「おとこは、きたなくののしるおんなのくちびるをふさぎ、おしてたおしました。しゅうどうふくをちからまかせにやぶりすてたおとこは、けだもののように……?」
「どうした?続けるがよい」
「……って、何を読ませてんのよ、この変態吸血鬼!」
「っくく、中々、読めるようになって来たではないか」
「はぁ。まぁ、ね。内容に気付かずに読んでしまうあたり、まだまだな気もするけど」
悪びれる様子もなく、平然としているロッテに怒るのも馬鹿馬鹿しい。
軽く溜息をついた後、私は硬いベッドの上にぼふ、とダイブした。
現在は仕事が終わって、従業員寮の自室で読み書きの勉強をしていたところだ。
これは毎日の日課。できるだけ早く覚えなきゃね。
紙は高いので、エンリコが私塾時代に使っていたという石板とチョークを借りてきて使っている。
口語が話せるだけあって、一度文字と単語さえ覚えてしまえば、それほど苦労はしない。
ただ、書く方はまだまだだし、ロッテが教えてくれる単語は何と言うか、偏っている。
エロ系とか。
「それはそうと、明日、一緒に行くわよ」
「前に言っておった仕事か?面倒じゃの……」
ベッドの上からロッテに声をかけると、気が進まなそうな声でロッテが答える。
明日は虚無の曜日。カシミール商店の定休日である。
私達がケルンに来てから、二週間あまりが過ぎていた。
私はこの期間で、全身筋肉痛になりながらも、少しずつ仕事にも慣れ、何とかやっていく目途が立っていたのだが、ロッテは未だに無職という体たらくだ。
読み書きを教えてもらっていなければ、もはやただのごく潰し。
「面倒、じゃないわよ。全く。働かざる者食うべからず、っていうのよ」
「それは東方のコトワザというやつか?」
「いい言葉でしょう。貴女にぴったり」
「……ち、イヤミなヤツじゃ」
ロッテはうんざりとした顔をして、プイ、と横を向く。
現在の生活は私の給金を前借りしてなんとかやりくりしている。
私の初任給は月に6エキュー。年収にすると、72エキュー。
一般的に貧民とは、平民の平均年収、120~130エキューの半分以下の収入の者を指すから、私は晴れて貧民から脱却したことになる。ギリギリだけど。
それと仕事用の丈夫な服と靴が支給された。男物なので、少しサイズは大きいが、これは嬉しいオプションだった。何せ服は一着しかもっていなかったからね。
昇給は能力と年数によって変化するらしい。
エンリコなどは、見習いでありながら、私の倍近い給金を得ている。ま、あの人はそれだけ仕事ができるし、当然なのかも。
そして私が前借したのは、二人分の家賃を引いた今月分の給金、2エキュー。とてもではないが、二人分の生活費を賄える額ではない。
「今度は逃がさないから」
「ふん、お主ごときに捕まる妾ではないわ」
初日の勉強会の後、その事を相談すると、「あれくらいの器量良しならば」とこの街の旦那達が贔屓にしているというキレイ所が集まっている酒場を勧められた。
宿が一体になっているタイプではなく、極めて健全なタイプの酒場だという。
健全な酒場ってなんだよ。
ま、売春宿や娼館に比べたら、確かにマトモなのかも。
ちなみに、酒場などの接客業や、武器屋のような小売業の定住商人の場合は、当然、その地域の商会組合(アルテ)に属している。
商社や遍歴商人と違って、その方が地元に根付いた仕事がやりやすくなるからだ。
虚無の曜日でも酒場はやっているということで、先週の休みにも、ロッテとともに酒場へと行く予定だったのだが、何時の間にか逃げられてしまっていた。
ちなみに商人が多く集まるこのケルンでは、文字の読み書きができるのは特別なスキルではないらしく、それによって職が決まるような事はないそうだ。世知辛い。
最近では、この吸血鬼、自分で仕事探しもしていないようで、昼間は街をぶらぶらとしているらしい、とは露店のオバちゃんからの情報だ。
その割に、部屋に保管してあったなけなしの生活費を露店などで使い込んでいた事もあり(今は私が肌身離さず持っている)、私のイライラは頂点に達しつつあった。
