<ep.4 とある見習いの恋愛修行 年度が変わり、そろそろ五月病が発生するであろうウルの月>
「……フーゴ! 何ぼーっとしてやがる!」
朝一の在庫確認作業の前、俺が眠い目を擦りながらぽけっとしていると、この春から見習い頭に就任したギーナさんから怒号が飛んだ。
どうやらもう始業時間のようだ。
無害だったはずのギーナさんが見習い頭になってからというもの、油断しているとガンガン雷が落ちるし、ゲンコツが飛んで来るようになった。もっとも、口調はあまり変わらないが。
喩えるなら“少し口下手な親方”ってとこか。というか、この人こんなにガラが悪いとは思わなかった……。
年長者であるエンリコさんが巣立ち、人手が足りなくなったカシミール商店では、その穴を埋めるかのように、二人の新入り見習い達を雇い入れた。
当初、頼りになるリーダーが居なくなった事で少々の不安はあったが、エンリコさんの後釜として見習い頭に納まったギーナさんが予想外のリーダーシップをみせ、商店は何事もなかったかのように、いつもどおりに回っている。
弟であるゴーロさんの方は、兄貴の変貌ぶりを見て色々と焦っているみたいだ。
俺としては、自分が見習い頭になれるんじゃないか、なーんて思っていたんだけどな。ちっ。
ま、それはカシミール商店の、というか、大体の商家の決まりごととして、見習い同士の序列は実力主義ではなく、勤続年数順の年功序列になっているから仕方ないっちゃ仕方ないんだが。
実力主義、なんて事にしても、半人前に過ぎない見習いの実力を目に見える形で評価するなんて難しいし、見習い同士のイザコザに繋がりかねないからな。
「……ちっ、このウスラ馬鹿。お前がすっとろいから俺の方が怒られたじゃねーか」
俺はギーナさんに向けて軽く頭を下げながら、隣にぬぼーっとして佇んでいたうすらでっかちの新入りを小突いた。
ぶっちゃけ、ただの八つ当たりであるが。
「ウス……。ごめんなさい。フーゴ先輩」
うすらでっかちは人の良さそうな丸っこい顔をすまなそうに歪めて素直に謝った。見事な太鼓腹が頭を下げるのと同時にボヨンと揺れる。
フーゴ“先輩”か。うーむ、何回聞いてもいい響きだな……。
これでドンくさいのとうっかりしているのさえ直れば、悪い奴ではないんだが。
コイツは今年入った見習いの内の一人で、名前はディーター。
現在は俺の下で色々と仕事を覚えている最中だ。
やっと俺にも子分、もとい後輩が出来たのは嬉しいのだが、その事で一つ問題が浮かび上がっていた。
別にディーターに問題はない。
いや、まぁ、仕事の覚えが遅いとか、動きが鈍いとか、新入りの癖に俺より背がデカイとか(誤解のないように言っておくが、俺だってかなり背は伸びている!)はあるが、基本的には俺の言う事を良く聞く、可愛いヤツである。
問題はもう一人の新入り、もといあの腐った根性のマセ餓鬼なのだ。
「……と、言う訳だから、お金の計算はまだ任せられないと思うけど、重量計算の時も絶対にこの算盤《アッパゴ》を使わないといけないの」
「なるほど~。……いやぁ、アリア先輩の教え方はイイッスね。何て言うか、賢いだけでなく、相手を思いやる事のできる清らかな心が滲み出ていると言うか」
チラリと、そのマセ餓鬼、エーベルの方に視線を向けると、丁度アリアのご機嫌を取っている所だった。
ぶりっこ野郎め……。男の癖に気持ち悪いんだよ、この野郎!
