幕間21・アザー、アナザー、アウトサイダー①たくさんの人がいて、たくさんの想いがあって。……それはそれで、全部ちがう。Side ティファニア謁見の間。鷲鼻でカールした髭の大臣は、すっかり定例となった現在の復興状況を報告する。それは細かいけれどとても丁寧で、聞き慣れない言葉もすぐに察して簡単な言い回しに直したり、新米女王のわたしが理解するまで試行錯誤してくれる。わたしなんかには勿体無いくらい、優秀で親切な大臣だ。…マチルダ姉さんは今でも『あの強欲狸親父が粉骨砕身して国に尽くす姿を拝めるなんて、まったくアンドバリの指輪ってのは怖いモンだねぇ』とか言って笑うけれど。そう。この大臣は“死者”。アンドバリの指輪の力で偽りの生を与えられた中の1人だ。各界との強力なコネに加え、とても優秀な能力を持っていたにもかかわらず、それを私利私欲、私腹を肥やすためだけに使っていた人…らしい。らしい、というのは、わたしがこの人の“生前”を知らないからだ。初めて会った時から“死者”だったから、彼に対する印象は“優秀で親切な大臣”というものしかない。この現在復興中のアルビオンには、彼のような“死者”がまだ何人もいた。あの“革命”後、“死者”を少なからず解放したらしいけれど、何人かはそのまま職務を引き継いでもらっている。選別条件は能力だったり地位や財力だったりと様々で、だけれど確かに優秀な“彼ら”のお陰でアルビオンの復興は、他の歴史に類を見ないほど早く進んでいるという。むしろ、もう既に以前よりも良くなっているんじゃないか?…という声も囁かれているくらいだ。政治に長けた人はその力を国のために全力で使い、お金持ちは私財を投げうって国の財源にあてる。私欲がないから手柄とか度外視で、功績は全て“新生アルビオン”のモノに。政敵とかライバルだった相手ともわだかまりなく手を取り合い、部署部門立場も関係なく連携し合う。互いを牽制したり足を引っ張ったりする派閥争いなんて存在すらしない。そんな、普通の国では有り得ないような一体感から生まれるパワーは相当なものらしくて。彼ら“死者”たちに“生者”たちもいい影響を受けたみたいで。“アンドバリ引継ぎ作戦”を計画したワルド様たちの予想をも遥かに上回って…その、こういう現状というわけだ。閑話休題。未だに慣れることのない王座。部屋の両側には何人もの衛士の方が微動だにせず立っていて、気にしなくていいとマチルダ姉さんたちから言われていてもなお、やっぱりすごく気になる。執務室の方がまだ落ち着くのだけれど、『慣れていただくために、しばらくはこちらで』と大臣らからの助言に従い、こうやって女王修行中?の日々だ。「…となっており、西地区の復興作業は完了いたしました。いやはや、それにしても流石ですな。あの一帯は職にあぶれた者たちがスラムを形成して治安問題に難があったのですが、それも同時に解決されるとは。陛下の卓越した執政の手腕にはこの私めも驚かされるばかりです」うん、それはわたしの手腕じゃない。というか、何をしたのかいまいちよく分かっていない。就労支援とか、施設をどうとか報告であったけれど、まだ勉強中で全部理解するには知識不足だ。わたしが指示?したのは、『国をできるだけより良くしてください』という曖昧なもので、ほぼ大臣以下みなさんに丸投げだったのだし。「これで民衆からの支持もより一層、いや“金絹の聖女”ティファニア女王陛下への信奉は、もう既に最上といってもいい状態でしたな。はっはっは!」「い、いえ、そんな、ええと…、み、皆さんのご助力があってこそです。……はい」褒められる理由もないのに褒められ、少しどもりながらも当たり障りのなさそうな返答をしてみる。“革命”の演説とかは事前に打ち合わせしていたからしっかり“台詞”を言えたけれど、アドリブはまだまだ苦手だ。こういうのにも早く対応できるようにならないと。そんな事を思いながら、少し離れたところにいるマチルダ姉さんを見ると、俯いて肩を小刻みに震わせていた。…明らかに、お世辞を言われて困る私の様子を楽しんでいる。そもそも、誰が言い始めたのか“金絹の聖女”って。こういう二つ名みたいなのも、今のアルビオンには“復興の象徴”とか“希望の合言葉”として必要だってマチルダ姉さんたちは言うけれど…。