時間は、少し遡る。
具体的には、黄色い太陽が、真上からケルンの白い景色をプリズムに反射させている頃。
「ふぅ……」
自室でだらだらと過ごしていたロッテは、外の景色に目をやりながら、悩ましげに白い息を吐きだした。
ちなみに、今日は遅番であるので、ご出勤は夕刻を過ぎてからである。
断じて仕事をさぼっているわけではない、という事は彼女の名誉のために付け加えておこう。
最近溜息の数が増える一方の彼女。
その原因は、お水としての人生に疲れた、などという事ではない。
言うまでもなく、同族でありながら敵対しているあの男、ジルヴェスターの事であった。
最初の邂逅以来、彼が蟲惑の妖精亭に現れる事はなく、劇作家としての噂も、とんと聞かなくなってしまった。
要するに雲隠れしてしまった、という訳である。
何とか先手を取りたい彼女は、彼が活躍していたという、ケルンの中央劇場を訪ねても見たが、劇作家であるという触れ込みが本当だと分かった事以外に収穫はなかった。
何処に住んでいたのか?普段は何をしていたのか?親しい友人は?などという情報は皆無。
捜索は完全に行き詰ってしまい、そこからは何の進展もみられず、気付けば約束の期限を過ぎてしまっていたのだ。
(むぅ。未だに何の動きも見せんとは……もしや妾には勝てんと悟って尻尾を巻いたか?)
ロッテは顎に手をやって思考する。
戦えば必ず自分が勝つ、と彼女は確信している。
それは驕りでも何でもなく、実力と経験に基づく圧倒的な自信。
(……だったら良いのじゃが。奴の自信はあれで本物のように見えたし、荒事になるのは避けられまい。……じゃが姿を隠したという事は正面切ってやり合う気はないという事。となると、何らかの搦め手で来るはず……)
そもそも、単純に自分の力量に自信があるのなら、無駄な時間など設けず、その場で戦闘になっていたはずだ。
それをしなかったという事は、ジルヴェスターは自分の実力がロッテに劣る事は把握している、という事。
向こうとしては、できれば穏便に済ませたかったはずなのだ。
その上で勝利を得ようとするならば、何らかの策を投じて来る事は明白だった。
(そうなるとアリアの方を狙って、それを交渉材料にする、という可能性も無きにしも在らず。アレは弱っちいからのう……。うぅむ、やはり妾がついておるべきか?いや、あれだけの自信を見せておきながら、そこまで情けない手を使ってくるか?飽くまで可能性の一つじゃし、四六時中妾がついておるわけにもいかんし……)
ロッテは神経質そうに部屋の中をせわしなく歩きまわる。
(結局、あちらが動きが分からない以上、具体的な手は何も打てんのか。あぁ、もう苛々する……)
最終的に諦めたロッテはアリアがよくするように、ベッドにダイブして、腹立ち紛れに枕をぼす、と壁に投げつけた。
こんな答えの出ない無限ループな思考が、ここ最近、彼女の脳内で繰り返されていた。
彼女は自分自身では、知謀に長けた脚本家である、と考えているが、客観的に見れば、それは全くの見当外れである。
それよりも、演技者の適正の方が遥かに高い。
考えるよりも、感覚を頼りに、実際にやってみた方が早いという天才型。人にモノを教えるのは大の苦手と言える。
よくもまあ、アリアに読み書きを教えられたものだ、と思うが、生徒の方が優秀だった、という事にしておこう。
この手のタイプは考えれば考える程、ドツボに嵌って失敗する。
策士としての資質は、どちらかと言えば、アリアの方に分があるだろう。
実は、彼女もその事には薄々気付いてはいる。
いるのだが、この件についてアリアに相談する事はおろか、知らせる事もしなかった。
それは、一種の見栄とプライド。
本人は否定するだろうが、妹に自分の弱みを見せたくない、という姉の心境に近いものから生まれた見栄。
吸血鬼同士の争いに人間の手を借りてどうする、というプライド。
この二つがあったために、彼女は飽くまで、今回の出来事に関しては、独力で片づけるつもりであったのだ。
とん、とん、とん。
「む……。何じゃ、まさか時間を過ぎておったか?」
暫くの間、ロッテが不貞寝していると、不意に自室のドアがノックされる。
