿論、商売に知識は絶対に必要だが)。
では一端の商売人を気取るには何が必要なのか。
目の玉が飛び出るような額の金銭を持つことか?
大都市の一等地に豪奢な外装の店を構えることか?
人々に畏怖される程に、眩く彩られた名声を得る事か?
それとも国や教会の実力者との確固たるコネクションか?
成程、確かにそのようなモノを持つことが出来た者は、もう一人前なのだろう。
だが、それらは全てが結果であり、どんな“知識”を持っていようと、ある日突然そのような結果を出せる者はいない。
つまり誰もが羨む輝かしい結果を出すには、汗と涙を流し、血を滲ませるような、泥臭い過程が必要なのだ。
その過程の中、他人から聞きかじったものだけでなく、そこに経験をミックスし、自らの奥底から捻りだされるモノこそが、一人前の商人に必要なもの──即ち、“知恵”である。
この“知恵”は、“人間力”と言いかえる事も出来るだろう。
つまり遍歴の旅とは、その過程で金を稼ぎつつ、余所の文化に触れ合い、様々な人々に出会い、毎日のように発生するであろう、予期せぬ苦難を自分の知恵を絞り出して乗り越えて行く事で、商人として、そして人間として成長するための旅なのである。
さて、とはいえ、何もその旅路は夢と希望だけに満ち溢れているだけではない。
それと同じくらいに、危険と堕落が付きまとう旅でもある。
毎年のように春になれば、方々の都市から、胸に志を抱いた新米の遍歴商人達が旅立っていくが、そのうち、実際に成功を収められる者の割合は少ない。
細々と行商を続ける者、旅をやめる者、破産する者、身を落とす者、命を散らす者。
くどいようだが、誰しもが成功を掴めるわけではないのだ。
それでも彼らは旅に出る。
旅に出ずとも何処ぞの商会の正規従業員として雇って貰い、そこで金を稼ぎ、経験を積む、という手法もあるだろう。
しかしそれはローリスク・ローリターン。
商会の後ろ盾でもって保障された身分で得られる金と経験は、成功した遍歴商人達にはとても及ばない。
事実、一代という短期間で成り上がったやり手の大商人達を見れば、そのほとんどが遍歴の旅を経験しているのである。
だからこそ、自分に自信のある冒険心に溢れた若者──悪く言えば、傲慢で向こう見ずな青二才はこぞって遍歴の旅に出るのだった。
そしてこの春もまた、欲深い雛鳥が一羽、新たに翼を広げて飛び立とうとしている。
彼女はその旅でどのような道を選び、進み、そして何処へ至るのだろうか。
今はただ祈ろう。
羽ばたく翼が、何事にも決してへし折られないよう。
たとえ一時は道に迷おうとも、最後に目指すべき光だけは見失わないよう。
そして、紡がれる物語に幸多からん事を。
第三章 遍歴商人アリアの旅路 chapter3. Journey
街を覆う雪が融け、流れ出した水がちょろちょろと音を立てて小さな川を作っている。
石畳の隙間から、小さな白い花を咲かせるミナクサが僅かに顔を覗かせている。
空はどこまでも透き通るような青と白のコントラストを映し出し、頬にあたる外気はまだ少し冷たい。
窓の外に広がる景色を眺めつつ、私はちょっと固めのライ麦パンに、香ばしく滑らかな口当たりのボニファッツ・チーズを合わせて口に放り込む。
もしゃもしゃとそれを咀嚼しながら、寝ぼけ眼を擦った所で、大聖堂から聴こえる喧しい鐘の音が、安らかな朝の静寂を破った。
私の住むこの街、ケルンに住む全ての人々に、朝の到来を告げる鐘楼の声だ。
その声に誘われるかのように、私は窓から顔を出す。
寮の南側に広がる街のメインストリートである、ホーエ通りの奥に佇む大聖堂の方へと目を向ければ、まだ弱々しい陽の光を浴びながら、もう何人かの修道女達が朝のお勤めを始めていた。
ガリアのゴシック様式をゲルマニア調にアレンジして建築された豪奢な大聖堂と、修道女の黒を基調とした、麻で編まれた質素なお仕着せがあまりにも不似合いで、私は思わず笑いを漏らす。