今の姉さんの様子を見ると、ホントに信じていいのか微妙な気持ちになる。ラリカがからかって言った“猛乳の女王様”よりは全然いいけれど。ラリカ、か。恭しく一礼し、退室する大臣の後姿を眺めながら、数日前に姿を消した親友を想う。凄く会いたい。会って………とりあえず、溜まった愚痴を吐き出したい。一日の終わりに、彼女の部屋でワインを飲みながらお喋りする、最高のストレス解消法はあと何日くらいお預けなのだろうか。『 友達と海外旅行にイテキまーす。ついでにいろいろ解決してきます 』『 ちゃんと帰るから探さないで下さい。というか、帰った時に“どちらさま?”とかヤメテね、温かく迎えてね(切実 』『 テファ、ワルド様たちへの説得はキミに託した!頼む!お土産もバッチリ用意するからお願いします!いい歳こいて叱られたくないんです! 』『 PS.詳細は帰ってから。あと、“彼”を責めないで下さい 』護衛の兵士が倒され、彼女が何者かに連れ去られたかもしれないと報告があった時は、本当に心臓が止まるかと思った。そんな中…、ワルド様やマチルダ姉さんも駆けつけ、捜索隊や救出部隊をと思っていたら出てきた置き手紙。気の抜けるような文章と、倒された護衛の兵士への気遣い。あまりに彼女らしいその手紙に、安心するやら呆れるやらで…あの夜は大変だった。もちろん、手紙にそうあったからといって心配していないわけじゃない。ラリカは表舞台にこそ立っていないものの、間違いなく国の重要人物…というかわたしの大切な親友なんだし、彼女の頭の中にあるミョズニトニルンの記憶についても完全に解決してはいない。使い魔としての能力は使えないから利用価値はない、とは言ってたけれど、それでもミョズニトニルンの主だった“虚無”の情報はあるのだろうし。出掛けるなら出掛けるで普通にすればいいのに、こんなカタチで姿を消すのも変だし、その“友達”が何者なのか、それに“ついでにいろいろ解決してくる”の意味も図りかねる。…うん、改めて考えると安心できる要素が全くないかも。それなのに信じられたのは、やっぱり彼女が彼女だからか。ふざけているようで誠実。頼りないようで、実は凄く考えて行動している。どんな時もゆとりのある態度は、どこか達観しているふうで。彼女には言葉ではうまく説明できない存在感と安心感があるのだ。今までの行いや態度で、彼女がどういう人なのかはみんな分かっている。ワルド様はもちろん、マチルダ姉さんだって。だから、信じる。信じて帰りを待っていられる。きっと、本当にちょっとその辺まで出掛けていたようなふうに、そしていつも通りの冗談を交えながら『ただいま』と帰ってくる。わたしがリアクションに困るようなお土産を用意して。……ワルド様たちへの説得は無理なので、大人しく叱られてもらおう。特にマチルダ姉さんは凄い張り切っていたから、いろいろ覚悟しといた方がいいかもしれない。ちなみに、その時はわたしも一緒に怒る予定だ。扉が開き、珍しく慌てた様子の騎士が入ってくる。定例報告の後は謁見とかの予定は入ってなかったはずなのに、何だろうか。彼は扉近くの近衛騎士に何やら手紙みたいなものを手渡し、介してそれはマチルダ姉さんの手によって開封された。…あれ?姉さんの表情が強張ってる。一体何が書いてあったのだろう?Side マチルダ謁見の間。かつて自分がこの国に貴族として暮らしていた頃、強欲な狸親父と囁かれ、同時にその影響力で畏れられていた大臣が、真面目な顔をしてテファに定例報告をしている。彼にも多少どころではない恨みはあったが、今となってはどうでもいい事だ。そもそも、もう既に“死者”となっているわけだし。死ぬまで…はもう無理だが、しばらくの間は“生前”私腹を肥やすためだけに使っていた優秀な能力を、私欲を排して国の…私たちのために役立ててもらうつもりだ。死人に鞭までは打たないが、せいぜい有用に使ってやるからさ。なんて事を思いながら、テファのまだまだ初々しい女王様姿を眺める。未だに座っている、というよりも座らされているといったふうの王座。特別にしつらえたドレスも、私に言わせりゃまだまだ馬子にも衣装といったところで、身の丈に合っているとは言い難いか。あの子は美少女だから確かに栄えてはいるんだけどね。