時間が過ぎた、というのは蟲惑の妖精亭への出勤時間の事。
以前にも、こうやって寝過した事は何度かあり、その度に若干眉を吊り上げたスカロンがわざわざここまで迎えに来るのだった。
しかし、窓の外の太陽の傾きを見てみると、まだ若干余裕がありそうな時間帯である事がわかる。
彼女は訝しげに思いながらも、立て付けのあまりよくないドアをギィと開いた。
「誰ぞ?……ぬ、お主は確か、アリアの勤め先の」
「……ど、同僚デス。こ、こ、こんちは」
扉を開いた先には、カシミール商店の双子見習いの片割れ、ゴーロが緊張のためか、蒼白な面持ちで立っていた。
「(なぁんか、変な奴じゃのう……)見ての通り、妾しかおらんのじゃが。何か用かえ?」
「……お、おお、落ちついて聞いてクダサイ」
「妾は十分落ちついておるが。主こそ落ち着いた方が良いぞ」
「……アリアが、ですね」
「アレがどうかしたか?」
「……これが、その、門に。商店の」
「読めばいいのか?」
「……はい」
訳が分からない、という顔をするロッテに、自分の口から事実を告げる事を迷ったゴーロが例の書状の写しを渡す。
「…………」
「……もしかすると、悪戯の可能性も。何の要求も書いてませんし」
ゴーロは、目を剥いて書状を持った手をわなわなと震えさせるロッテを励ますように声をかける。
商店のメンバーには、一応本当の姉、という事で通っている。肉親が誘拐されたなど、どんな無愛想な人間でも気を使うのが普通だろう。
しかし、彼女は。
「……臆病者めがッ!」
「ふわっ?!」
落ち込むどころか、罵声を口にしながら、ごぉん、と壁を一発。
腰の入った拳で抉るように叩くと、寮全体がぎし、と軋んだ。
ゴーロはその凄まじい威力への驚愕のあまり、思わず素っ頓狂な声を上げた。
「想定していた、想定はしていたが。その中で最も恥ずべき物を選びよるとはな……。奴にはプライドと言う物がないのか?!」
「……あの、犯人に心当たりが?」
怒りを隠そうともせずに吐き捨てるロッテ。
その様子に恐々としながらも、ゴーロは疑問を口にする。
「……まぁ、の。それよりもお主」
「……はい?」
「妾は少し用が出来た。蟲惑の妖精亭に行って今日は休むと伝えておけ」
「……え」
「では頼んだぞ。また小言を貰うのは勘弁じゃし、無断欠勤は3日分の減棒なのでな」
「……あ、何処に行くんですか?!」
「ちょっとワルモノ退治に、の」
ロッテはそう言ってちらり、と獰猛な笑みでゴーロを一瞥すると、すんすん、と鼻を鳴らしながら、カツカツと靴を踏み鳴らして外に向かっていった。
「……ところで、蟲惑の妖精亭って、どこ?」
ロッテの後ろ姿を呆然と見送りながら、ゴーロは絶望したような顔で呟く。
蟲惑の妖精亭。健全な青少年には関わりのない場所である。
*
所は変わって、ケルンの北に広がる森の奥深く、とある資産家の別荘。
別荘、といっても、あまりにも不便な場所であったため、大分昔に打ち捨てられており、既に人が寄りつくような場所ではなくなっていた。
捨てるなら最初からそんなところに建てるな、と思うのだが、金の余った人間のすることは、いつの世も凡人には理解できぬものだ。
手入れを全くしていない別荘の天井の板は剥がれ、木組みが剥き出しになり、窓は割れ、床や壁に亀裂が入っている。
元はさぞかし立派だったであろう、ガリア産の高級家具も使い物にならないほど劣化していた。
人が住まない建物というのは、あっという間にぼろぼろになってしまうのだ。
さて、その中でも、何とか部屋の体裁を保っていた窓のない小部屋に、少年と少女が仲良くロープでぐるぐる巻きにされたまま寝かされていた。
「ん、ん…………寒っ」
壁に僅かに空いた隙間から吹き込む、肌を切り裂くような冷気に当てられ、少女の方、アリアは目を覚ました。
その刺激のせいか、起きたばかりだというのに、妙に頭は冴えていた。
「ここは……?んげっ。……やれやれ、こんなところでもセット扱いとはねぇ……」
アリアの後ろ、というかぴったりと背中合わせとなっているのは、寝息を立てて暢気に眠っているフーゴ。