コイツの見た目はエンリコさんを縮めて幼くしたような感じだが、性格はまるで正反対。
軽薄、不真面目、狡賢い、と三拍子揃った腹の立つ餓鬼なのだ。
そして、最悪な事に、俺の下にディーターが付いているように、アリアの下に付いているのはこのエーベルなのだ。
この人事については、今まで疑う事のなかった親方の判断に疑問を覚えたくらいだ。
あんないい加減なマセガキを雇い入れた挙句、あまつさえ、女であるアリアの下に付かせるとは……。
「いつも社交辞令有難う、エーベル君」
「社交辞令じゃなくて本心ですって~。と、言う事で、今日の夜、個人的に授業とかしていただけないッスか? もちろん、二人っきりで」
「はぁ、そういうのは街を歩いている美人の女の子にでもやってちょうだいね」
「何言ってるんスか! アリア先輩以上の美人なんて、ゲルマニアには、いえ、ハルゲキニアには存在しないッスよ?」
「はいはい、どうもね」
エーベルのフザけた誘いの言葉を、軽く躱すアリアだが、その様子からは別段嫌がっているような様子は見えない。
むしろ、“美人”と呼ばれた時、微妙にその顔が綻んでいた。
あの、クソガキめ……。またか……!
アリアもアリアだ。
そこは躱すのではなく、怒鳴りつけるべきじゃないか?
……まぁ、この前、その事を俺が追及したら、「後輩がミスや間違いをしようとも、考えなしの頭ごなしに叱るのはよくない。それは自分の評価をも下げる」なんて大層な持論を説かれ、成程、と少し納得してしまったのだが。
それだからか、アリアは後輩達に対して、褒めたり注意したりする事はあっても、あまり怒りつけることはしないようだ。
だから余計にあのマセ餓鬼が増長している気がする。
クソ、もし俺の下についていたら死ぬほど扱いてやったってのに……。
「フーゴ先輩……」
「あぁ?!」
ぎり、と俺がアリア達の様子を見て歯ぎしりしていると、ディーターが不安そうな声で話しかけてくる。
「ごっ、ごめんなさい……。あ、あの、フーゴ先輩の顔が」
「は?」
「その、怖いです。人食いエルフみたいな顔になってます……」
遠慮気味に言うディーター。
む……。そんなにキレてたか、俺は。
まぁ、エーベルの不真面目さには、相当頭にきているのは事実だが。
断じて、葉の浮くような台詞をぺらぺらと口にできるマセ餓鬼に対する嫉妬や羨望などではない。ないったらない。
「あのぉ、もしかして、フーゴ先輩って……」
「んだよ、仕事中に無駄話すんな、ウスラ馬鹿。アッチの腐ったマセ餓鬼みてーになるぞ」
俺は顔を顰めて、背を向けたまま、親指でエーベルの方を指す。
「う……ごめんなさい」
「はぁ、まあいい。言ってみろ」
ディーターから話しかけて来るのは珍しかったので、俺は注意するのもそこそこに、コイツの発言を許すことにした。
「そのですね、フーゴ先輩とアリア先輩って、あの、つっ、付き合っているんですか?」
「ぶ……っ!」
予期せぬディーターの爆弾発言に、俺は盛大に噴き出した。
「そっ、そんなわけねーだろうが?!」
「えっ。そうなんですか? じゃあ、フーゴ先輩の一方的な片思い……」
「ち、ちがぁーうっ!」
いや、本当は違わないんだが……。
そうだとしても、後輩の前で、いや人前で言えるか、そんな事!
