帝都ヴィンドボナ、ゲルマニア随一の大都市である事は間違いない。
ホーブルグ宮殿から真っ直ぐに続くカイザーハンプトシュトラッセ。
その通り沿いに立ち並ぶ建物は、それぞれが歴史があり、建築物としても荘厳なものが多い。
各種行政府の建物さえも、様々な彫刻が施された時代を感じさせるものである。
ましてや、選帝侯の別邸となると、限られた敷地内でどれだけ意匠を施せるかお互い同士が競い合うように壮麗な建物が立ち並んでいる。
そのような華やかや一画に石造りではあるが、それ程目立つような装いも無くひっそりと建っている建物がある。
何かの行政府、それも予算の少ない弱小官庁の建物程度に見えるその建物が貴族院である。
帝政ゲルマニアに於いて全ての貴族の記録を留め置く官庁であり、表向きは単なる記録保管部門にしか見えない役所であった。
元々ゲルマニアは、人口の割りに開発すべき地域が広い。
他の強国に比較した場合、新規開拓の占める割合が大きい国家である。
ガリア王国は、東のサハラに至る前にエルフの住む地域に接している為、新たに開発すべき土地は少ない。
逆に言えば、エルフを征服してしまえば、広大な領地が転がり込む可能性があるのがガリアと言えよう。
これに対して、ゲルマニアの東は、サハラを超えて聖地に達する以前に広大な森林地帯が広がっている。
あちらの世界で言えば、ウクライナ、ロシア地域まで未開発の土地がある訳である。
勿論、あちらの世界のように何も無ければ、ロシア帝国なんぞが出来ていただろうがハルケギニアでは違った。
エルフの支配地域ではないにしろ、メイジでなければ強力な傭兵団、あるいは国軍が本腰を入れて相手をする必要がある生物が住んでいた。
亜人と一纏めにされる、人間以外の人型生物である。
それらは、オーク鬼、トロール鬼等の怪物、巨人と呼ばれる生物から、人に極めて近く時には共存すら可能なエルフや鳥人、獣人と呼ばれる生物まで様々であった。
ただ一つ共通している事は、彼らは森等の自然環境にて生活圏を確保しているのに対して、人間は畑を耕し自然環境を改変している点である。
結果、ゲルマニアの国土開発は遅々として進まない。
森林地帯の開墾を進め、東に延伸しようとすれば、あちこちで亜人との衝突が発生する。
勿論組織として人が対応した場合、これらの亜人に対しては最終的に人間側が有利になる。
しかしながら、それには長い時間が必要なのである。
軍隊を常に滞在させながら、土地を開拓出来るものではない。
そこには熾烈な生存競争の場があった。
それはあたかも、ネアンデルタール人と現生人類であるクロマニヨン人との何万年にも及ぶ生存競争の焼き直しそのものであった。
精霊魔法を扱う事が可能な亜人と、系統魔法を確立した現生人類の生存を賭けた戦いなのである。
話が大幅に逸れてしまったがゲルマニアでは、この戦いに勝利する為、系統魔法を扱えるメイジを大量に必要としていた。
そしてこのメイジの確保の為に打たれた政策が、貴族籍の売買なのである。
決して、トリステイン王国で思われているように、金の為に貴族籍が売買されているのではない。
少なくとも、政策立案当初は…
と、とにかく、ゲルマニアではこのような経緯にて皇帝による叙勲以外での貴族籍の提供のルートが確保されている。
それだけに、貴族籍の管理そのものが重視されるのは当然である。
結果、貴族院と銘々された官庁にて、新たな貴族、分家、養子縁組等の記録を一手に管理しているのである。
貴族院そのものの権限は殆ど無い。
ただ、貴族たるもの、新たな庶子、跡継ぎの生誕、結婚、死亡等に関しては貴族院に届ける事が定められているだけである。
実際、十二選帝侯等の有力貴族にとっては、世継ぎの誕生の時に、麗々しく飾り立てた数台の馬車を連ね。
王宮に、その報告を行なった後に、立ち寄るべき場所程度の認識であった。
ちなみに数年に一度程度で行なわれる、この馬車での参内は、ゲルマニアではかなり有名である。
世継ぎの出生の近い選帝侯がいる場合、産み月に近づくとこれを見る為だけにヴィンドボナを訪れるものすらいる位である。
これに対して、弱小貴族、新興貴族にとって、貴族院は目障りな組織である。
弱小貴族が資産を手に入れる簡単な方法の一つとして、貴族籍の売買があるのだ。
平民の中からメイジの才を持つものを見つけ出す。
そして、金持ちであるが魔法の才能が無い家を見つければ、新たな錬金方法が確立するのだ。
その子を金持ちの実子としてしまえば、自らの戸籍に養子縁組が可能となる。