「ま、死んではいないだけ、マシ、ね……」
「お目覚めになられましたか、眠り姫。スイートルームの寝心地は如何でしたでしょうか?」
「……?」
突然掛けられた声に、アリアが身をよじってそちらに目をやると、椅子に腰かけてにやにやと厭らしい笑みを向けるジルヴェスターと、その隣には、例の大男が無表情に佇んでいた。
「……これでスイートとは、随分と質の悪いホテルね。せめて暖房くらいは入れた方がいいんじゃないかしら?」
アリアは、それを睨みつけるでもなく、飄々としながら皮肉を述べた。
「これは大変失礼。しかし、随分と肝が据わっているのですね」
「吸血鬼と“お話”するのはいつもの事よ」
「私は彼女ほど甘くありませんよ?」
心外だ、という風に若干目を剥いて言うジルヴェスター。
「同じ、とは言ってないわ。ロッテの方が貴方なんかよりも数倍怖いもの。……しかし、やっぱりアイツ絡みなのね。最近あいつの様子が変だったのははそういう事、か」
「くく、言いますね。成程。彼女が助けてくれる、という信頼というわけですか?」
「信頼、ね。そんな大層なものじゃないけど。ま、来るでしょうね。自分の所有物《おもちゃ》を盗られて黙っているようなタマじゃないし」
アリアは勝ち誇ったような笑みを見せる。
アリアがロッテを“信頼”しているかまではわからないが、“信用”はしているようだ。
「ふふ、それが聞きたかった。彼女に招待を断られてしまってはどうしようと不安になっていた所でして」
「あら、招待状でも送ったの?」
「商店の方に届けさせて頂きました。貴女方の住んでいる寮に部外者が近づくのは人目に付きますし、何より、彼女と鉢合わせてしまっては怖いので」
「ふぅん……随分と慎重、というか臆病ね。でもそんな事をしたら貴方の呼んでいない、招かれざる客まで来るかもしれないわよ。例えば、役人とか」
「平民の子供が1人2人誘拐された所で官憲は動きませんよ。万一動いたとしても、貴方のニオイを追跡できる彼女しかこの場所は割り出せません」
「……一応は考えているって訳か。でもアイツを呼びだしてどうするつもり?戦うだけなら別にこんな回りくどい事をする必要はないわよね」
「戦いにも色々とやり方というものがありまして」
意味深げに笑みを浮かべるが、多くを語る気はないジルヴェスターは、そこで話を区切ろうとする。
「なるほどね。どうして争っているのかは分からないけど、要するに、正面からロッテとやり合うのは分が悪い。だから、斜めから攻めようって訳か」
「……まぁ、そんなところです。もっとも、彼女と真正面からやり合える同族など、ハルケギニア中を探してもそうはいないでしょうが。何せ、彼女は我々のような上位の吸血鬼の中でも、名門中の名門の血統、あなた達人間で言うところの、いわゆる“王族”のような物ですから」
「……は、王族?アレが?」
「ええ、ご存じありませんでしたか?」
アリアは突然もたらされた情報に、思わず目を剥く。
まあ、飽くまで人間世界に例えればの話で、実際は吸血鬼の世界に王族などはいないのだが。
「初耳ね。アイツ、どんだけ私に隠し事してんのよ。まぁ、それならあの妙な言葉遣いも納得いくけど……」
「ふ、所詮、吸血鬼が人間に心を許すことなど無い、という事ですね。……さて、そろそろ彼女もやってくるでしょう。私は歓迎のご挨拶に行って参りますので、これにて失礼させて頂きます」
「あら、つれないわね。もっと色々教えてほしいわ」
「続きは彼女の血で祝杯をあげながらでも」
そう言って乾杯する真似をすると、ジルヴェスターは椅子からスッと立ちあがり、大男に向かって小声で何やら指示を出す。
「ちぇ、俺は餓鬼のお守りかよぉ。主も人使い、いや屍人鬼使いが荒いぜ……」
指示が終わると、大男は面倒臭そうに、頭をぼりぼりと掻いてぼやく。
「文句がお有りでしたら、“交換”してもいいのですよ?先程も子供相手に醜態を見せてくれましたしね」
「あ、いや、それは勘弁して下さいよ。俺だってまだ死にたくはねえ」
「実際、既に死んでいるんですけどね……」
「へへ、違えねえ」