「……って、何でお前がそんな事気にしてんだよ。ドンくさい癖に」
「うぅ、そ、それはぁ」
顔を赤くしてその巨体をくねらせるディーター。
頼む、やめてくれ。目に毒だ。
というか、コイツ。
「お前、まさかアリアに」
「ちょ、ちょっとイイなって、思った、だけです」
「あ゛……? ちょっと、だと?」
ディーターが何気なく発した一言に、俺の中の何かがカチン、と来た。
「ひっ……。その顔止めてください!」
「どこがイイのか言ってみろ」
「はい?」
「いいから言えつってんだ!」
「え、えぇと、顔とか、その、おっぱいとか……」
「それだけか?」
「え? あ、あとイイ匂いがします」
「……何だその理由? フザけてんのか、お前、あぁん?」
「ぐぇ?!」
ぐぃ、とディーターの胸倉を掴みあげて詰め寄る。
馬鹿かコイツは。何も分かってねー癖に、何が“ちょっとイイな”だ。
まぁ、確かにアリアの容姿は飾り気こそないものの、決して悪くモノではない。いや、むしろイイ。
……ごめん、ぶっちゃけ、ド真ん中だ。
意志の強さを感じさせる大きな目と細い眉。
思わずむしゃぶりつきたくなる小さな唇。
控えめな感じに配置された低めの鼻。
なんとなく妖しさを付加している泣き黒子。
ふわりとした少女特有の甘い匂いを放つ栗色の髪。
軽く抱いただけでで折れてしまいそうな首と腰。
今も成長し続ける二つのモンスター、もとい柔らかそうな双丘。
それでいて俺よりも小さな身長。
えーと、それから……。
「……フーゴ先輩、涎が」
「はっ」
不可解そうに目を細めたディーターに指摘され我に返る。
いかんいかん、つい遠いセカイにトリップしてしまっていたようだ。
「とっ、とにかく! お前如きが相手になるような女じゃないんだよ、アイツは」
「そ、そんなぁ」
そう言って胸倉を掴んでいた手を乱暴に放すと、ディーターはがっかりしたように言う。
はっ、他人に言われたくらいで諦めるなら最初からそういう事は言うんじゃねーってんだ。
大体、一番見るべき所ってのは、単純な外面の話じゃなくて、もっと内面的な部分だろうが! このド素人が!
「ま、そんな無謀な事はさっさと諦めて、せいぜい仕事に精を出せや、な?」
「……お前もな、フーゴ」
「うっ」
ディーターを見下ろすように(見下ろせていないが)言うと、いつの間に背後に回り込んでいたのか、ギーナさんの冷たい声が。
「……罰としてフーゴ、ディーター組は、本日、連絡員と行商人が持ってきた荷の積み降ろしを全て二人でやること」
「お、横暴だっ!」「そ、そんなぁ、酷い……」
「……何か?」
「あ、いえ、なんでもありません」
俺とディーターは罰の厳しさ(見習いの仕事では、積み降ろしが一番肉体的にキツイ作業なのだ)に異議を申し立てようとしたが、結局、無表情にぱきぱきと指を鳴らすギーナさんの迫力に押しきられてしまった。
「何やってるのかしら、アイツは……」
「見てて飽きないッスね、フーゴ先輩は。それよりさっきの件──」
「はいはい、君も仕事の時はしゃんとしないと、あっちの馬鹿みたいになるわよ」
「それはイヤッスね……」
俺達が項垂れる中、アリア、エーベル組は俺達を冷めた目で見ながら、そんなやり取りをしていた、らしい。
*
「くそ、まずい、非常にまずい」
散々だった一日の仕事を終えた後、そそくさと寮の自室へと帰った俺は、部屋の中をウロウロとしながら呟いた。
最大の危険人物であったエンリコさんが居なくなったと思ったのも束の間、まさか、あの腐ったマセ餓鬼に続いて、信じていたウスラ馬鹿までアリアに好意を抱いているとは。
憎らしい程完璧だったエンリコさんならともかく、さすがにあの新入り共如きに負ける気はないが……。
しかし万が一、まかり間違ってあの馬鹿共のどちらかに靡く事もなきにしもあらず。
何しろ、この俺がこれまでどれだけちょっかいを出しても靡かないほど鈍感極まりない女なのだ。
きっと男を見る目も無いに違いない。
となると、やはりここは俺がアイツを碌でもないヤツらの魔手から守らなければなるまい。
吸血鬼に誘拐されて以来、俺がさして興味もなかった魔法を鍛えているのも、もし次があればアイツを守りきる(そして見返す)ためなのだから。
しかし、どうやって?
