――うれしいことがあった。――ほんのすこしだけ、桜ちゃんに変化があった。――桜ちゃんが生まれたときからずっと知っている俺と、この一年をずっと見続けてきた俺と、癪ではあるが俺が呼び出したバケモノにしか判らない程度の、ほんのわずかな変化。――自分を守る無表情に覆い隠されてはいたものの、それは確かに桜ちゃんの中にあって。――バケモノが言ったように、簡単には元には戻らないだろうけれど。――決して大輪の薔薇ではないけれど、自身の名前のように小さな笑顔をいずれ見せてくれるのではないかという夢を見るには充分で。――でも、その笑顔を見ることは、きっと俺はできなくて。――それが少しだけさびしくて。――こんな想いを抱いて眠るのは、きっと、これが初めてで……………………。 貴族の将軍たちが、自分を呼び止めて悪罵していた。 戦いになったら、自分の後ろに隠れるくせに。 平和になったら威張り散らす。 そう思うと、右肩が疼いた。 右肩の疼いている自分に、 伴周りの少年が言った。 媚びた目でもなく、 脅えた眼でもなく、 自分には決してできないような真っ直ぐな瞳で 自分のようになりたいと。 追従や機嫌取りではなく、本心だった。 自分のように、強いだけの男になってどうしようというのだろう。 自分のように、憎むことしか知らない男になってどうしようというのだろう。 少年が言った。 自分は優しくて強いと。 ひどい誤解であった。 しかし、その誤解を解く気にはどうしてもなれなかった。 間桐家の朝は早い。 女手のない家であるとはいえ、魔道の家とはいえ炊事も家事もせずに生きていけるわけではない。 普段は通いの家政婦が朝七時には台所に立ち、朝餉を用意した後、いまは亡き臓硯や半死半生の雁夜の世話や掃除洗濯をし、夕方四時には晩飯の支度をして帰っていく。 しかし、聖杯戦争が始まろうとしているときに一般人の部外者を巻き込むわけにも行かず、サーヴァントを召喚する前に暇を出している。 しかし、この侘しい朝食を見て雁夜はこれでいいのかと自問せずにはいられない。 広い食堂で、まともに食卓についているのは、無表情に箸を動かす桜ひとりである。 雁夜は、食事は喉を通らないので箸を取っていない。 ただ、栄養点滴が流れ落ちるのを椅子に座って待つだけである。 兄の鶴野は、バーサーカーとして召喚されたバケモノが恐ろしいらしく部屋から出てこない。桜の兄の慎二は、海外に遊学中である。聖杯戦争が終わってくるまで戻ってこない。 必然的に、朝食をまともに食べているのは桜だけということになる。 怪しい薬品を盛られていた頃の食事とは比べようもないが、食べているのは昨日のうちにスーパーから買ってきた弁当を、温めただけのものだというからその思いはますます強くなる。 そんなことを気にしている場合ではないのかもしれないが、このままで良いわけでもない。 あのバケモノはといえば、ハンバーガー以外のものは喰いたくもないのか、雁夜の誘いを断り隣の部屋でブラウン管を凝視している。 規則正しく、眼の前の食事を片付けていく少女を見ながら雁夜はとりとめのない思索にふけった。 確かに、臓硯の魔手は、もう雁夜にも桜にも永久に届かない。 しかし、葵や凛の下に桜を渡してそれで終わりというわけにもいかない。 どうしても確かめなくてはならなかった。 なぜ、あの男が桜を此処に置くのを、良しとしたのか。 理由によっては、また、桜が外道の魔術師の下に送られる。 同じことの繰り返しである。 だからといって、桜を自分の手で育てるという選択肢が雁夜にはない。――まいったな、こりゃ……。 バケモノが出した宿題は難問であった。“だから、そう簡単に復讐とかいってくたばることばっか、考えるんじゃねえ” そのバケモノを召喚する前に桜と交わした約束は想像以上に難しい。 