奇妙な掛け合いをしながら、ジルヴェスターと屍人鬼の二人組は、重そうな音のする扉を開けて部屋を出る。
程なく、がちゃり、と錠前の下りる無機質な金属音が部屋の中にも響いた。
どうやら、これで完全な密室となってしまったようだ。
恐らく、大男が部屋の外で扉の番をするのだろう。この部屋は、ただ一つの扉以外に脱出路はないので、そこを押さえておけば逃げ場はないのだ。
「はぁ、緊張したぁ……。でも結局、大した情報は聞き出せなかったわね……」
二人が出て行ったのを確認すると、アリアは大きく安堵の息を吐いた。
屋敷での経験上、恐怖に対する耐性はかなりついているものの、やはりコワイ物はコワイのだ。
「……おい」
「ぶるわぁ!」
とりあえずの危機が去って安堵したところに、突然後ろから掛けられ、アリアは不細工な悲鳴を上げて、腰を浮かせた。
「あいつらより俺にびびってどうすんだよ……」
声の主はフーゴ。いつの間にか彼も起きていたらしい。
「……あんた、何時の間に起きてたのよ?」
「ついさっき、な。それより、お前どういう事だよ?何で吸血鬼なんてヤバイものに関わってんだ?もしかして、お前も吸血鬼、なのか……?」
「違うわよ!私は正真正銘、れっきとした人間!」
「……そーか。ま、お前が吸血鬼なわけないよな……。けど、今の奴の他にもう一匹いるんだろ、吸血鬼。お前の知り合いみたいな事言ってたけど……」
「き、聞き間違えよ!実は、私が姉が、えぇと、……そう!吸血鬼退治、というか亜人退治専門の……アレよ、傭兵なのよ。凄腕の。伝説級の。何て言ったっけ、アレ?」
ロッテが吸血鬼だと知られるのはまずいアリアは、完全にテンパりながらも苦しい言い訳を考える。
もし、無事に帰れたとしても、ロッテが吸血鬼だという事がバレれば、当然一緒にいるアリアもやばい。
吸血鬼に与しているなど、昨今、ロマリアから目の敵にされている新教徒などよりよほど論外だ。
異端審問にかけられる事すらなく死刑台に直行だろう。
「は?あの美人の姉ちゃんがメイジ殺し?」
「そう、それ!あの吸血鬼は、実はその昔、私の姉が退治した吸血鬼の子供……じゃなくて、仲間だったの。その仇打ちに来たって事らしいわ」
「……なんか、すげえ嘘くせえ」
「そ、そう言えば、メイジと言えば。系統魔法を使えるあんたこそ何者?」
胡散臭そうに言うフーゴに、必死で話題を逸らそうとするアリア。
「あー……あれな、みんなには内緒にしろよ」
「何で?別にいいじゃん」
「馬鹿、俺が貴族だと判ったら、みんなが変に気を使うだろうが。それじゃ修行になんねーよ」
「は、貴族?没落した家とか、メイジの血を引いた平民、とかじゃないの?!」
「……あ」
つい口を滑らせてしまったフーゴは、思わず声をあげた。
「き、貴族といっても、どうせ下っ端の、しょっぼい役人とかでしょ?!」
「……まぁ、どうでもいいけど。フッガー伯爵家の一員だよ、一応な」
「フ、フッガー家……」
フッガー家と聞いて、アリアは、ちょっと泣きそうな顔になった。
それもそのはず、フッガー家といえば、ゲルマニア南部の商会組合を率いる、ゲルマニアでも有数の上級貴族である。
というか、カシミール商店の共同出資者でもあり、本社の代表でもある。
つまり、現在のアリアの立場から見れば、完全に天上人。
そのご子息に今まで散々罵声を浴びせた挙句、自分のせいで誘拐事件にまで巻きこんでしまったのだ。
これはロッテが吸血鬼だとバレなくても無礼打ち、よくても商店をクビにされ、国外追放されるかもしれない。
「……あの。これまでのご無礼、何卒」
「あぁ、もう!だから言いたくねーんだよ。貴族だとわかった途端手の平を返しやがって……」
フーゴはがっかりしたように吐き捨てると、アリアはやれやれ、という風に溜息をついて、先程の発言を訂正する。
「あー、やめたやめた。あほらし。あんたが貴族だろうが裸族だろうが、どうでもいいわ。だって吸血鬼の方が怖いし、強いし。実際あんたもあの吸血鬼に手も足もでなかったしね」
「へ、いつも通りのムカツク口が戻ってきたな。それでいいんだよ、馬鹿」
いつもの口調でアリアがそう言うと、満足気にフーゴは笑う。
