あの「魔法」を使わなくなって、どのくらいになるだろう。
私は臆病だ。だから、あんな「魔法」に頼らなければ、杖の一つを振るうことも出来なかった。
「勇気と無謀は違う」と彼は言った。
私は「自分の大切なものを守るため」に戦うことにした。自慢するわけではないけど、私には力があった。相変わらず臆病だったし、自分でもびっくりするぐらい素直でないのは変わらなかったけど、思慮深いくせに、どこか間抜けな彼の隣に立ち続けるために、私は自分を高めるための努力は怠るつもりはなかった。
(「そんなところが可愛い」とかぬかした片眼鏡は、とりあえずふっ飛ばしてやったけど)
私は「自分の死だけは特別」だと思っていた。自分の周りの大切な人の死も「特別」だと考えていた。
だけど、違った。
「名誉の死」-そんな言葉が入り込む余地すらない。英雄も、貴族も、平民も関係ない。魔法が使えるかどうか、ましてやドットやスクエアといったクラスは、まったく意味を成さなかった。
あの鉛玉が支配した戦場に、私の居場所はなかった
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ハルケギニア~俺と嫁と時々息子~(烈風が去るとき)
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空中国土のアルビオンで生まれ育った者は、ハルケギニア大陸の地を踏む度に、違和感を感じるという。それが何かと聞かれても、言葉にすることは難しい。それは逆に言えば、大陸で育った人間がアルビオンに来ても感じることである。
(例えば空気だ)と、ヘンリーは思う。
アルビオンには『本来は有り得ないはず』の植物や生物が数多く生息しているという。例えば陸亀-砲亀兵が使う巨大な亀は、地上3千メイルの高さでは、本来生息できない。
これには二つの説がある。一つは、元々が浮遊大陸がハルケギニア大陸の一部であったため、同じ生態系が維持されているという説。これは学会でも笑い種のトンデモ説なので、置いておくとして、有力視されているのが、国土の地下に眠る風石が、大陸全体に何らかの影響を与えているという説である。実証したものはいないそうだが、地下に眠る大量の風石が、空中国土全体の空気を、地上1千5百から1千メイル程度の空気の圧力に調整していると考えれば、全てが説明出来るそうだ。
だが、学者がどういおうと、ヘンリーにとっては関係のない話だ。こうして、今、五感で感じている違和感は現実のものであり、それが全てである。
昔、サウスゴータで「地面が落ちる」といって不安に駆られ、強迫神経症になった平民がいたという。アルビオンで生まれ育ったものは、少なからずその不安を共有している。アルビオン人が気さくでフランクな性格なのは、その不安感を誤魔化すためなのかもしれない。
そういうわけでヘンリーも、地上に降りてくると、アルビオンでは感じることの出来ない安心を覚える。同じ森や川でも、空中国土と大陸とではまるで違うからだ。アルビオンの植物や動物は、どこか小ぶりで均一化されている(実際に比較すると、羊や木々なども、大陸のものと比べると小さいそうだ)。ところが大陸のものとなると、何から何まで千差万別。大きいものも小さいものも、全てが入り混じってそこにある。
風石などに制御されない、ありのままの森林、ありのままの川、ありのままの動物・・・それが嬉しい。
だが、今ヘンリーの心が弾んでいるのは、それだけが原因ではない。
トリステインの「花」、マリアンヌ王女にお茶会に招かれたのだ。
昨日の夜が、加齢臭ただよう爺×2との会談であっただけに、その嬉しさもひとしおだ。美しいものを見れるとなると、心が晴れやかになるのは、老いも若きも代わらない。
うきうきしながらトリスタニアの王宮内を歩くヘンリー。後頭部に石を投げてやりたい。
トリステインの王宮は、ガリアのベルサルテイルや、アルビオンのハヴィランドに比べると、その規模の小ささは否めないが、張り巡らされた水路や、よく手入れされた庭園などが品よくまとまっており、それでいて「どうよ」という作為がなく、好感が持てる。
景色を楽しみながら歩いていると、トリステイン王族の居所である、ユニコーン宮-通称:森の宮殿が見えてきた。森の中にあるというのではなく、森の中にあるように見えることから、そのように呼ばれるようになったという宮殿の前には、マリアンヌ王女が立っているのが見える。
王女自らお出迎えとは。これは気合を入れなければ・・・べ、別に下心があるわけじゃないぞ!紳士としての、心構えとしての話だからね!
