アリアが“蟲惑の妖精亭”を後にしてから、数時間後。
今日も今日とて、“蟲惑の妖精亭”はこの街の富裕層を中心とした客でごった返していた。
「ロッテちゃん、3番テーブルのお客様から、ご指名よ!」
女主人の威勢のいい声が店内に響く。
「ま、またか……少し休ませてくれんか、の」
「はは、初日からこんなに指名をとるなんて凄いじゃないか」
膝に手をついて弱音を吐くロッテに、厨房で料理を作っているスカロンから声が掛る。
「そう、かのう。これだけ忙しい割にはあまり儲けが無いような……」
「どこが?!さっきからかなりチップを貰ってなかった?」
ロッテの懐には、客の中年男達が撒いた大量のチップによって、どっしりと重くなった財布袋が入っていた。
ただ、彼女の金銭感覚は、3年間の屋敷生活によってかなり狂っていたのだった。
何せ、一人につき最低でも150エキューはする奉公人をほいほいと買っていたのだから。
「ロッテちゃーん、早く、早く!」
「ぐ、行ってくる」
「あ、これ持っていってね、リーゼロッテさん」
そう言ってワインと鶏料理の盛られた皿をずい、と突き出すスカロン。
ロッテは渋々、といった感じでそれを受け取って、指名のあったテーブルへと向かう。
「ご指名ありがとう~、新しく入ったリーゼロッテで~す。よろしくお願いしますぅ」
もしアリアが聞いていたら爆笑したであろう、少し頭の足りないような猫なで声を出すロッテ。
「おぉ~、こりゃ別嬪さんだなぁ!ささ、こっちへ」
「失礼しま~す」
指名した髭の中年男は満足げに頷き、自分の隣の席を勧めると、ロッテはにこり、と笑いかけながら、しゃなりと座る。
もはや別人である。さすが女優を自称するだけの事はあるようだ。
「今日はお仕事お休みなんですか?」
「あぁ、店の方は若い奴に任せてあるからな」
「えぇ~、お店をやってらっしゃるんですか?すごぉ~い」
世辞を言いながらロッテは、両手を祈るように組んで目を輝かせながら上目遣い。
「え、へへ。まぁ、ちっちゃこい店だけどよ」
「またまた、謙遜しちゃって。でも、そういう控えめなところも素敵だわ。お髭もとっても似合っているし。お客さん、モテるでしょう?」
当然ながら、そんな事を本心で思っているロッテではない。
はっきり言って、この髭男、どうみても女にモテそうにはない顔なのだが、髭は手入れしているし、服もパリッと決めている。
こういう男は、心のどこかで自分はイケてるはず、と思っているのだ。
それを一目で見抜いたロッテはその自尊心を擽ってやっているに過ぎない。
「い、いやぁ。俺はもう結婚してるしな」
「そうなのぉ?勿体ないなぁ」
「勿体ない?」
「結婚は結婚。恋愛は恋愛だと思いません?」
「それは……どういう?」
「あぁん、言わなきゃだめ?」
自分の頬に両手を当て、体をくねくねとさせるロッテ。
実に思わせぶりな態度である。
「まさか、そんな事……ほ、本当かい?!」
「だけど私こういう仕事をしているから……相手にしてくれませんよね?」
「そんなわけないじゃないか、大歓迎だよ!はは、ははは」
ロッテがやっているのは、いわゆる色恋営業というやつだ。
何だかんだ理由をつけて、「私に会いに来る時はお店に来てね」というアレ。
これに引っかかると、まず理性をやられ、次に金を毟られる。そして金がなくなると音信不通になってしまうという恐るべき営業方法である。
短所はあまりやりすぎると、恨みを買って後ろから刺される事であるが、ロッテに至ってはその心配はない。
こんなえげつないテクニックを駆使するという事は、彼女とて、屋敷に来る前は人間に紛れてそれなりの人生経験を積んでいる、という事だろう。
(人間の雄など単純なものじゃな。ちょっと気があるフリをしてやればイチコロよ。くふふ、クひ、くひゃ)
