「――おいで」 声が聞こえる。 この声は聞いてはいけない。「――おいで」 だというのに体が反応してしまう。 月は高い。頭の芯はぼうっと蕩け、まるで眠っているような起きているような。「――こっちへいらっしゃい坊や」 不愉快な残響でありながら妖艶な声。 足が勝手に動く。冬の寒気をどこか他人事のように感じながら、それでも体が動いていく。――まずい、まずい、まずい そう気づいていながら、まるで夢を見ているような非現実感。 なにかが大量に後を追ってくる感覚があった。恐らくは味方。「――あら? そんなものがいたのね。まあいいわ。全部撒いてあげる」 ひたりひたりと歩くたびに、路地の曲がり角を曲がるたびに、その心強いはずの味方の数は減り、そして柳洞寺が見えるころには心強い背後の気配は全て消えていた。「――残念ね。坊や。邪魔者は消えた。さあこっちへいらっしゃい」 そしてまたひたりひたりと、歩き続ける。“キャスターが居るとしたらおそらく柳洞寺でしょう。あそこは天然の霊脈に加えてサーヴァントの潜入を阻む鬼門です。陣地を作成して籠城するとなればそこでしょう” 昨晩の会議を思い出す。“一般人を襲っているとわかった以上、様子見はするべきではない。キャスター討滅のために打って出るべきです。私が破城槌として突貫し、凛たちが援護をしたら勝利できるでしょう”“待って。確かにセイバーは強力よ。キャスターにとっては切り札になることは確か。有利なのは間違いないけれど、そう上手く行くとは思えないわ。さっきキャスターと対峙したけれど、相手は間違いなく超一流の魔術師。どんな手を使ってくるかわからないわ。セイバー対策は確実に打っているでしょうね”“凛。それはあまりに消極的ではないですか。戦うべき時に戦わなければ勝機を逃します。様子見を続けていても、状況が良くなるとは限らない。むしろ無辜の民から魔力を吸い取らせ続ければ、キャスターはより強力になるでしょう”“まあ、待つのじゃ。剣の英霊。今、いま我らが踏み込めば、おそらく勝利は固い。しかし相手はキャスターじゃ。めちゃめちゃやるぞ。寺とは良いところ逃げ込んだものじゃな。攻めるに備え、坊主を盾に使うことも容易い。坊主や下男どもを人質に取られては、寝覚めが悪かろう?”“それでは貴女に策はあるのですか”“ないこともない。まあ、多少えげつない方法ではあるがな”“どんな方法なんだ。聞かせてくれ”“我の使い魔を柳洞寺に送り込む。閉ざされた寺とはいえ、人間の往来ぐらいあろうが。人間の中に我の使い魔を潜ませて内部の様子を探ればよい。そうすれば我らの勝ちじゃな”“貴女の使い魔は優秀だと聞いてはいます。しかし、使い魔でサーヴァントが打倒できるものでしょうか”“セイバー、こいつは、キャスターのマスターを探してそいつを先に倒そうって言ってるのよ”“マスターを倒すって、殺すのか”“そこまでする必要はなかろう。我の使い魔を憑りつかせて、令呪を使わせればよい。すべての令呪を使用してキャスターに戦いから降りるように命じればよい。我の使い魔は強力じゃぞ。気付かれなければ訓練された魔術師や、僧侶であったとしても一次的に意識を意識を乗っ取るのならば容易い。一般人であれば一瞬じゃ”“士郎はどう思いますか? 私はアーチャーの策に乗るのも手としては悪くないと思います”“そうだな。犠牲者が少ないのならそれに越したことはないよ” ぼうっと思い出す。そのあとアーチャーと投影の訓練をして寝た。 寝たはずだ。いや、いまも寝ている。寝ているはずなのにこうして歩いている。「――おいで」という声のする方向へと。 長い石段に足をかける。 この階段を上ってはいけない。 いますぐ引き返すべき。 そう理解しているのに頭の芯がぼうっともやがかかり、足だけが勝手に動いている。 石段を上っているあいだ、刀を持った侍がいたような気がした。 しかし気のせいだろう。 ずるり、ずるりと脚を引きずるように歩く。 この門をくぐるとどうなるのか。死ぬのだろう。 死ぬしかないのだ。 そんなことを考えていた。しかし、体が止まらない。 境内まで来た。来てしまった。 月の光に照らされた、深夜の寺。 ふいに背後から声がかかる。「ようこそ。いらっしゃい。坊や。