トリステイン王国新宰相エギヨン侯爵シャルル・モーリスは多くの懸案を前任者であるエスターシュ大公ジャン・ルネ6世から引き継いだ。外には講和条約締結後のガリアとの外交関係、ラグドリアン戦争以降関係の冷え込んだハノーヴァー王国との関係の修復に東方領(ゲルマニア王国)問題。内にはラグドリアン戦争で荒廃した王国南部の復興事業計画の策定を始め、税制整理に高等法院改革、貨幣切り下げに関する財務庁と元老院との論争問題など、問題は山積している。
しかしエギヨン侯爵にはそれらの内外の諸問題とは別に、前任者である大公から内密に引き継いだ国家の重大懸案がある。解決不可能にも見えるそれは、取り扱いを誤れば白百合の威信を傷つけるのみならず、トリステインの存亡にもかかわる重大な問題。エギヨン侯爵は閣僚や秘書官達にも相談できず、ひとりトリスタニアの王宮の宰相執務室で頭を抱えていた。すなわちそれは何かというと
トリステイン王女マリアンヌ・ド・トリステインの婿探しである。
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ハルケギニア~俺と嫁と時々息子~(結婚したまえ-君は後悔するだろう)
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「ブラバント侯爵の遺児はどうだ」
「長男は公爵と一緒にヴァルハラへ。次男は聖職者志望だ」
「本家のブラバンド大公家」
「売約(婚約)済みだ。公式にお披露目しているだけに無理だろう」
「侍従のラ・ポルト子爵は?」
「名門とはいえ国内ならともかく対外的には見劣りが否めない。それに爵位が子爵では」
「ヴァリエール公爵・・・いや、忘れてくれ」
「賢明な判断だ。私もまだ死にたくない」
「ポアチエ伯爵は。先祖はラ・ヴァリエール公爵家と同じく王家の庶子だったはず」
「あの家は借金で首が廻らん。外聞が悪すぎる」
「ボーフォール伯爵」
「女嫌いだ。何でも若い頃に色町でトラウマになるような体験をしたとかしないとか」
「・・・何だそれは?まあ年齢的にも無理があるか。ならばサックス元帥の孫で陸軍少佐の-」
アルチュール・ド・リッシュモン外務卿がその名前を言う前に、エギヨン侯爵は黙って右手の親指を立てた。
「・・・男色では話にならんな」
「今はグラモン伯爵に懸想しておるとか。王都一の美男子とやらもさすがに持て余しておるようで、おちおち夜も眠れんそうだ」
口に手を当てて忍び笑いを漏らすエギヨン侯爵。あまり品のいい笑いではないが、リッシュモンがそれを咎めることはない。何せ侯爵は宰相就任以来、愉快ではないだろうこの作業をほぼ一人でやり続けてきたのだ。多少人の不幸を笑うぐらいの楽しみはあってもいいだろう。若いイケメンの醜態ほど笑えるものはないという意地の悪い思いがあったことは否定できないが。
エギヨン侯爵は経歴や年齢、ましてその人の人柄や周囲の評価などという曖昧なものの話をしているわけではない。それにこれらはその気になればいくらでも箔付けは可能だ。エギヨン侯爵が求めているのは「種馬」として役に立つのかどうか、そして種馬の資格があるかどうかである。名門が名門と呼ばれるのは、華麗なる先祖の功績や領地の規模、そして財産もあるが、なにより格式や家風を維持しながら何百年、何千年と家を続けてきたことだ。「売家と唐様で書く三代目」ではないが、軍人であり行政官であり政治家であり裁判官であり警察官である「貴族」という家業を何代も続けてきたというのはそれだけで評価すべき対象になる。また歴史のある貴族は-こういっては何だが製造元のお墨付き。畑と種と肥料が誰の目にも明らかだからだ。本人の人格や能力も考慮の対象になるが、王配という立場ではかえってそれらが邪魔になる場合がある。もとより閨で励む以上のことは求めてはいない。
とはいえ「家柄の産地証明書を持つ結婚適齢期の男」ならば始祖以来の歴史を持つトリステインには山ほどいる。問題はそのほとんどが売約(婚約)済みであることだ。2年前のラグドリアン戦争で戦死したフランソワ王太子が「英雄王」の後継者として扱われていたため、国外に嫁ぐであろうと考えられていたマリアンヌ王女に王配を迎えることなど想像すらされていなかった。もしマリアンヌ王女に王配を迎えることをトリステイン貴族の婚約率はもっと低かったであろう。