ロッテは堕ちていくおっさん達を見て心の中でほくそ笑む。
そして、おっさん達は、自分達にこんなに若く美しい娘が靡くわけがない、と思いながらも積むのだ。チップを。山のように。
まるでその数を競い、その勝者こそが、その花を手に入れる事ができるかのように錯覚して。
男とは、げに悲しい生き物である……。
この日、ロッテは勤務初日にも関わらず、ダントツでトップの売上(チップ)を獲得。
「しかしケチくさいやつらばかりじゃの……。100(エキュー)や200くらいポン、と出せる男はおらんのか」
しかしロッテは不満顔で、そんな愚痴を漏らしていた。
「恐ろしい子……」
それを耳にした蟲惑の妖精亭の先輩である女の子達は、突如現れた強欲な新星に、思わずそんな事を口走ったと言う。
*
「くぁ、流石に客も少なくなって来たのぅ」
「そろそろ店じまいも近いからね。明日から仕事の人も多いし」
両手を上に突き出し、伸びをしながら言うロッテ。スカロンは食器を片づけながら答える。
そろそろ夜も更けに更け、蟲惑の妖精亭の閉店時間も近づいて来ていた。
酒や料理を楽しんでいる客の数もまばらになり、店の女の子達の中には、既に帰り支度を始めている者もいた。
そんな閉店準備が始まったころ。
「キャー!」
突然、耳をつんざくような黄色い歓声が上がった。
ロッテが何事か、とそちらを見ると、入店してきた一人の青年に店の女の子達が群がっているようだ。
「何なんじゃ、一体」
「あぁ、あれは劇作家のジルヴェスター様だよ。“天才”なんて呼ばれてるすごい先生さ。店の常連でね。若い上に男前だし、気前もいいから店の女の子達に人気があるんだ」
「ほう、それは中々期待できそうな男じゃの。どれどれ…………っ?!」
背伸びして劇作家ジルヴェスターを見た途端、ロッテは固まった。
彼はすらっとした長身で、男性にしてはよく手入れされているプラチナブロンドに碧い瞳。確かに男前なのだが、ロッテはそれに見惚れたわけではない。
もっと、別の理由があった。
「ち、面倒な……」
「どうしたんだ?」
「い、いや何でもない。……ちょっと妾、気分が悪くなってしまったのでな。裏に行って来るぞ」
「おい、大丈夫か。顔が青いぞ」
何やら焦ったようにその場を離れようとしたロッテだが。
「おや、新人の方がいるのですね。では、今日はその方を」
「ええ~、今日はあの娘ばっかり指名されてるんですよ~、ずるい~」
わざとらしく、大きな声でロッテを指名する声が聞こえてきた。
「すまん、主人。妾体調が悪くて……」
「何言ってるの、さっきまであんなに元気だったじゃないの。ほらほら、疲れた時も笑顔、笑顔」
「これ、本当に……っ」
ロッテの意向を無視してぐいぐいとロッテを押していく女主人。
仕事なので当然といえば当然だが……。
「ほう、これは美しい。まるで、御伽の国から抜け出してきた姫君のようですね」
ロッテを見ると、芝居がかった仕草でジルヴェスターがその容姿を褒めたたえる。
「…………」
しかし、ロッテは目を逸らしたまま、それに答えない。見かねた女主人がフォローを入れる。
「申し訳ありません。この娘ったら、緊張しちゃってるみたいで。ほら、ジルヴェスター様は男前ですから、うふふ」
「ふふ、構いませんよ。女性が初対面の男の前で固くなるのは自然な事ですから」
気にした様子もなく、柔和な笑みを浮かべるジルヴェスター。
「では、お邪魔虫は退散致しますわねん、ロッテちゃん、しっかりね!」
「お、おい」
ロッテは引きとめようとするが、女主人は二人から離れていってしまった。
残されたのはロッテとジルヴェスターの二人だけ。他の女の子達やスカロンは、遠巻きにこちらの様子を見ているだけだ。
声までは届くことはあるまい。