ヘンリーは務めて「さわやかさ」を意識して、にこやかに右手を差し出した。
「やぁマリアンヌ王(むにゅ)・・・むにゅ?」
キラリンと白い歯を光らせながら、手をさし伸ばした瞬間、何故か足の下に奇妙な感触と効果音。目の前では、マリアンヌ王女を初めとしたトリステイン側が、微妙に目線を下に向けながら、凍りついている。嫌な予感がしたヘンリーは(むにゅ)を確かめるために、目線を下げた。
そこには、土を掻き分けて顔を出した、つぶらな瞳の可愛い
(きゅ~・・・)
「も、も、もぐらぁ?!!」
ヘンリーはあわてて足をどけたが、あいにく足元はモグラが掘り起こした土であふれかえっており、「ズル」っという効果音とともに、足を滑らせた。結果、顔面からつんのめるように地面に激突
「きゅう~・・・」
「ヘンリー王子~~~!!」
モグラのようなうめき声を上げるヘンリーを抱え、マリアンヌは悲痛な叫び声を上げた。
***
「いや、本当に、なんとお詫び申し上げたらよいか」
知らせを聞いて、森の宮殿に飛んできたエスターシュ大公が平謝りをする前で、ヘンリーは治療を受けた顔をさすっていた。マリアンヌ王女があわてふためく女官達を一喝。自ら治療に当たられたそうだが、治癒魔法のかけすぎで、顔が少し水ぶくれしている(時間が経てば腫れは引くので問題はないが)。
う~ん、さすが英雄王の娘。肝っ玉座ってるね。玉がないけど座っているとはこれいかに?
悪気はあった。後悔はしている。
それはともかく、日頃の人を食ったような態度ではなく、やたらに腰の低い大公に、こちらまで恐縮してしまう。
「いや、怪我といっても鼻血ぐらいですから。それよりも、あのモグラは大丈夫ですか?」
モグラ-ジャイアントモールは、ちょうど土から飛び出してきたところで、ヘンリーの足は、その鼻先を思いっきり踏みつけていた。モグラが豚鼻になるという、貴重なものを見せてもらった・・・それはともかく、自分に落ち度はないとはいえ、踏みつけたことに変わりはない。怪我でもされていたら、寝覚めが悪い。
・・・モグラに鼻の骨ってあったかな?
「あのモグラは、わがトリステインの軍人の使い魔でした。我が国は対象のジャイアントモールを『処理』するよう「ちょ、ちょっと待ってください!」
『処理』という穏やかではない単語に、あわてて言葉を挟むヘンリーを、いぶかしげな顔で見返すエスターシュ。
「いや、さすがにそれはやりすぎです。やめてください」
「そういうわけには参りません。将来の貴国との関係を考えましても、遺恨を残すことは好ましくなく・・・」
「宰相閣下は、私を血も涙もない、冷血漢にしたいのですか?」
半ば睨みつけるようにいうと「わかりました」とあっさり応じるエスターシュ。それまでの強硬に処分するという態度からの変わりように、拍子抜けしたヘンリーだが、直ぐに苦笑を浮かべた。
「・・・図りましたね」
「減俸ということでよろしいですな」
恨みがましいヘンリーの視線を風と受け流すエスターシュ。
それにしても、モグラか・・・
・・・まさかな
「ところで、その使い魔の主というのは」
「・・・独立銃歩兵旅団第1連隊長のナルシス・ド・グラモン中佐です。優秀ですが、その、使い魔の扱いに難がありまして・・・」
・・・ギーシュの親父?
***
「本当に、なんと申し上げたらいいか」
「いえ、たいしたことはありませんから、本当に」
本当に申し訳なさそうに謝るマリアンヌ王女に、慌てて頭を上げるように言うヘンリー。美人に謝られると、なんだかこちらが悪いことをしているような気になる。「いけない魔法使い」・・・とは意味合いが少し違うが、美人はやはり得だ。
マリアンヌ王女は、美人という表現は似合わない。彼女の美しさは、少女が大人になる半歩前といった美しさである。9分咲き・・・いや、8.5分咲きのダリアといったところか。熟れるにはまだ早い、蕾というには魅力がありすぎる。特にその胸とか・・・げふん、がふん。
急に嫌な視線を感じてキョロキョロしたのは、キャサリンの「教育」の賜物である。
「・・・どうかなさいましたか?」
「い、いえいえいえ!」
後ろめたさで、やたらに甲高い素っ頓狂な声で「いい庭ですな~」と叫ぶヘンリーに「はぁ」と首を傾げるマリアンヌ
・・・うん。正直に言おう。ぐっと来た。
「上玉を見て、何も感じない男は男ではない。それは男のなりをした抜け殻だ」というのが、ヘンリーの持論である。
軽い自己嫌悪を覚えながら(彼にも羞恥心ぐらいある)ヘンリーは白磁器のカップを手に取った。指で弾くと、いい音がしそうだが、さすがにそれは自重する。透明感あるカップの白が、赤みがかった瑠璃色の紅茶をよく引き立てている。
目で楽しんでいても仕方が無いので、口をつけた。
「・・・美味い」
思わず漏らした一言に、マリアンヌ王女が硬かった表情を崩す。花が咲くように微笑んだ王女に、柄にもなく頬が赤くなるのを感じる。感じたままをいっただけで、他意はない。無いったら無い!ほ、本当だぞ!!