答えは至ってシンプルに。
そう、俺に惚れさせればいい。
そうすれば、他のつまらない奴らになんて目もくれないようになるはず。ふむ、我ながら完璧な理論だ。
しかし、今までのアイツの反応から、俺が思いつくような方法ではそれが厳しい事は立証されている。
……何? 直球勝負で愛を告白しろ?
他人事だと思って無茶言うな! 失敗したら取り返しがつかないだろうが!
「……く、出来ればアレには頼りたくないんだが、な」
そう言いながらも、俺はベッドの下をまさぐり始めた。
そして手にしたのは、数か月前にゴミ箱へと放ったはずの、くしゃくしゃになった我がお袋、ヴェルヘルミーナからの手紙。
当初、その何ともお花畑な内容、『意中の彼女をオとす100の方法~基本編』という表題をちらりと見て投げ捨てたのだが、もしかすると何かに使えるかも、と思ってベッドの下に放り込んでおいたのだ。
どうしてお袋がこんな訳のわからない手紙を送って来たのかは不明だ。
相変わらず意図の読めない母親である。
まぁ、実家を飛び出した俺が、今更お袋に頼るなんて(特に“こういう類の事”では)、甚だ不本意であり、癪であり、出来れば御免こうむりたいのだが、今回に限ってはそれも致し方ない。
何故なら、これは全てアリアのため。
断じて俺の欲望のためではない。うん。
だから、手段を選んでいる場合ではないのだ──
そうやって俺は自分を納得させ、恐る恐るその文面に目を走らせた。
「えぇと……。“ステップ1。とにかく彼女を褒めちぎれ。ただし、彼女のコンプレックスを無理矢理褒めてはならない。自信を持っている箇所を褒めるべし”、か」
褒める……。
俺からすると、わざとらしい褒め殺しってのは逆に気分を害すると思うんだが。
女からすると違うのだろうか?
あー、でも、そういえば、エーベルの見え見えな煽てにすら少し気を良くしていたようだし……。
あぁ!ぐだぐだ考えても仕方ないな。とりあえず実践してみない事には。
「よし、やってみるか」
そう言って俺は一息つき、早速、同じ寮内に存在するアリア達姉妹の部屋に向かう事にした。
アイツの受け売りだが、“善は急げ”というらしいし。
……あ、でも“急いては事を仕損じる”ってのもあったか。まぁいい。
「よし……、1、2、3でノックだ……」
『覗きは極刑に処す』という物騒な札を吊り下げた部屋の前。
ドアの隙間から仄かに漂ってくる甘い香りに、俺はごくり、と唾を飲み込んだ。
「1、2、3……4、5……。じゃねーだろ!」
不甲斐ない自分に突っ込みを入れる。
くそ、何を緊張しているんだ、俺は。
「おろ、あの小僧は」
「アンタ、他人の部屋の前で、何をぶつぶつ独りで喋ってんの?」
「うわっ!?」
俺がノックしようかどうか、少し、ほんの少ーしだけ逡巡していると、不意に横から声を掛けられた。
声の主はアリアとその姉、ロッテさん。
二人とも髪がまだ濡れているあたり、どうやら水浴びをして来た所らしい。
見ようとせずとも、薄いリネン生地の肌着《カミーチャ》にピタリと吸いついた身体のラインが透けて見えてしまう。
や、やばい……。
「む、いくらなんでも驚きすぎではないかのう? まさか主、夜這いでも掛ける気だったのかえ?」
「ちっ、違うっ! 俺はアリアに用事が」
「ほほぅ、男が前屈みになりながら、女への用事とな?」
「い、いや、これは!」
楽しげな声とは裏腹に、蔑んだ目で問うロッテさん。
落ちつけ、落ちつくんだ、俺!
