第八十七話【炎蛇】
浮かんでいる紙風船に呆気にとられていたのは突撃した銃士隊だけでは無かった。
ワルドやメンヌヴィルも突然“割れた窓”から風に乗って入ってきた無数の紙風船に警戒を示し動けないでいた。
と、その僅かな硬直時間が産まれた瞬間、食堂中にあちこち浮かぶ紙風船が突如破裂した。
破裂するたびに閃光をまき散らし、モクモクと煙が上がって視界を消していく。
目がくらみ、そうでない者でも急な視界不良に動けなくなっていた。
それを確認して、キュルケはこの“臆病な作戦”の成功を知るのと共にちょっとした欲が出た。
今食堂中の人間に混乱を与えているこれはコルベール特性の、言ってみれば目くらまし玉だった。
エレガントさの欠片も感じられない地味で臆病な戦法で、効果の程も疑わしかったのだが、存外効果はあるようだ。
もっともこれは相手の視界を奪うことで行動制限するだけだ。
予定ではこの隙に乗じて人質を解放、戦闘は極力避けるということだったが、この混乱ぶりなら相手の頭を取るのも容易いかもしれない。
決して手を出してはいけないとコルベールに言われていたが、あんな戦おうとしない臆病者の言うことなど、聞くだけ無駄だ。
こんな地味な救出劇では自分の中のプライドが許さない。
何より、このような視界不良なら、あらかじめ敵の位置をしっかりと把握していたこちらが負けることはありえないとキュルケは踏んだ。
短く詠唱、ファイアーボールを敵のリーダー核らしき筋肉質な男に撃ち放つ。
勝った、そう思っても仕方のない程完璧な攻撃だと思われた。
煙の隙間から見た相手は背を向けていたし、気付けるわけがない。
───────だが、往々にして“希望的観測”というものは破られるものである。
「ハッハァ!!」
背を向けていたはずのメンヌヴィルは、自分に向かってくる火球に同等程度の威力の火球をぶつけて相殺した。
同時、一人のメイジを中心に“風”が吹く。
「……私に魔法を使わせるな、と言っておいた筈だぞ、メンヌヴィル」
苛立ちを前面に押し出した声色でワルドを中心に煙が晴れていった。
「悪かったなワルド、だがその必要が無かったのはお前も知っているだろう? さて……」
メンヌヴィルはぬっと振り返ると、杖を向けたままの体勢で信じられないという眼差しのキュルケを見、口端を歪めた。
「ほう、さっきの火はお嬢さんか、中々良い炎だったよ、そんな良い火が出せるお嬢さんの焼ける匂いってのはどんなものなのか、ゾクゾクするなぁ……『フレイム』!!」
「っ!? 馬鹿にしないで!! アンタなんて私の魔法で……『フレイム』!!」
お互い同じ魔法を繰り出して、さながら火の壁を作り上げた。
「おお、おお、おお!! やるじゃないかお嬢さん、そら!!」
メンヌヴィルが楽しそうに言いながら炎の圧力を増す。
「ぐぅ……っ!!」
全力を出している筈なのにじりじりと火の壁が自分に迫ってくる。
押し返すどころか、既に逃げることさえ適わない炎の応酬。
今魔法を使うのを止めれば一気に自分の放った魔法も含めた炎が自分の身を焦がすだろう。
かといってこのままでも炎の接着面がこちらに近づいてきて、結局は焼かれる。
腕が痺れる。
腕を突きだして杖先から発してる火の威力は決して弱くない筈なのに、相手の勢いが強すぎてどうにもならない。
踏ん張っても、段々押されていくのがわかる。
全力を出しているのに、目前には自分を焼く炎が迫っている。
「い、いや……イヤァ!!」
キュルケはここに来て始めて、自分が焼かれる恐怖にかられた。
精神力も限界に達しようとしている。
このままでは自分は焼かれる。
だというのに為す術が無い。
もうダメだ、そう思った時に彼女の前に飛び込む一つの影があった。
ドォォォン!!