「……で、何でそのお貴族様が見習いなんてやってるわけ?お家でマナーのお勉強でもしていた方がいいんじゃないの?特にあんたの場合は」
「なぁにが、マナーのお勉強だ。お前こそ少しは女らしくしやがれってんだ。……ま、俺は、伯爵家つっても、所詮は三男だからな。そのままいけば、爵位は当然ないし、せいぜいお前の言うようなしょっぼい役人か下っ端の軍人、それかどっかの屋敷の執事とか。そういう立場にしかなれねー。つまんねーだろ、そんなもん」
「つまる、つまんないの問題?安定した生活はできるでしょうに」
フーゴは同意を求めるように言うが、アリアは馬鹿にしたような口調で返す。
それはそうだ。並みの平民から見れば、下級貴族と言えども平民の平均所得の4倍以上の収入を得られるのだから。
まぁ、確かに大商人にまでなれば、そんな額は鼻で笑ってしまうレベルではあるが。
「お前だって農民が嫌でゲルマニアまで出てきたんだろうが」
「まぁ、私の場合は特殊よ、特殊」
「特殊ねぇ。ま、いいや。俺の“ご先祖様のように”、商人として成り上がろうと思ってな。敢えて安定した身分を捨てて、ゼロからのスタート。どうだ、格好いいだろう」
ふんぞり返って言うフーゴ。縛られているというのに、器用な奴である。
フッガー家と言えば、商人から成り上がった家系としても有名だ。
初代フッガー家の当主ヤコブは、平凡な地方の小売商の家に産まれたものの、それを良しとせず、アウグスブルグの商家見習いとして交易の道へと入る。
そこから遍歴商人、高利貸しなどを経て、当時南部を支配していたさる大貴族に、大量に貸し付けていた借金のカタとして、当時は小規模だった銀鉱の採掘権を獲得。
その銀鉱をゲルマニア、というかハルケギニア一の銀鉱に発展させ、銀の交易によって膨大な利益を得て、一気に成りあがった、というまさにゲルマニア・ドリームのお手本のような存在であった。
また、貧しい労働者用の集合住宅を、ほとんど無償でアウグスブルグに提供するなど、慈善家としても名が高い。
最も、それはかなり昔の事で、今はフーゴのように、メイジの血が脈々と流れる正真正銘の貴族となっているが。
「どうかしら。私から見ると、底抜けの阿呆にしか見えないんだけど。下級貴族からのスタートの方がいいんじゃないの?」
「無理。下級貴族がそれ以上を望むなら、軍人として戦功を挙げるとか、そのくらいしかない。軍人とかなりたくねーし。それに比べて、商人は無限の可能性があるからな」
「ふーん、無限の可能性、ねぇ。ま、阿呆には変わりないけど、上を目指す姿勢だけは、中々の物ね。少しは見直したかも」
「ほ、ほんとか?!」
アリアの何気ない褒め言葉に、少し、というかかなり嬉しそうに言うフーゴ。
「まあ……それもここを抜け出して生き延びないと、意味はないけどね」
「言うなよ……折角考えないようにしてたのによ」
「はぁ」「ふぅ」
しかし、その気分に水を差すかのように、アリアが現実を突きつけると、二人して大きな溜息を吐いた。
「……とりあえずこのロープをなんとかしましょう。これさえ外せれば、なんとかなるわ」
「なんとか、って……外しても、あの大男が外で見張ってんだろ。しかも唯一の出入り口には鍵が掛かってるし」
「大丈夫、私に考えがあるのよ。あんた、何か、尖ったものとか持ってない?」
「さすがにそういうもんは縛る前に取り上げられて……」
そう言いながらも、ポケットをまさぐるフーゴ。
「ま、そうよね。さすがにあるわけ……」
「いや、待て。あったぞ。俺のポケットに布切り用の小刀が入ってる」
「嘘?!……随分と舐められたものね……。所詮人間の子供に何が出来る、とでも思っているのかしら。まぁ、それならそれで好都合だわ」
「だな」
「さあ、ロープを切りなさい、フーゴ」
「あいよ、りょーかい。でも考えってなんだよ。俺の杖も取られちまったし、鍵が開けられたとしても、あの化物には勝てねーぞ?」
「化物退治には、ちょっと自信があってね」
「ふ~ん……」
アリアの確信に満ちた回答に、様々な疑問を抱きながらも、フーゴは小刀を動かす手を休める事なく作業を続けた。