キャサリンは俺を味オンチだという。「煙草を吸う人に、お茶の香りや、料理の繊細な味付けがわかるわけ無いでしょ」と。確かに、ハーブティーと紅茶の違いを判別できるかといわれると困る(だってどっちも似たようなものじゃない)。その味オンチの俺にもわかるぐらいだから、このお茶は美味いに違いない。
「お口に合えば幸いです。実は最近、紅茶に凝っていまして・・・」
好きなものを語る美女は、美しさが3割増しになると思う。なんでもお茶を入れるという行為は、意外に奥が深いらしい。凝りだせばキリがないそうで、その日の天候や気温・湿度にあわせて、葉を選び、お湯の温度を調整。カップの温度はと、話題が尽きることが無い。
もっとも、美しさが1割り増しというところを見ると、本心からこの話題が好きだという訳ではないようだ。暇つぶしというわけでもないのだろうが、他にする事もないため、手近なところの手慰みで時間をつぶしているというところか。案外、趣味というものは、そうした手慰みから始まるものなのかもしれないが。
考えれば、目の前のマリアンヌ王女も妙な立場だ。セダン会戦でフランソワ王太子が戦死しなければ、どこぞの外国の王族に嫁ぐのを待つばかりだったんだろうが。籠の中の鳥でいるには、彼女は聡明すぎる。フィリップ3世が、マリアンヌ王女を溺愛しているのは有名な話だが、そればかりが原因ではないだろう。
今のトリスタニアの王宮は、四部五部に分裂している派閥を『英雄王』の名声一つでまとめているといっていい。第1次エスターシュ政権と、それに続くブラバンド侯爵の政権下までは、対立関係が明確であった。エスターシュを中心とする改革派と、それを快く思わない非改革派―貴族派に(乱暴だとは百も承知だが)分けることが出来たからだ。
エスターシュ大公の進めた一連の人事改革で登用された中下級貴族は(大公本人の意思に反して)「エスターシュ大公の国王即位」を声高に唱え、権限を削られる大貴族は、大公の進める政策は、彼が国王に就任することを前提に進めているものと勘繰って(あながち間違いではないのだが)、サボタージュを決め込んだ。
トリステインの大部分の貴族は、どのような組織にもよく見られる「中立派」という名前の日和見でありつづけ、貴族間の階級抗争にまでには発展しなかった。その背景にフランソワ王太子と、宰相のブラバンド侯爵がいたというのは、論を待たない。大公の急進的とも言える改革に理解を示し、大公失脚後も大公派の後ろ盾となった王太子と、国事尚書という立場から中立を貫き、両者の対立構造の上に立って政権を運営した宰相がいなければ、「トリスタニアの変」後、王都では政争の嵐が巻き起こっただろう。
ところが「セダン会戦」が、その構造を一変させた。フランソワ王太子は、ガリアの平民兵の波間に消え、ブラバンド侯爵も、息子3人と共に、セダンの地に倒れた。幸か不幸か、同時に大公派や、貴族派の主要な人物と見られた貴族も戦死したことで、対立は収まると見られたが、あにはからんや・・・中心人物がいなくなったことで、対立は細分化した。その上、戦後の外交政策を巡って「ガリア強硬派、ゲルマニア武力制裁派、現状追認派etc」と、収拾が付かなくなり、いわく付きのエスターシュを再登板させなければ、収拾が付かなかったほどだ。
そんな国内から、マリアンヌの王配を迎えるなど、ようやく落ち着いた対立に火をつける以外の何物でもない。ましてや、マリアンヌ王女は、元々外国に嫁ぐものと考えられていたため、似合いの年頃の貴族の殆どは、相手が決まっていた。海外から王配を迎えるとなると、相手国との関係はもとより、血統的な問題(近すぎても遠すぎても問題である)や、相手国がトリステインに政治的影響を与えないかどうかなど、様々なハードルを越えなければならない。
そんな都合のいい王族が、早々いるはずもなく、マリアンヌのお相手探しは、宙ぶらりんとなっていると聞く。将来的には女王として即位すると決まっていながら、今は何も出来ない、許されない現状に、無聊を囲っているのだろう。
ちなみに、某魔法衛士隊隊長も、お相手候補の筆頭であったのだが「何故か」立ち消えとなったそうだ。
(『彼女』がいるからな)
と、給仕をする女官に視線を向けたヘンリーは、すぐにその行為を後悔することになる。
(・・・え、何?)