メンヌヴィルの炎が押し切り、キュルケを吹き飛ばす。
「おや? 焼くつもりが吹き飛ばしてしまった。これでは焼きたての人肉の匂いが嗅げんではないか」
メンヌヴィルが残念そうに呟くが、吹き飛んだ先には腰が砕けて座り、服はボロボロでありながらも“焼けていない”キュルケの姿があった。
「む? ……ふん、そういうことか」
キュルケの膝の上には苦しそうにしている一匹の火トカゲがいた。
「フレ、イム……?」
それは彼女の使い魔であるサラマンダーのフレイムだった。
主人の危険にいてもたってもいられずに飛び出したのだろう。
火山地帯で暮らしていたフレイムにはこの程度の温度の炎は特段ダメージにならないだろうが、如何せん勢いが付きすぎていた。
フレイムはキュルケを護るために全身に勢いのある炎を浴び、火傷こそ無いものの、内部への物理ダメージは大きいようで、苦しそうな呼吸を繰り返していた。
「主人の為に、という奴か。忠義心が厚くてなによりだな、おかげで私は君の焼ける匂いが嗅げそうだ、そうだ、栄えある犠牲者一号は君にして、黒ずみの死体と手紙を王宮に送ることとしよう」
ニヤリと笑い近づいてくるメンヌヴィル。
「ひっ!?」
キュルケはフレイムを抱きしめながら震えていた。
恐い。
恐い恐い恐い。
ただひたすらに恐い。
生まれて初めて、無力という言葉を本当の意味で感じた。
圧倒的な力の差。
自身の実力への自惚れ。
今までのツケを払うかのように一気にそれらがキュルケにのし掛かる。
「では、お前の焼ける匂いを嗅がせてもらお……ぬっ!?」
メンヌヴィルの目前に、まるで“意志ある蛇”のような炎が現れる。
クネクネと身を捻らせながら、獰猛な炎の化身はメンヌヴィルとキュルケの間に割り込んでいた。
「こ、この“熱”は、この熱は!! ハッハハハハハハハ!!!!」
メンヌヴィルが高笑いするのと同時、蛇の炎がメンヌヴィルに突撃する。
「感じる、感じるぞ貴様の熱!! そうだ、間違いない!! この“熱”を俺が間違えよう筈がない!! 見つけたぞ俺の“忘れ物”ォォォォォォォ!!」
天に叫ぶようにメンヌヴィルは歓喜一色に染まり、炎の蛇も消えた。
その間に、一人の男性……コルベールがキュルケの前に背を向けるようにして立っていた。
「やれやれ、私は自分に攻撃魔法の使用をずっと禁じて来ていたのですが……ここに来ているのがまさか“お前”だったとは」
コルベールは、途中から底冷えのするような、優しい仮面を脱ぎ捨てた冷徹な声でメンヌヴィルに答える。
「ハハハハ!! 攻撃魔法を禁じた? “炎蛇”と恐れられ、やるからにはどこまでも冷徹になることすら厭わずに全て焼き払う隊長殿が今は教師!? これが嗤わずにいわれようか!! 所詮隊長は俺と同じ穴の狢だろうに!! ああ、今もあのダングルテールの夜を思い出すと胸の高鳴りが止まらねぇ!!」
「……否定はしない。私は大罪を犯した人間だ。しかし、聞くに貴様はあれからもずっと似たような事をやり続けてきたのか?」
「無論だとも!! 貴方に両目を焼かれ視力を失って尚、俺は戦いを止めなかった!! おかげで失った視力の代わりに視えるようになったものもある!!」
「……“熱”……温度をより敏感に肌で感じられるようになったか」
「そうとも!! 流石は隊長殿!! 説明せずとも全て丸わかりか!! それでこそ倒しがいがある!! あの時嗅げなかった焼ける隊長殿の匂いはどんな匂いなのか、ゾクゾクしてきたぜぇ!!」
コルベールは身構えたメンヌヴィルを睨み、
「……私は火の……とりわけ攻撃魔法を禁じてきた。だが、お前がどうしても私、引いてはこの学院に害為すというのならば、私は再び杖を振ろう。私の後ろには傷つけてはならない人達がいる」
学院内でも誰も見たことの無い、杖を他人に向けるという戦闘体勢を取った。
***
呆気にとられていた。
青天の霹靂とはまさにこういうことを言うのだろう。