「・・・フランソワ様さえご存命であればな」
視線を伏せながらつぶやいたエギヨン侯爵。フランソワ王太子の政治的な師であり知恵袋的な存在だったのが他ならぬエギヨン侯爵だ。エスターシュ大公派と貴族派の間で王太子が両者の斡旋役として動くことができたのは、その両方につながりのあったエギヨン侯爵あってのこと。個人的にも王太子の人格や人柄に心服していた侯爵には、フランソワ王太子の死は受け入れがたいことなのだろう。まして王太子の遺体は未だに見つかっていない。ほんのわずかな望みが、彼の失望と絶望をより長引かせているようにリッシュモンには思えた。しかし死んだ子の歳を数えてもどうにもなるまい。生きている人間のことを考えることができるのは、生きている人間だけだ。
「しかし挙げてみれば意外といないものだな。皆何かしら引っかかる」
「・・・だからといって、やらないわけにはいかないだろう。白百合をわしらの代で枯らすわけにはいかない」
目頭を押さえながら、エギヨン侯爵は深々と息を吐く。トリステイン朝トリステイン王家は今まさに存続の岐路にある。直系王族が少ないという現状が、いずれ中長期的には後継者問題として水の国に重くのしかかるであろうことは、宮廷内の事情に通じたものの目には明らかであった。
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(数字は戴冠した順番)
②
① -アンリ7世-フランソワ王太子
アンリ6世 |
(豪胆王) |③
| ―――|-ルイ18世
クロード王妃 |
(ベーメン王国出身)|
|④
-フィリップ3世-マリアンヌ
アンリ7世・ルイ18世・フィリップ3世はアンリ6世の子。
フランソワ王太子はフィリップ3世の甥でマリアンヌとは従兄弟。
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トリステイン王家は蒲柳の質というわけではないが、アンリ7世は息子であるフランソワがようやく歩き始めたころに突然崩御。ショートリリーフとして登板した王弟ルイ18世も、わずか在任5年で兄の後を追った。未だフランソワは幼く、丁度ルイ18世崩御の直後に発生したツェルプストー侯爵家とラ・ヴァリエール公爵家との紛争で戦果を挙げてトリスタニア市民から熱狂を持って迎え入れられた末弟フィリップが国王として即位することになった。それが現トリステイン国王フィリップ3世である。フィリップ3世も自らの中継ぎとしての役割を理解し、甥フランソワが成人するまでの間王座を預かっているという認識で国内は一致していた。しかしセダンの地にフランソワ王太子が消え、『英雄王』の一粒種であるマリアンヌ王女が第一王位継承者にくりあがったことで、その前提は崩れ去った。
ラグドリアン戦争で大きな傷を負った水の国を今まとめているのは『英雄王』の名声ひとつ。超大国ガリア相手に国家存亡の祖国防衛戦争を戦い抜いたフィリップ3世の名声は、かつて経済失政の対象として批判されていた王と同一人物とは思えないほど高まっている。それゆえフィリップ3世だけでなく閣僚達は「英雄王」という名声を傷つけないように細心の注意を払っていた。同盟国アルビオンのゲルマニアとの国交締結という失点を、エスターシュ大公が被って辞任したのも、ひとえに王の威信を傷つけないため。王個人の名声に頼らざるを得ないほど、水の国が負った傷は深いということでもある。それはともかくトリステインは『英雄王』の名声によって国家の求心力を維持しているのが現状。フランソワ王太子亡き今となっては、その英雄王の娘が跡を継ぐことに国内の貴族も納得せざるをえない。
問題は次が「マリアンヌ女王」であるとして、問題はその次。次の次、つまりマリアンヌのあとを誰が継ぐかだ。ラグドリアン戦争でフランソワ王太子の側近だった若年貴族の多くも戦死している現状では、先ほど言った「家柄の産地証明書を持つ結婚適齢期の男」は驚くほど少ない。「産地証明書」の時点で遺伝的な病気や精神疾患のある家を弾くと、その数はますます少なくなってしまう。「結婚適齢期」を外せばいないこともないが、独身には独身の理由があった。下半身にだらしない、博打好き、男色etc。まさか英雄王の娘にそんな種馬をあてがうわけには行かない。それに「政治的背景」をまったく無視するわけにもいかない。王配の親族-具体的には親や兄弟に政治に干渉するような人物がいれば、たとえ当人がどうであれ相応しくない。大公家や王位継承権を有する公爵家・侯爵家-もっと範囲を広げて伯爵家まで広げてみても上記に挙げたどれかに引っかかる。