「さて、私も着替えるか」
ひとしきり外の景色を堪能した後、そう独りごちると、薄い無地のカーテンを閉め、粗末な寝巻《ズロース》を脱ぎ棄てた。
行儀悪く素っ裸のまま、クローゼットの中からまっさらな下着《カミーチェ》を選び、取り出し、身につける。
その上から男物の無地の胴衣《ファルセット》と、丈夫な七分丈のズボン《ブラケ》を着こむ。
安価な染料で薄青に染められた長い靴下《カルツェ》を履き、肩まで伸びた栗色の髪を同じく薄青の紐で後ろに纏める。
服装を整えると、私は古ぼけた鏡台へと向かう。
頂きモノであるマルセイユ産のオリーブ石鹸を泡立て、水桶の中でばしゃばしゃと顔を洗う。
ヒビの入った鏡を見ながら寝癖を直しつつ、塩をまぶした硬い馬の毛で作られたブラシで歯を磨く。
「あ」
そこまで朝の支度を終えた所で、私はようやく気付いた。
「今日は休みの日だったわ……」
左拳で頭をこちんとやって舌を出す。
最近は色々とあって暇がなく休みも無い毎日が続いていたために、曜日の感覚が曖昧になっていたらしい。
しかし、今日一日はゆっくりといっても、何もしないなんてのは苦痛だなぁ、あぁ、でも三年前の虚無の曜日なんて部屋でぐったりしていたっけ、などとぼんやりと考える。
どうしたものか、と部屋をぐるっと見回してみると、“目標達成!”と大きく書かれた貯金箱が二つ並んでいるのが目に付く。
その中からおもむろに一枚のエキュー金貨を手に取り、弄びながら、私はにやりと笑みを浮かべた。
「ふ、うふ、ふふふふ」
エキュー金貨、ドール金貨、ヴァン・スゥ銀貨、アン・スゥ銀貨、ドニエ銅貨。
ずっしりと積み上がった金のプールに、だらしなく顔を弛緩させる。
「ぐぅ、むぅ……」
「はっ」
刹那か悠久か、どのくらいそうしていただろうか。
私の幸福な一時は、空気を読まない同居人兼共同経営者の鼾によってあっけなく破壊された。
視線をそちらへ移すと、毛布を蹴飛ばし、枕を抱いたロッテが、幸せそうな顔でぐーすかと惰眠を貪っていた。
「春眠暁を覚えず」
私は軽く溜息を吐き、彼女に毛布をかけてやる。
「ここでこうして過ごす時間も後僅か、ね」
ポツリとそう呟いてみると、少し、ほんの少しだけ、憂いが胸にこみ上げた。
13歳の初春。
カシミール商店に勤めてから丸三年。
ついに、この居心地の良い巣箱から卒業しなければならない時がやってきたのだった。
*
表通りが騒がしくなって来た頃。
ようやく起きだしてきたロッテが、もそもそとベッドの上でだらしなく朝食を頬張っている。
私はそれを咎めるでもなく、眉間に皺を作りつつ、机の上にある羊皮紙と睨めっこしていた。
暫くの間、くちゃくちゃとパンを噛み砕く音だけが部屋に響く。
「……のう」
「何」
その沈黙に耐えきれなかったのか、ロッテの方から口を開く。
「便秘か?」
「は?」
「いや、さっきから強張った顔で、うんうんと唸っておるでな」
訂正。
どうやら、気付かぬうちに私の唸り声も部屋に響いていたらしい。
「お通じはすこぶる快調よ。ただ、色々と考えなきゃいけない事が多いの」
「商売の事か?」
「それだけではないけれど、一番大きいのはそれね」
「む、しかし、もう、大体の構想は考えておるのじゃろ?」
「……まぁね。“見通しは大まかに、取引は細やかに”っていうし、そこまではっきりとした計画を立てる必要もないんだけど。やっぱり、どうしても不安が残ってねぇ」
「相変わらず小心者じゃの。ま、せいぜい頑張れ」
私は頭痛がするように額へ手をやって言うと、ロッテは他人事のように言う。
この春で私はカシミール商店から独立する事を決めていた。
その旨は商店の皆も既に知っているし、当然親方にも伝えてある。
とはいえ、まだ親方からはっきりとゴーサインを頂いている訳ではないが。
彼は私が遍歴の旅に出ること自体に反対しているわけではなく、その時期がまだ早過ぎるのではないか、という事を言及していた。
