アインツベルンの森は、それ自体が要塞であり、外敵を阻む仕掛けがなされている。 悪霊こそ放っていないものの、人払の結界にはじまり、幻視、混乱、その他幾重にも張り巡らされた外部からの備えは、魔術師の工房としては水準以上を誇っている。 春の時期には、山菜を求めて迷い込んでしまった市民が、遭難してしまい幾多の偶然の後、城まで来てしまった例は、何度かある。“冬木の森の奥には城がある”アインツベルンの関係者は知る由もないが、そんなうわさがアウトドア関係者には、四方山話、都市伝説の類としてひそやかに伝わっていたりする。 しかし、季節は冬である。そんなうら寂しい森の奥にわざわざ侵入してくるやつはまずいない。 聖杯戦争の関係者を除いては、である。 アイリスフィールの遠見の水晶玉で、森の結界に引っかかったのは、まず、キャスターとそのマスターである。キャスターが、セイバーをジャンヌ・ダルクと勘違いしてストーカー化していると聞いた際、切嗣は一つのプランを速攻で立てた。 すなわち、キャスターが籠城せずに外に出てくるなら、セイバーを囮にしてがら空きのマスターを暗殺する。これに尽きる。網を張って待てば良い。それが最適解だ。 しかし、気がかりなことが一つ。幼児をざっと100人は連れて入ってきたのだ。 おぼつかない足取り、精気のない瞳。間違いなくキャスターの魔術下に意識をコントロールされた幼児たち。これは切嗣の合理的な思考にとって異物だった。 合理主義者が間違いを犯す最大の要因は、「相手も合理的に動くに違いない」という思い込みに尽きる。この時点で切嗣はキャスターの意図を完全に見失っていた。 まず、考えたのは「人質」である。しかし、無意味である。赤の他人の子供を人質に取られて、魔術師の交渉材料となると考えているのなら、見込みが甘すぎる。いかに正気を失った言動をしているとしても、元はフランスを救った救国の元帥である。そんな間違いはしないであろう。 次に思い当たったのが、「生贄」である。魔術行使のための生贄ならば、どうか。しかし、100人もの幼児を生贄に使うような魔術が果たして存在するか? ないことはない。しかし、それらは「儀式」的意味合いが強い。とてもそんなことをして戦略的にも戦術的にも意味があるとは思えない。 さしもの魔術師殺しも、正解が「道楽」であり、そこに意味などないということには気づかなかった。魔術師が正気を失い、研究に快楽を求めるようになった例は切嗣もよく知っている。しかし、最初から快楽を求めるためだけに、なんの言い訳もせずに子供を大量に殺そうとするなど、埒の外だった。 まさか、「想い人と勘違いしたセイバーの前で、幼児を大量に殺して怒らせたいだけだった」などとは想像だにしなかった。求愛行動として、死体を女性に送りつける狂人の存在は、切嗣のような合理主義者にとっては、知識として存在はしても、それを現実の戦いに結びつけることは困難だった。--一体何を考えているんだ? 相手の思考をトレースし、先回りし、悪辣な罠を仕込むのが切嗣のやり方である。しかし、完全な狂人の行動は読みようがない。合理性がまったくないからだ。それが余計に切嗣を焦らせた。 切嗣は昨夜から一睡もしていない。三十路に徹夜は堪えるのだ。魔術師とはいえ睡眠は必要であるのだが、妻であるアイリが弱音を吐く素振りも見せないので旦那の自分が先に音を上げるわけにはいかないのだ。 さらに切嗣を困惑させたのは、後を追うように現れたロード・エルメロイと、言峰綺礼の姿である。 様子から察するに、おそらく同盟を結んでいる。 これが、もしもキャスター討滅のための当座のものであれば問題はない しかし、教会が遠坂陣営に何らかの便宜を図っているのではないかというのは、アサシン生存から察するに容易に想像はつく。加えて時計塔のロードまでがこの密約に加わっていたとなると、事態は深刻だ。アーチャー、アサシン、ランサーの、ほぼ半数の陣営が秘密裏に同盟を結んでいることになる。 こちらも裏切ることを前提にではあるが、偽りの同盟で手駒を揃え、数の面で対抗せねばならないかもしれない。キャスターは論外としても、ライダーか、バーサーカーを陣営に引き込む必要があるかもしれない。 