私の神殿に。歓迎するわ」 振り返る。 紫色のローブを着た女性がいた。ぼうっと浮かび上がるステータス。とりわけ高い魔力値。つまりサーヴァント。 声を出そうと思った。しかしうまく出せない。逃げ出そう。そう思っても、動けない。全身に紫の魔力が充満しとても身じろぎすらできそうにない。 さっき振り返ることができたのは、自分の意志ではない。振り返させられたのだ。唐突に気づく。「まったく。この時代の魔術師は、本当にレヴェルが低くなったのね。あの男といい、この坊やといい。全く嘆かわしい限りだわ」 そうキャスタは―そうつぶやくと ぱちりと指を鳴らした。 のどに合った違和感が消え、声が出せるようになる。「お前。キャスターか」「ええ。そうよ。坊や」 嘲笑を隠そうともしない音色だった。「こうも簡単に術にかかってしまうなんて。逆に驚いてしまったわ。本当に魔術師なのかしらねぇ」 とこちらの顔をじろじろとのぞき込んでくる。 殴りかかってやりたいほどに、息がかかるほど近く。 体内に残っているキャスターの魔力を押し流そうと、魔力を生成しようとする。「ふふ。かわいいことをするのね。でも無駄なことよ。坊やはもうとっくに私に呪われてるのだから」 しかし全く動かない。まるで元栓を閉じられているような、そもそも命令権すら上書きされているような状況だ。 頼みの綱の令呪すら、魔力が通らなければ無用の長物だ。セイバーを呼び出すことさえ叶いそうにない。いや、そもそもこの柳洞寺はサーヴァント払いの結界の中にある。令呪をもってしても、サーヴァントは呼び出せない。 こんなことならばセイバーと一緒に寝ておくんだったと後悔した。多少の気恥ずかしさなど無視しておけばよかった。「俺と、お前は初対面のはずだ。いったいいつ術を掛けたっていうんだ……」 身体の自由を奪うほどの術を掛けるには、因と果、最低でも対面して何らかのアクションを起こす必要がある。もしくは術の一部となる物体に触れさせるとか、食べさせるとか、そういう因果が必要だ。 しかし、キャスターとは間違いなく出会ったことすらない。「それが、貴方程度の常識なのね。まあたしかに、普通の魔術師には無理でしょうね。普通の魔術師には。でも神代を生きた私にとってはそう難しいことではないわ。それに、坊やも悪いのよ」 くすくすと含み笑いを漏らす。「この時代の魔術師は、力不足も甚だしい。セイバーもアーチャーもバーサーカーもランサーも、みな優秀なサーヴァントではあるけれど、そのマスターはみんな私から見れば小物。しかし、坊やはその中でも飛びぬけて最弱よ。普通の一般人と変わらない抗魔力なんて。それはちょっかいを掛けたくなっても仕方ないというものでしょう。しかしこうも素直に私に会いに来てくれるとは思わなかったけれど」 完全に優位を確信している声だった。 恐怖を押し殺しなんとかキャスターをにらみつける。「まだ余裕があるようね。もしかして、あのかわいいセイバーと生意気なアーチャーが助けに来るのを待っているのかしら。無駄よ。異常に気付いて向かったとしても、山門には私の手駒が道をふさいでいる。サーヴァントである以上ここに来ることは不可能よ」 ぎちぎちと背中が音を立てる。悔しい。 しかしその悔しさを悟らせることは余計に悔しい。何とか意地と虚勢をはる。「俺を殺すつもりか」 その一言が引き金だった。 ぷーと息を吹き出しキャスターはこらえきれなくなったように笑い出した。「ふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふ、貴方は本当に愚かね。殺してどうするの。そんなことをして私に何の得があるの。貴方みたいな小物を殺してもいいことなど一つもないわ。もう少しお頭を使わないとお猿さんになってしまうわよ」 目尻に涙すら浮かべて、ひとしきり笑った後、やっと収まったようだ。「貴方たちが昨晩、何を話し合ったのか思い出してごらんなさい。そうしたら私が何をしようとしているのかわかるはずよ」「聞いていたのか?」「ええすっかり。アーチャーは優秀な使い魔を使うようだけれど、盗み見、盗み聞きは弓兵の専売特許ではなくてよ。むしろ諜報活動だけでいえば、キャスターは最強。