せめてあと2年くらいは(ゲルマニアでは15歳で成人と見做されるので、それまで、という事だろう)ここにいたらどうだ、とも提案された。
実に有難い言葉ではあったのだけれど。
しかし、私としては今すぐにでも独立したいと思っていた。
お金の準備が整った事、商売知識の充実、ロッテとの約束の期間、私自身の“新しい目標”のため、など様々な理由はある。
けれど、その最大の理由は、“これ以上此処に留まってしまえば、私は旅立てなくなってしまうかもしれない”という懸念だった。
私はケルンの街やカシミール商店、そしてそこに居る人達が好きだし、此処に来てからの三年間は、決して楽ではなかったけれど、とても優しい時間であった。
それは何物にも代えがたい大切なものだけれど、いつまでもそれに甘えていては駄目になってしまう。
あまりに気持ちの良い湯だからといってつかり過ぎていればのぼせてしまうように。
正直、「此処に居たい」という気持ちが完全に吹っ切れた訳ではないけれど。
私は行かねばならないのだ。何よりも自分自身のために。
……ま、近いうち、というか来週にでも親方を説得せねばなるまい。
色々と入用のモノの手配も頼まなければならないし。
もしかすると、あの頑固親父を説き伏せるのが一番骨だったりして。
「はぁ、頭痛い。……アンタも少しは悩んだらどう?」
「何を言う。妾が金を出した分、主は汗と知恵を出さねばならん。というか、はっきり言って、妾は商売のしの字も知らんし」
肩を竦め、首を傾げて言うロッテ。
「……それはそうだけど。アンタは共同経営者というよりはパトロンみたいなもんだしね」
そう言って、私はふぅ、と溜息を吐く。
約一年に渡る粘り強い交渉のおかげか、それともロッテの気まぐれのおかげか、結局、私の商売は彼女との共同経営、という形でスタートする事に決まっていた。
私が彼女をパトロンと表現したように、その出資額は歴然の差(当然私が少ない)なのだが。
ここで、少し具体的な数値を挙げてみよう。
遍歴商人として独立するために、私が目標に設定した額、というか、この三年間で私達が貯めた金額は、(およそ)1000エキュー。
当初、いつか親方に言われた通り、500エキューを目標としようとも思ったのだけれど、それは独立するにあたって、かなりギリギリの線であったし(フッガー商会からの借金もあったしね)、毎月貯金箱に蓄積される金額が思った以上に高額であった事を考えて、キリのいいところ、その倍の1000エキューを目標としたのだった。
正直、最初からロッテの財布をアテにしていました。はい、ごめんなさい。
その細かい内訳を挙げると、
私 月平均貯蓄 約 5エキュー49スゥ 計 197エキュー95スゥ2ドニエ
ロッテ 月平均貯蓄 約 25エキュー78スゥ 計 928エキュー16スゥ7ドニエ
合計 月平均貯蓄 約 31エキュー50スゥ 計 1,134エキュー11スゥ9ドニエ
と言った感じだ。
ここから借金、125エキューを返済した額、1,009エキュー11スゥ9ドニエ、が私達の商売の元手という事になる。
ただ、行商に必要なモノへの初期投資があるため、実際に最初の取引へとつぎ込める額はその半額程度にはなってしまうだろうが。
しかしまぁ、これほど投入する資本に差があっては、彼女の言うとおり、私は馬車馬のように働かねば釣り合いが取れまい。
建前上、共同経営《コンパニーア》というものは、必ずしも出資額の多寡で発言権が強まったり弱まったりすることはないのだが、実際は資本を多く握っている方が強いのは当たり前で、それはどのセカイでも同じなのである。
まぁ、彼女が首を縦に振らず、アテが外れてしまっていれば、独立まであと二年、いやもしかしたら三年は掛かっていただろうし、一人旅というのは安全の面でも、精神的な面でもきつかったから、かなり感謝はしているのだけれど。