「ほれ、お前に用事らしいぞ?」
「あ~、急ぎじゃないなら明日にしてくれない? なんか、その、ほら色々と大変みたいだしさ……」
口ごもりながら生温かい目で俺を見るアリア。
気持ちその視線はやや下を向いている。
「いや、あのな。これはその、生理的な現象というやつで、俺の意思とは」
「うん、そうかもしれないわね……。で、用事って? 手短に頼むわね」
「あぁ、お前の乳って牛並みにデカ──おうふっ!?」
俺がこの失態を挽回するために起死回生の褒め言葉を途中まで言ったところで、下半身に激震が走った。
アリアは暗い穴のような目で蹲った俺を冷たく見下している。
どうやら前屈みになっていた原因の箇所がアリアによって蹴られたらしい。
ど、どうしてだ。これ以上ない褒め言葉のはずなのにっ!
胸がデカイっていうのは女にしたらステータスなんじゃないのか?!
「最低ね。……またつまらぬものを蹴ってしまったわ」
「くっくくく、それほど溜まっておるなら蟲惑の妖精亭に遊びに来るがよいぞ?」
憤慨したようなアリアと、哀れなモノをみるようなロッテさん。
で、出鱈目な事を書きやがって! 恨むぜ、お袋おぉ! もう二度と信用、しねえ……。
ばたん、とドアが無情に閉められる音を聞きながら、俺の意識は薄れていった。
この後も彼はとんちんかんな行動を繰り返しながら、少しずつ男女の機微というものを学んでいくことになるのだが……。
果たして不器用過ぎる彼の努力が実を結ぶ時が来るのかは、誰にも分からないのであった。
<ep.5 其は主従か師弟かそれとも姉妹か アンスールの月>
ケルン名所の一つとされる、南の外れに存在する巨大な船着場。
昼間には船乗りや港で働く労働者、そして商人達でごった返しているケルンの商業における玄関口である。
しかし、基本的に夜はフネが航行しないために、夕刻を過ぎると途端に人気がなくなってしまう。
夜になっても船着場に残っているのは、停泊したフネに居残っている船員と、倉庫に泊りこんで番をしている雇われの警備員くらいであった。
そういう面から、夜の船着場というのは、ある意味では無法地帯、人目を憚るには絶好の場所であるのだ。
そして今、その無法地帯では、二人のうら若き娘が剣呑な様子で向かい合っていた。
少しでも“殺し合い”というものを齧った人間であれば、彼女らが周囲に撒き散らしているぴりぴりとした一触即発の空気を感じ取る事が出来るだろう。
「今日こそ、アンタに引導を渡させて貰う」
腕と一体化するように装着されたクロスボウをゆったりと構えたアリアは、下から相手を睨みつけながら刺々しい声色で言う。
「くは、その大言、すぐに後悔させてやろう」
ロッテは、それを嘲笑うかのように、おどけた様子で答える。
さて、アリアが持つ新型のリピーティング・クロスボウ、手弓型と命名された弩の最大の利点は、使用者の両腕が自由になるため、あまり動きが阻害されないという事だろう。
その利点は、動きの迅さと小回りが命綱である彼女の戦闘スタイルに実にフィットしていた。まさに彼女のために作られたオーダーメイドの逸品、と言っても過言ではない。
勿論、これほど武器を大幅に改造する事など、その道の素人であるアリアには不可能だ。
では誰がこの改造を? 言うまでなく、原型の提供者であるベネディクトである。
アリアはベネディクトと知り合って以来、定期的に手紙のやり取りをしていた。
その中で、彼女が実際に武器を使用しての問題点の指摘と、改良案の草案を記していたことが発端だった。
次の月には、ハノーファーから見事に改良されたリピーティング・クロスボウが送られてきた。