「どうぞ、お席に」
「……失礼」
仄かにムスクの香りを漂わせるジルヴェスターは、自分の隣の席にハンカチーフを敷いて、席を勧める。
「はじめまして、ですね」
「えぇ、ハジメマシテ」
笑みを崩すことのないジルヴェスターとは対称的に、ロッテの表情は暗い。
「まぁ、そう警戒しないで下さい。折角のワインの味が悪くなってしまいますよ」
「……余計なお世話、じゃな」
気遣いに対して刺のある言葉で返すロッテ。
ロッテが素の状態であればそれほどおかしな発言でもないが、先程まできちんと客に対応していた事を考えれば、明らかに不自然な対応である。
「おや、どうやら嫌われてしまったみたいですね。これは残念」
「貴様のような気障な男を好くほど落ちぶれておらんわ」
「はは、手厳しい。この性格は仕事柄といったところでね。直しようがありません」
両手を開いて肩を竦めるジルヴェスター。
「……さっさと用件を言え。先住者」
ロッテはジルヴェスターを睨みつけながら、命令を下す。
そう、彼もまた吸血鬼。それもロッテよりも以前からこの街をネグラとしている者であった。
「無粋ですねぇ。出会いは一期一会、と言います。もう少しこの時間を楽しみませんか?」
「下らん」
指をぱちん、と鳴らしておどけてみせるジルヴェスターに、苦虫を噛み潰したような顔をするロッテ。
「ふむ、あまりそういった気分にはなれないといったとご様子。……わかりました、手短に用件を伝えましょう。今日はですね、この街から退去しては頂けないか、というお願いに参ったという次第でして」
要は俺の縄張りだから出て行け、という事だろう。
吸血鬼同士の縄張り争いは熾烈を極め、新参者が縄張りを荒らした場合、問答無用で殺し合いに発展する事もありうるのだ。
そういう意味では、わざわざ退去勧告を申し渡しに来たジルヴェスターは紳士的、とも言えた。
「……嫌だ、と言ったら?」
「ふふ、困ってしまいます」
「そうか、では頭を抱えていれば良い。どこへ行こうと妾の勝手じゃ」
「にべもありませんね。……そうそう、ウィースバーデンの屋敷の住み心地はいかがでした?」
ぴくり、とロッテの体が跳ねる。その様子を見てくつくつと面白そうに笑うジルヴェスター。
「……成程、こちらの事情は既に把握済み、という事か」
「えぇ、もっとも、完璧にと言う訳にはいきませんでしたが。貴女の素性程度は、ね。最初は目を疑いましたよ。同族が堂々と憎たらしい太陽の下で歩いているんですから。あれは【変化】で人間に化けているといったところでしょうか?」
「わかっておるなら聞くな、鬱陶しい」
「ふふ、正解だったようですね。しかし、そんな芸当ができる同族は普通いませんよ?素晴らしい才能です。さすがは」
「……余計な事をベラベラと……反吐が出る」
何かを言いかけたジルヴェスターの口に皿の料理を突っ込み黙らせるロッテ。
その先は彼女の触れられたくない事であったのかもしれない。
「おしゃべりな男はお嫌いですか?」
「嫌いじゃな。捻り殺してやりたいくらいに」
「ふふ、それは怖い」
吸血鬼は一般的に日光が弱点である。それは実はロッテも変わらない。
普通に日光の下に晒されれば、その皮膚は焼け爛れてしまうだろう。
しかし、彼女は昼間には、精霊魔法の【変化】を使って、その身を人間へと変える(最も外見が変化しているわけではないが)事によって、日光を克服していたのだった。
ジルヴェスターが言うように、そのような事が出来る吸血鬼はまずいない、と言っていい。
【変化】は元々、韻竜など、知能を持った幻獣種が人型を取るための魔法であるのだ。
吸血鬼などの亜人がそれを駆使する事は極めて難しいとされている。
スカロンはジルヴェスターの事を“天才”と言ったが、吸血鬼として“天才”であるのは、実はロッテの方だった。