私はきっと彼女に依存しているのだろうね。
最初はどうやって逃げ出そうか考えていたのだけど。いやはや、月日というのは凄いモノだなぁ。
「しかし、物臭なアンタが、よく行商なんかに付いてくる気になってくれたわ」
「そりゃ、妾が目を離したら、主が約束を違えて逃げ出すやもしれんからな」
「げ、何よそれ。そんなに信用ないか、私?」
「人間とは総じてそういうものじゃろ。……ま、それは半分、じゃが」
「半分?」
「主の予定では、国外を回って商売するのじゃろう?」
「あ、うん。とりあえずアルビオン以外の国は全て回って見るつもり。何処にチャンスがあるかわからないからね。そこではっきりとした交易ルートを確立出来れば、次からはまた違うかもしれないけど……」
ロッテの問いに、私は自分の構想を素直に吐きだした。
アルビオン以外、というのは、きちんとした理由がある。
空に浮かぶ孤島である彼国は、立地の面からして余所の商人が遍歴する舞台には絶対的に向いていないのだ。
馬車を連れた遍歴商人がフネに乗るとすれば、大量の運賃が必要となる(風石で浮くフネに積載できるモノの重量はそれほど大きくはないのだ)。
そうなれば必然的に商品の値を釣り上げねばならなくなるが、それではいくら小回りが利くとはいっても、商社との価格競争の関係で、モノを捌くのは厳しいだろう。
何せ、商社の場合、一度で運ぶ品物の量が圧倒的に多いし、船主や運送屋との結び付きも強いのだ。
同じモノを扱うのでも、馬車一台分しか荷を運べない、一見客である遍歴商人とはモノ一個に対しての運賃効率が全く違うのである。
それでも、もしアルビオンに大きなチャンスがありそうならば、無理をしてでも訪れようとする者もいるだろうが、好況な我が国とは裏腹に、近年のアルビオン経済には全く活気が無い。
トリステインと同じく、魔法(貴族)絶対主義な所も、上昇志向の商人にとってはマイナスだ。
一昔前までは、アルビオンと言えば、造船を始めとした重工業、また、畜羊に伴う毛織物工業や製紙工業など、多くの工業分野において並ぶもののいないという技術国であったのだが、近年になって、その地位がゲルマニアを始めとした他国に脅かされ始めた事により、慢性的な不況に陥っているのである。
元々、孤立した立地、塩を始めとした生活必需品を自国で生産できない、賄いきれないという悪条件、そして資源の絶対的な不足という点から、交易では常に不利を強いられてきた国なのだ。
“他国より優れた技術力”という、ただ一つの長所をもぎ取られてしまえば、モロにその煽りを受けるのも至極当然と言えた。
ここ最近に至っては、商人達の間では、まことしやかに不穏な噂、つまり内乱の可能性を示唆する噂が飛び交っているほど。
ま、とはいっても、今日明日にドンパチが始まるわけではないだろうけどね。
武器や火薬、秘薬、食糧他、戦争必需品の需要が極端に上がっている訳ではないし。
しかし金の切れ目が縁の切れ目とはよく言ったものだ。。
金を産めない、持って来れない王家が、内憂に悩まされるのはごく当然の事。
かつては現在のガリア・フランドル地方までを領土に加えていた程の隆盛を誇った国とは思えないほどの凋落ぶりである。
三年前、最初の勉強会を思い出す。
あの時、エンリコさんや、双子達は「内乱なんて起こらない、冗談だ」と言っていたが、それはまだ幼かった私を安心させるための嘘だったのかもしれない。
何年か前から、アルビオンの噂は一部商人達の間では有名だったらしいのだ。
まぁ、そんな理由もあり、国外の遍歴商人達は、まずアルビオンを訪れるのは避けるし、私もまた、同じような理由でスルーする事にしたのだった。
確か、“原作”によれば、アルビオンの内戦が起こるのはもっと先だったとかもしれないけれど。
しかし、現在の私はもう、あまり“原作”などアテにはしていなかった。
何故か?