事情やら中身やら全てを知ってる身としては、どうしたってそういう目で見ちまうもんだ。親にとって子供はいつまで経っても子供、ってみたいに。もっとも、私ら以外の連中にとっては“見た目も中身も立派な女王様”なんだろうけど。マジメな顔で大臣からの話に耳を傾けるテファ。部屋の両側には忠誠心が高く腕の立つ者ばかりが控えていて、この謁見の間は安全さで言えば城のどこよりも安全な空間となっている。でも、守られてるはずのあの子は落ち着かない様子だ。気にしなくていいとは言ってあるんだけど…段々慣らしていくしかないかね。「これで民衆からの支持もより一層、いや“金絹の聖女”ティファニア女王陛下への信奉は、もう既に最大といっても差し支えない状態でしたな。はっはっは!」そう大臣が褒めると、テファは顔を真っ赤にしながら『いえ、そんな、ええと、』とか言って慌てている。まったく、これからは“そういうの”にも対応できるようにならなきゃいけないから、心を鬼にして“言わせている”ってのに。ホントにもうしょうがない…、あ、笑ってるのがバレた。後で文句言われるね、こりゃ。“それ”はあの娘の役割だってのに。あの娘。ラリカ・ラウクルルゥ・ド・ラ・メイルスティア。退室する大臣を横目に、数日前に姿を消した少女を思う。テファの友人兼ストレス発散係は、一体いつになったら戻ってくるのだろうか。『 友達と海外旅行にイテキまーす。ついでにいろいろ解決してきます 』『 ちゃんと帰るから探さないで下さい。というか、帰った時に“どちらさま?”とかヤメテね、温かく迎えてね(切実 』『 テファ、ワルド様たちへの説得はキミに託した!頼む!お土産もバッチリ用意するからお願いします!いい歳こいて叱られたくないんです! 』『 PS.詳細は帰ってから。あと、“彼”を責めないで下さい 』護衛の兵士が倒され、あの娘が何者かにかどわかされたと報告があった時は、正直肝が冷えたもんだ。うろたえるテファを宥めながら、ワルドと相談しようと思っていた矢先に出てきた置き手紙。馬鹿っぽい文章と、役立たずにも伸された護衛へのフォロー。読んで最初に感じたのは、安堵でも怒りでもなく、呆れだった。だけど、それで捜索やら救出やらを出すのは取り止めにした。もちろん手紙の内容を鵜呑みにしたわけじゃあないし、危惧することは幾らだってある。あの娘も一応は、その…今のところは“仲間”なわけだし、テファも懐いているし、ああもう、そんな事よりそう、あいつの中のミョズニトニルンの記憶の件!があるしね。例の一件でテファ達との絆がより深くなったとか、新しい未来の可能性を見せてくれたとか、そういう恩みたいなのもほんの少しだけ僅かにちょっとだけないこともないけどさ。…とにかく。記憶の件、それが一番の危惧する理由だ。本人曰く、『知識は、商品なしの取扱説明書がページもランダムでバラバラに大量にある状態。それにもし商品を手にすることができても、使い魔じゃないので使えない』らしく、“神の頭脳”的な価値はないようだけど、“虚無”の情報はあるわけだし。…ミョズニトニルンの主の情報。ワルドの指示でいろいろ探っていた時から、おおよその予想はついていた。かと言って“かの国”は、“そいつ”は、おいそれと手出しできるような相手ではない。ただ会うだけでもそれなりの用意が必要な相手。テファが、この新生アルビオンが世界に認められて初めて、同じ場所に立つことを許される存在。実際、多少の情報を手にしてもどうしようもないってのが正直な所なのだ。あの娘もその正体を確かに匂わせたものの、明言はしなかった。それは正体を“知ってしまう”事をまだ早計と考えたゆえなのか、それとも何か他の思惑があっての事なのか分からないが、私たちは問い詰めはしなかった。時期が来たらいずれ話す、という彼女の言葉を受け容れた。手紙の言葉を信じた理由。簡単に言ってしまえば、それは“あの娘だから”という曖昧で感情的な、でもそれとしか言いようのないモノなんだろう。連れ出した“友達”とは誰か、一体どこへ行ったのか。“ついでにいろいろ解決してくる”とは何をしでかすつもりなのか、全くの言葉足らずで説明不足だけど…。その全てを受け容れられるだけのものが、『きっと悪いようにはならないだろう』という根拠のない、しかしそう思わせるようなモノが、あの娘にはあったということだ。