「妾、最近気付いたんじゃ」
「何?」
「働いたら負けかな、と」
「……ぶち殺すぞ、ヒューマン」
「それは妾が言った方が適切な台詞……ぬぉ、やめんか、これっ!は、鼻が曲がる……っ」
イライラをさらに煽るような発言にプチ、ときた私は腰にぶら下げた袋からハシバミ草の粉末を投げつけると、ロッテは両手で顔を覆って逃げ惑う。
ロッテの苦手なモノその一。ハシバミ草。
ま、その二はまだ発見できていないのだけれど。
以前から食事の時に、全く皿に手を付けない事が何度かあったので、不思議に思った私が調べると、全てハシバミ草の入った料理だった事に気付いた。
以来、私はハシバミ草を乾燥させて砕いた粉を入れた袋を常時持っている。私がロッテにできる唯一のささやかな抵抗だ。あまりやりすぎると後が怖いが……。
「げほっ、ぐほっ……。わ、妾が悪かった。行く、行くから」
「約束よ。破ったら部屋中にハシバミ草の粉を撒いて締めだすから」
「分かった、約束、する。分かったからもうやめて」
「よし、それじゃおやすみ」
苦しそうに喉を抑えるロッテの言質を取ると、週末の疲労感に耐えきれず、私はそそくさとベッドに潜るのであった。
*
翌日の虚無の曜日の夕刻。
私達は酒場の開店前を見計らって、親方から勧められた酒場“蟲惑の妖精亭”へとやって来た。どこかで聞いたことのある名前の響きだ……。
ロッテも観念したのか、今回は逃げずに足を運んでいた。よしよし、偉いぞ。
「ここね、蟲惑の妖精亭というのは」
「ふむ……普通、じゃな」
外観は至って普通の大衆酒場。大きくもないし、派手でもない。これといった個性のない建物だ。
私達は“じゅんびちゅう”と書かれた立て札が掛けてあるスイング・ドアを潜ろうとすると。
「はい、アン、ドゥ、トロワ!ミ・マドモワゼル!」
「ミ・マドモワゼル!」
中から先導する甲高い中年とおぼしき女性の裏声と、可憐な女性の声の合唱が聞こえてきた。
あれ、これどこかで覚えが……。
「こらこら、スカロンちゃん。声が出てないわよ。恥ずかしがってちゃ駄目でしょう」
「は、はい。すいません」
どうやら合唱に参加していなかった男が、その事を責められているようだ。
スカロン……?はて、誰だっけ。どこかで聞き覚えが。
私とロッテが怪訝な表情で顔を見合わせた後、背伸びして中を覗くと、叱っているのは小柄な中年女性で、叱られているのは黒髪のがっしりとした巨躯の男だった。
その後ろには厚く化粧を塗ったおねぃさん達が、やや困り顔で控えている。
「はて、黒い髪とは珍しいのぅ。初めてみたぞ」
「あの人どこかで会ったっけ……?」
首を傾げる私だが、頭に靄がかかったように思いだせない。
「それにしても貴女がいなくなると、男手がなくなって困るわねぇ。独立の話、もう少し先延ばしにならないかしらん?」
「すいません、こればかりは……ん、どなたですか?」
黒髪の男、スカロンが、ドアの前に立ち止まって様子を伺っていた私とロッテに気付いて小走りでやってくる。
どうやら、スカロンはこの酒場の従業員のようだ。
「どうしたの、お嬢ちゃん?」
「すいません、この酒場で従業員を募集していると聞いて来たんですが」
「え?でもここは、お嬢ちゃんみたいな小さな子が働くようなところじゃ」
「あ、働くのはこの人です。私の姉なんですが……」
我関せずとばかりにぼうっと突っ立っていたロッテをスカロンの前に押し出す。
「あらっ」
ロッテの姿を確認するや否や、後ろに控えていた中年女性は、座っていた椅子をガタ、と蹴倒し、獲物を捉えた猛禽類のように、猛然と駆けてくる。
「あらあらあら、これはまぁ」
「な、何じゃ」
中年女は目を輝かせながら、ちょこまかとロッテを四方から観察する。
「貴女、ここで働きたいって本当かしらん?」
「う、うむ。そういう事になっておるが……」
その勢いに圧倒されたのか、中年女の質問にどもるロッテ。
先程のスカロンとの会話から、この中年女がこの店の主人なのであろう。
というか、それならこれって面接はじまってんじゃん?!
