第九十六話【記憶】
あんた誰?
そうサイトは口にした。
その言葉は思い出深く、しかし今となっては過去にしか過ぎない自分の思い上がった言葉……だったはずだった。
「……な、何を言ってるのサイト? 私よ?」
口調がどもる。
脳がたった今サイトが口にした言葉の真の意味を掴みかねる、いや掴みかねようとした。
「……? ごめん、俺には君が誰だかわからないんだけど」
「っ!?」
だがそれもすぐに意味の無いものになる。
サイトから吐かれる言葉のナイフは薄っぺらなルイズの心の盾をいともたやすく傷つけ、現実を突きつけてくる。
「う、嘘でしょう? サイトが私のことわからないわけがないもの」
ルイズは努めて明るく、しかし怯えたようにサイトのパーカーの裾を掴みながらそれでも信じられないとばかりに上目遣いでサイトを見つめた。
だが本当に、何も知らない幼子のように、黒い瞳をまん丸にさせて、サイトは首を傾げていた。
それが、さらにルイズに事の信憑性を高めさせ、彼女の中に絶望感を彷彿させる。
と、その時、
「やぁ、お目覚めかな?」
二人の居る部屋に、第三者が入って来た。
***
「彼はどうやら、“記憶障害”のようだね。その……言い難いのだが彼は相当な怪我に加え出血が酷かった。怪我によるショックかあるいは出血過多による脳の損傷か、そのどちらも考えられる事態ではある」
ルイズの目の前には見知った顔があった。
見知った顔で、もう一度見ることは無いと思っていた顔。
「それで……“ウェールズ殿下”はサイトは元に戻るとお考えですか?」
その見知った顔とは、あの戦乱で死んだと思っていたアルビオン皇太子、ウェールズ・デューダーその人だった。
彼は、あの戦乱で部下の兵士に命を救われ、それでも深傷ではあったのだが、運良くこの家の家主に助けられたらしく、気付けばここに居たのだという。
もっともルイズにとってはウェールズがどうしてここに居るのかなどはどうでも良いことだった。
彼女の意識を割く事柄はいつでもサイト一色である。
今もウェールズが、サイトの記憶喪失についてショックを受けたらしいルイズのためにまずは自分の身の上を話して少し気を落ち着けさせようとしたのだが、そんな話はそうそうに切り上げられてしまい、本題をルイズは優先していた。
そうなってはウェールズも対応せざるを得ない。
元々ルイズを落ち着かせるための横話のつもりだったので、ルイズが急ぎ本題に入りたいというのであれば、ウェールズとしてもそれに付き合うつもりではあった。
「正直……わからないとしか言いようが無いな。私の属性も水では無いし、そういった知識に明るくなくてね。すまない」
ウェールズはすまなさそうに謝るが、本当のところ、知識が明るいとは言えなくともいくつかの可能性を示唆することは出来た。
だがそのどれもがあまり良い方向への話ではない。
現状、“第三者から何かをされていなければ”彼の記憶喪失は内的要因ではなく外的要因の可能性が高い。
ウェールズの私見では、出血過多により脳に酸素が行き渡らず、いくつかの脳細胞が死んだのではないかと見立てていた。
内的要因……“心的外傷”に関する記憶障害ならその内容を取り除くことで快復に向かう見込もあるが、事が脳細胞の死となれば記憶を司っていた器官そのものが損傷していてもおかしくはない。
もし予想通り外的要因ならば彼の記憶回帰は難しいと言うほか無い、というのがウェールズの見立てだった。
しかし、今のルイズはサイトの記憶障害を認識してから憔悴しきっている。
信じていたものを一気に失ったような、体からまるで生気が抜け落ちたかのように元気がない。
こんな状態の彼女にこの話は酷すぎる。
加えて先程述べたとおりウェールズは専門家でも何でもない。
もしかしたら、という可能性もある以上イタズラに不安を煽っても仕方がない。
とは言え自分の予想が当たっていたなら彼……サイトは何らかの障害が出ている可能性は否めない。
そこでウェールズは言葉を濁し、ルイズと話をしている間にこの家の“家主”にサイトの様子……障害の有無を確認してもらっていた。
「とにかくだミス・ヴァリエール、今は情報が少なすぎる。やはり専門の水メイジにでも彼を診てもらうのが良いだろう、全てはそれからだ。幸い戦争は終結したそうだ。今朝早くにこんな小さい村にもその報せは届いたよ。何でもクロムウェルの居た司令部が“突如参戦したガリアによって砲撃”され、司令部ごと彼は亡くなったそうだ。しばらくはゴタゴタしているだろうが、それが済めば恐らく定期便も復興する。そうすれば君らもトリステインに戻れると思う」
ウェールズは明るく振舞うが、ルイズは一向に下を向いたままだ。
「ウェールズ……? ちょっと良い?」
そこに、サイトを見てくれていたこの家の主がぴょこっと顔を出した。
長い金髪……を突き抜けるように長く尖った耳が彼女の“種族”が何なのか訴えていた。
「ああティファニア、どうしたんだい?」
「えっと……私もそっちに行っても大丈夫かな?」
「え? ああそうか、ミス・ヴァリエール、彼女のことなんだが……」
ウェールズは気まずそうにルイズの顔をみやった。
既にうすうす感づかれているとは思うが、彼女の“正体”……種族を嫌う者は多い。
かくいう自分も、彼女と出会うまではあまり彼女ら“エルフ”……とりわけ“ハーフエルフ”に良い印象は持っていなかったくらいなのだから。
そう、瀕死のウェールズを助け、この家の家主でもあるティファニアと呼ばれた彼女は“ハーフエルフ”だった。