思索にふけっているうちに、ロード・エルメロイと言峰綺礼が接敵した。 エルメロイが、なんか魔術師らしい口上を述べてキャスターを挑発していた。 ふと思い当たる。 エルメロイ、言峰綺礼、キャスターとそのマスター。一直線上にいる。「宝具でマスター三人、サーヴァントもろとも吹っ飛ばせるかもしれない。アイリ、本当にセイバーの宝具は使えないのか?」 切嗣がなんかひでえことを言い出した。 アイリは「困ったなあ」と表情を曇らせて、セイバーは憮然とした。 確かに、この状況ならば、キャスターのマスターに、ロード・エルメロイ、そして言峰綺礼の3人を吹っ飛ばせる。うまく行けばサーヴァントごと吹っ飛ばせる。それは間違いない。しかし、周囲に居る子供が100人犠牲になる。ぶっちゃけありえない。 普段は玲瓏とした騎士王を苛つかせているのは、邪道極まりない切嗣の提案だけではない。 切嗣のセイバーに話しかけないルールは聖杯戦争が始まってからも続いていた。 さっきからずっと思索にふけりながらもセイバーは意図的に無視している。 イライラが募ってもしかたがないのである。「あ、あの。切嗣。もうそろそろ、その遊びはやめたほうが良いんじゃないかしら」 とアイリが何度かとりなしてくれたのだが、余計意固地になってしまった。切嗣は三十路だが、変なところで少年臭い。そういうところがアイリには可愛いと思えるのだが、セイバーから見ればただのパワハラ上司の嫌がらせである。「直接聞けば良いでしょう。いいかげんに良い年した大人なんだから無視するのをやめてください」という至極まっとうな話にしかならない。 両者の板挟みになり、仕方がないのでアイリが代わりに答える。「それが、その。ランサーの宝具は思ったよりも強力で、令呪を使っても、ランサーの武器効果が解呪されない限り“約束された勝利の剣(エクスカリバー)”は使えないみたい」 切嗣は、ジロッとセイバーの方をにらむ。しかし目を合わせようとしない。 チッ、というあからさまな舌打ち。 ぼそっとなんか聞こえた。「使えないな」 とか聞こえた。 間違いなく聞こえた。 部屋の気温が一気に冷えた。 恐る恐るセイバーの顔をアイリは覗いた。 間違いなく「このクソマスター。後ろからぶった切ってやろうか」 というヤバめの表情をしている。 三回ほど深呼吸の音が聞こえる。 そして、ついにいじめられっ子セイバーがキレた。「切嗣。いい加減にしてください。子供ですか貴方は。いい年していつまで私を無視するつもりですか。それでも無精髭を生やした子持ち三十路ですかっ! 妻の後ろに隠れずに、はっきりと言いなさいはっきりと!」 と面と向かって言ってやった。 怒りに震えながらついに言ってしまったのだ。 セイバーと切嗣の関係性に、ビキぃっと入った修復しがたいヒビが音がした。 どう考えても悪いのは切嗣なのだが したたかに急所を突かれ、少年のような心が傷ついても、平静を装いながら切嗣は言う。「とりあえずは出方を見る。言峰綺礼。あいつの出方が気になる」 本来はセイバーを囮に使ってキャスター、ランサー、それにおそらく隠れているアサシンを引きずり回し、マスターを三人まとめて狙撃なり爆殺なりで始末するのが上策だ。 しかし、その中に言峰綺礼がいる。あの男はただの難敵ではない。危険な男だ。セイバーを状況に介入させた途端、生存したアサシンを放ち、手薄になったこちらが襲いかかられる可能性は極めて大だ。 いざというときには舞弥にアイリスフィールを任せて逃走させねばならない。 この時点で切嗣が最も恐れていたのは、紛れもなく言峰だった。「何者だ!? 誰の赦しがあって、この私の行く手を阻もうとするか?」 カメレオンのような瞳を怒りにもやし、キャスターは叫んだ。 ケイネスと綺礼は、とあわよくば奇襲をかけようとしたのだが、最弱と言われるが、そこは魔術師の英霊。 隠形を解き、木陰から身を晒す。計画は徒労に終わった……かのように見えた。しかし実際には、綺礼の虎の子であるアサシン、実際に奇襲を仕掛ける本命は、気配を遮断し、霊体化しながらぬかりなくその瞬間を待っていた。「アーチボルド家、九代目当主、ケイネス・エルメロイである! これより魔術師としての最低限の誇りを捨てて、外道に堕落した貴様らに誅伐を加えるっ!」 