一日の長があるわ。そうでなければキャスターのクラスはただの噛ませ犬よ」 キャスターは手袋を外し素肌となった右手で、ぺたりとほほに触れる。「マスターを探し出して操り人形にする。令呪を使用してサーヴァントを殺させる。なかなか良い作戦よ。アーチャーはよく知恵が回ること。しかし、そんなことをされたらたまらない。先にその策を採用させてもらったわ」「俺の令呪でセイバーを殺すつもりか……」 いや、違う。予感があった。この女はもっと悪辣なことを考えている。「いいこと。未熟な魔術師さん。セイバーはとても優秀なサーヴァント。紛れもなく最優よ。でも残念ながらあなたが未熟なせいで、全力を出せないでいるの。もしも私が使ったとしたらどうかしら?」 冷汗が背中から浮かび、じっとりと滝のように流れ堕ちる。「ただ、アーチャーは必要ない。むしろああいうタイプは排除しておくに限るわ。いろいろ厄介な奥の手をいくつも持っているようだし。抜け目のないアーチャーだけど、もしも仮に、不意打ちでセイバーの宝具を受けたらどうかしら? さすがに即死するのではなくって? セイバーはそのあともあの厄介なバーサーカーまで倒してもらうわ。有効に活用してあげる。坊やよりもずっと」 何とか抵抗して逃げ出そうとあらゆる手段を考えた。しかし何一つ手段がない。詰みにハマった。 だから全力でにらみつけた。 声を何とか絞り出す。「そんなことは……させない」 具体的にどこをどうしたら止められるのかわからない。ただ許せない。 その懊悩を、キャスターは恐怖だと曲解したようだ。「ああ、そんなに怖がらないで。大丈夫。無益な殺生をするのは三流よ。坊や。心配は無用よ。命“だけ”は助けてあげる」 まるで治療を怖がる子供をあやすような声だった。 そうしてキャスターは視界を覆うように掌をかざした。魔力が紫色の輝きを放ち……。そして炸裂音とともに爆発した。 衝撃。全身が境内の砂利にたたきつけられた。状況が理解できない。「――――――――っ。坊や!? 貴方っ!?」 驚愕の声を上げたのキャスターだった。 その右手には数本の棘が突き刺さっていた。アーチャーが使う剣針によく似ている。岩を切り出してそのまま投げつけたような棘がキャスターの右手に突き刺さり鮮血が噴き出してた。 そして、キャスターと自分の対角線上に人影があった。 長身で地面まで届く黒髪の美女。その相貌は美女と呼んでよいだろう。しかしひときわ目を引くのはその表情だ。陰鬱な表情。この世のすべてを侮辱し、呪い、軽蔑した後で諦めきったような陰の気を塗り固めた表情だった。 その女はこちらをくるりと振り向くと、がぱあっと口を開けた。顎のあたりまで。まるで犬科の肉食獣、野干のようなありさまだ。その口の中にはびっしりと牙が生えていた。――人間じゃない 明らかに魔性だった。 しかし残念ながら、自分にはこんな魔性も知らなければ、助けてもらう覚えもない。「貴方……まさか。そんな強力な幻想種を心臓に飼っていたの!? そんなはずは……。いいえ、事実は事実として受け止めるしかないわね……」 キャスターは大きく後ろに飛び退ると、宙空から錫杖を取り出す。 そのしぐさにも声にも、先ほどまでのこちらを舐め切った勝利者の余裕はない。こちらを明らかに敵として、脅威として認識していた。「評価を撤回するわ。坊や、無害な子犬のふりをして、こんな猛毒を隠し持っていたなんて。貴方は立派な魔術師ね」 気が付くと呪縛は解けていた。 体は動く。手を確かめるように握る。 キャスターのほうを向く。そして正直に答える。「――いや、俺にもなにがなんだか」 正直さっぱり何が起きたのかよくわからない。 しかし様子がさらに火に油をそそいだようで。「黙りなさい! カマトトぶって! これだから、若い男は信用ならないのよ!!」 すごい勢いで怒ってる。なんか知らないが、助かったと思ったのは甘かったようだ。「いや、本当にわからないんだが」「黙りなさいと言ってるでしょう。こんな強力な幻想種に不意打ちをさせておいて、わからないわけがないでしょう。すっかり騙されたわ!」 烈火のごとく怒っている。 しかし全く身に覚えがない。 キャスターは中空に音もなく浮く。そして背後には大型の魔術陣がぼうっと輝く。