ずっと頼りない先生だと思っていた。
その人が今、自分を護るために目の前に立っている。
とても、とても背中が力強い。
その背中は本能的に“全てを任せられる”とそう感じた。
キュルケは、そんなコルベールの背中に見とれていた。
故に、いくつか気付かなかった点がある。
それは、
「……ミス、ミス・エレオノール、今のうちにここを離れて下さい。一緒にそこで座りこんでいる私の生徒もお願いします。生徒を傷つけるわけにはいかない」
「…………ハッ!? え、ええ、わかりましたわミスタ」
彼女、キュルケの隣には、エレオノールが居た事。
エレオノールは何故か顔を赤くしながらも呆けているキュルケを引っぱるようにその場から離れていく。
「相変わらず女子供には優しいですなぁ隊長殿、とことん偽善が好きと見える。貴方は既に何人もその手にかけているというのに」
「そうだな、それを今更(ボシュウッ!!)誰かのせいには(ボシュウッ!!)せんよ」
顔も口調も、仏頂面から一切変化は無い。
だが、その会話に夢中になって警戒が疎かになっていたメンヌヴィルにコルベールは容赦なく火球を叩き込んでいた。
「ぐっ!? さ、流石隊長殿。やると決めたら“手段は選ばない”その一瞬にして心を凍てつかせる鋼の精神は全く衰えて居ない様子……だが!!」
メンヌヴィルが最初にコルベールの放った蛇のような炎で、不規則な変化を付けながらコルベールに攻撃する。
「……っ!!」
左、そう思ったコルベールは、炎によって塞がれた視界の奥……右から飛んできた火球に気付くのが遅れ、直撃を受ける。
「……成る程」
「俺もただ時間を無駄にしていたわけではない、貴方に勝つために腕を磨いていたのだ!!」
「そうか、貴様はあの時の事を何も顧みていないのだな。“だからお前は成長しない”んだ」
「何だと!?」
コルベールの周りに炎が吹き上がる。一瞬にしてコルベールの背後に大きな炎の壁が出来た。
気付けばメンヌヴィルの周りには誰もいない。
メンヌヴィルの背後は開かれた食堂の大扉のみ。
コルベールが一歩前へ進めば炎の壁のも一歩進む。
(何だあの炎の壁は? あんな使い方をすればすぐに精神力は尽きる。それだけ自身のある魔法だとすれば……ここは一端間を置くのも有りか)
メンヌヴィルは迷うこと無く、一端食堂から出る。
それを追いかけるコルベール。
炎の壁は食堂をコルベールが出たあたりで消えた。
メンヌヴィルはやはり、と思う。
狭い室内では有効だが、外では精神力の無駄遣い。
魔法を解除したあたり、それこそコルベールは精神力を節約しなければならないほど消耗しているはずだ。
勝機、とメンヌヴィルは見た。
幸い月は雲に隠れて闇の帳が落ちている。
見えないコルベールより熱を探知できる自分の方が有利に戦え……!?
考えていて、急に喉が苦しくなる。
「……苦しいか?」
急に汗が噴き出して止まらなくなる。
「……熱いか?」
コルベールの物と思しき声が自分の現状を的確に当ててくるのが悔しいが今はそれどころではない。
俺は一体、何をされた?
「簡単な事だ、ただ、ここら一体だけの空気、酸素を燃やし尽くしているだけだ」
こちらの疑問に的確に答えて来るコルベールの声……声?
そこで気付く。
何故感じるのが声だけなのだ?
自分は熱を感知出来る筈なのに、何故?
そこでメンヌヴィルの意識は途絶え、永遠に目覚めることの無い眠りについた。
「お前の目が見えていたなら、あるいは気付けたのかもしれないな」
辺り一帯の生物を無差別に窒息死させる魔法。
この魔法を取得するための鍛錬で、コルベールは体……とりわけ表皮に見た目ではわかりにくいダメージを負い、毛髪に至っては死滅に近い体になってしまっていた。
額に大量の汗を掻き、呼吸も荒いコルベールが地に膝を付けながら、目前の動かなくなったメンヌヴィルを見て、呟く。
「先に地獄で償っていろ、私もそのうち“そこでも”償いを受けるさ」