やたらとよく通る声。その声には、紛れもない怒りがあった。嘆きがあった。魔術師としての誇りがあった。 その声に呼応するように、ランサーが魔力を編み、現界する。「貴様らの狼藉、天が赦しても、このディルムッドが赦さん!」 などと正義の怒りに燃えるランサーとその主人の口上を、綺礼はどこか他人事のように聞いていた。自分には、こんな正義の怒りという感情はない。もしもそのように心底怒ることができるのならば、おそらく別の人生を歩んでいたのだろう。 くるりっとエルメロイが、綺礼に振り向く。「綺礼くん。君もこの外道どもに誇りある口上を聖堂教会の代行者として投げてやりたまえ。それがこういうときの礼儀ではないかね?」 などと言ってきた。この男、本当に本質は善人なのだろう。目の前の男が、これからもう少しで裏切る算段とタイミングを図っているとは全く気づいていない。「代行者には外道共に語る舌などない」とか適当にでまかせを言っておいたら、なんか納得した。そういうことにしておこう。「この匹夫どもがぁああああああ」 などとキャスタはーキレていた。一応、挑発としての意味はあったようだ。 問題はタイミングである。できる限り、子供の死者は一〇人以下に抑えたい。そうでないと隠蔽工作が不可能になる。「青髭の旦那。こいつらも昨日みたいな敵なの? これからまたやっちゃうの?」 などと、隣りにいたチャラい男が囃し立てる。「ええ。昨日は遅れを取りましたが、今日はそうは行きません。聖処女にお目通りをするはずが、こんな匪賊共を相手にするつもりはなかったのですが、降りかかる火の粉は払わなければならぬでしょう。リュウノスケ。良いですか。戦いは数です。それも膨大な数っ!」 わかっているのだ。問題はタイミングなのだ。キャスターは膨大な数を召喚する召喚士である。子供を大量に連れているのは、その死体と血肉を召喚の触媒にするためだろう。そこまではロード・エルメロイに伝えている。 肝心要の、「無尽蔵な召喚を行える」「その永久機関的召喚は手にある定開放型宝具の本の成せる業である」ということは、あえて伝えていない。 最弱のクラスであり、三騎士のランサーならば敵ではない、そう思わせた。侮れぬ厄介な難敵であることはあえて伏せた。 この奇襲はタイミングが全てである。 キャスターが海魔を展開する前では早すぎる。 子供が巻き添えになるようでは遅すぎる。 ランサーとエルメロイが、怪魔に囲まれつつ、アサシンが子供を救出できる機を見計らう必要がある。「ねえ。青髭の旦那ぁ。この子たちどうすんの。もうすりつぶしちゃう?」 と、意識を失っている子供たちをリュウノスケと呼ばれた男が呼び指す。「いいえ。つまみ食いはいけませんよ。その子らは聖処女のための供物です。この芥虫をすりつぶしたあとで聖処女に捧げるのです。そうでなければ」「聖処女って、あの金髪の? 俺も会えるの?」「そのとおりです。貴方の無垢なる信心。きっと聖処女に拝謁する資格があります」 そのやり取りを聞いて内心綺礼はほくそ笑む。初手から子供を殺されたら、多大な犠牲を覚悟せねばならなかった。この外道は、現時点では、この子供たちを召喚の触媒にするつもりはない。--これでやりやすくなった。 そういびつな心が笑う。 ロード・エルメロイが流体魔術の粋、月霊髄液(ヴォールメン・ハイドラグラム)を展開し、ランサーが、右手の長槍「破魔の紅薔薇()」と、左手の短槍「必滅の黄薔薇()」を構える。 綺礼も合わせて黒鍵を両手に構えた。「さあ、怯えなさい。性懲りもなく次々と現れる芥虫ども。我が掌の中で、絶望の悲鳴を上げて果てるがいい」 そのキャスターの言葉とともに、血煙が上がり、障気とともに大量の海魔が召喚される。その瞬間、代行者としてのくぐり抜けた修羅場の経験が、全身を電流のように駆け巡る。--ここ、まさにこの瞬間。令呪を用いて奇襲をかけるのはこの瞬間。 七〇を超えるアサシンの投擲による“全方位”奇襲。 アサシンは、キャスターと並ぶ最弱のクラスだ。八〇にも霊基が分割されたアサシンはとりわけ最弱だろう。気配遮断スキルが特権としてAクラス相当与えられるが、攻撃に転じる瞬間にその特権は失われる。