エルフと人の悔恨は遥か昔からあり、お互い別の人種を認めようとはしない。
人は長い耳を見ただけで忌避するし、エルフも人を蛮人と見下したような呼び方をするのが常だった。
だが何事にも例外は存在する。
例えばハーフエルフなどはその最たる例で、その名の通りハーフエルフとは人とエルフの混血だった。
「ハーフエルフなのでしょう? 別に気にしません。それよりサイトは……」
ルイズはウェールズが気にし、言わんとしていることを察した。
察した上で、やはり彼女の中の第一順位はサイトらしい。
言ってしまえばサイト以外は須らくどうでも良いのだ。
エルフだろうがオーク鬼だろうが、サイトと自分を引き裂くものは許さないし応援してくれる者は味方と認識する。
もっとも、彼女の中で味方=サイトに近づいて良しというわけではないのはご愛嬌だ。
「ああ、ティファニア、どうだった?」
呼ばれてティファニアはトコトコとこちらに歩いてきた。
白いワンピースにそのふくよかを通り越してメロンでも詰めているんじゃないかと錯覚するほど大きな胸を二つ揺らし、艶かしいまでに素肌の足を露出させ、“ややお腹がぷっくりと膨らんでいる姿”で二人の前にティファニアは立った。
「あのね、あの男の子……えっとサイトだっけ? サイトは本当に何も……自分の名前すら覚えて無いみたい。でも身体は何処も異常が見つからなかったから、生活するのに支障がある障害とかは無いと思う」
ティファニアはまず簡単な問診をした。
と言っても医者でもなんでも無い彼女は、覚えている事を聞き出そうとあの手この手の質問をしただけだったのだが収穫はゼロ。
続いて外で少し一緒に歩き、やや走ってみたりとサイトに動いてもらった。
結果は良好、サイトは動く事に支障は見られなかった。
ウェールズの予想では何処かに麻痺が見られる可能性があったのだが、それが無いのは僥倖と言えるだろう。
もっとも、これでウェールズの考えが否定されたわけでも無いので楽観視は出来ないが。
「そうか、それは一先ず何よりだね」
「うん。あ、そうそう、そのサイトがね、自分の事を知っている人と話したいって」
「!!」
「そうか、ミス・ヴァリ……言うまでも無かったか」
ウェールズは少しサイトと話をしてみては、とルイズに勧めようとしたが、それよりも早くルイズはサイトの元に向かっていたようだ。
「苦労かけたねティファニア」
「ううん、良いの」
ティファニアは向日葵のような笑顔でウェールズに微笑む。
「でもさっきやや走ったって言ってたけど、まさか君も走ったのかい?」
「え? うん、少しだけだけど、一緒にね」
「……その、何ていうか……もう一人の身体じゃ無いんだからくれぐれも無茶はしないように」
「え……? う、うん。えへへ……」
ティファニアははにかんだように自身のお腹をさすりながらまたも微笑んだ。
その顔に、ウェールズも思わず頬が緩む。
思えば、自分達が“こういう関係”になってどれだけの月日が経ったのか……それを示す計りでもあるように、ティファニアのお腹は胎動していた。
「あともう少し、だね……どんな子が生まれるんだろう?」
「きっとティファニアに似て可愛い子だと思うよ」
「ううん、それならきっとウェールズに似てすっごく格好良い子だよ。楽しみだなぁ…………あ」
「ん? どうかしたのかい?」
突如何か思いついたようにティファニアの顔が暗くなった。
***
「サイト!!」
ルイズは駆け足でサイトが居る外へと向かい、
「えっと……“ルイズさん”……だっけ?」
ピタリ、と足が止まる。
ルイズ“さん”
聞きなれないサイトの声でのその呼び方は、ルイズを酷く怯えさせた。
サイトの声で、サイトの顔で、サイトそのものに他人のように接されるのが、酷く辛い。
『おうよ、お前さんはあの娘っ子の使い魔にして俺様の使い手なんだぜ?』
デルフリンガーがカチカチと柄を鳴らしながらサイトと会話していた。
先ほどの“ルイズさん”という言葉も、サイトとデルフの会話から漏れた一語に過ぎなかった。
それでも、ルイズに衝撃を与えるには十分すぎた。
「へぇ、そうなのか。ところで“使い手”ってなんだ?」
『おう、前さんは……』
二人はいつもと変わらないように会話している。
だがルイズにはそれが何処か別世界のように感じられた。
そこに居るのは“サイトのようでサイトで無いような”そんな錯覚が彼女を恐怖に陥れる。
そこにサイトが居るのに、何故か彼は遥か遠くに居るように感じる。
サイトの傍に行きたいのに、近寄っても傍に居られていないような錯覚。
それを恐れて、近づこうと踏み出したルイズの足は、何故か家の中へと戻っていく。
未だかつてない彼女のこの行動が、確実に彼女の中で感情の変化が起きている事を示していた。
***
家の中に戻ったルイズは、ふと話し声に気付いた。
恐らくはウェールズとティファニアだろうと気に留めるつもりは無かったのだが……途切れ途切れに“それ”が聞こえてルイズは足を止めた。
「……から、悪かっ……て」
「それは……仕方の無い……それにそうそう強く影響……言っていたじゃ……」
「うん、それは……でも……」
「確かに……いでも……いが……」
「私、本当に記憶を消して良かったのかなぁ」
耳から入った言葉を脳が認識するまでの若干のタイムラグ。
──────────記憶を消して良かったのかなぁ──────────
その間に、ルイズの表情は消えていた。