店内に入ってきたその女子生徒は、ブンブンと首を振り、周囲を見回したあとこちらへと近づいてきた。 ぜいぜいと喉を鳴らしながら、呼吸を整えながら声を出す。「あ……あなた……が、 東京からきた守矢克美さんですか」 恐らくは、此処に来るまでに全力疾走してきたのだろう。 紅潮した頬に、額に、玉の汗を浮かべている。 守矢のテーブルの前で、息も絶え絶えにいった。「……ふじ……藤村大河……です、お……くれてご……めんなさい」 年の頃は、十代半ばといったところだろうか。 学生服に身を包み、申し訳なさそうにはにかんでいる。 笑顔がよく似合う相貌をしており、肩程度まで伸ばした茶色掛った癖っ毛を、後ろでまとめた可愛らしい少女である。 ぺこりと頭を下げる仕草も、活動的であると同時に実に愛らしい。 左手に持っている濃紺の包みの中は恐らく竹刀だ。剣道部か何かに所属しているのだろう。よく見ると、その包みから、虎のストラップがはみ出している。 守矢は困惑していた。 てっきり、その道の人、もっと単純に言ってしまえば強面のヤクザから話を聞く予定であったのだ。 ところが、現れたのは守矢より、二十は年下の可愛らしいお嬢さんである。困惑しないほうがおかしい。少女の名前を、牛が 反芻するように繰り返す。「……藤村……たいがぁ……さん」 不覚にも語尾を伸ばしてしまった。「タイガーっていうなーーーーーー!!!!!!!!!」 少女の、否、肉食獣の絶叫が店内に響きわたった。 とりあえず、少女の名前の語尾を延ばすのは危険だということだけは理解した。 守矢は頭を抱えていた。 本来ここに来るはずだった人はどうしたのか少女に聞くと、面白そうなので代わってもらったという。「さあどうぞ、なんでも質問してください!!」 美味しそうにケーキを頬張る少女に、惨殺事件の詳細や、ヤクザ屋さんの資金源としての人身売買の経路、冬木市で起きている不穏なナニカについて、いったいどう聞けというのだろう。 そんなこちらの聞きあぐねている様子をみて、逆に、ぽんぽんと歯切れのよい口調でこちらに質問をしてくる。 人懐っこい笑顔が警戒心を緩和させるのだろうか。守矢もついつい、必要のないことまで話してしまった。 好奇心が強く、人に警戒されないというのは稀有な資質である。もしかしたらこの女の子は、よいジャーナリストになるかもしれない。「じゃあ守矢さんは、『冬木市の悪魔』を捕まえるために来たんですね!!」「……まあ、そういうことになるかな」 言い切ることなど出来るはずもない。 守矢にとって、犯人を探すことはやぶさかではないが、捕まえたりするのは警察の仕事である。「決めました!!私も手伝います!!」 しかし、少女は力強く断言した。 頬にクリームをつけたまま。「手伝うってなにを……っていうか……なんで!?」 いままでの話のどこをどうつなげたら、そういった結論が出てくるのだろう。「私たちの街で起きている事件なんですよっ!!!!私たちが解決しないでどうするんですかっ!!!!」 正論である。「いや、でも、そのね……。危ないことになるかもしれないよ」 しかし、正論であろうがなかろうが勘弁してもらいたい。「大丈夫ですよ。自分の身は自分で守れますって!!剣道弐段の腕前を信じてください!!!」 自分の薄い胸元を、どんと叩き、自信満々に任せてくれといわんばかりだ。 まずいことに、目を爛々と輝かせている。 ほんの僅か、三十分ほど話をしただけであるが判ることがある。 こういった人種は、一度決めたら譲らない。 絶対に譲らない。 親から許可を貰ってくるようにとやんわり誤魔化そうが、迷惑だと突き放そうが、この場から全力で逃げ出そうが、必ず追いつかれて徹底的に付きまとわれる。 覚えがある。 守矢もそういった人種のひとりだ。「いや、そういう問題じゃなくってね……」 しかし、いかに休暇を利用しているとはいえ、ミドルティーンの女の子を引き連れて、取材をするなど堪ったものではない。「それに、私、役に立ちますよ、守矢さんって、冬木の街はじめてですよね?」「……ああ」 疲れ果てた声でうなずく。予知能力者でなくとも、この後の展開など守矢には解りきっている。 一方的に押し切られてしまうのだ。