同梱されたベネディクトの手紙には、『恐れ入ったか』と書かれていた。どうやら、素人に作品の欠点を指摘された事で職人魂に火が点いたらしい。
それからというもの、まるで日記を交換するかのごとく、アリアの要望を含んだ意見書とベネディクトの試作品がケルンとハノーファーを行ったり来たりするようになった。
そして無骨な試作品でしかなかったリピーティング・クロスボウのフォルムと性能はどんどんと進化を辿っていき、現在の手弓型へと昇華されたのであった。
ちなみに彼女が手紙をやり取りしているのは何もベネディクトだけではない。
スカロンやクリスティアン(この場合は、相手が領主なので届かない場合も多いが)など、この街で知り合い世話になった人物にはこまめに手紙を出しているのだ。
これは手に入れたコネを失わないため、“商人は常にインクで袖を汚しているべきである”というカシミールから教えられた格言を踏まえたアリアなりの努力である。
紙代や郵便代も馬鹿にしたものではないが、こういった事にかかる金銭は惜しまない所が、彼女が経営者に向いているという一つの理由かもしれない。
「いざっ!」
どちらが放った声か、その声を皮切りに二つの影は弾けるように動いた。
「っと」
開幕と同時に、素早く後ろに跳んだアリア。
先手を取るべく、大まかな狙いをつけながら手弓型の引き金を連続して引く。
「ふん」
高速で飛来してくる毒矢の群れに対して、ロッテは鬱陶しい羽虫を落とすかのように振り払う。
「ちぃっ! 化物めっ!」
アリアは悪態を吐きながらも、ロッテから目を離さずに、流れるような動作でボックスに新たな矢束をリロードし、レバー式のハンドルをがちゃん、と素早く引いて装填を完了させる。
この辺りの動きは、一年前と比較するとかなり鍛えられているようだ、が。
「鈍い」
その隙を逃さず、勢いよく地を蹴り、一瞬にして間合いを詰めるロッテ。
アリアが手弓型を構えなおした時、既に獲物が使えるような間合いではなかった。
以前の彼女ならここでお手上げの所だが……。
「やあぁっ!」
「……っ!?」
咄嗟にアリアが繰り出したのは、鍛え抜かれた足腰を使った上段回し蹴り。
それが、ひゅん、と鋭い風切り音を立て、虚をつかれたロッテの頬を掠める。
「ほぅ……」
予想以上の迅さに感嘆の声を上げるロッテの頬からの皮膚は破け、血がにじんでいた。
まるで本当の刃物に当てられたかのよう。
もっとも、吸血鬼が持つ脅威的な再生能力によって、その傷はみるみるうちに塞がってしまったが。
「まだまだっ」
「調子に乗るなよ?」
アリアは勢いに任せて続けざまに、軸足を入れ替えた後ろ蹴りを放つ。
しかし雑になったその追撃を、ロッテは軽く利き手でいなすと、反対の腕を振り上げた。
「そぉらっ! 右から行くぞ!」
助言めいた言葉を吐きながら右拳を振り下ろすロッテ。
顔面にぶち当たるギリギリで、畳んだ腕をクロスさせ、それを受け止めるアリア。
しかし、その勢いは殺しきれず、アリアは大きく後ろに仰け反った。
「ぐっ……、それは、私から見たら左だって、の!」
アリアは助言にクレームを付けながらも、仰け反る反動を利用し、オーバーヘッドキックの要領で前蹴りを繰り出した。
「ふむ、喋る余裕がまだあるか」
しかしその足はガッチリと捕まえられてしまう。
そのまま逆さ吊りにされるアリアににこりと微笑みかけたロッテは、ぎゅっ、と拳を握り込んだ。
「ちょ、まっ」
制止も虚しく、ロッテの拳は深々とアリアの腹へと、どす、と鈍い音とともに突き刺さる。
逃れようとじたばたとしていたアリアの腕がだらりと下がる。
時間にして、開始から僅か18秒。
どうやらこれで本日の勝負は決したらしい。