その数七つ。 「サーヴァントに手傷を負わせたことは誉めてあげる。大魔術師であってもなかなかできることではないわ。でも不意打ちは一回だけ。二度目はない。この神殿は私の陣地。噛みつく場所を間違えたようね。全力でお相手してあげる」 唐突に理解した。キャスターの背後に浮かび上がる魔法陣。アレは砲台だ。とんでもない魔力が収束されている。あとはひたすら連射して放つだけ。アレそういうものだ。 取りつく島もない。 もう一人のほうはというと美人は美人なのだが怖い。正直怖い。 特に目が怖い。 キャスターとはまた違う怖さだ。あっちはこちらを侮るサディストだとすると、こちらはもう完全に意思疎通が図れるとは思えない。 なんかもう、目が完全に異次元を見ている。「なあ、あんた、助けてもらったのはありがたいんだが説明してくれると嬉しい」 びくびくしながら訊ねる。 その女は指をこちらの左胸を指さすと、『――私は――斗和子――御屋形様の命令――仕方なィ――下がって』 直接頭にその声が響いた。音色には聞き覚えがあった。アーチャーの声によく似ていた。もしあの少女が、あと20年もして大人になったらこんな声になるのかもしれない。 しかし、その音色は不承不承、壊れた機械がかろうじて面倒くさそうに返答するようなモノだった。 その目を見ると「あーいやだいやだ。なんでこの私が、人間のガキを助けなくちゃなんねーんだよ。馬鹿らしい。というかむしろ絶望して死んでいくところが見たかったんだけど。あーほんと、さっさと死なねーかなコイツ。むしろ死ぬ間際のじたばたあがきながら恐怖に溺れる姿が見たいわー。見たくて仕方ないわー。でも仕方ない。ほんっとうに嫌で嫌で仕方ないが、上司の命令だから助けてやるか」 と雄弁に物語っていた。 恐らくはこの斗和子というのは、アーチャーの使い魔なのだろう。きっと。 しかし天真爛漫なアーチャーの使い魔とは思えないほどに、なんというか、怖い。 そうして、ひらひらと手を振る。これは後ろに下がれということか。『――さっさと逃げなさィ――無力なニんゲン』 明らかに壊れた機械のような声。 後ろに後ずさる。「逃がすわけないでしょう。セイバーのマスター。その小癪な幻想種もろとも吹っ飛ばしてあげるわ。腕の一本や二本覚悟しなさい。楽に死ねるとは思わないで。無理やり生かし続けて骨の髄まで有効活用してあげるわ」 その言葉が開始の合図となり、キャスターの唇は高速で詠唱を繰り返し、砲門から無数の砲弾が放たれた。「――嘘っ!? 貴方、そんな能力まで。いいえ、そんな魔獣がこの時代にまだ残存していたの!?」 驚愕の声はキャスターだった。 キャスターの放った砲弾は紛れもなく必殺の大魔術弾だった。人間の魔術師ならば、手練れの魔術師であっても10以上の詠唱を数十秒かけて行う文字通り必殺の一撃。それを湯水のように連発し手加減抜きに集中運用した。 まるで爆撃。境内の砂利は吹き飛び土砂はめくれ上がり、衝撃と爆音が全身を覆う。土煙で視界が遮られ、大気がヒステリーを上げる。そんな中、斗和子と名乗る幻想種は自分とキャスターの射線軸に入ると全く何の痛痒も感じた様子もなくその魔術弾に身を晒す。 キャスターの放った、光弾が、光線が、間違いなく斗和子に当たる。しかしその瞬間、光線は偏光し、反射され、右へ、左へ、そして魔術を放ったキャスターへとはじき返される。――魔力を反射している? セイバーのように抗魔力で魔術を無力化しているのではない。魔力そのものを反射しているかのように見えた。「冗談じゃない。貴方、いったいどこでそんな幻想種を!? これほどの魔性、私の時代でもなかなかいなかったわ!! 貴方のような未熟者がっ。使役できるはずがないわ。答えなさい!!」「答えるかバカ!!」 知らないものは答えようがない。 何とか境内から脱出しようとすると、そこを狙ってキャスターが魔術弾を放ってくる。それを斗和子が弾く、その攻防が繰り返された。 いったいどれほどそうしていただろうか。斗和子に対する砲門による魔術弾はまるで効果がない。 急に斗和子が、四つ足の構えを取った。そして、がぱぁっと、口を開ける。咽喉の奥が光ったような気がした。その瞬間、大量の火炎がキャスターを襲った。