「トレビア~ン」
「はっ?」
「はい、みんなも一緒に、ト・レ・ビ・ア・ン」
女主人は、他のおねぃさん達の方に向き直り、両手を開いて復唱を要求する。
うぅん、何と言うか……すげぇテンションだ。
「ト・レ・ビ・ア・ン!」
おねぃさん達は楽しげに、スカロンはヤケクソ気味に声を張り上げる。
「何なんじゃ……。というかお主はこの店の主人なのかえ?」
「ふふ、主人というのは、少し違うわねん」
あれ、主人じゃないのか?
「では一体?」
「私の事はミ・マドモワゼルと呼んで頂戴」
ロッテがその返答に訳が判らんといいたそうな、困惑の表情を浮かべるが、女主人は構わず続けた。
ダメだろ、その態度は……。それじゃ面接落としてくれといっているようなものだって……。
「それにしても貴女、素晴らしいわ。奇跡のようなプロポーションじゃないの」
「む……まぁ、な」
「お顔もチャーミングで素敵よぉ。それにこんなに伸ばしているのに髪は艶々でサラサラ。どんなお手入れをしているのかしら?」
「そ、そうかの?いや、特には手入れはしておらんが……」
「ナチュラルビューティー?あぁん、ちょっと嫉妬しちゃうわ。私なんてお手入れしててもこのザマよ」
体をくねくねとさせながら、ロッテの容姿をベタ褒めする女主人。
最初は訝しげな表情をしていたロッテもまんざらでもないようで、顔がにやけてきていた。
ロッテも女だと言う事だろう。自信のある容姿を褒められて嫌な気分になる女はいないのだ。
「じゃ、奥で冷たいものでも飲みながら、お話しましょうか」
「うむ、わかった」
そう言うと、女主人はロッテを引き連れて、奥の部屋に消えて行った。この分なら無事に決まるかもしれないわね。さすが親方情報、頼りになるなぁ。
完全に蚊帳の外となった私は、同じく置いてけぼりになっているスカロンの顔を覗き見る。
やっぱり会ったことはないよなぁ。とすると、まさか“原作”の登場人物、か?
こんな地味な人いたっけなぁ。
スカロン、“蟲惑の”妖精亭、女装、筋肉、トレビアン………………はっ!
「あの、つかぬことをお聞きしますが」
「何だい、お嬢ちゃん」
「スカロンさん、でいいんですよね」
「ああ」
「もしかして、トリステイン出身です?」
「そうだけど、それが何か?」
「娘さんの名前はジェシカ?」
「ははは、子供はいるけどまだ嫁さんの腹の中。男か女かもわからないのに、名前なんてまだないよ」
ふぅむ。結婚はしているみたいだけど、まだ子供は生まれていないのか。奥さんはゲルマニアの人なのか?
目の前にいるスカロンは、黒髪が珍しいものの、大柄でがっしりとした、至ってノーマルな青年だ。
これが、“あの”スカロンになるのだろうか。やはり人違いかもしれない。
ま、本人だとしてもだから何だ、という感じもあるけども。なんというか、有名人に会う気分というかね。
「そうなんですか。ところで先程の独立がどうとかいう話は……?」
「あぁ、子供も産まれる事だし、そろそろ故郷で独立しようと思ってね。トリスタニアでここと同じような酒場をやるつもりだよ。もっとも、年内はこの店の従業員だけどね」
その店が“魅惑の妖精亭”なのかな。
スカロンの奥さんって“原作”では死んでしまっていたっけ……。
それがアレになる原因なのかも。
「しかし、何でそんな事に興味があるんだい?」
はた、と考え込んだ私に、訝しげな顔で私に質問を返すスカロン。
「あ、えぇと、そう、実は私も商店で独立を目指して見習いをやっているんです。それでお話を聞きたいな、と思って」
「女の子で商売の道を目指すなんて珍しいね。何をやっているお店?」
「交易です」
「えっ、商社なのかい?」
「はい」
スカロンは商社と聞いて驚いた顔をして聞き返す。
交易商人は、商人の中でも花形と呼ばれる存在ではあるが、実際は非常に厳しい世界でもある。
失敗すれば大損、体力のない商社などでは、一瞬で破産する事もあり得る、リスキーな商売なのだ。