背中に、嫌な汗が流れた。ピンクブロンドという、ふざけた色の髪をアップでまとめた女官からは、殺気とまでは行かないが、何か内心にあふれる感情を感じる。本人としては務めて平静に振舞っているつもりだろうが、目が怖すぎる。内心の押さえ切れない感情が、両の目から滲み出ていた。
6000年以上続く王家に籍を置くものとして、身に覚えのない恨みを買うのは、いわば宿命の様なものだ。ジャコバイトなどがいい例だろう。とはいえ、いきなり身に覚えのない、生の感情をぶつけられては、さすがに対応に困る。それに、目の前の女官の視線は、無視するには余りにも強すぎた。目の前の女官に恨みを買うような覚えはしたことはないはずだが・・・
マリアンヌ王女も、女官の不穏当な視線に気が付いたようで、慌てて注意をする。
「マイヤール女官長!」
「あ、は、はい?!」
「『はい?』じゃありません!何ですかその態度は!」
「唐突で申し訳ないが」
突然口を挟んできたことに戸惑う女官長と、慌てるマリアンヌを尻目に、ヘンリーは続ける。こういう時は「先制攻撃」に限る。
「君は以前、私と王女との夕食会に同席していたんじゃないか?」
「は、はい!同席いたしましたでございまする」
途端に語尾がおかしくなる女官長に、頭を抱えるマリアンヌ。友人は、最近こそ、こうした公式な場に、ようやく慣れてきたとはいえ、突発的な事態には『地』が出てしまう。それはむしろ、マリアンヌにとって嫌いな事ではないが、今は時と場所が悪すぎた。
ヘンリーは深くうなずく。
「そうか。そうだろうね。君のその、髪の色には覚えがある」
ピンクブロンド-「ザ・ピンク」の衝撃は、そう簡単に忘れられるものではない。
「マイヤール女官長。君の噂はかねがね聞いているよ」
「は?それはどういう・・・」
「まさか噂の『烈風』のカリン殿が、このような見目麗しい麗人だとは思いもしなかったけどね」
「なッ・・・」
マリアンヌは思わず腰を浮き上がらせた。マイヤール女官長と、『旋風カリン』が同一人物であるということは、トリステインでも限られたものしか知らない、知らされていない機密事項である。それを、同盟国の王族とはいえ、どうして目の前の人物は知っているのか。
マリアンヌの驚いた顔に、カリーヌの警戒するような視線に、ヘンリーは苦笑を浮かべながら言う。
「ピンクブロンドの髪の持ち主はそうはいませんからね。それにマイヤール子爵家が、宮中に出仕することも出来ない貧乏貴族だということぐらい、我が国の大使にも調べることは可能です。カマをかけてみたんですが・・・あたっていたようですね」
『貧乏貴族』という言葉に、マイヤール女官長こと、カリーヌ・デジレ・ド・マイヤールが、顔色を変えて食いかかった。
「な!カマかけたって、あ、ああアンタねぇ!!それに、うちは「貧乏」したくて貧乏してるんじゃ・・・」
「カリン!おやめなさい!!」
鋭い声で叱責するマリアンヌに、顔をうつむかせて引き下がるカリーヌ。しかし、ティーポットを持つ手は震えており、取っ手を握りつぶさんばかりだ。
ヘンリーは頬を掻きながら「いや、試すようなことをして悪かったね」と、取り成すように言う。
本当のところを言えば、ヘンリーは原作の11巻を読んでいたことで、二人が同一人物であるということを知っていたのであるが、それは言わない。
「まぁ、その、なんだね。とりあえずは結婚おめでとう」
「にゃ、な、なななんあ!!!」
顔色七変化とは、面白いなぁと感心するヘンリーの前で、マリアンヌが長いため息をついていた。
***
「・・・っていうことがあったのよ!信じられる?!」
「・・・俺は君の言っている言葉が信じられないよ」
ピエール・ジャン・ル・ブラン・ド・ラ・ブロワ・ド・ラ・ヴァリエール公爵は、トリスタニアの屋敷の自室で、文字通り頭を抱えながら、マリアンヌに負けず劣らずの、深い長いため息をついた。
ラ・ヴァリエール公爵家は王位継承権を有する名門貴族であると同時に、王国南部に広陵な領地を有する、国内有数の大貴族である。好むと好まざるとに関わらず「政敵」がいるため、王都での宮廷外交や、情報収集が欠かせないのだ。