その後分家の申請を出すだけで、新たなメイジの貴族が誕生するのだ。
この過程を経れば、自分は貴族になれなくても、家として貴族になれると判れば、ある程度の金額を支払う裕福な親は何人でもいるのだ。
貴族院が無ければ、無限の錬金方法なのだが、養子縁組はその記録が残されてしまう。
流石に、一貴族が数十件も分家を作り出せば、いくら皇帝の権限が弱いとは言え、下手をすればおとり潰しもあり得る。
貴族院そのものには、何の権限も無い。
しかしながら、このような記録をチェックししかるべき官庁に差し出す事で、貴族の無茶な行動が掣肘されていると言えよう。
「うーん、何なんだろう?」
そんな貴族院の一室、北方担当室で、女性が書類を見つめ頭を捻っていた。
「うん? 何があったの?」
女性の上長であろうか、三十台後半にしては、後頭部がコルベール化している男性が声を掛ける。
「あっ、コールさん、この記録なんですよ」
呼ばれたのは、貴族院にて主に北方辺境領からアンハルト、メクレンブルグの貴族の記録を管理している、北方担当官ヘルベルト・コールだった。
「うん、どれどれ」
その助手を務めるシモーネから渡された書類に目を通して行くヘルベルト。
記録には、今年のウルの月に養子縁組にて貴族になった人物の事が書かれていた。
「これが、何か?」
ヘルベルトには良くある、貴族籍の売買にしか見えない。
弱小貴族の資金稼ぎではなく、単なる没落貴族への養子縁組だ。
しかも領地が、北方辺境領の果ても果て、コウォブジェクの更に北と来た日には、この人物が可愛そうに思えて仕舞うほどだ。
「ええっと、貴族籍は男爵なんですよ、この人」
うん、そうだろう、あんな土地を買ってもそれ以上の爵位がある筈も無い。
「ですけど、一緒に申請された、この人のヴィンドボナの邸宅なんですけど」
シモーネが怪訝な顔をしている。
ほう男爵如き、と言っても自分も男爵ではあるが、邸宅を買うのか。
借りれよ、アパルトメントで十分じゃないか。
そう思ってしまう悲しいヘルベルトだった。
「これって、元々アードルンク侯爵の館ですよ」
「アードルンク侯爵って、去年お家騒動で御取潰しになったあのアードルング?」
思わず、ヘルベルトは聞き返してしまう。
「そうですよ、私が知っている以上、アンハルト公爵領のアードルング侯爵しかいないじゃないですか」
疑われたと思ったシモーネが口を尖らす。
「ああ、ごめん、ごめん、シモーネを疑った訳じゃないんだ」
ヘルベルトはシモーネを宥めながら書類に、も一度目を通す。
男爵のくせして、侯爵の館を買い取る…
ちくせう、どれだけ金持ちなんだ、この野郎…
反感がむくむく湧き上がるのを押さえきれないまま、更に書類に目を通して行く。
28才、まだ若いじゃないか。
出身地、ガリア。
ふむ、あっちからの流れ者か、しかし偉く思い切ったな。
ガリア王国から、北の果ての北方辺境領に領地を持とうなんて、どれだけ酔狂な金持ちメイジなんだ。
系統は、水ねえ、何か秘薬でも作って儲けたのかな?
職業、特に無し…
うん、金持ちの馬鹿息子に決定!
親が死んで遺産でも手に入り、メイジだから貴族になりたいってゲルマニアに流れてきた。
ほんでもっと、なーんにも知らない馬鹿息子が、上手い話に騙されて、身分不相応な邸宅と、辺境領に領地、これで決定!
「まあ、奇妙な馬鹿息子かなんかだろう」
頭の中で、それだけ判断してヘルベルトはシモーヌに告げる。
「やっぱそうですよねー、なーんか気になったんですよ」
シモーヌはそう言いながら、また仕事に戻って行く。
ヘルベルトも肩を竦め、自分の仕事に戻ろうとし立ち止まる。
まあ、一応「要注意新興貴族」に入れてやるか…
金持ちの馬鹿息子に、痛い目を見せてやるのも悪くないか。
ヘルベルト自身は何も権限は無いが、そうすれば一応書類が「国家安全院」に流れる。
国家安全院、通称国安は、ヴィンドボナの治安維持を行なう為の組織である。
当分監視対象にはなるが、単なる馬鹿息子だと判れば、監視は外れるだろう。
まあそれまで精々、国安の嫌がらせでも受けるが良いさ。
ヘルベルトは、手にした書類を国安行きと書かれた連絡箱に放り込んだ。
こうして、北方辺境領に小さな領地を持った弱小新興男爵、アルバード・コウ・バルクフォンに監視が付く事が決定された。
それは、ニイドの月、ヘイムダルの週イングの曜日の出来事だった。
そして、国安から派遣された、男性料理人が問答無用で送り返されてくる三日前の出来事だった。