しかし、雁夜は誓ったのだ。“――あのひとたちと、また、会えるの?” という消え入りそうな声に、“ああ、きっと会える。それはおじさんが約束してあげる” 確かに約束したのだ。 この約束だけは、なんとしても守らなくてはならない。 大切な人との約束は、必ず守るべきだった。 この約束だけは雁夜がどうして守りたかったのだ。 本来、間桐邸では、すべての部屋の扉に鍵が掛っていたのだが……。 いまは、その扉すらほとんどの部屋に存在しない。 原因は単純で、雁夜の呼び出したサーヴァントが、扉という扉を「メンドくせぇ」といって、破壊したからだ。 本来、このバケモノは、日本家屋ならば壁をすり抜けることもできるのだそうだが、壁や扉に金属やコンクリート、セメントが使用されていると、どうにもうまくいかないらしい。 さらに間桐の家の結界が、バケモノの体に反応するようで移動するたびに、内部に張られていた全ての結界が破壊されてしまった。 現在、扉が残っているのは、玄関とトイレ、風呂場だけである。 そのせいで、屋敷すべての部屋の風通しが良くなりすぎてしまった。 その元凶は、どこ吹く風で文明の利器を凝視している。 リビングルームの日当りのいいところを選んでじっとしていたり、テレビ番組ではニュース放送が大好きだったりとこのバケモノは、変なところで爺くさい。「ニュースなんか見て面白いのか?」 しかも、無味乾燥の国営放送のニュースが一番のお気に入りである。 このサーヴァントにはもっと世俗的な番組、くだらないバライティ番組を見て爆笑するほうが似合っているように雁夜には思える。 聖杯も、テレビチャンネルの切り替え方法や、リモコンの使用方法などはバーサーカーの座には必要ないと踏んでいたのか、 朝早くからテレビを点けるようにやかましくせがむのだ。 雁夜の問いに、「ふん、座とかいうくだらねーところにいたら、ニンゲンがテレピンのなかでしゃべってることでもそれなりに面白いわ」 などとのたまっている。 もっと有意義なことをしたらどうか、という言葉を雁夜はなんとか飲み込んだ。そんなことを口にして、中庭に移動したゴミの山をさらに増やされた日には、どうしたら良いというのだろう。 その二人のやりとりの横で、桜は絵を描いていた。 二十四色のクレヨンで大きな画用紙に、年齢に相応な、大人には、なにを書いているのか一瞥では理解できない絵を何枚も。 わかるのは描かれているのが人間だということだけ。 一列に並んで、何人かの人間が描かれている。 この館に来てから、桜が絵を描いているのは初めてであった。 もしも、桜が白い画用紙を黒いクレヨンで端から端まで塗りつぶしたりした日には、雁夜は口から泡を吹いて卒倒したであろうが、幸いにもそんな悲劇は起こらなかった。 雁夜に、興味が湧いた。 誰を描いているのか知りたくなったのだ。「桜ちゃん、なにを描いてるの?」 桜は、無表情のまま、しかし驚いたように、木の葉のような手のひらを画用紙に乗せ、全身で覆いかぶさるように絵を隠した。 こころなしか、頬がほんのり紅潮しているようにもみえる。「……秘密……」 消えいりそうな声で呟いた桜の絵を、「なんだぁ、みせてみろよ」 バケモノが首を、二mほどニュウっと伸ばして覗き込んだ。 ああ、確かにこいつはバケモノなんだと実感できる瞬間だった。 その首を伸ばして覗き込んだサーヴァントの顔を……桜は、思い切りグーで殴った。「なにしやがるっ、このガキ」 と絶叫するバケモノに、「……天罰です」 桜は、素気なく言った。 鼻っ柱を抑えている妖怪を無視して、ブラウン管に映し出されたアナウンサーが淡々とした口調で、冬木で起きた事件について語っていた。