私にとって、このセカイは決して架空のものではないからだ。
ロッテも、フーゴも、親方も、そして他のみんなも、決して、虚構の物語に登場するキャラクターなどではないからだ。
このセカイに存在する全ての人間が、現実に存在する一個の人間なのであり、そこで起こる事象も全てが本物なのである。
事実は小説よりも奇なり。そこに予測しうる未来など存在し得るはずもない。
“原作”は飽くまで本の中のセカイである。
類似した点があるとはいえ、現実に存在するこのセカイはそれとは全く別物のはずだ。
私の“原作”に対する認識を喩えるなら、それは飽くまで“予言書”であり、外れるも八卦、当たるも八卦という、何とも怪しげであまり役に立たないモノ、という認識だ。
第一、 今となっては“原作”で起こる事件の内容を信じるのはちょいと無理があるし。多分、ハルケギニアに民ならば誰もが信じることはできないだろう。
“伝説”や“奇跡”なんてものはまず起こらない事象だからそう言われているのだから。
農村で意志の無い人形のような人々に囲まれ、自分自身もそれに流されるままの暮らしをしている頃には、そんな考えは浮かびもしなかったけれど、自分の足で立ち、世の中の事を少しずつ理解していくにつれて私はそう思うようになった。
スカロンの例を見ても、“原作”によって予定された歴史というのが如何にアテにならないかが分かるというものだ。
決まりきった運命など存在しない。して良いわけがないのだ。
「この機会に他の国を見て回るのも良い経験じゃ、と思ってな。何せ、妾はこの国に来るまで、ガリアから一歩も出たことが無かったし」
「え、そうだったっけ。一世紀以上も生きている癖に?」
「言っておくが、吸血鬼の世界で100歳とは、人間で言うと16、7歳じゃからな……?」
「え、えぇ、そうね。とってもお年頃だもんね」
心肝を寒からしむるような顔で念を押すロッテに、私は喉をひきつらせながらも、一も二もなく同意した。
いけないいけない、つい口が滑ってしまった。種族に関係なく、女の年齢に触るのは良くない事ね。
商売の時にはうっかりといらない事を口から漏らさないように気をつけなければ。
「ふん、しかしそれは別に変ではなかろう。人間にしたって、一生同じ所に引き籠っておるのが普通ではないか?」
「ん、引き籠るっていうのはやや語弊があるけれど……。確かにそうかもね。農民や職人は言わずもがな、商人や貴族や坊主連中にしたって、一部しか国外には出ないか」
「うむ。……それに、一度はガリアに戻らなければ、な」
「ん?」
「いや、何でもない」
ぽつりと呟いた言葉の意味を聞き返すが、ロッテは首を横に振ってそう答える。
ふむ。大した事ではないかな。久々に里帰りでもしたいのだろう。
何か重要な事を忘れているような気がするけど……。多分気のせいだね。
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「ま、商売に関しては私に任せて、ってことで旅行気分なのはいいけどさ。売り子と護衛くらいは頼むわね」
「売り子はともかく、護衛? もう主にお守りなどいらんじゃろ。何のために鍛えてやったと思っておる」
「うん、まぁ、そこらのゴロツキくらいなら大丈夫そうだけど。万一、メイジの賊とか、人外とか、幻獣とかに遭遇したらさ」
「そんなものに早々出食わす訳がなかろう、たわけめ」
私が口にした懸念を、ロッテは鼻で笑い飛ばして、ベッドに再び寝転んだ。
いや、現に私の目の前にいるじゃないですか。
それも“最悪の妖魔”と呼ばれている人外さんの中でも特に凶悪なのが。
あ、人外、というのは、“亜人”というとロッテが怒るからだ。
亜人ってのは人間より劣っている人の形をした種族、という意味だからね。
彼女からすれば、劣っているのはどう考えても人間の方じゃろ、ということだ。
……ま、普通に考えれば、主街道を通っている限りは、彼女の言うとおりそんなものに出食わす事はないはず、なんだけど。
しかし、どうにも私はブリミルに嫌われているみたいだからね……。
「……しかしまぁ、話は変わるが、いつみても色気のない格好じゃなぁ。もう13になるというのに、もう少し化粧をするとか、ヒラヒラしたのを着るとかせんくていいのか?」
「あほらし。商人世界ってのは男の世界なんだから、そんなふざけた格好で出来るわけないでしょ。第一お金がもったいないし」
「やれやれ、仮にも妾の妹と名乗る者がこの無頓着さとは。よくこんなズボラに惹かれた男がいたものじゃ」
「は? 誰の事?」
「……本気でいっとるのか、それ?」
信じられない、という表情でベッドから跳ね起きて訝しげに言うロッテ。
後輩のエーベル君あたりの事だろうか。
確かに彼はリップサービスだけは上手いが……。まさか本気ではあるまい。
はっ。それとももう一人の後輩のディーター君か?