「冬木って、新都はともかく、深山町の方は入り組んでますから、絶対私がいたほうがいいですよ」 たしかに、初めての土地で道案内は心強い。 心強いのだが……。「……学校はどうするの……」 答えの解りきっている最後の抵抗を、「サボります!!!!!!」 一刀のもとに斬って落とした。 がっくりと肩を落とす守矢をみて、少女は悪戯っぽく笑った。 アウトローのジャーナリストが肩を落としている頃、ウェイバー・ベルベットは同じように途方に暮れていた。 なぜ天才の自分が、こんな瑣末な理由で打ちひしがれなければならないのかと憤慨しながらではあるが。 確かにある意味において、ウェイバーはまぎれもない天才であった。 本人の、まるで気付いていない分野においてであるが…… ウェイバーの著した『新世紀に問う魔道の書』が、まかり間違って本屋の店頭に並んだとするならば、特定の方面の読者から、熱烈な支持を受けただろう。 不朽の名作として、また、最高の実用書として愛読される可能性があった。 全く意図しない方面の読者にではあるが……。 まず、良識のあるオカルト本マニアから、凄まじい大怪作として最高の評価を受けるだろう。 次に、魔術回路を持ってはいるものの、魔術の魔の字も知らないといった素人が、この論文に書かれている理論を実践し、魔術協会を困惑させただろう。 そして、ご同業の魔術師たちからは、“こいつは魔術をサブカルチャーかなにかと勘違いしてないか?” と呆れられただろう。 最後に、ウェイバー本人は、魔術協会に確実に始末されただろう。――魔術回路の数など少なくても優秀な魔術師になれる。――魔術師の格に血筋など関係ない。――理論の信憑性は年の功では決まらない。 とは、 ウェイバーの持論である。願望といってもよい。 この自分の理論を誰にでも、それこそ魔術など知らない一般人にも理解できるように噛み砕いて書き綴るということの危険性を、ウェイバー自身はまるで気が付いていなかった。――魔術は簡単!誰でも出来る!楽しい!素晴らしい!何代目かなんて関係ない! と絶叫するも同じである。 もしも、この論文が、適当でいい加減な、単位考査に間に合わせるため粗製乱造されたものならば、降霊科のケイネス・エルメロイ・アーチボルド講師も、二つ三つ、嫌味な小言を口にしたのち、再提出を命じるにとどまっただろう。 理路整然と、一分の隙もなく、ご丁寧に実践方法も併せて論文調で書き連ねているのである。ケイネス先生には、くだらない妄想を真剣に書き綴るウェイバーがさぞや哀れに映ったことだろう。 なにも知らない一般人を魔術師にする、最高の入門書。そんなものを書くのに構想に三年、執筆に一年もかけたのだ。ウェイバーの非凡にして知られざる才能が産んだ、どうしようもない鬼っ子である。 著者の希望通り査問会の目に触れた日には、正気を疑われ、最悪の場合には魔術師としての命脈すら絶たれかねない。 ウェイバー・ベルベット、青春の大暴走である。 自分を振り返られる年齢になったら、思い出すたび恥ずかしさのあまり夜中に奇声をあげてしまうような痛々しい記憶。 その点において、エルメロイ講師の行った、流し読みの後、破り捨てるという対処は慈悲深いものだったといえる。 しかし、その行為を許せるほどウェイバーは大人ではなかった。 自分の才能を証明するため、華々しく冬木の聖杯戦争に乱入し、あの高慢ちきで家柄だけの男、エルメロイ講師のはなを明かしてやるはずであったのに、ウェイバーは、途方に暮れていた。 単純に、先立つものが少なかったのだ。ロンドンから、単身冬木市に飛び込んできたものの財布は極端に薄かった。 いますぐにどうこうというほどではないが、聖杯戦争が終わるまでの宿代には程遠い。 魔術というのは金食い虫である。何代も続いた、自称名門に生まれた連中ならば強固な財政基盤を持っているのは当然であるが、ウェイバーは時計塔への入学資金も家財道具一式を売り払って何とか捻出する赤貧ぶりである。 本拠地を構えようにも、工房を建設するにも莫大な金がいるのだ。――聖杯戦争でその凄まじい才能を開花させ、周囲に戦慄をまき散らすはずの自分がこんなくだらない理由で悩まなくちゃならないなんて……。 このままでは、近いうちに野宿をしながら聖杯戦争に参加せねばならない。