そのため、常時はトリスタニアの屋敷に、分家の当主や、信頼の置ける近臣を「公爵家の外交官」として駐屯させるのだが、現在の当主であるピエールは、魔法衛士隊隊長という要職にあるため、文字通り屋敷を居住地としていた。最も、広い屋敷は彼一人で使いきれるものではなく、若い魔法衛士隊員の溜まり場などになっている感もある。
『鉄の規律』で知られるマンティコア隊隊長などは「公私の区別が」とお冠だが、当の本人が、そこで寝起きしているのだから、全くといっていいほど、説得力がない。
「あのな、君が暴言を吐いたお相手はだな」
「知ってるわよ!アルビオンの王弟で・・・・・・」
それまでの威勢はどこへやら、急に顔の表情が強張るカリーヌ。ギギギッと、油の切れたロボットのように、動きが鈍くなった。
「・・・わたし、もしかして、トンでもない事やった?」
「もしかも、カモシカもない!」
頭痛を覚えたピエールは、机の上に手を伸ばして、リキュールの入ったボトルを掴み、直接ラッパ飲みをした。「飲まなきゃやってられるか」というのが、正直な気持ちであった。
「・・・っぷは・・・あのな、カリーヌ。あの変わり者のヘンリー王子だから、笑って許してもらえたんだ。これが礼儀に煩いガリアや、ザクセンなら、外交問題だ!!」
「ご、ゴメンなさい」
カリーヌは珍しく従順だった。ピエールは酒には強いが、ラッパ飲みをしている時の彼は、大体悪酔いをしている場合が多い。「絡み酒」のピエールに逆らおうものなら、一体何時間、説教に付き合わされるか解ったものではない。
しかし、そんな酔い方をするのは、親しい人間の前だけだという事を考えると、自然と頬が緩んでしま・・・はッ!私は何を考えたの
「まったく・・・大体君は『あいつは政治的にセダンを利用した』などと・・・あの場所にいた僕が一番よく知っている。殿下はそういうことをする人ではないと、何度も何度もそう言っているのに、君は殿下を睨みつけたそうじゃないか!」
「・・・はい」
ぐうの音も出ないカリーヌ。
ヘンリーの「両の手を胸の前で合わせる」という追悼行為は、兵士達の間では、評価が二分されていた。城下の平民と同様、その行為を褒め称えるもの。もう一つは「政治の道具にした」という反発であった。カリーヌはどちらかといえば後者であり、真意を見極めるために、不敬を承知でヘンリーを試したのだ。
結果は
(・・・あれは、そんなこと出来るタマじゃないわね)
モグラを気遣ってずっこける男が、そんなことが出来るとは思えない・・・
「・・・・というわけで・・・聞いているのか!」
「はい勿論!」
「大体君は日頃から注意が散漫で・・・
そう言いながら、またボトルに手を伸ばすピエール。日頃カリーヌの尻に敷かれている鬱憤を晴らすかのように、延々と言葉が尽きることが無い。「酒に強い」と言えば聞こえはいいが、こいつ実はただのアル中じゃないのかとも思えてくる。一度、ジェロームさん(公爵家家令)とも相談しなきゃね・・・
「それにだな・・・」
(中略)
「・・・というわけだ。わかったか!」
「はい・・・・」
半時間ほどしか経っていないのに、すでに机の上には、ボトルがダース単位で積みあがっている。顔色は全くといっていいほど変わっていないが、吐く息は酒臭いことこの上ない。やっぱりこいつ、アル中の気あるわよね・・・
「まぁ、この話はこれぐらいにして」
とかいいながら、何で14本目のボトルに手を伸ばしているんだ、この銀髪男は。杖を振って、ボトルを取り上げるカリーヌ。
「今日はもう終わりです」
「・・・もういっぽ「駄目です」・・・あと一杯だ『だ・め』はい・・・」
結婚前からすでに、尻に敷かれている。情けなくボトルを取り上げられる姿には、トリステインの精鋭を率いる魔法衛士隊隊長の権威や威厳は、どこにも存在しなかった。モノクルの下から「お願い」の視線を向けられたカリーヌはというと、プイッと顔を背けたが、その頬が赤く染まっている。
(そ、そんな、潤んだ目で見たって、駄目なんだからね!)
・・・けッ!