何と言うか、彼からちょっと粘っこい、血走った視線を感じる事がよくあるのよね。主に胸のあたりに。
気持ちはわからんでもないが。でかくなり過ぎだろう、コレは……。
まさに桃リンゴも真っ青の大きさである。動きにくくて仕方がない。ダイエットでもしようかしら。
「はぁ、ヤツも浮かばれんなぁ。こんな朴念仁が相手ではご愁傷としか……。まぁ、妾としてはその方が都合は良いが」
「だからヤツって誰よ?」
「だからあの必死な小僧じゃって」
「フーゴの事? それこそまさかよ。それはないそれはない。あははは」
顔の前で両手を振って否定する私。
このところ、フーゴの様子がおかしいのは、私も気付いてはいるのだけれども。
喋り方が何か気障っぽくなっていたり、振って来る話題の内容がやけに恋愛方面に偏っていたり。
突拍子もなく「俺の上達した魔法の威力を見ろ!」などと言って、魔法の練習に付き合わせようとしたり(勿論全て断ったが)。
「実家から贈って来た」と言って、色々なものを押しつけて行ったり。まぁ、それはありがたく頂戴しているけど。ちなみに先の石鹸も彼のプレゼント? である。
あとはこちらをチラチラと見ながら、「旅に出たいなぁ」とか言って溜息を吐いたりとか。
こうやって列挙してみると、怪しい事は怪しいのだが。どうなんだろう……。
フーゴ、ねぇ。
子供っぽい所がダメね。あ、でも無駄にプライドが高かったのは少し改善されてきたか。まぁ、私から見ればまだまだだけど。
いや、でも意地が悪いからなぁ。あれ? でも最近は妙に気が利くようになったかも。いざという時には意外と頼りになるような気も。
いやいや、でもでも私並みに背が小さ……くもないか、もう。
…………。
いやいやいや!
大体、アイツはばりばりの上級貴族のご子息なわけだし、そんな訳がない!
それに、私は前からロッテに公言しているように、色恋沙汰になど興味はないのだ。
ないったらないのだ。うむ。
「笑い声が乾いておらんか?」
「と、とにかく! 私にはそんな事にかまけているような暇はないの。お金の神様はやきもち焼きでね。全ての時間と労力を捧げなければ振り向いてくれないのよ」
「ふぅん。ま、ひとまずはそういう事にしておくか」
「……ぬぅ」
無駄に声を張り上げて言う私に、ロッテは訝しげに目を細める。
そういう事にしておく、というのが少し腑に落ちなかったけれど、ここでこの話題は打ち切りなのだろうし、と、私は否定しようとする言葉を喉奥に抑えた。
「……しかし、前から思っておったのじゃが、そんなに金ばかり集めて、結局、何をするつもりなのじゃ?」
「ん? うん。とりあえず今までは独立する事が目標だったけど」
「ほう。で、今は? 聞かせてみよ」
「えぇ、言うの?」
「むっ、共同経営者に具体的目標を示さんとは、そういうのは重大な裏切りではないのか?」
「……そう言われると弱いなぁ。そうね、私の、“新しい目標”は自分の店を持つこと。目指すはカシミール商店って感じね」
そう、それが私の“新しい目標”であった。
商人としては月並みかもしれないが、それだけ多くの人間が目指す目標地点という事は、“自分の店を持つ”事が、一つの完成された成功の形、ゴールである事を示している。
無論、それを為した後の方が大変であり、大切である事はいわずもがななのだろうけど、今の私はそれ以上の事など考える気はなかった(そもそも“自分の店を持つ”という目標だって相当に困難な道なのだし)。
それはまさに取らぬ狸のなんとやら、というやつであるからだ。
今までの目標は“見習い”という立場から“独立する事”であったけれど、その時だって、独立した先の事をはっきりと計画していた訳ではない。