「……しかし、それだけ調べ上げたならば尚更、貴様では妾には勝てん、と分かるじゃろうが。何を考えておる?」
「ふふ、果たしてそうでしょうかね?こう見えても腕には少々自信がありまして。ここ100年ほど、この街を動いておりませんのでね」
それは100年もの間、縄張り争いで負けた事が無い、と言っているのだ。
「どうせ“森の敗者”共程度の相手しかおらんかったのじゃろう?」
「まぁ、そうでしょうね。どれも手応えがなくて退屈でした」
「くふ、それで妾にも勝てると?」
「えぇ。おそらくは、ね」
「……貴様、妾を奴らのような脆弱な存在と一緒にするか!」
ジルヴェスターの言葉に、ロッテは今にも立ち上がりそうな姿勢になり、怒気に満ちた声で言い放つ。
“森の敗者”とは、同族との勢力争いに負けたり、人間によって追われ、野に下った吸血鬼達、そしてその子孫の事を指す。
吸血鬼の世界では、その名の通り、敗者として蔑視の対象となっている。人間で言う、賤民のようなものだ。
当然ながら、吸血鬼の世界にも、厳格なヒエラルキーが存在するのであった。
「ふふ、これは失礼。しかしながら、貴女の今の立場は彼らとあまり変わりありませんよ」
「何じゃと?」
「ガリアでは貴女のやったことの後始末で大変だそうです。モンベリエ侯爵家、でしたか。家の威信にかけて“報復”する、などと言って、私兵やら傭兵を動かして国内の吸血鬼狩りをしているそうですよ。勿論貴女の事を最優先でね。……全く、困った物です」
ふぅ、と溜息をついて額に手をやるジルヴェスター。
モンベリエ、と言えば、ロッテの“食糧”として命を落とした令嬢の家である。
ガリアでも有数の力を持つ大貴族、モンベリエ侯爵家は、一人娘を手にかけたロッテを未だに追っていたのだ。それも総力を挙げてだ。
つまりロッテは追われる者。それは森の敗者達が辿る道と同じではないか、と言っているのだ。
「ち、もう3年も経つのにしつこい奴らじゃの」
「人間というのは不思議な物です。生ある仔を捨てる親もいれば、死した仔のために狂ったような愛情を見せる事もある」
「く、くく、吸血鬼が人間の愛を語るとはな、お笑いじゃ」
「ふふ、そうですかね?」
「ふん……。しかしそれではますます出て行けんな。ガリアにも帰れんではないか」
「まことに申し訳ありませんが、そちらの事情は我々には関係ないのです。どうしても、というのであれば実力行使、という事になりますが、よろしいでしょうか?」
若干強い口調で、毅然として言うジルヴェスター。
その言葉でロッテの纏う空気が変わった。
即ち、戦闘態勢。
今にも飛び掛りそうなほど獰猛に牙を剥き出しにしたロッテの青い瞳は、徐々に深紅に染まっていく。
「この身の程知らずが……あの世で自分の浅はかさを悔やむが良い……」
殺気を込めた声で威嚇するロッテ。
「まぁ、落ち着いて下さいよ。さすがにこんなところで騒ぎを起こす訳にはいかないでしょう。それは貴女も同じ事では?」
「妾は一向に構わんが?」
「やれやれ、貴女は些か好戦的過ぎます。そんな事をしては、あの娘、アリアちゃんでしたっけ?彼女にも迷惑がかかりますよ?」
ニタリ、と厭らしい笑みを浮かべるジルヴェスター。
「貴様……」
「えぇ、彼女には私の屍人鬼を監視に付けてあります。何せ貴女と深い関係にあるようですからね。……しかし何故あんな人間の小娘に肩入れしているのです?それも生かしたまま。貴女ともあろう方が」
「べ、別に……肩入れなどしておらん。あやつは、妾の……、そうじゃ食糧兼奴隷といった所でしかない」
「ほぅ……私には貴女があの娘に従っているように見えましたが」
「愚弄するか、貴様……」
米神に青筋を立てるロッテ。もはや暴発寸前だ。