「エスターシュ大公も本来ならば候補なのだが」
「あれでは『王配』ではなく『国王』になってしまうだろう」
それにマリアンヌ様が首を縦には振らないだろうと言うリッシュモン。マリアンヌがエスターシュ大公のことを嫌っているのは知らないものはいない周知の事実。何より家柄や能力的にはともかく「トリスタニアの変」で失脚した彼を種馬にすることなどありえない。そんなことをすれば国内がどんな状況になるかわかったものではない。
そのことに思いをめぐらせたのか再び盛大なため息をつくエギヨン侯爵。彼自身、第一次エスターシュ政権下で内務次官として地方制度改革に携わったが、エスターシュ派と、宰相である大公が王座の野心ありと疑う貴族派との間で苦労を強いられた。そうした過去の苦労話をするつもりはないが、ため息が出てしまうのは仕方がない。それにエギヨン侯爵はもうひとつ、他ならぬマリアンヌ王女自身の最近の傾向に頭を悩ませていた。
「ラ・ポルト子爵が-」
「子爵家では格として落ちると君が言ったではないか」
「そうではない、そうではないのだ。子爵が言うには、最近マリアンヌ様はベーメンの叔母上様の事を聞きたがるそうなのだ」
その言葉に眉をひそめるリッシュモン伯爵。そういえば思い当たる節はある。リッシュモン自身、御進行で幾度かベーメンについて御下問された事があった。ドレスのすそを手繰り上げて「仕事が恋人!」と何処か鬼気迫る表情で政務や勉学に励まれるマリアンヌ王女が、そのようなことを考えておられたとは。エギヨン侯爵は「困った事だ」と腕を組んだ。
マリアンヌの亡き母クロード王妃は旧東フランクの一角であるベーメン王国の出身。そして現在ベーメン王国を治めるエリザベート8世はクロードの妹であり、マリアンヌの叔母である。ベーメン王国は平民貴族問わず新教徒と宗教庁勢力が入り混じる難治の地。王権も決して強いものではないその王国を、エリザベート8世は25年もの長きに渡り卓越した調整能力と政治手腕で治めてきた。確かにその政治姿勢は、いずれ水の国を女王として治めることになるマリアンヌにとっては参考になるだろう。
しかしエリザベート8世が「独身」であることまで真似てもらっては困る。クロードやエリザベートの弟であるフランツ・ヨーゼフ10世死後、時期王座をめぐり王族間での争いが激化したため、中継ぎとして即位したのがエリザベート8世。独身であったために国内の王族や貴族の争いに超然とした立場で臨むことができた。それはいい。しかし王族が多いために後継者に困ることのないベーメンとは違い、トリステインでマリアンヌがそれをしてしまっては王家が絶えてしまう。トリステインは直系王族を積極的に臣籍降下させることで「王と臣下」の立場を明確にして、国王の主導権を確保してきた。ベーメンであればポストエリザベートは王族から確保することになるが、トリステインでポストマリアンヌとなると臣下の間から選ぶことになる。
「ブラバンド大公家やそれこそエギヨン侯爵当主である君だってその資格はあるわけだ。マリアンヌ様が存命の間はいいが、仮にマリアンヌ様が誰もが納得する後継者の選出に失敗した場合、国は大混乱だぞ」
「まだ十数年も先の話だ。今から心配することでもないだろう」
「しかしな、マリアンヌ様が独身を貫かれるとするのであればその問題を避けることはできないだろう」
「それはそうだがな」
エギヨン侯爵は眉間の皴を深くする。大柄な体でどっかりと目の前の椅子に腰掛けているリッシュモンのほうが彼よりもよほど宰相然としている。エギヨン侯爵が心なしか宰相就任以前より老けて見えるのは気のせいではないだろう。
「・・・無理やり国内から出せないことはないが、その場合予想される国内の軋轢と、十数年先の政治問題とどちらが大事か」
「そんなことをおっしゃられたのか」
エギヨン侯爵が黙ってうなずいたのを見たリッシュモンは思わず唸った。先を見通せる者はいるものだが、覚悟を持ってそれに望むことができる者は少ない。僅か20を少し越えたばかりの年齢で、生涯独身を通すことを考え始めるとは・・・さすがは英雄王の娘だ。その覚悟やよし。しかし覚悟があるからといって、十数年先に必ず直面する後継者問題で国内の合意を取り付けられる保障にはならない。そしてその頃に自分はあの気丈なお姫様を支えることは適わないだろう。