ま、帰って来た時に怒られるのを本気で恐れているのがひしひしと伝わってきたってのも大きいんだけどね。それは、“ちゃんと帰るつもりでいる”って事になるんだから。家族に内緒で遊びに出掛けた娘かっての。さしずめテファは、仲裁する姉妹役かい?もちろん、叱られたくないんです!ってアレは“フリ”としてしっかり受け止めといてやるけどさ。……最初は何を考えてるのか分からない娘と、警戒してたんだけどね。全く、何がどうしてこうなっちまったんだか。扉が開き、慌てた様子の騎士が何やら手紙のような物を手に入室してくる。扉近くの衛士に託されたそれは、“ディテクト・マジック”で妙な仕掛けなどないのを確認した後、私の手に渡った。繊細な青薔薇の紋様をあしらった香り付きの手紙で、一見しただけで普通の代物ではないと分かる品。封蝋の印璽は…ガリアの王族?慌てて寄越してきた理由はそれか。それにしても、一体どういう用件で……、『 親愛なる猛乳の女王ティファニア様 何だかいろいろあって、ガリア王(←ミョズニトニルンの主ね。黒幕で“虚無”)の家にお邪魔しています。 ちなみに置き手紙にあった友達ってのは、ガリアのお姫さまだったりするみたいな?印璽は彼女のを借りました。驚いた? ~中略~ というわけで、この手紙から近いうちにガリアからの正式な使者とか来ると思うので対応よろしく。 我らが友情パゥアーで黒幕さんに「ごめんなさい」させてやりましょう。平和な世界が見えてきたぜ! PS.テファの噂はガリアにも届いています。“金絹の聖女”が歴史の教科書に載るの確定ですな、こ・れ・は☆ あなたの親友かつ全自動愚痴聞き機のラリカより 』…。……。ああ、とりあえず、あの馬鹿娘、無事は無事の…ようだね。予想の遥か斜め上をブッ飛んで行く状況だけど、それなりに事情も分かった。後で、…帰ってきたら、じ っ く り と“おはなし”をする必要はあるようだけど。Side ワルド「これで今のところは全部です。また、新たな情報が入り次第、ご報告します」それだけ告げると、女官は一礼して退室する。残ったのは積み上げられた資料の山。全て“虚無”や聖地に少しでも触れているものだ。比較的容易に手に入るものから、厳格な閲覧制限があるもの、中には王族以外は触れることすら許されないような品もあるという。もし、これだけのものを地道に集めていたとしたら、一体どれだけの時間がかかったか。いや、どれほどの時間をかけたとしても不可能だっただろう。トリステインでは魔法衛士隊の隊長となったが、そこまでだった。レコン・キスタとしてクロムウェルの下に居たのでは叶わなかった。ミョズニトニルンに従い続けていても、おそらくは体のいい駒止まりだっただろう。しかし、今。自分の目の前には、本来なら手が届くはずもなかった知識の山がある。自分の手足として動かせる人材がいる。潤沢な資金が、“国”という巨大な後ろ盾がある。何より、自分と共に歩むと誓ってくれた“虚無”が、信頼できる“相棒”がいる。そして……。何がどう繋がっていくのか。全く、人生というのも分からないものだ。“運命”とやらを信じるとすれば、今に至る運命のターニングポイントはどこだったのだろう。目的のため、祖国を裏切ると決めた日か。ミョズニトニルンの誘いに乗った時か。…いや、答えなどもう分かりきっている。あの日、アルビオンへ向かう一行の中にそれは在った。邪魔なモグラを吹き飛ばすために放った風の余韻に、淡い灰銀の髪をなびかせて笑っていた少女。その時は、気にも留めなかった出逢いの瞬間。あの邂逅がなければ、“今”は確実に存在し得なかっただろう。落日の宴、タルブの空、トリステインの夜。そして、孤島での決意の朝。それら全てが大きな意味を持ち、その出逢いは運命を、そこに至るように自分を変え……“今”へと導いたのだ。いつか、マチルダに“変わった”と言われた事がある。確かに当初は1つの駒として使うつもりだった彼女も、1人の対等な人間として意識するようになり、関係も彼女の言う通り“変わって”いった。力で従わせる関係から、ギブアンドテイクの繋がりになり…やがて、なくてはならない相棒になった。