「いえ、そんなつもりは。ついつい余計な事を喋ってしまう、私の悪い癖です。申し訳ない」
「………………」
「こちらとしても、すぐに出て行け、とは言いません。新しいネグラを見つけるにしてもそれなりの時間はかかるでしょうし」
「…………それは、譲歩してやる、という意味か?」
「えぇ、そう取って頂いて構いません。こちらとしても無益な争いはしたくありませんのでね。具体的には、年内に引き揚げて頂く、という事で。どうでしょう、これだけ時間を取れば問題ないのでは?」
「……わかった、考えておく」
「ふふ、良い結論を導き出す事を願っていますよ。私としては、貴女のような美しい方の死に顔はみたくないのでね」
ジルヴェスターはそう言って、ロッテの顎を指先で持ち上げるように触れる。
「こ、この無礼者っ!」
激昂したロッテは、椅子を派手に吹き飛ばしながら立ち上がり、店中に響くような怒号を上げた。
彼女にとって、吸血鬼の男に触られるのは、人間の雄に触れられるのとは訳が違うのだ。
それは人間の女が、家畜やペットに触られるのは気にしないが、恋人でもない男に触られるのを嫌うのと同じ事。
「ど、どうしたの?」「何かあったの?」「トラブル、かしら?」
遠巻きに見ていた店の女の子達が騒ぎだす。
「どうかなさいましたか、ジルヴェスター様?」
トラブルとみるや、スカロンが厨房から飛び出して、急いで駆け付けて来る。
どうやら彼は、蟲惑の妖精亭のバウンサー的な役割も果たしているらしい。
「申し訳ありません。私の言動で、彼女に不快な思いをさせてしまったようです」
そう言って、自分の財布袋を丸ごとロッテに差し出すジルヴェスター。
どうやら吸血鬼達の金銭感覚がおかしいのはロッテに限ったことではないらしい。
「……ふざけるなっ!下衆がっ」
ロッテは敵意を剥き出しにして、その手を撥ねつける。
「リーゼロッテさん、どうしたの?!落ち着いて……」
「えぇい、離せっ!」
「な……す、すごい力……っ」
スカロンは激昂したロッテを後ろから羽交い締めにして抑えつけるが、本気になったロッテの力は、如何に大男のスカロンといえど、到底抑えきれるものではない。
「ジルヴェスター様、今日のところは……」
いつの間にか出張って来ていた女主人がジルヴェスターに、やんわりと退店を促す。
「えぇ、すいません。なんだかトラブルを起こしてしまったみたいで」
「ほほ、お気になさらず。私の方からよぉく言い聞かせておきますから、ご安心を……」
ジルヴェスターに付き添い、出入り口へと消えて行く女主人。
ロッテはその様子を、憎々しげに歯噛みしながら眺めていた。
*
「帰ったぞ……」
ぼそぼそ、と元気のない声を出しながら、自室のドアを開けるロッテ。
ロッテが部屋に帰ったのは、丁度アリアが出勤する頃になってからだった。
客に、それも常連に対して暴言を吐いたロッテは、あれからこってりと女主人に絞られたのであった。
売上はトップでも、初日からあんな騒動を起こせば当然である。
クビにならなかっただけマシ、といったところだろう。
「ほふ、ほはへひなはい(おう、おかえりなさい)」
アリアは朝食の黒パンを咥えながら、肩を落としたロッテを出迎える。
「何じゃ、一人で食っておったのか。なんて薄情な奴なんじゃ」
「ほんはほほ、いっはってぇ(そんな事いったって)」
「食ってから話せ……まったく、汚ないのう」
嫌そうに顔を顰めるロッテの言葉に、珍しく素直に従い口の中の物を急いで腹に押し込むアリア。
「一応、帰ってくるまで待とうと思ったんだけどさ。あんまり遅いからね。もう出勤しなきゃいけないし」
「む、もうそんな時間だったのか」
「どうせ何か失敗して絞られていたんでしょう?」
「さあ、の……」