「恋愛は結婚の果実という」
唐突に話題を変えたリッシュモンをエギヨン侯爵は訝しげに見返した。
「しないで後悔するなら、してから後悔したほうがいいだろう」
「・・・君らしくもないことを言う」
エギヨン侯爵自身、主君の娘である以上に、よき君主たらんと弁核に励むマリアンヌ王女を好ましく思っている。一人の女性として幸せな結婚をしてほしいとは思う。しかしそれは個人としての感情。国家の重大問題とはまったく別のものだ。それに女王の結婚が失敗したとなれば、白百合の威信は大きく傷つく。失敗は絶対に許されない。
そこまで考えをめぐらせてから視線を上げたエギヨン侯爵は、リッシュモンがまっすぐこちらを見据えていることに気がついた。何か重大な事を切り出す際に人が醸し出す独特の雰囲気、それを纏いながら。
「ひとつ考えがあるのだが」
*
マリアンヌ・ド・トリステインはその元老院議員の話に相槌を打ちながらも、ほどんど聞いてはいなかった。話の内容自体はそれほど新鮮味のある内容ではない。ただその話し方が上手いだけについつい頷いてしまう。些細な事を誇張して面白おかしく話す様は、言葉は悪いが「太鼓持ち」という言葉がしっくり来る。
ラ・ポルト子爵はそんな彼の話で笑うマリアンヌの態度が面白くないのか仏頂面をして突っ立っていたが、マリアンヌとて話の内容が面白いから笑っているわけではない。むしろ滑稽なまでに自分の機嫌をとろうとする元老院議員の態度がなんとも言えずに可笑しみを誘う。そうした斜めに構えた笑いですら、今のマリアンヌにとっては貴重であった。王女の笑顔に、元老院議員は額をペシペシと叩きながら笑い返した。
「いや、はっはっは!参りましたなぁ、いや、参りました」
「参った参った」これがミラボー伯爵オノーレ・ガブリエル・ミケティの口癖だ。相手が話し終える前にこの言葉を意味もなく繰り返し、わかったわかったと首を振る。その気さくな態度と庶民性で平民にも人気があるが、それが他の貴族から妬まれないのがミラボー伯爵という人物である。リッシュモン伯爵(外務卿)と同じ法服貴族出身で弁が立つため、元老院議員に選出されると瞬く間に院の中心人物とみなされる。当初はエスターシュ大公派とみなされていたが「トリスタニアの変」直前にその元を離れることで政治的地位を保った。事件後は大公批判一色となった元老院で殆ど唯一沈黙を保つことで、エスターシュ大公再登板に伴う政治環境の変化の中でも生き残り、今では元老院副議長だ。
その見た目や開放的な雰囲気にだまされやすいが、如才のなさにかけてはトリスタニア有数のものがある。当然それはマリアンヌも承知しており、そんな彼を好ましく思ってはいない。しかし元老院の実力者であるミラボー伯爵を追い返す事は出来ない。政治的に未熟な自分のふがいなさに臍をかむだけだ。心にもない事で笑う事が出来るようになったのは政治家として成長したのか、それとも単なる負け惜しみか。エスターシュ大公を使わざるを得なかった父も同じ感情を味わったのであろうかとマリアンヌは思った。
「そうそう、お聞きしましたか。エスターシュ大公が今どうしているかを」
「いえ?存じませんが」
フランソワ王太子が亡くなった直後は、何かと背伸びをしようとしたマリアンヌだが「何も知らないお姫様」である場合が都合がいい場合があることを最近知った。納得したわけではないが、そうしたほうがいい場合もあるのだと自分に言い聞かせる。
「彼は今、フォンティーヌにおるのですよ」
「まぁ、それではヴァリエール公爵家の?」
「如何にも。ヴァリエール家の保養地です。ヴァリエールの当代であるピエール卿といえば『トリスタニアの変』以前は大公を目の敵にしておりました。一体、どのような心境の変化なのか」
そう言ったミラボー伯爵は舐めるような視線をマリアンヌに送る。政界引退を表明したとはいえ、エスターシュ大公の政界への影響力は侮れない。その大公がラ・ヴァリエール公爵領にいるとあれば、様々な憶測を呼ぶだろう。ミラボー伯爵は大公がヴァリエールの後ろ盾を持って国政復帰するつもりではないかと疑っているのか。今のヴァリエール公爵家当主のピエールはフィリップ3世の側近中の側近。木の葉が沈み石が浮くのが政界の常。犬猿の仲であるはずの両者が組むと考え、両者に繋がりを持つ自分に鎌をかけに来た-そんなところか。