肉を焼く赤い炎でもない。鉄を焼く青い炎でもない。空間に存在するあらゆるものを焼却せしめる白い炎だ。 それはまるで話に聞く、最強の幻想種、龍種が敵を粉砕するために吐く火炎のよう。命中したのならば、サーヴァントであっても消失と免れない絶滅の獄炎だった。 キャスターの人影が消えた。――やったのか と思った瞬間、真横、右側から大量の魔術弾が降り注ぐ。 高速移動、もしくは空間転移。キャスターはすんでのところで斗和子の火炎を回避していた。「もう許さないわ。全力で相手してあげるわ。光栄に思いなさい」 そう言うが早いか、キャスターの攻撃がバリエーションを増した。 それは火炎だった。 それは氷塊だった。 それは病風だった。 それは竜巻だった。 それは稲妻だった。 それは岩塊だった。 それは鉄片だった。 それは爆撃だった。 それは斬撃だった。 四つ足の構えを取った斗和子を大量の現象と化した、複数の魔術が襲った。 セイバーの様に魔術そのものを無効化しているわけではない。魔力そのものによる攻撃が反射されるだけならば、魔力効果の薄い属性で押し込む物量作戦だった。 それら攻撃を斗和子は弾き、かみ砕き、蹴飛ばし、応戦する。まるで野獣の動きだった。 幾たびそうしただろうか。数十分、いや、もっと長かったもしれない。もっと短かったかもしれない。「これで終わり。もうそいつの動きは見切ったわ。覚悟なさい」 キャスターが指を鳴らした。 その瞬間、四方、八方、空中、全方位から無数の魔術が降り注いだ。――逃げ場がない そう思った刹那、斗和子の腰の辺りから尻尾が伸びた。「きいぃいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいい」」 野獣の、否、化物の叫び声だった。 尻尾は酷熱の火炎となり、縦横無尽に伸びて、すべての魔術を飲み込み焼き尽くし粉砕する。 それがおそらく斗和子の奥の手だったのだろう。 全力・必殺の奥の手をさらけ出した、そののちに発生するわずかな隙。見逃すキャスターではない。 地面がぼうっと光る。 巨大な魔法陣が発動した。 斗和子の動きが縫い留められた。まるで罠に縫い留められた野獣の様に暴れ、自分の縫い留められた体を破壊するように脱出を試みる「これで終わりって言ったでしょう。空間ごと固定しているのよ。抜け出そうとするだけ無駄なことよっ!」 キャスターは錫杖を構え、斗和子の体をより強く締め上げる。 そしてゆっくりと近づいていく。――とどめの一撃を打ち込むためだ。 そう思うとじっとしていられなかった。「このおおおおおおおおおおおおおおおおおお」 じっとしていることなどできなかった。 投影-開始-(トレース オン) 上手くできる保障など何もなかった。 しかし、両腕にかかる負荷。白と黒の双剣の重さが限界する。 動きが止まった今なら、そうしてキャスターに駆けだそうとした刹那、斗和子がこちらを向いた。『来るナ、ニンゲン。侮辱すル気か? 来たラお前ゴと焼こロス』 頭蓋に機械音のような強烈な声が響いた。 脚が止まる。止まらざるをない。「仕留めるわ」 とキャスターが錫杖を構えながら近づく。もう手が触れられるほどに近い。 斗和子の体の体はねじり切られるほどに絞り上げられ、もはや人の形に見えないほどに引きちぎられそうな有様だった。 苦悶に悶える斗和子の口がガパァと開く。喉の奥が光る。至近距離からの火炎攻撃。空間転移で逃げた瞬間に全力を振り絞って脱出をする肚か。 しかしキャスターは逃げる素振りすら見せない。「――それを待っていたのよッ!」 キャスターの声に喜悦が混じる。 火炎を吐いて、キャスターを焼き尽くそうとする斗和子。その開けられた口に、膨大な魔力弾が降り注いだ。火炎を吐こうとした斗和子の体に魔力弾が誘爆し、斗和子の体は爆発四散した。『――――――……様ァああああああああああああアアあああああああああああ』 断末魔の苦しみが直接脳に響く。人間の声の様にも、人間以外の化物の様にも聞こえた。 あとには焼け焦げた匂いと、消耗しきったキャスターだけが残されていた。「――口の中にまで反射能力はなかったみたいね」 荒い息。