「本日未明、冬木市で起きた、殺人事件についての続報です……」 そのニュースを聞いて、雁夜とサーヴァントの体温が下がる。 新都の英会話学校で、女性外国人講師が殺されたこと。 全身を剃刀で切り付けられ絶命したこと。 そして、その憐れな被害者の生き血で、床と壁になにか、文様らしきものが描かれていたことを、抑揚のない国営放送のアナウンサー特有の声で伝えた。「これで、三件目か」 誰に聞かせるでもなく、呟くように雁夜がひとりごちる「……こいつぁ、せーはいせんそーとかいうのにさんかしたやつの仕業か……?」 バケモノが、底冷えするような声で言った。 この状況で起きた事件である。たしかに疑わしい。「……たぶん、違う。魔術師が、生贄として殺したんなら、こんなヘマはしない。こういったことを隠すのが魔術師連中のやり方だから……」 雁夜は、臓硯という正気を喪い、精神を腐敗させ、不老不死への妄執にとりつかれた狂気の魔術師でさえ、痕跡の秘匿という 最低限のルールは守っていたことを知っている。あの魔術師は人間の生き血を啜った後、その亡骸を虫たちに捕食させることによってその業を隠蔽していた。 普通、魔術師が魔方陣を、一般人に見つかるように描くことなどありえないはずだ。 どんなに強力で優秀な魔術の担い手であっても秘匿の義務を怠れば、魔術協会により粛清される。雁夜のような成り立ての半人前で、魔術という術を嫌悪している者にとっても、それは当たり前すぎる常識だった。 しかし、時期が時期である。関係がないと断言することは、あまりにも軽率な判断である。 それきり、二人は沈黙を保ち続けた。 ブラウン管が、次のニュースを映し出しても、その沈黙は途絶えることはなかった。 新都の安ホテル街から近くの喫茶店に、その不釣り合いな二人はいた。 年の離れた兄妹というには無理があり、叔父と姪のという関係のほうがしっくりくる二人である。 周囲を気にしながら話をしている様子を少々邪推するならば、年の離れたワケアリの二人という見方もできるかもしれない。 しかし、二人の関係はそんな艶とは一切関係がなかった。周囲に聞かれないように注意を払っていたのは、内容が殺伐としたもので、喫茶店で大声をあげて話が出来なかっただけである。 藤村大河という少女の伝手は、実際に大したものだった。 記者クラブからの報告を、なんとか同系列のテレビ局の記者から聞き出そうとする守矢に、警察にいる剣道の知り合いという警部を紹介してくれた。 ご丁寧に、冬木市警察の捜査本部に所属している警部だ。 喉から手が出るほど見たかった、極秘の捜査資料の写しも、「ばれなきゃ大丈夫です」 という、涙が出るほど嬉しい一言と共にその警部が持って来てくれた。 なんでも、藤村組は武闘派で知られているが、警察との折り合いは悪くないらしい。 老舗で必ず筋を通す藤村組を擁護し、暴走しやすい新興勢力の台頭を防ぐ狙いがあるのだそうだ。 別段、珍しいことではないと守矢は感じた。 いがみあっているようでいるようで、実際には共同戦線を張っているというのはどこの世界でもよくある構図だ。「でも、守矢さん。この事件って、証拠が何もないんですよね。どうして同じ犯人の連続殺人事件だってわかるんですか?」 少女の鋭い質問に、守矢は事件のあらましを解説しはじめた。 今回の事件は、今月の初めに、捜索願の出ていた家出少女が廃工場に変わり果てた姿で始まったことに端を発する。 検死解剖の結果判ったことは、凶器は刃渡り数センチの鋭利な刃物であり、床に妙な紋様は、被害者の血液で描かれたこと。 そして、殺害される前に、絶命までの数時間、凶器の刃物による拷問を受けていたことである。 鑑識班の調査も空しく、犯人の指紋、毛髪、衣類の繊維、靴底の痕跡など、犯人に繋がる証拠は一切見つからなかった。 