だからこそ、この瞬間しかない。両者が襲いかかろうとするこの瞬間。脱落したとの錯誤、サーヴァントは一体という常識の盲点、令呪による底上げ、他の敵に対する警戒、偽りの同盟、すべての切り札をすべてつぎ込んで組み上げた勝負手。 賭けは一度きり。 戦いの高揚感。緊張感が弾け飛び、矢が放たれる。 令呪で能力を底上げした全方位からの短剣(ダーク)による奇襲だ。 標的は、海魔、キャスター、龍之介、そして、ランサーにロード・エルメロイも含まれた、子供と言峰以外の全員。 大量の海魔が大量キャスターを守るべく覆いかぶさり血漿を撒き散らし、魔力へと変換される。ランサーは反射的に主人をかばい、水銀の壁が短剣を弾き飛ばす。 とっさのこと故に、さしものサーヴァントも、天才と謳われた時計塔の俊才すらも、意識の外からの奇襲に対して防御の姿勢を取り状況の判断を誤った。その瞬間、すべての陣営の注意が子供から離れた。 賭けに勝った。なにが起きたのか誰も正確に状況を把握できない。 無限にも感じられる、文字通り一瞬の隙。 畳み掛けるように追加の令呪を使用する。--追加の令呪を用いて命ずる。すべてのアサシンは子供を抱えて全力で安全な場所まで退避 と、命じるが早いか、アサシンたちは七〇以上もの疾風となり、意識を失った子どもたちを、あるものは小脇に、体格の良いものは両脇に抱えて、全力で遁走した。 綺礼もそれに倣って、黒鍵を最も強力な難敵、この場合はランサーとロード・エルメロイに全力で投げつけて、遁走する。 脇目もふらずに遁走。脇目もふらずに。 代行者の健脚で……。 しかし、心が騒ぐ。いや、そんなこと……。と葛藤がある。一瞬にも満たない逡巡。全力で疾走する体と裏腹に、顔だけは後ろを振り返る。 黒鍵は、惜しくも月霊髄液(ヴォールメン・ハイドラグラム)に弾かれていた。しかし、そこには阿呆のように目を丸く見開き、口を呆然と開け、唖然としたロード・エルメロイの顔が間違いなくあった。 未だに自分が謀られた事に気づいておらず、状況をまったく把握できずあっけにとられる善人の顔だ。 心から湧き上がる謎の衝動。 涙腺が緩む。 ××しい。××しくてたまらない。 振り向いておいてよかった。 キャスターはランサーが始末してくれる。もしも始末できずに返り討ち似合ったとしてもそれはそれ。改めて他のサーヴァントに任せるとしよう。とりあえず、子供を救出するという大目的は果たした。 本来ここでアサシンを使い潰すこともあり得た展開だったが、令呪2画で子供たちは取り返せた。首尾は上々と言える。 しかし一番の収穫は、あのロード・エルメロイの顔を見れたことだった。 そう思いながらアサシンとともに、綺礼は森の中を疾走した。 なんだかよくわからない充実感とともに。 切嗣は一部始終を見ていた。セイバーも観ていた。アイリスフィールも。舞弥も。 遠見の水晶玉を通して確かに見た。「危険なやつだ」 そうつぶやくのが精一杯だった。 面倒くさい敵を押し付け、自分だけ目的を達成したら即座に逃げる判断力。味方すら巻き添えに奇襲をかける卑劣さ。そして、なにがおかしいのか笑いながら走り去る不可解な精神性。 見誤っていた。言峰綺礼を、もっと空虚な男だと思っていた。「あの笑顔……」「どうしたの? セイバー」 険しい顔をしているセイバーにアイリが話しかける。「いえ、知り合いの魔術師にああいう顔で笑う人物がいたものですから……。つい」「円卓の騎士かしら」「いいえ、魔術師です。悪戯好きで、善行も為すのですが、よく人を陥れてケタケタと笑っていました。正直面倒くさい人でした。その笑顔によく似ていたので」 切嗣は、言峰綺礼のことを見誤っていた。空虚に自傷行為を繰り返し、自分のことを無価値だと断じる暗黒の底が見えないクレパス。 そういう男だと思っていた。 実際の言峰綺礼は、もっととらえどころがない何者か、だった。 謎。謎極まりない怪物。 特に、恐ろしいのは最後。 ロードエルメロイに黒鍵を投げつけ、全力で遁走する際に見せたあの表情。 あの笑顔は一体何だったのか。 切嗣が、いままで戦ったことのない未知の生命体。 異端の怪物。 切嗣は、言峰綺礼に対する考えを大幅に修正せねばならない必要性を認めざるを得なかった。