*
すんっ、すんっ。
高く整った形の鼻をひくつかせて、雪深い森の中を、飢えた狼のように疾走する、メイジ殺し、もとい吸血鬼リーゼロッテ。
(んむ、要所要所にわざとニオイを残しておるな……。待ち伏せか?つまらん罠じゃの)
分岐点のある場所には、必ずと言っていいほど、“ニオイ”をこすりつけたような痕があり、そのおかげで、ロッテは驚く程簡単に北の森を突きとめた。
もっとも、そのニオイが分かるのは彼女をおいておらず、現在、同じ敵を捜索中であるクリスティアン達がこの方法で目的の場所へと辿りつくのは不可能であろうが。
罠、とわかりながらも突き進むロッテ。それくらい今の彼女は“キレて”いた。
(しかし北の森、か。……くっく、森を戦場に選ぶとは、奴こそ森の敗者そのものではないか)
街と違って、この時期の森に立ち入る人間はまず居ない。
なので、ここからは、ニオイがなくとも森に降り積もった雪についた、足跡を辿れば良いはずだったのだが。
(おかしい、足跡が消えた……。それに、ニオイも?)
しかし、森の途中、丁度木々が密生しているあたりで、はた、とその痕跡が消えていた。
どうしたものか、とロッテはそこで立ち止まってしまう。
(ここからは上の枝を伝っていったのか……。それにしてもニオイもないのは何じゃ?何らかの精霊魔法……何っ?!)
びゅん。
ロッテが立ち止まった瞬間、鋭く尖った枝の槍が、頭上からロッテに襲いかかった。
それは捕縛などという、ヌルい目的ではなく、必殺の一撃。
「ぬぅっ」
しかしロッテは、驚異的な反射神経で、木の葉のように宙を舞い、それを回避してみせた。
まるで猫のような機敏さ。
「む……何じゃ、ここで決着をつける、という事か」
ぐるりと辺りを確認すれば、森に生える無数の枝が、うねうねと触手のように動きながら、四方八方からロッテを狙っている。
「よかろう、やってみろっ!この、リーゼロッテに対してっ!」
彼女は紅い瞳を獰猛に光らせ、腰を落として体勢を整えると、戦闘の開始を高らかに宣言した。
(枝よ、伸びし枝よ……愚かな侵入者を穿て)
それに呼応するかのように、ひゅひゅん、っと襲いかかる伸びし枝達。
スコールのように降り注ぐ枝は、いかなる達人でも躱す事は不可能。
「ち、姿を見せずに終わらせる気か?甘いわっ!」
気合一閃。
それを全て、片手で薙ぎ払うロッテ。
襲いかかった枝達は、あまりの威力に、クッキーを砕いたかのように粉々に粉砕される。
「ふっ」
息を着く事無く、雪を蹴りあげ、地を駆ける。
(これだけ、こちらの急所を的確に攻撃してくるという事は、敵はそう遠くには居ないはず……)
そう判断したロッテは、鬱陶しい木々の相手をするのを二の次にし、まずはジルヴェスターの索敵に力を傾ける事にした。
系統魔法と違って、精霊魔法には精神力による限度はない。
よって、こういう場合、相手が疲れるまで躱し続ける、というのは得策ではなく、術者の本体を探すことが先決なのだ。
「くそ、何処じゃ、何処におる?」
しかし、何時まで地上を捜し回っても、その姿は掴めない。
かなりの距離を駆けまわり、その間も無遠慮な木々の攻撃にさらされ続けたロッテの体には、無数の擦禍傷が刻まれていた。
深い傷は一つもなかったが、息もつかせぬ攻防により、その動きには目に見えて疲れが見え始めていた。
【再生】という能力はあっても、肉体の疲労はどうにもならないのだ。
「下にいないとすれば、上か!」
(ふふ、それはどうでしょう)
地には敵がいない、と判断したロッテは天を仰ぎみる。
高く生い茂った木々の上ならば、こちらの状況も掴みやすいであろう。
「うおぉっ」
そう考えた時には、彼女は、手近な樹の太い幹を、“垂直に”駆け登っていた。
猫のように、と言ったが、訂正しよう。既に、彼女の動きは野生の獣を超えている。
「ぐっ……。最悪、じゃなこれは……」
しかし、樹上はロッテにとっては更なる地獄だった。
待ち受けていたのは、地上とは比べ物にならぬほど、密生した枝の大軍。
しかも、それを不安定な足場で、相手にせねばならない。
(さあ、行きなさい!)