ボトルを棚に仕舞うカリーヌの背中を、恨めしげに眺めていたピエールだが、しわぶきを一つして、話題を切り替える。
「・・・やはり、考え直してはくれないか?」
その言葉に、顔を強張らせるカリーヌ。
「何度も言いましたように、私の決意は変わりません。結婚と同時に『烈風のカリン』は退役します」
「・・・君の力は、まだ王国には必要なんだ。せめて教導官としては残ってくれないか」
言葉とは裏腹に(これはもうだめだと)改めて確信したピエールに、重い疲労感が圧し掛かる。僅かな希望にすがり、彼女の気が変わることを期待して何度も繰り返したやり取りの度に味わってきた感覚ではあったが、とても慣れるものではない。
「ド・セザール中尉は、若いですが優秀です。彼ならば、私の後任は十分に務まります」
カリーヌが若いと言ったニコラ・ド・セザール中尉だが、カリーヌとは3歳しか違わない20歳。若いというには、余りにも年齢が近すぎるのは否めない。しかしながら、ピエールが心配しているのは、そのような事ではない。
「確かに彼なら、立派にマンティコア隊を率いることが出来るだろうが」
「ならばいいではありませんか」
モノクルを外して、眉間を揉むピエール。銀髪に白いものが混じっているように見えるのは、決して目の錯覚だけではあるまい。
「・・・わかっているくせに、困らせないでくれ」
「わかっているなら、同じ事を何度も聞かないでください」
このやり取りも、何度繰り返したことか。射るような視線から逃れるように、ピエールは椅子から立ち上がって、背後の窓に振り返った。日の落ちたトリスタニアは、家々の窓から漏れる明かりを除いて、闇に包まれている。
『烈風カリン』の退役-ガリアとの講和成立と同時に、内々に辞意を申し出たカリーヌに、国王フィリップ3世は勿論、軍の首脳がこぞって慰留した。「今やめられては困る」と。小国のトリステイン、特にセダン会戦の打撃から立ち直れていない軍において、「彼女」の存在は、その実力以上に利用価値があった。
逆に言えば、個人の名声に頼らざるを得ないほど、トリステインの受けたダメージの大きさを物語っていた。一般兵から下士官、将校に至るまで、戦死者の比率が変わらないということが、それを証明している。ラ・ヴァリエール公爵家も例外ではなく、前当主のアンリを初め、ピエールの二人の兄、ジャンとマクシミリアンが戦死した。そのため、家を出ていたが(当時すでに魔法衛士隊隊長であった)ピエールが、家督を相続することになった。
「たなぼた」などという陰口を叩くものは、口さがない宮廷スズメにも存在しなかった。彼らに人間らしい思いやりがあったというわけではなく、王太子フランソワの戦死に伴い、王位継承権が繰り上がったマリアンヌ王女を批判していると勘繰られることを、恐れたからだ。
閑話休題
カリーヌの辞意は、魔法衛士一人の退役問題に終わらせることは、その名声が許さなかった。大げさではなく、トリステインで「彼女」に並ぶ名声の持ち主は『英雄王』しかいない。この状況下で『烈風』に去られることは、著しく軍の求心力を衰えさせることになりかねない。
軍の建て直しに四苦八苦している陸軍卿のルーヴォア侯爵などは、軍の再編計画への影響を整然と説きながら、「陛下に全てを担わせるのか」と、情に訴えかける両面作戦を取ったが、カリーヌを翻意させることは出来なかった。同様にピエールも、何とか彼女を翻意させようと粘り強く説得したが、意固地になっているカリーヌに、内心説得を諦めていた。
ピエールがこの話題を切り出すたびに、カリーヌはこう切り返す。
「私がいては、邪魔になるから」と
「カリーヌ」
振り返ったヘンリーは、「妻」となる女性と目を合わせて、その言葉を否定した。
「君がどう考えようと勝手だが、それは慢心というものだ。君一人がどう足掻こうと、国家の意思決定には何の阻害にもならない」
「・・・それは違うわ」
あえて厳しい言葉であったとしても、この意地っ張りな女性は『本音』をぶつけなければ、真意を聞きだすことは出来ないだろう。意図せずに、皮相な笑みを浮かべたピエールは、自分自身にも降りかかってくる言葉だということを自覚しながら、生の言葉をぶつけた。
「何が違う。セダンで、部下を守ることの出来なかった君が。自分は傷一つ負わずに帰ってきた君が・・・」