「この雑魚が」
「…………う」
ロッテは宙づりのアリアをどさ、と地に降ろして吐き捨てるように酷評を下した。
しかし、完全にグロッキーになっているアリアの耳にはあまり届いていないようだ。
「む、些か強く叩きすぎたか?」
「手加減、しなさいよ、死ぬ、でしょうが」
「人はそう簡単には死なぬモノよ」
「…………」
無責任に言うロッテを、伏したまま無言で睨みつけるアリア。
「で、立てるか?」
「無理。おぶって、いや、おぶれ」
「やれやれ」
口を尖らせて言うアリアを仕方なしに抱えるロッテ。
それは、一場面だけを抜き取れば、本当の姉妹と勘違いしてもおかしくはないような光景だった。
*
赤子を抱ぶるかのように下僕を背中に乗せて、ゆっくりと歩く。
真っ暗で静かな街路に吹く夜風が涼しく心地よい。
背に押しつけられる、いつの間にか妾よりも大きくなってしまった二つの塊には少しいらつきを覚えたが。
「姉様、神様、リーゼロッテ様、ご提案があります」
そうやって、暫し無言でネグラに向かって歩いていると、背中の荷物が柄にもない言葉を紡いだ。
「何じゃいきなり。あまりの気持ち悪さに、思わず背の荷を河に投げ込みたくなってしまったぞ」
「あのさ、そろそろ鍛錬、ヤメにしてもいいんじゃない?」
「何を寝言を言っておる」
妾は甘えたような声で言うアリアの提案とやらを一蹴する。
「取りつくシマも無いってヤツ? 考え直そうよ~。もう鍛錬に関しては十分だって。別に私は傭兵になるわけじゃないし……。それに商売の事も、まだまだ勉強する事も多いしさ」
まるで妾の善意による指導を迷惑かのように言うアリア。
まったく、“師の心弟子知らず”とは良く言ったものじゃ。
誰のために、夜な夜なこんな事をやっておると思っておるのか……。
獣にせよ、人にせよ、我ら吸血鬼にせよ、“力”は絶対に必要なもの。無くて困ることはあっても、ありすぎて困る事はない。
なまじっか、偶然や奇策によって勝利を収めてきたこやつは、まだそこらへんの認識が甘いのじゃ。
ま、この鍛錬。妾の娯楽、道楽という面もあるのは事実じゃが。
日一日と成長が見て取れる、下僕の育成というのも、これはこれで面白いものじゃ。
「何故十分じゃと思うのか、説明してみよ」
「だって、この鍛錬って元々、私が自分で身を守れるようにするためのものじゃなかったっけ? もし、今、あの時と同じような危険に晒されたとして、もう十分に逃げたり、身を守ったりする程度はできる力がついたと思うんだけど?」
妾の問いに、アリアは自信ありげに即答する。
確かに、僅か1年半という期間、素材がただの人間という事を考えれば上出来過ぎるほどの上達具合ではある。
力は相変わらず貧弱じゃが、その素早さと持久力はかなりのレベルに達しておる(飽くまで人間に限定しての話じゃが)。
武器や毒の進化まで考慮すれば、既にそこらのボンクラメイジや野盗風情に遅れを取ることはないかもしれん。
身体能力に関してはノーセンスだと思われたこやつがここまで急激な成長を見せたのは、妾のパーフェクトな指導のおかげというのが、最も大きな要素ではある。
が、もしかすると【再生】を毎日のように重ね掛けすることによって、筋肉や骨格に精霊の力が定着した事もまた、一つの要因やもしれぬ。
果たして精霊と親和性の低い人間に、そのような効果があるのかはよくわからんが。
ま、しかしここで褒めの言葉を発するのは、こやつをツケあがらせるだけじゃな。
「逃げる? 笑わせるな。そんな低い志で妾の下僕が務まるか」
「おいおい、いつから私がアンタの下僕になった」
妾の極めて真面目な指摘を失笑混じりに返す下僕ことアリア。
