「…………はあああああああああああああああああああああああああああああ」 時間が経ったコーラーをコップに開けた時のような、どうしようもない声が漏れた。 情けない。みっともない。どうしようもない。 あのときのことを思い出すと、心臓の下のあたりがどうしようもないやるせなさで重たくなって、地面に激突しそうになる。昔の人はうまいことを言った。落胆とはよく言ったものだ。「…………鬱陶しい野郎だな」 何もないはずの空間から雁夜に声がかけられた。老人のような、猛獣のような、重々しい声だったが、その音色には多分にうんざりしたものが混じっていた。 そうなのである。姿を消しているサーヴァントが呆れているのはわかる。わかってはいる。こんなところで、気の抜けたため息を付いている暇など無いのである。無いのではあるのだが……「…………あううううううううううううううううううううううううううううう」 どうしてもダメだ。気合が入らない。 清潔なシーツと消毒液の匂いが充満する病院の中で、雁夜が大きなため息を漏らす理由はひとつしか無い。 隣にいるサーヴァントもわかっている。なぜ自分の主人が、こんなにもどうしようもないダメ人間のような声を出しているのか、わかっている。わかっているが、鬱陶しいのはいかんともしがたい。「しんきくせー声出すなっつってんだろ。ますたー」 呆れ返った声を出して、姿を表したバケモノは、周囲に人間がいないことを確認すると、べちん、と雁夜の頭をぶっ叩いた。“なにすんだよっ!? コラァッ!?”とでも言えば、まだ救いはあるのだが、雁夜は「あうあうあうあう」と、しぼんだ風船に穴を開けた時のような音とともにうずくまった。 雁夜がなにゆえこんなにも打ちひしがれているのかにはわけがある。 隣の病室で寝ている桜である。 桜は容態が安定したと判断され、言峰教会から新都の総合病院へと移送された。それ自体は喜ぶべきことなのだ。喜ぶべきことなのだが……。 教会で、凛に桜と対面するよう説得したのは、他でもない雁夜である。雁夜なのであるが、よもやあんな結果になるとは、想像だにしなかった。 思い出すだけで、胃がぐにゃりと歪むような錯覚に陥る。「……桜、ごめんなさい。くるのがおくれてごめんなさい」 と涙を流さないように、それでも真っ赤な目をした凛に対する桜の対応は、大怪我をした後の病人であることを差し引いても、冷たすぎるものであったろう。 感動の対面を期待した雁夜の認識も甘かったと言わざるをえないが、よもやまさか桜の口から、「誰でしたっけ?」 という返答が出てくるとは、よもや想像しなかった。「さ、桜ちゃん……。ほら、凛ちゃんだよ、桜ちゃんのお姉ちゃんの……」と、なんとかとりなそうとする雁夜に向けられた言葉は、更に酷薄極まりないものだった。「わたしにお姉ちゃんや、お母さんはいません」 その一言で、空気が凍った。 あるいは、雁夜が気づいていなかっただけで、もっとずっと前から絶対零度に凍りついていたのかもしれない。悲劇を乗り越えて、引き裂かれた姉妹が出会うのだ。陳腐な言い方をしするのならば、感動の対面というもののはずだが、そんな暖かさは微塵も感じられなかった。--手遅れになってくれるな。 それだけが雁夜の願いだった。それだけが雁夜の願いだったのだ。 間桐臓硯が死んで、桜に対する“教育”は終わりを告げた。しかし、一年という期間は、幼い少女の体と精神に、極めて大きな傷跡を残している。挙句の果てに、キャスターとそのマスターに嬲り者にされ、これほど大きな絶望を抱えた少女はそうはいないだろう。 桜を癒やすのは、葵であり、凛である。この少女を癒やすのは自分ではない。自分にはその時間がもう無い。凛と葵の元に返せば、いずれ桜の傷は、長い時間がかかってもいずれは、と勝手に思い込んでいたのだが、まさか桜が遠坂凛という人間を拒絶するとは予想だにしなかった。 そのあとも、雁夜は場をとりなそうと、何かを口にしていたような気もするが、なにを言ったのかは覚えていない。