その言葉は、最後まで発せられる事はなかった。カリーヌが、杖を喉の下に突きつけたからだ。とっさに、杖に手を伸ばしたが、抜くことすら叶わなかった。戦場で鉄の仮面を付けた時と同じく、何の感情もなく杖を振ることが出来る様子で、感情を押し殺した声で、彼女は問う。
「・・・事務作業ばかりで、腕が落ちた?」
「話を逸らすな。答えろカリーヌ」
杖を直接喉仏に押し付けるカリーヌ。回復呪文を唱えようと、喉を壊されてはどうにもなるまい。そんな状況でありながら、ピエールの視線はそらされることはなく、遠慮なく、カリーヌと、自身の傷口をつねり上げる。
「・・・・・」
「・・・・・」
重苦しいまでの沈黙。少しでも均衡が崩れれば、ピエールか、カリーヌか。そのどちらかの生命が、永遠に失われるだろう。
「・・・」
先に折れたのは、カリーヌだった。杖を下ろし、腰に戻す。ピエールは、内心安堵のため息を漏らしながら、表情だけは変えずに、見据え続けた。
「・・・ゴメンなさい」
ピエールの酒量は、明らかにセダン会戦を境にして増えた。そしてそれは、父や兄達が戦死した事ばかりが理由ではない。
フランソワ・ド・トリステイン
魔法衛士隊隊長であるピエールは、戦場で王太子を守る立場にいた。しかし、体勢を立て直したガリアの大軍の前に、自身が鍛え上げたと自負していた精鋭部隊は散り散りとなり、王太子はガリアの平民兵の波間に消えた。「フランソワ殿下を最後に見たのは、おそらく僕だろう」と、ポツリと呟いた彼の表情を、カリーヌは忘れることは出来ない。
彼女の謝罪は、一瞬でも自分だけの事に囚われて、ピエールを責めたことへの謝罪であった。
「・・・いや、僕も悪かった」
本音を引き出すためとはいえ、過去の傷口をつねったのは自分である。その点に関しては、謝るべきだろうと、ピエールも謝った。視線を合わせることなく、再び椅子に腰掛ける。ボトルに手を伸ばす気には、ならなかった。
「・・・32人と21頭」
それが何の数字かと聞くほど、ピエールは無粋ではない。セダンで死んだ衛士と、マンティコアの数を数え上げることに、どういう意味があるのかはわからなかったが、それが彼女が答えを語りだすために必要だということは、容易に理解できた。
だからこそ、あえて厳しい言葉で、その先を促す。
「戦場で人の死はつきものだ。それは多くの兵士の命を奪ってきた君自身が、よく知っていることだろう」
その言葉に激することなく、カリーヌはただ、首を横に振った。
「・・・私は、やっぱり臆病者なのよ」
ピエールは、まんじりともせずに見据え続ける。
「自分の死だけは、自分の部下達の死だけは、特別だと思っていたの」
カリーヌは顔を上げた。
「貴方だってそうでしょ?・・・違うとは言わせないわ。自分の、貴族の、戦場における『死』が、特別だと思っていたでしょう?戦場で死んだ貴族は、神官に祝福されて、一族の誉れとして、家が、国が続く限り、語り続けられると・・・そう思っていたでしょ?」
ピエールは無言だった。否定しないのならばそれでいいと、彼女は続ける。
「だけど、あの戦場は違った・・・そうでしょ?」
カリーヌは今でも、セダンで見た光景がありありと思い浮かべることが出来る。逃げる敵将を追い、薄い霧の中、ガリア軍を追撃した。しかし、霧の晴れた先にいたのは、逃げまどうガリア兵でも、『烈風カリン』に恐れおののく敵将でもなかった。
立ち膝で鉄砲を構えたガリア兵-それが見渡す限り、延々と続いていた。100や200では聞かない。1千を優に超える銃口が、こちらを向いていたのだ。
「エアシールド」を張ったところで、すでに遅かった。寝食を共にした、一騎当千の魔法騎士たちが、バタバタと倒れていった。怒りに任せて、敵陣を食い破り、兵を押しつぶした。しかしガリアはすぐに軍勢を建て直し、あの「光景」を目の前に展開した。
メイジではなく、名もなき平民の兵相手に倒れていく部下。倒しても、切っても、次々と湧き出てくるガリア兵に、ドラゴンの群れを相手にしてもひるまなかったカリンは、初めて恐怖を覚えた。
気付けば、部下は半分にまで減っていた。ド・セザール中尉の進言がなければ、自分もあの地で骸を晒していただろう。
カリーヌは、傷一つ追わなかった。陛下も、平民も、兵士達も、「流石は『烈風のカリン殿』」と、自分を褒め称えた。