いつもなら言い返してくるロッテがしおらしく、しゅんとしているのを見て、アリアは訝しげな顔をする。
「何か、貴女、変じゃない?本当に何かあったの?」
「な、何でもない、何でもないぞ。ただ、ちょっと叱られてしもうただけじゃ」
ロッテはジルヴェスターの事はアリアには話さないつもりだった。
「はぁ、初日から雷貰ったのかぁ。その分だと給金も期待できなさそうね……。折角買ったのに無駄になりそう、アレ」
「アレ?」
アリアが顎でしゃくる方をロッテが見ると、なにやらコルクの栓をした大き目の瓶が、二つ、置いてあった。
「なんじゃ、ただの瓶詰め用のガラス瓶ではないか。それも空っぽの」
「空じゃないわ、良く見なさい」
その言葉に、ロッテが瓶に近づいて良く見ると、片方の瓶には20(ヴァン)スゥ銀貨が1枚と、ドニエ銅貨が3枚ほど入っていた。
瓶のコルクには下手くそな字で「アリア」と書かれている。
「何じゃこれは」
「貯金箱、よ。独立するにはお金がかかるからね。そこに少しずつお金を貯めようと思って」
「ふむ……。もう一つの瓶は何じゃ?」
「貴女用の、よ」
その言葉に、ロッテがもう片方の瓶のコルクを見ると、こちらには「リーゼロッテ」という、これまた下手くそな字が書かれていた。
「妾にも貯金せよ、というのか?」
「別に強制はしないけど、さ。勿論、自分の給金は好きに使えばいいわ。けど、放っておいたら貴女の場合、めちゃくちゃな金遣いですぐに素寒貧になりそうだしね。せめてもの親心ってやつよ」
「……なぁにが、親心じゃ、このっ」
「うげ、怒った」
怒ったようにアリアを追い回すロッテだが、その表情は柔らかかった。
(……下手くそじゃが、もう名前は書けるようになったのじゃな。それに貯金、とはな。どうやら本当に妾との約束を守る気らしい。くふふ、律儀というか、阿呆というか)
自分では否定するだろうが、ロッテは確かに愛着を感じ始めていたのだ。この生活に。
だからこそ、それを壊しかねない事はアリアには隠して、密やかに決着をつけるべきだ、と考えていたのだった。
「しかし貯金か。そうじゃ、どうせなら競争でもせんか?」
「競争?」
「どちらが多く溜められるか、という競争じゃ。負けた方は勝った方の言う事を一つ、なんでも聞くというのはどうじゃ?」
「貴女、結構無謀ね。こういうのは、コツコツと地道な努力を続けられる者が勝つのよ?浪費家の貴女じゃ相手にならないわ」
「それは、どうかの?」
ニヤリと、笑って懐からじゃらじゃらとイイ音のする袋を取り出すロッテ。
「ちょ!何それ?!」
「妾にかかればこんなものよ。天才とは、何をやらせても一流、という事じゃな」
言いながら、ロッテは自分の貯金箱の中にエキュー金貨を1枚放った。
「き、金貨ですってぇ?」
「くふ、お主の方がこれに追いつくのは何時になるのかのう?」
「ぐぐ……見てなさいよ。レースはゆっくり、じっくりの亀が最後は勝つんだから」
悔しそうな表情を見せるアリアをニヤニヤと見下すロッテ。
「あ、やばっ、もうこんな時間じゃない!」
しばらくの間そうしていた二人だが、不意に窓から入って来る光に気付いたアリアが悲鳴に似た声を上げる。
空はもう白んできていた。
「また遅刻か?駄目な奴じゃのう」
「うっさい。それじゃ行ってくるから」
バタバタと慌ただしく駆けて行くアリア。
その後ろ姿を眺めながら、ロッテは思い出したように呟いた。
「何が、譲歩じゃ。年内には出て行け?上等じゃ、あの気障男め……。次に会った時は八つ裂きにしてくれる……」
そう呟くロッテの表情は、物語の中で語られる、恐ろしい化物である吸血鬼そのものであった。
この隠し事が、後々、どんな事件を引き起こすのかは、この時はまだロッテも、そしてアリアも知る由も無かったのである。
つづけ