――最悪だ……。「あのう、もしかして」 アングロサクソン系の老婦人が、ベンチにうなだれるように腰かけていたウェイバーに話しかけてきた。 何事かと振り向むいたウェイバーに、老婦人は瞳を見開いてまじまじと顔を見つめたのち、「あら、ごめんなさいね。人違いだったみたい」 そういって丁寧に謝罪した。「ほら、いったじゃないか、マーサ。あの子がこんなところにいるわけないって」 おそらく夫だろう。老紳士が夫人に声をかけた。「でも、あなた。背格好があの子に似ていたものだから」「あの子と最後に会ったのは七年前だよ、マーサ。今、会ったって、きっと誰か判らないよ」 話を聞くに、どうやら孫か息子と勘違いしたようだ。それもどうやら最近は会っていないようだ。「それでは失礼しました」 そうして丁寧に一礼をして去っていく老夫婦を、ウェイバーは見つめていた。 老夫婦は、老人特有のおぼつかない足取りでゆっくりと遠ざかっていく。 鴛鴦夫婦とは、ああいう二人のことをいうのだろう。 しかし、どことなく人生の悲哀を感じさせる足取りだった。 マーサという老婦人が、軽薄そうな青年にぶつかって倒れたとき名案が浮かんだ。 すぐさま駆け寄って、「お待たせ、おじいちゃん、おばあちゃん」 豹柄の靴をはいた、いかにも遊び人のような青年と老夫婦の間に入り二人に声をかける。 老夫婦の瞳を舐めるように見つめ、暗示をかけた。「どうもすみません、祖母が迷惑を掛けて……」 なぜか残念そうに立ち去る青年に口では謝りながらも、心は自分の名案に浮かれていた。 魔術師の工房は、堅牢であるのは常識だが霊脈などの都合上、設置する場所が限られる。しかし、もしも一般人の家庭に紛れ込んだとするならば、守りの備えは紙同然だが発見される可能性は限りなくゼロに近い。 孤独な老夫婦に付け入るのは、僅かばかり胸が痛むが、どうせ勝つのは天才の自分である。 この戦いを制した後、いくらでも借りは返せる。 それまでの間、せいぜい利用させてもらうとしよう。 時計塔において若手随一の魔術師として錦を飾った後、いくらでもあの二人には恩返しは出来るのだから。 誰に聞かせるでもない言い訳を心中でしているとき、ウェイバーの右手の拳に痛みが走った。 うっすらとではあるが間違いない。 令呪の兆しである。 気分が高揚し、足もとがフワフワと浮き上がる。 すぐに、召喚の儀式に必要な生贄を用意することにしよう。 自分の召喚するのがどんなサーヴァントなのか。 口元が自然ににんまりと綻んでくるのを、ウェイバーはこらえることが出来なかった。 間桐雁夜は、地獄のような光景を目撃していた。 テレビ放送の映画を観終わったあと、少女の寝室での出来事である。「……つぎのはなし、おねがいします……」 始まりは単純な怪談だった。 自分の召喚したバケモノが、どんなに脅かしても驚かない桜の泣き顔を見ようと怖い話を始めたのだ。 しかし、少女はまるで動じない。 否、鼻で笑ったのである。『それのどこがこわいんですか』と駄目出しをして。「……だから、わしが火を吐いても雷を落としてもそのムシュナってヤローは直ぐに元に戻っちまうんだ……」「……ぜんぜんこわくありません……。……つぎのはなし……おねがいします……」 むきになったサーヴァントが、眠気に襲われている少女に延々と実体験を交えた怪談を語り続けているのである。「……ひこーきってのを持ちあげたあと、変なくそぼーずに襲われて……」「……つぎ、おねがいします……」 とてつもない意地の張り合いであった。 低次元という意味であるが。「……わしが婢妖にとり憑かれたニンゲンの体に入って……」「……つぎ……」 もう聞こえていないのだろう。 目の前に鳩が出ている桜を寝床に運んでやる。「……カリヤおじさん……オバケ……」 呟くように少女がいった。「……おやすみなさい……」 抑揚のない声であった。「……うん。おやすみ桜ちゃん……」 しかし、何処かに灯がともったような気がした。 その正体に気がついた。 桜がこの家に来てから、なにかをねだる場面を見たことがなかった。 バケモノのくだらない怪談を、もっと聞かせろとせがむ桜。 無表情という鎧がほんの少しだけ剥がれたような気がして。 それが、なぜか無性に嬉しかった。