『それで……いいのかい?』とか、なんとか、きっとばかみたいなことを言ったのだろう。「きょうは、もうつかれました。雁夜おじさん、ねむってもいいですか?」 その言葉で、ようやく悟った。これ以上の対面は“間桐桜”にとっても、“遠坂凛”にとっても、無益、いや、二人のことを考えるなら有害でしか無いと。 それは凛も同じだったようだ。「雁夜おじさん、桜。お邪魔しました」 そう口にするや、教会の処置室から退席した。その目には、もう涙は浮かんでいなかった。その代わりに瞳に浮かんでいた決意の色に、気づいた人間はおそらく居なかっただろう。 事の顛末を、どこからともなく戻ってきたバケモノに話したら、「ますたー。おめーアホだろ?」 と、的確かつ反論のしようのない返答を食らった。 どうしようもない。言い返すことさえできない主人に呆れ返ったのか、バケモノはそれ以来、この件については触れようとしてこなかった。 凛が教会から遠坂邸に引き取られた後も、桜の容態が安定してからも、ずっとバケモノはこの件については口にしなかったのだ。 しかし、さすがに雁夜の不甲斐なさに辟易したのだろう。「あせるんじゃねー、ますたー」 そんなことを言った。「俺はあせってなんて無い」 叩かれた頭を抑えながら反芻する。多分焦ってないはずだ。きっと、焦っていないはずだ。焦ってない、と思う。「前にも言っただろ。あのコムスメがそう簡単に、もとに戻るわけねーだろ。あの凛とか言うコムスメと、なにか喋った程度で何もかも元通りになるんだったらおめーが苦労する必要ねーだろうが。バケモノみたいにベタッと貼り付けりゃあすぐにくっつくわけじゃねえだろうし、ゆっくり治りゃあいいだろーが」 理屈はわかる「……でも……桜ちゃんが……」 桜が負った傷というのは、臓硯が死んで、遠坂の家に桜が戻れば治る、などと、そんな単純なことでないのはわかった。しかし、どうしたら良いのかはわからない。それほどに桜が凛と葵を拒絶したというのは、雁夜にとっては衝撃的だったのだ。あの優しい時間を、あの三人をまさか桜が否定するとは思わなかった。「まだなんかあんのかよ?」「でも俺たちと一緒にいるときは、その……もっと……柔らかいっていうかさ……無表情でも、もっと、その、ちがう桜ちゃんだったような気がするんだよ」 それに桜の凛への態度の冷たさは、心の傷だけでは説明がつかないような気がする。もっと別な何かがあるような気がする。言葉にならない焦燥が、余計に雁夜をじらすのだ。 その様子を観て、バケモノは顎を外したほどポカンとした大口を開けて、呆れ返った。「オマエ? まさか、本気で気づいてなかったのか?」「なにがだよ」 雁夜にはバケモノが何故あきれ返っているのかわからない。何の話なのだろうか? 全くわからない。 その様子を観て、余計にバケモノは呆れ返ったらしく、雁夜の懐から財布を抜き取ると、「買い物に行ってくらあ」 などと踵を返した。どうせまた、大量のジャンクフードを買い込んでくるつもりなのだろうが、一抹の不安がある。「おい、バーサーカー。お前、その姿のままうろつくつもりじゃないだろうな!?」 このバケモノの知性というのは、高いとか低いとか一概に断じることはできないが、とにかく常識というものが存在しない。一人で行動させるのは危険だ。 そう不安がる雁夜に、バケモノはめんどくさそうに手を振ると、体毛が渦を巻く。瞬く間に、巨大な体が人間サイズになったかと思えば、どこかで観たような人間の姿に变化した。どことなく見覚えがある。アレは確か病院のテレビに写っていた、ニュースのレポーターの姿であったような気がする。 雁夜には想像の及ばないことであったが、バケモノには桜が凛を拒絶した理由というのはおおよその見当がついていた。いや、見当がついていたとか、予測できたとか、そんな面倒臭いことではない。見ればわかるとか、わからないほうがどうかしているとか、そういったたぐいのことだ。