しかし、この報告を受けて他県の捜査本部が声を上げたのだ。“こちらで起きた事件と似ていないか”と。 数か月の捜査にも拘わらず、迷宮入りの一途を辿っていた事件だった。 遺体はドラム缶に詰められおり、死後一週間以上経過した状態であったが、全身に剃刀で切り付けられた傷があったという。 被害者の遺体の傷を比較してみると、どちらも意図的に、致命傷となる動脈を避けて傷を加えられていることが解った。 それで点線が繋がった。この事件は同一犯ではないかと騒がれ始めたのだ。 それ以降、冬木市警察は、連続殺人事件の可能性も視野に入れて、近隣の所轄とも連携して捜査を進めていたのだが、それを 嘲笑うかのように一週間前に第二の事件が起こり、そして、今日未明に第三の事件が起きた。 説明をしながら写真の束を、守矢は少女に見えないようにテーブルの脇にどけた。しかし、かえって少女の注意を引いてしまったらしい。「あらっ、これって」 そういって、写真の束に大河が手を伸ばす。「ん、見ないほうがいいと思うぞ……」 男は、一応、といった態で忠告をする。 しかし、逆に少女の好奇心という導火線に火をつけてしまったようだ。 引っ手繰るように写真を手にし「な、なんですか、これはーーー!!!!」 絶叫した。「年頃の女の子になにを見せるんですかーーー!!!!」「一応、止めたんだが……」 耳を両手で押さえる守矢を、「そういうときは、無理やりにでも止めてくださいよーーー!!!!」 さらなる絶叫が襲った。 しかし、猟奇殺人事件の犯行現場写真を、突然見せられた反応としては、マシな部類だったかもしれない。 正視するのに堪えないといった様子ではあるものの、「この魔法陣って……」 恐る恐る写真の端を眺めていた少女が、小さな声を出す。「ほん、もの……ですか?」 守矢は、この写真を見たときに大河と同じ印象を抱いた。 すなわち、描かれた図柄が、やたらと本格的なのだ。「ああ、これ英語……じゃないですね。私、英語得意ですけど……こんな単語見たことないです」 一枚一枚、おっかなびっくり写真を捲っている。「ルーン文字にラテン語だよ。それに、漢字も見え難いけど混じってる」 血まみれの擦れた文字であったものの、幾つかは読み取れるスペルがあった。『accerso』とか『diabolus』とかそんなスペルは見たことがない。図書館で色々な辞書を片っ端から当たった結果、ラテン語の辞書を見つけて、意味を調べたのだが――「本物かどうかは、現在調査中……だ」――『accerso』は呼び出す、『diabolus』は悪魔とかそんな意味らしい。 守矢は、ふと、数年前の事件を思い出す。 今回の事件も、もしかすると、ああいった類の事件かもしれない。 守矢は体温が下がり、身震いするのを感じた。 雨生龍之介は上機嫌だった。 自分の思いつきに感動していた。 今回の犠牲者は、英会話学校の女性講師だ。 やはり、黒ミサ風味の演出には外国人が似合う。 とても美しい肌をしており叫び声を上げる仕草が、日本人とは違い最高にCOOLだった。 手近な所で済ませなくてよかったと、心の底から思う。 外国人ならだれでもいいやと標的を探していたのだが、自分の苦手な光景を見せられて最初の標的は見送った。 それが、結果的には最高だった。 もしも、昨日ぶつかった老婆で済ませていたら、あの若々しくて瑞々しい、それでいて日本人離れした身体を切り刻むことが出来なかったのだから。 しかし、心残りもあった。 生き血で描く魔法陣が、最後まで描き切れなかったのだ。 画龍点睛を欠くとはこのことだ。 一人や二人では足りない。 少し多めに殺さないといけないかもしれない。 そうして雨生龍之介は次の獲物を探すために踵を返した。