今回は、“遍歴商人(仮)”という立場から、“自分の店を持つ事”に目標を設定したのであり、その先の事はやはり、実際にその時になってみなければわからないだろう。
私は思うのだ。
“目標”というのは高すぎても遠過ぎても駄目だと。
今ある状況から立てられる“小目標”、例えば、「今回は林檎1個しか売れなかったけれど、次は2個売れるようにしよう」
きっとこんな簡単な事でも、一つ一つ達成していけばいいのではないだろうか、と思う。
その目標設定と達成を日々着々と積み重ねて行く。
これこそが重要である、と私は考えていた。
勿論、最終的にどんな人間になって、どういう事がしたいのか、という漠然としたビジョン──“人生の目標”はあるけれど、ね。
でも、それは人に語るような物でもないし、そんな遠くだけを目指して飛んでいては、やがて疲れ、萎え、堕ちてしまうだろう。
「ふぅん」
「ふぅん、って……。もう少し何かあるでしょ、リアクション」
「いや、何か思ったより普通でつまらん。せめて、『この国の秘所に巣食う闇の王』とか、『私が新世界の始祖になる』とか言うのかと」
「……アンタ、私が阿呆だと思っているでしょ?」
「何と、違うのか?!」
馬鹿にしたような顔から一転、心底驚いた、というように言うロッテ。
「はいはい。そうですね、違いませんよ~」
「くふふ、拗ねるな拗ねるな。しかし、それっていくらくらいかかるのじゃ? 金額的に」
「そうね……。商社ってのは小売店とか飲食店とか、そういう普通の店より遥かに初期投資が嵩むからねぇ。大体一店舗で最低で10,000、いえ12,000、13,000エキュー、くらいはかかるかしらね」
「うぇ?! そんなにかかるのか?」
「そ。カシミール商店なんて本店一店舗で初期投資がその三倍近くだったらしいわよ」
「はぁ」
「ま、私の場合はあれほど立派なモノまでは建てる気はないから。でも、他の商社の代理店でもない限りは、一店舗だけじゃしょうがないから二店舗にしたかったり、取引請負人を頼むにしたってお金がかかるし、他の経費なんかも考えると……」
「……考えると?」
頬に指をやって、疑問符を浮かべた顔をするロッテ。
どうやら額の大きさに頭がこんがらがっているらしい。
「ずばり、遍歴の旅で得る目標額は30000エキューって所ね」
「さんまん……本気でか?」
ロッテは目を点にして呟く。
うん、私も大した金額だとは思うよ?
元手1000エキュー未満(借金を棒引きするとね)から30倍以上にするっていうんだから。
いや、まじ半端ねぇわ。
「本気も本気、大マジよ」
「ふふふ、じゃあその8割は妾のモノ、という事じゃな」
「ぶぶー! 《コンパニーア》で得る配当額の大小は、最初の出資額の多寡よりも会社に対する貢献度が重要なのでっす。これ常識ね。よって、護衛もしたがらないアンタには2割程度が妥当です」
「ほぅ……。言いたいことはそれだけか?」
「何よ、やる気?!」
「いや、権利を使おうと思ってな」
「は?」
「貯金レース」
「うっ……」
やばい、そんな事すっかりと忘れていた、というか、忘れていると思っていたのに……!
一瞬で不利を悟った私は、滑るように土下座の姿勢を取り、言った。
「ごめんなさい、私の分際で調子のりました。すいません、協力して下さい、リーゼロッテ様」
「くっひゃはは、最初からそう言えば良いのじゃ。主にはそういう態度が似合っておるぞ」
そう言って、私の垂れた頭をぺしぺし、と叩くロッテ。
──畜生、いつかこの関係を逆転してやる……!
いつまでたっても彼女に頭があがらない現状に、私は心中で密かに、もう一つの“新しい目標”を設定したのだった。
つづけ