口にしたらバカバカしいほど単純で、赤面してしまうほどくだらないことだ。 桜が凛を拒絶した原因は、ほかならぬ雁夜にあるからだ。遠坂の家に桜が帰ったら、雁夜は一人で死ぬことになる。それが桜には、ただ嫌だったのだろう。桜自身が意識しているかどうかは怪しいうえに、もしも尋ねたら「違います」と否定されてしまうような感情の機微であっただろうが。 バケモノが主人の鈍感さに呆れ果てて、端的かつぶっきらぼうに回答を口にしたら、こう言ったかもしれない。「おめーだけがトクベツなんだよ」と。 言峰綺礼は頭を抱えていた。悩める求道者である言峰綺礼である。悩み続けてきた人生だ。 しかし、だからといって今回の苦悩は、いままでのものとは全く異なる。どうしてこうなった? としか言い様が無い。やっと眠れると、自室のワインセラーから適当に一本、寝酒を飲んだ。それから先の記憶はない。しかし、情況証拠の結果、なにをしてしまったのかは理解している。 目を覚ましたベッドの上。いつの間にか、綺礼は服を脱いでいた。鍛錬と修練により引き締まった腹筋が視界に写る。それはいい。だが、綺礼の隣で薄い毛布に包まった人影はなんだろうか? 頭痛がした。 額のあたりに血管が浮き出ているのがわかる。 毛布を恐る恐る引き剥がす。 そこには褐色と言うよりは、少々浅黒い色の肌があった。思ったよりも、華奢な体つきの鍛えぬかれた瑞々しい裸身だ。その刃のように整った寝顔から、黒色に染めた絹糸のような黒髪が、白いシーツに流線を描いていた。 なぜこうなった? わからない。 ありのままの状況を整理しよう。 酒を飲んで寝て起きたら、服を脱いでいた。隣に黒色の肌の美人が、寝息を立てている。 理解ができない。 いや、正確に言えば、理解はできるし、それ以外に答えはないということもわかっているのだが、理解したくない。 酔っ払って寝た勢いで、記憶に無いうちに自分の下僕に手を出してしまったなど、正直理解したくない。いや、まだそうと決まったわけではない。「……ぅん……」 と隣で寝ていたアサシンの首領が喉を鳴らす。 その様子に綺礼の背筋に冷たいものが走る。「なぜこうなった? 確かに回答は得た。進展は大きいさ。ところがな、これが全くなんの解決にもなっていない。問題を省略して、回答だけ手渡されたとしても、これではどうしても納得などできない。この世界には必ずこの奇妙な回答を導き出すだけの方程式が存在するはずだ」 とりあえず、心中を適当に口走ってみたが、意味がわからない。 試練多き人生だった。しかし、これも答えを得るために必要なことだ。そう思おう……と自己肯定してみた。どう考えても現実逃避している。「うん……。あぅ……。マスター……いえ、キレイ。おはようございます」 綺礼が煩悶としていたせいで、いつのまにやら猫のような声を上げて、アサシンの首領が目を覚ましたようだ。 問題が一つ。なぜ、マスターではなく綺礼の名前で呼ぶ?「アサシン、私のことは……」 綺礼は「名前で呼ぶな」と言おうとしたのである。しかし、その二の句は、アサシンの首領の柔らかな人差し指によって阻まれた。「キレイ。その昨日のことは忘れてください」 アサシンの首領は、子猫のような上目遣いで綺礼をのぞきこんでくる。 とりあえず、「嫌だ」などと拒絶できるような状況ではない。「その、なんだ? 昨日のことなのだが……」 綺礼の言葉を無視するように、アサシンの首領は言葉を続ける。「その、覚えていませんか?」 どうやら逃げ場はない。言峰綺礼はそう悟った。 アレだ。泣きたい。 とりあえず、時計を見るに、綺礼が眠っていたのは六時間ほど。常人ならば二日二晩の徹夜の回復をはかるには短すぎる睡眠時間であろうが、そこは代行者の綺礼である。足取りに疲労の色は一切ない。あくまで肉体的にはであるが。 教会の内部が騒然としているのに気づいたのは、その時だった。 父の璃正が通信機で慌ただしくやりとりをしていた。「父上。いかがなさいました?」「綺礼か。