ゲルマニアでは貴族が商社に投資する事はままあるが、商才、知識のない貴族が中途半端に手を出して破産、没落していった例も珍しくないという。
それでも交易に手を出す者が多いのは、成功した場合の利益が莫大な額に膨れ上がる可能性を秘めているからである。
そんな危険な商売を娘にやらせようとする親は、商家でも少なく、他の商売ではちらほら見られる女性商人も、交易商人に至っては皆無と言っていいほど少ないらしいのだ。
「そりゃすごい。やっぱり実家が交易をやっている商家なのかな?」
「いえ、実は私もトリステイン出身でして。こちらに商売の修行をしに来た、といった感じです」
「その歳で……?しっかりしてるというか、何と言うか……。親御さんが心配しているんじゃないかい?」
「……大丈夫です」
そこはあまり触れないでほしいところだ。
ま、普通はそう思うか。
「ところで、あの人本当に君のお姉さん?……その、あまり似ていないものだから」
「えっと、それはいろいろ訳ありでして。腹違いの姉妹というか……」
「あ、ごめん、言いづらいことだったかな」
「いえ、大丈夫です。全然気にしていませんよ」
むぅ、似ていない、か。私だってもう何年か成長すればあれくらいには……。
「おぉい、決まったぞ!」
しばらくの間、スカロンとそんな話をしていると、ロッテが奥の部屋から出てくるやいなや、そんな声を上げた。
え、決まったって?
何このスピード採用?……ずるい。
もっと、試験とかさ、そういうので苦しむ所が見たかったのに……。
「あの、本当に採用なんです?」
「もっちろんよ。ロッテちゃんならすぐに売れっ子になれるわ」
私がロッテと一緒に出てきた女主人に確認すると、彼女は上機嫌にそう答えた。
あはは、やっぱり女は見た目なんだね。
世の中の理不尽に憤りを感じるが、ま、とにかくロッテの仕事が決まって良かったか。
これで生活苦ともお別れできればいいな。
「それで、仕事はいつから?」
「今日から、じゃ。くふふ、お主のしょっぼい給金より稼いでみせるぞ」
「そのショボい給金にタカる気満々だったのはどこのどなただったかしら……。ま、そういう事なら頑張って」
しかし、気が早いことだなぁ。というか、何でこの人俄然やる気になっている訳?
この怠惰な吸血鬼をやる気にさせるとは、この女主人、やり手だ。
「ミ・マドモワゼル」
「あら、何かしら。妹さん?」
「姉をよろしくお願いしますね。ビシビシ扱いてやってください」
「ほほほ、任せなさい。お姉さんはワタシが責任を持ってスターにしてみせるわ」
私が女主人に頭を下げると、彼女はどん、と胸を叩いて言う。
さて、無事にロッテの就職も決まったわけだし、私はそろそろ退散しますかね。
帰りにちょっと買いたい物もあるしね。
「何じゃ、お主もう帰るのか?妾の仕事ぶりを見て行けばよいのに」
「悪いけど、明日からの仕事もあるし、今日は寝溜めしておきたいのよ」
「折角の休日を睡眠にあてるとは、虚しい青春じゃのう」
放っとけ。
ロッテの物言いにカチンときた私は、そこで彼女との会話を切り上げて、カウンターの中で作業していたスカロンに声を掛ける。
「それじゃスカロンさん、私は帰りますので」
「おや、もう帰るのかい」
「えぇ、明日も朝が早いので」
「頑張りなよ」
「はい、そちらも奥さんを大事にしてあげて下さいね。産後、産前は特に体調を崩しやすいですから」
「ははは、言われなくても」
私は真剣な表情でスカロンに忠告するが、スカロンは軽く流してしまう。
“原作”通りに奥さんは死んでしまうのだろうか……。
かといって、何が原因で死ぬ事になるのかもわからないのに、私にできる事は何もない。
知っていて何もできない、というのも、もどかしいものね……。
そんな事を悶々と考えながら私はロッテを残して酒場を後にしたのだった。
後編に続く
例の如く、半端なく長くなってしまったので二つにぶった切ります。話が進まねぇ……。