上下左右、あらゆる方向から一斉に飛びかかる枝の兵隊達。
向かってくる数を数えるのが馬鹿馬鹿しくなるほどの枝の突進。
多数に無勢も甚だしい。
これだけの数を全ていなすのは不可能と判断したロッテは、自らも同じ精霊魔法【生長】で応戦しようとする。
「えぇい、小賢しいっ!……枝よ、伸びし枝よっ!妾に仇なす事を許さん!」
突進する枝は、ロッテの命令に対して、ピクリ、と一瞬、止まった。
が。
「何っ?!」
(無駄ですよ)
しかし、それは長くは続かず、その突進は止まらなかった。
万全の状態であれば、おそらくロッテの命令の方を優先したであろうが、態勢を崩しながらの精霊への呼びかけが不完全な詠唱では、いかに術者が優秀であっても、威力は半減してしまうのだ。
「くっ」
虚を突かれた彼女は、やむなく、亀のような防御態勢を取る。
如何に彼女が頑丈といえど、急所をぶち抜かれればタダでは済まない。
「ぐっ……くそっ、姿さえ見えればっ!姿を見せろ、卑怯者めっ!」
(ふふ、卑怯で結構。これが、私の“やり方”ですので)
ロッテは、突き刺さった枝を勢いよく引きぬいて投げ捨てると、怒りに髪を逆立てて罵声を浴びせるが、当然それにジルヴェスターが応えるはずもない。
これが彼の必勝を支えてきた戦法なのだから。
無策で挑んだロッテの方が甘いのだ。
「しつこい……っ?」
(足元がお留守ですよ)
執拗に襲いかかる枝達の攻撃。
上半身の急所への攻撃に気を取られたロッテは、同時に足元に伸びていた枝に気付けなかった。
「……っ!」
ぎゅるっ、と巻き付いた枝が、勢いよく彼女を天から地へと叩きつける。
そこに待っていました、とばかりに矢のような追撃が襲いかかる。
ざしゅっ、ざしゅっ、と巨大な獲物に群がるピラニアのように、枝達は何度も何度も地を突き刺す。
大量の雪が粉塵のようにキラキラと宙に舞い上がる。
地震のような衝撃に、木々に降り積もった雪が大きな音をたてて滑り落ちる。
枝が密集しすぎて、一つの大きな繭のようなものを作り上げていた。
(ここまで、ですかね?)
しかし、終わりではなかった。
ぱぁん、とその繭が強い力によって破裂する。
「があぁああっ!」
ぶちぶち、と枝を引き裂く音とともに、ロッテの咆哮が森に響く。
「く、くヒ、けひゃぁああっ、もう、殺すっ、お前は1000回殺すッ!」
四肢のあちこちの肉が裂けているが、長い髪を山姥のように振り乱して、怒り狂う彼女は未だに健在だった。
(やれやれ、これでも倒せませんか。頑丈ですねぇ。ま、気長に行きましょうか、気長に、ね)
ジルヴェスターは、その怒りの雄たけびを、まるで心地良いクラシック音楽を観賞するかのように聴きながら、不敵ににやりと微笑んだ。
つづけ