目覚めたところ悪いが、もうひと働きしてもらうぞ。やれるな?」「はい」 厳かな口調で返答した。 綺礼は用件を聞く前にそう答えた。それが綺礼という人間の生き方だ。命令には決して逆らうことはない。それだけが自分だからだ。 ふと綺礼の中に皮肉な笑いがこみ上げてきた。もしも、自分が、聖杯戦争の最中、下僕と情を交えたかもしれないことを包み隠さず伝えたら、父はどんな顔をするのだろうか? 落胆するだろう。綺礼に対する誇りや信頼を失うかも知れない。しかし、自分の心の奥底が蠢く。××する父が観たいと。また、頭にぼうっと靄がかかる。 アレだ。考えないようにしよう。自分のサーヴァントにに手を出すなど、正気の行為ではない。しかし、心を落ち着かせようと綺礼に投げかけられた璃正からの指示は、即座に首肯できないものだった。「もはや一刻の猶予もない。至急、アサシンを総動員してキャスターとそのマスターを屠り去れ。この際、アサシンの生存が露見しても構わぬ」 それはつまり、遠坂時臣陣営のアドバンテージをすべて投げ捨てるに等しい行為だ。しかし、解せない。キャスターの工房は、バーサーカーの宝具によって完膚なきまでに破壊された。工房を失ったキャスターである。放っておいても、いずれ脱落するはずのペアを、なぜ、そこまでの犠牲を払ってまで撃滅せねばならぬのか? 合理的ではない。いや、どう考えても異様な命令である。「時臣師は、同意しておられるのですか?」「無論だ。昨日の深夜、バーサーカーに工房を破壊されたキャスターは、逃走する最中手当たり次第に幼子の誘拐を繰り返し、その数は現時点で一〇〇人に登る見込みだ。しかも、一切の秘匿を行っていない」 即座に理解した。 もう放置などできない。力づくで排除するしか無い。昨日、保護した少年少女たちの数は一〇名ほど。それでも、ほぼすべての聖堂教会のスタッフが動員して隠蔽にあたった。その一〇倍ともなれば、これ以上は、教会と魔術協会の隠蔽能力を超える案件だ。「キャスターに懸賞を賭け、他のマスターに討滅を促しては?」 アサシンがキャスターを付け狙うのでは、いささか心もとない。キャスターほど大きく聖杯戦争の枠組みを逸脱したペアならば、すべてのマスターたちの敵である。聖堂教会の権限を使えば、すべてのマスターをキャスター討滅に動かすことも可能だろう。「無理だ。時間の猶予がない。キャスターとそのマスターの行状を観るに、一〇〇人の子供が全て皆殺しにされることも考えられる。そうなれば、もう隠蔽は不可能だ」 キャスターとアサシンでは数の利を加味して、恐らく五分。その五分にかけねばならないほど聖堂教会の状況は切迫しているということだ。 そこまで理解するや綺礼は踵を返し、一番そばに居たアサシンに声をかける。「キャスターの所在は?」「深山の住宅街を子供を引き連れて西に一直線に向かっています。子供を連れての行軍ゆえに我らの足ならばいずれ追いつけるかと」「私も行く。すべてのアサシンを集結させる。構わないな?」 その一言に、名前も知らないハサンの一人はビクンと反応し、綺礼の方を向き直ると、「その、綺礼様。首領はどうしましょうか?」 などと、どうにも返答に困ることを聞いてきた。 あえて考えないようにしていたのだが、そう聞かれると困る。 戦力はひとりでも多くほしい。しかし、酒乱である。挙句の果てには、全く記憶にないが、自分と情を交わした相手かもしれない。他のハサンの士気に係るかもしれない。というか、顔を出来る限り合わせたくない。「アサシンの首領は、教会の内部にて伝令役をやってもらう。それでいいな?」「承知いたしました」 それにしても、と思う。 しくじった。 いろいろしくじった。 あの貯水槽の外で遁走するキャスターを、あのときにすかさず仕留めておくべきだった。そうであれば、こんな面倒くさい状況は起こらなかったのに、と。 悔恨と呼ぶにふさわしい感情を抱えながら、綺礼は教会の扉を開けた。 ありとあらゆる面倒事から逃げ出すように。