まぁ、妾とて、今更こやつをただの下僕としか思っておらん、とは言わぬが。
「ふふん、まさか妾達が対等な関係だとでもいうつもりか?」
「いえ? どちらかというと、私の方が保護者、という感じかしら。だらしない姉の面倒を見る妹って感じ?」
「なんじゃとっ! こらっ!」
「そういう怒りっぽいところが子供なのよ~」
小馬鹿にしたように言うアリア。
くくく、今宵は、ねっぷりと舐めまわすように、限界までその血を啜ってやることにしよう。
「で、話は変わるけど、出資の件さ、考えてくれた?」
「まぁたそれか。主もしつこいのぅ」
「しつこさだけが取り柄ですから」
若干辟易とする妾に、アリアは悪びれもせず答えた。
アリアのいう出資とは、こやつの独立に、妾が共同経営者(コンパニーア、というらしい)という形で金を出せ、という事じゃ。
要するに、妾に自分と一蓮托生をせよ、と言っておるわけじゃ。
「何回言わせたら分かるんじゃ。利息は無しで金を出せ、など、そんな都合のいい話があるか」
「はぁ……。アンタこそ何回言わせればわかるのよ。ただ金を出せ、と言っている訳じゃないわ。共同経営っていうのはね、儲けが出れば出るほど、出資額と会社に対する貢献度に応じて配当が出るのよ? ケチな利息なんて目じゃないんだから」
「妾を騙そうとしたってそうはいかんぞ? それは儲けが出ればの話じゃろう。もし主が損をすれば、妾も損をするという事ではないか」
「あのさ、10年っていう短い期間でアンタとの契約、つまり『アンタに安住の地を』っていう約束を達成するには、アンタの協力が必要不可欠なの。ね、騙されたと思って、私に全てを任せなさい! 絶対儲けさせてあげるからさ。絶対、確実、安心よ! 損なんてさせないんだから」
「“絶対”を使う商人は“絶対”に信じるな、と聞いたことがあるな」
「ぬ、ぅ……」
正論を返され、言葉に詰まるアリア。
にしても、まるでペテン師のような口じゃなぁ。
ま、しかし、こやつの言うとおり、約束の事もあるし、妾の協力さえあれば、来春にも一端の商人として独立が可能という事を聞けば、出資をする事も吝かではないのじゃが。
普通は独立までいくのに、たっぷり5年はかかるというから、アリアの成り上がりにかける気概と、商人としての資質は本物なのじゃろう。
ただ、最近調子に乗り気味なこやつに、人生そう簡単に事は進まないという事を教え込むためにも、どちらの立場が上なのかを教え込むためにも、妾の威厳を維持するためにも、敢えてここはギリギリまで引っ張らなければなるまい。
「仕方ないわね」
「ふむ、やっと諦めたか」
「いえ? 今日はとことんまでアンタに、私と共同経営をする事によって見込める利益と将来性について講義をしないと駄目ね、と思っただけよ。大丈夫、今度は絶対とは言わないわ。リスクに対してもきちんと説明するから。たっぷり時間を掛けて、ね」
「う、いや、それは前にも聞いたじゃろ?」
「前は途中で寝ちゃったでしょ、アンタ。明日は虚無の曜日だし、今夜は寝かせないからね? 覚悟しておきなさいな」
顔を顰める妾に、楽しそうに言うアリア。
こやつは妾の事をサディスト、というが、こやつの方がよほどサディストじゃろ。
「何とも諦めの悪いヤツじゃこと」
「私が諦める事を諦めた方がいいわよ?」
「くふふ、まったくじゃな」
耳元で囁くアリアに、妾は観念したように吐きだし、再び前を見て歩きだした。
ふと、このままずっと歩いていてもいいような妙な気分になり、慌てて首を振ってそれを打ち消す。
妾も甘くなったものじゃなぁ、と心の中で自嘲してみるが、不思議と気分は沈まなかった。
つづけ
次回、新章突入!