その賞賛の中で、カリーヌは、自分の時代が-騎士の時代が終わったことを、戦場で初めて感じた『恐怖』と共に、その脳裏に刻み込んでいた。
自分ひとりが、何人敵をなぎ倒したところで、戦争の勝敗には、何の影響も及ぼさないということを。
「・・・時代が変わったのよ。戦場に、浪漫や英雄伝が入り込む隙のない、兵士達の命が、ついにただの『駒』として、『数』としての価値しかなくなった・・・ピエール、貴方もわかっているのでしょう」
視線を上げたカリーヌに、ピエールは押し黙った。
死に価値を見出すだけの理由が、ことごとく戦場から、急速に失われているという事実を、彼自身も否定したかった。だが、かつてトリステイン全盛の時代が終わりを告げたように、トリステイン-いや、ハルケギニアの貴族に色濃く残る『騎士』の時代が終わろうとしていることを、感情的に否定することは、彼の知性が邪魔をした。
「英雄譚にも、劇曲にも語られない死-あの戦場に、貴族と平民の死に、違いはあった?」
「・・・だから君は逃げるというのか。部下達を『駒』として戦場に置き去りにしたまま」
杖に手を伸ばしながら、あえて挑発するように言うピエール。しかし予想に反して、カリーヌは今度も怒りを見せなかった。ただ、「諦め」とも「淋しさ」ともつかぬ表情を浮かべていた。
「・・・そう。私は逃げるの」
予想外の回答に戸惑うピエール。カリーヌは、いつもの激情的な態度が嘘のように、淡々と続けた。
「あの体験をしても、トリスタニアには銃兵隊の導入に反対する人がいるのは知っているでしょう?」
・・・あぁ、そういう事か
「人の意識というのは、そう簡単に変わらないものよ。それは私が一番よく知っている」
・・・止めろ
「特に『あの』場所にいなかった人には、幾ら言葉を尽くしても、理解することが出来ないでしょうね。そして、その人達が・・・」
バンッ!
「もういい、解った!」
握り締めた左手で、机を叩き付けた。自分の不甲斐なさが、慰留するたびに、彼女を傷つけていたことに気が付かなかった、間抜けな自分が情けない。
ラグドリアン戦争後、銃兵を中心とする部隊の創設を唱えたのは、所属していた部隊が壊滅しながら、唯一生き残った士官のナルシス・ド・グラモンであった。トリステインの銃兵連隊が、砲亀兵から飯炊き部隊、果ては輜重兵まで含まれているのに、ガリアの連隊は、純粋に銃兵を中心とした部隊であった。火力の集中展開には、明らかに欠陥のあるトリステインの兵制を改革しなければ、ガリアどころか、ゲルマニアにも対抗出来ないというのが、ナルシスの主張であった。
当の陸軍省では、若手仕官の主動による兵制改革を快く思わない将校が、銃兵部隊の創設に反対を唱えた。これに何にでも口を挟んでくる高等法院が結んで、サボタージュを繰り広げており、ナルシスらは苦労を強いられているという。
そして、反対勢力の「論拠」となっているのが、誰あろう『烈風』のカリンであった。
「君らはそういうが、あの『烈風』殿は、傷一つ負わず帰ってきたではないか」
これが『烈風』でなければ、ナルシスも一笑に付しただろう。しかし、『烈風』の名声は、一人でも戦況を覆すことが出来るのではないかと、淡い期待を抱かせるのには十分すぎた-たとえ、本人が否定しようとも。
ピエールは苦々しげに掃き捨てる。
「・・・ナルシスめ」
「やっぱり聞いていなかったのね」とカリーヌは笑う。
「あの馬鹿らしい気遣いじゃない・・・これでわかったでしょ。私がいることが、貴方とナルシスの-この国の足を引っ張っているの」
そう言って、カリーヌは片目を瞑った。
「銃後の守りも大切よ。心配しないで。私がいる限り、ゲルマニアの猿共にはブロワの地は一歩も踏ませないから。貴方は安心して、トリスタニアで戦って」
ピエールは左手で頭をかきむしった。彼女は、自分が退くことで、戦場を知らないトリスタニアの貴族に「騎士」の時代が終わったということを、知らしめようというのだ。彼女の気持ちも考えず、ましてやその真意に思い至らなかった自分の間抜けさが、返す返すも腹が立つ。
「まったく、君というやつは・・・」
どうして、そう・・・・・・不器用なのか
トリステインの歴史に、数々の伝説と逸話を残した生きる伝説-『烈風のカリン』こと、カリーヌ・デジレ・ド・マイヤールは、成長したとはいえ、あまり大きくない胸を張って言った。
「貴方に似たのよ」