「ヴァリエール公爵は騎士道の生きた見本の様なお方。窮鳥が頼って来れば猟師もこれを撃たないといいます。そういうことではないのですか?」
「なるほど、なるほど。公爵ならばさもありなん。公爵は真に立派なお方ですゆえ」
手を叩き大げさに頷くミラボー伯爵だが、眠たそうなその目だけはマリアンヌの様子を伺い続けている。マリアンヌは不快な感情を押し殺して、にっこりと笑った。
「えぇ。本当に立派なお方。カリーヌが羨ましいですわ」
「ははは、それはそれは」
「ヴァリエール公を初めとしてわが国には人材が揃っています。私としても心強い限りです」
手ぶらではこの男は満足しない。これがマリアンヌなりに考えた上での回答であった。それに彼女としては今の立場ではこうとしかいいようがない。言うのは簡単だが、それを担保するものを持っていないからだ。そしてミラボー伯爵はその垂れ気味の目もとを満足げに緩める。「エスターシュの3度目の登板はない」という意味を察したようだ。
「父上-国王陛下も副議長閣下のお働きには常々気を留められておりますよ」
「いやいやいや、このミラボー。未だ陛下やマリアンヌ様のお役に立つようなものではありません」
大きな体を器用に屈め、心底申し訳なさそうに頭をかくミラボー伯爵。「わが身の非力非才を痛感いたします」と言う言葉と同じく、その表情は自分から無理難題を押し付けられて困り果てた時のラ・ポルト子爵のそれによく似ている。しかし両者は全くの別のものであるということぐらいマリアンヌにも理解できる。用件が済んだといわんばかりに、ミラボー伯爵はこちらが不快にならない程度のお世辞を口にしながら退出していった。
「お疲れ様です、姫様」
「お疲れと思うなら貴方も少しは付き合いなさい」
「・・・申し訳ございません。ああいう手合いはどうにも苦手でして」
縮こまった手足を思いっきり伸ばし、天井を仰ぐマリアンヌ。まったく、これならリッシュモン伯爵に御進講を受けていたほうがよほど気が楽だ。マリアンヌの言葉に身を竦めるラ・ポルト子爵。もっともマリアンヌも彼にそんな事を期待してはいない。忠実な秘書官であり事務官である彼にそれ以上を求めるのは酷と言うものだ。肩をならして首を揉むマリアンヌは、さながら一仕事終えた絨毯職人のよう。社交界で多数の貴族と接する時とはまったく別の気働きをした後はさすがに疲れる。これも仕事だと思えば、納得できなくもないが。
「・・・今頃『彼』はどうしているかしらね」
「はッ」
ラ・ポルト子爵が反応しかけたが、彼は続く言葉を自分で飲み込んだ。求められてもいない答えを返すような無粋な真似はしない。
マイヤール女官長こと烈風カリンがマリアンヌの下を去ったのは半年前の事。マイヤール子爵家はお世辞にも名門とはいえない。仮面の下を知らないものは、文字通り名門中の名門であるラ・ヴァリエールの夫人としての彼女に誹謗中傷を浴びせていることはマリアンヌも聞き及んでいた。しかしマリアンヌにはどうする事も出来ない。代われるものなら代わってやりたいが、それは出来ない。
華麗なる戦場音楽の舞手であった彼女は、戦場を移して今もなお戦い続けている。
「この程度で泣き言を言ってる場合じゃないわね」
それは自分を『親友』と言ってくれたカリーヌを裏切る事になる。あの日、立場は違えど共に戦おうと誓った彼女を。
「やってやるわよ」
そう、やってやる。この程度で負けてたまるもんですか。私を誰だと思っているの?あの高慢ちきで馬鹿みたいにプライドの高い『英雄王』の娘よ。貴族や法院参事官の好きにやられてたまるもんですか。
そのためなら女の幸せなんか捨ててやる。蜘蛛の巣がはろうが構うもんですか。
肩に力を入れ、思いつめた表情で虚空を睨むマリアンヌの様子を、ラ・ポルト子爵はどこか不安げに、それでいて頼もしく感じながら見つめていた。
この時、マリアンヌ・ド・トリステインは自身の運命が自分と全くあずかり知らぬところで動き始めている事に気が付くことはなかった。トリスタニアでそれを知るのはリッシュモン外務卿を含めて数えるほど。そして彼らの行動が、トリステイン王国全体、そしてアルビオンやロマリアといった諸外国を巻き込んだ大問題に発展する事になると想像したものは誰もいなかった。
-正確に言えば、ただ一人だけその結末を予想していた人物がいたのだが。