そしてキャスターの顔には、強者を倒したときにのみ得られる勝利の充足感があった。「悔しがることはないわ。私に、ここまで魔術戦をさせたことは立派なことよ。その健闘に免じて、貴方は私の工房の一部に加えてあげる。あれほどの魔獣をどうやって未熟な坊やが使役できたか。興味が尽きないわ」 要するに脳髄をぶった切ってホルマリン漬けにしてから研究するということだ。全くうれしくない。 汗が止まらない。あれだけの魔術を繰り出すキャスターとこれから戦わねばならない。 自分はあの「斗和子」という怪物に助けられた。 逃げろと言われながら逃げることすらできなかった。 自分にできることは何だろうか。 アーチャーに教わった、この双剣で戦うことだろうか。しかしこの剣で本当にあの魔法使いにも迫るキャスターに勝てるのか……。 腕の中にある刀が語り掛けていた。すべて余計なことだと。 心が細くなっていく。余計なことだ。 すべて余計なこと。勝利できるか、生き残れるか、それは余計なことだ。この双剣が作られた製造理念がそう語りかけてきた。 やりたいことをやれ。お前は正義の味方になりたいのだろう。目の前に悪を成す奴がいるのに見逃すのか、と。 ならば行くしかない。構えは剣が教えてくれる。 こいつをここで逃せばまた、今日使った力の分を蓄えなおすためにまた人を襲うだろう。 それはできない。「坊や、まだ抵抗する気? やめなさい。今の私には手加減できる余裕はないわよ。死にたいの!?」 キャスターが何か言っている。 しかし耳に届かない。届いていたかもしれないがどうでもいいことのように思えた。 構える。右手を下に、左手を上に。腰を落とし、上体を撓ませる。「いいかげんにしなさい。この駄々っ子」 まるで聞き分けのない子供を前にしたような顔でキャスターは魔術を放った 魔力弾を剣で弾く。腕に信じられないほどの現実の負荷がかかる。めちめちと筋繊維が弾ける音がした。 それは手加減した一撃だったのだろう。しかし、現実という圧倒的な壁に耐え切れず白剣が粉砕される。 もう一合。本命は下からの黒剣。その一撃。受け止めたのは金属音だった。 壁。不可視の壁に剣は激突し折れ飛んだ。「――もう。いいかげんに諦めなさい」 その言葉とともに放たれる魔力放出。 しかし、立ち上がってしまう。もう一度、投影から。今度はもっと真に迫るように……。「こうも愚かだと吐き気がするわ。貴方異常よ」 投影のさなかにまた叩きつけられた。 安酒に酔ったような酩酊状態。 可能ならば朝まで寝ていたい。 だというのに、ずるり、ずるりと、立ち上がてしまった。「もういいわ。そのまま眠りなさい」 何度目だろうか。こうして吹き飛ばされるのは。 そしてまた立ち上がる。脚に力が入らない。腕にも。そのくせ痛みだけは、はっきりと感じ取れる。 キャスターは案外優しい。手加減する余裕はないと言いながら、結局、死なない程度の攻撃をしている。一般人を襲っても、無駄に命を取らない。超一流の魔術師と遠坂が言っていたのはそういうことなのだろう。アレはきっと誉めていたのだ。 わかりにくい。もっとわかりやすく言ってくれれば、良かったのだ。そうしたら話し合うとかそんな結末もあったかもしれない。もう今はあり得ないが。「これが最後よ。都合五度の警告を無視された。これ以上はもうあり得ないわ。降伏しなさい。その愚かさに免じて悪いようにしないわ。貴方の自由を奪いはするけれど、戦争が終わったら記憶を書き換えて無事に家に帰してあげる。私に敵対しない限り安全は保障するわ。私の真名に賭けて契約してあげる。だから諦めなさい」 なぜこんなところで意地を張っているのだろうか。 くだらない意地だ。しかし残念ながら譲ることができない。キャスターは悪人ぶっているが善人だ。しかし魔術師としてだ。人を襲うことに罪悪感はない。あくまで殺さないだけだ。そして無駄に人を殺さないというだけで、もしも理由があったとしたら、それしか方法がないとなったら殺すだろう。だから、戦ってやめさせねばならない。「このっ! 大莫迦っ」 そして大量の魔力弾が撃ち込まれ、視界が白濁し――「キャスターの言うとおりです。貴方は本当に愚かだ。大莫迦だっ!!」 無数の光弾の前には、召喚した少女。セイバーがいた。