もし考え方を変えず、ただ利用するだけの関係のままだったら、恐らく彼女はティファニアの存在を自分に知らせることなどなかっただろう。例え何かのきっかけで知れたとしても、降って沸いた“虚無”の存在に対して自分はどう動いたか。考えるまでもなく、アルビオンでのルイズの時の再現だ。心など開くはずもないティファニア、力ずくでも手に入れようとする自分。彼女を守るために、立ち塞がるマチルダ。……その結果も、過程も、今となっては想像すらしたくもない。ここに至る“運命”の紡ぎ手。ラリカ・ラウクルルゥ・ド・ラ・メイルスティア。誰の『大切』も否定しない少女。真っ直ぐで不器用で、儚くも強い少女。数日前に姿を消した彼女を想う。今、彼女はどこにいて、誰の運命の瞬間に立ち会っているのだろうか。『 友達と海外旅行にイテキまーす。ついでにいろいろ解決してきます 』『 ちゃんと帰るから探さないで下さい。というか、帰った時に“どちらさま?”とかヤメテね、温かく迎えてね(切実 』『 テファ、ワルド様たちへの説得はキミに託した!頼む!お土産もバッチリ用意するからお願いします!いい歳こいて叱られたくないんです! 』『 PS.詳細は帰ってから。あと、“彼”を責めないで下さい 』彼女らしい冗談めいた言い回しで残された置き手紙。ティファニアを安堵させ、マチルダを呆れさせたその手紙に書かれていた“帰るから探さないで”を受け、兵を動かすことはしなかった。懸念する事など幾らでもあるし、彼女の立場や持っている情報からして、本来ならば何をおいても探し出すべきなのだろう。しかし、そうはしなかった。こんなふうに彼女が動くのは、自らの『大切』のため。譲れない理由があったから、行動したのだ。それを無視し否定することなど、彼女に触れて“変わる”ことのできた自分たちにはできるはずもない。マチルダもティファニアも同じ考えだったのだろう。探さずに帰りを待つという決定に、2人は笑いながら、呆れながらも賛同したのだから。小さく息をつき、思考を切り替える。つい考え込んでしまったが、物思いに耽るためにここにいるのではない。彼女がそうしているように、自分も自らの『大切』を貫くために、徒に立ち止まっている暇はないのだ。時間は有限で、今という時間は他のいつでもない“今”のためにあるのだから。「しかし、何だ。多いな」資料の山を改めて眺め、思わず一人ごちる。贅沢な文句だというのは分かっているが、それにしたって多い。読破するのにどれくらい時間が掛かるか。中には古い文体のものもあるだろうし、解読が必要なものも少なくはないだろう。誰かに手を貸してもらえば時間を短縮できるかもしれないが、なかなかに難しいところがある。ティファニアは女王としての職務と勉強で忙しいし、マチルダもその補助と“死者”たちの統括でそれどころではないだろう。適当に学者連中でも見繕って手伝わせるのも、モノがモノだけに問題がある。となれば、情報漏洩も裏切りも心配ない“死者”たちか。復興もほぼ終わりが見えてきた今なら、それもいいかもしれない。もとより国が安定したら順次解放していく予定ではあったのだから、…?風メイジの敏感な耳が、部屋へ向かってくる足音を察知した。この部屋に近付くことを許されている者は限られている。それなりの地位にいる大臣連中でさえも、女王の許可(実際は自分かマチルダの許可だが)なくしては立ち入ることもできないのだ。この足音はマチルダか。履いている靴にも拘らず極端に足音が小さいのは、盗賊時代の足音を消す歩き方の癖が残っているためだろう。少し遅れて駆けて来る音がもう1つ、こちらはティファニ、……あぁ、転んだな。ドレスの裾を踏みでもしたか。びたん、という音が、それだけで痛々しい。裾の長いスカートとヒールの高い靴で走るなと言っておかなければならないな。もっとも自分が言うまでもなく、立ち止まって助け起こしているだろうマチルダに、もう注意されていると思うが。2人の歩く速度が同じになり、どうやら仲良く歩幅を合わせてこちらに向かうことにしたようだ。国のトップとその補佐が…全く、何をやっているのか。苦笑しながら、手に取った資料を未読のまま机に戻す。一拍遅れて鳴る、返答を待たない形式だけのノック。扉が開かれるのと、椅子ごとそちらへ向き直るのは殆ど同時だった。「―――― それで、何かあったのか?」