できるものならばさっさと帰りたい。 言峰綺礼はそう考えていた。 各陣営の監視に割いていたアサシンたちも、最低限の人員を残して大半はこの場に集結させた。 六〇体以上のアサシンによる強襲。バーサーカーとキャスターの二者が噛み合い疲弊したところを、アサシンがほぼ総戦力で襲いかかり凛を奪還する。それが言峰綺礼の立てた即興の策だった。 普段の冷徹なる代行者としての綺礼の判断能力が告げている。これは明らかに常軌を逸した下策であると。 このハサンは諜報活動に特化した英霊だ。数は多いが戦闘能力は間違いなく歴代ハサン最低の部類だろう。それが戦闘をすることになるのならば、間違いなく多大なる犠牲を払わなくてはならない。綺礼とアサシンの真の脱落も覚悟せねばなるまい。 しかしそれがどんな下策であろうとも、それ以外の策が思いつかないのだから仕方がない。 可能であればキャスターの工房の中に斥候を送り、内部の様子の探りを入れたいところだったが腐ってもキャスターの工房である。どんな備えがあるのか分かったものではない。結果、慎重にならざるをえない。 しかし、この貯水槽の前で様子を見計らっていても埒が明かないのは確かだ。 バーサーカーと間桐雁夜が、なぜキャスターの根城に強襲を仕掛けたのか? 合理的に説明を考えれば、間桐桜の奪還だろう。しかし、綺礼にとってそこはどうでも良い。もう彼女は遠坂桜ではない。師父である遠坂時臣も彼女の救出を断念した。ならば言峰綺礼にとって間桐桜は関係のない人物でしかない。 捨て置けないのは凜だった。彼女は師の後継であり決して失われてはならない至宝だ。だがそれは裏を返せば、遠坂時臣の娘という立場が重要なのであり、遠坂凛という少女の無事そのものには一切の興味が無いということでもある。 自分に課せられた魔術師に師事するという埒外の任務。第八秘蹟会に所属していた綺礼に課せられた厄介な試練の一つでしかない。手に入らないものを埋めるためのいたずらに繰り返された修身という名の自傷行為。 それでもなお、綺礼はその試練や鍛錬といった自傷行為を手放すことが出来ない。“目的意識”や“崇高なる理想”を心の中に抱けない、この綺礼という名の人格が、その自傷行為さえも止めてしまったら恐らくはその人格さえ崩壊してしまうだろう。矛盾である。考えれば考えるほどに。 内心ではどうでもいいと思っている任務にこの言峰綺礼という人間は命を懸けているのだから。 しかし、任務自体は別にどうでもいいとは言うが、限度というものがある。 自分は衛宮切嗣を見つけてあの男と対決しなくてはならないのだ。 本来の予定ならば、脱落したマスターという偽りの身分を最大限に活かし、衛宮切嗣の探索に専念したいというのに、なんの因果かあの男を探そうとするのを邪魔するかのように次々と難題が降って湧く。 師の呼び出した金ピカサーヴァントは、自分の気づきたくもなかった心のヒダををねちねちと指摘してくるし、自分の呼び出したアサシンは飲んだくれて説教してくるし、安全な場所にいたはずの妹弟子は何を血迷ったのか危険地帯へと舞い戻りご丁寧にも敵の手中に落ちた。 これは陰謀だ。世界を背後から操っている悪の組織がこの言峰綺礼に“答え”を得させないために手練手管を用いて嫌がらせをしているに違いない。 アレだ。正直もう勘弁してほしい。 言峰綺礼という人間が答えを得るためには、そこまでの荒行をこなさなくてはならないというのだろうか? そんなことを悶々と考えているときだった。 反応するいとまもあればこそ、凄まじいとしか形容のしようのない魔力の拍動が綺礼とアサシンを叩いた。 キャスターかバーサーカーのどちらかが宝具を使用したのだと綺礼が思い当たったその瞬間、轟音とともに眼前に光の柱が生まれた。 青白い稲妻が巨大な柱となって突入先の貯水槽から立ち上り天を焦がす。 圧倒的な魔力。膨大な熱量が顕現する。 貯水槽を覆い被せていた土砂とコンクリートが大量の埃となってなって舞い上がり視界を覆う。 この破壊規模は明らかに対軍宝具ではない。宝具の中で最も強力とされる対城宝具のそれだ。稲妻の宝具という点から察するに、恐らく宝具を使用したのはバーサーカーの方だろう。 考える限り最悪の展開だ。城を落とすほどの大規模破壊の宝具。それはつまりアサシン唯一の数の利が、バーサーカーの前には通用しないということだ。数を頼みに襲いかかったが最後、一網打尽に焼きつくされるだけだ。業腹ではあるがバーサーカーが対城宝具を持っているということを突入前に知ることが出来たのは、僥倖以外の何物でもない。 色々と感情がろくに働いていない綺礼ではあるが、自殺願望は幸いにしてまだない。なんとかバーサーカーとことを構えずに凛を奪還する方法はないものかと策を巡らせている綺礼の耳に、小さな物音が届いた。 貯水槽の奥から二つの足音が近づいてくる。物陰から出てきた主はキャスターとそのマスターだった。満身創痍といった様相だ。 これは綺礼にとって予想外の事態だった。あの稲妻は間違いなくバーサーカーのものだ。てっきり対城宝具を使用された以上、キャスターの脱落は確定事項であると踏んでいたのだが……。 一体どういう因果のめぐり合わせか、キャスターは生存しているようである。 しかし這々の体で息も絶え絶えに駆けているそのさまは、キャスター一味が明らかに敗残者であることを雄弁に物語っていた。ここで奇襲をかければ、キャスターを倒すことはできよう。根城から出てきた魔術師を手に掛けることなど、それこそ赤子の手をひねるようなものだ。 しかし、凛を奪還する前に、アサシンを用いて攻撃を加えれば、気配遮断スキルは大幅にランクダウンし、バーサーカーにもアサシンの存在が露見する。凛の奪還は間違い無く失敗するだろう。かといって放置するのも不確定要素を増やすだけである。 僅かな逡巡の後、綺礼はを判断を下した。「一体だけ監視につけておこう。新たに工房を作る前に処理をすれば問題はないだろう」 とりあえず、近場にいる小柄なハサンのひとり(名前は知らないし覚える気もない)を適当に見繕って、キャスターを監視するように命令しておいた。 これからしばらく後、綺礼はそう判断した自分を絞め殺したくなるほどに後悔するだがそれはまた別の話である。 代行者としての蓄積と経験から、奇襲はタイミングこそが全てであることを、綺礼は知っていた。心理的に安堵しきったその瞬間をつくことが出来れば、とてつもない実力差のある相手であったとしても、拍子抜けするほど楽に倒すことが可能なのだ。それ故に踏み込みアサシンを解き放つその瞬間は綺礼が判断せねばならない。 アサシンは能力が高いサーヴァントではない。奇襲とはいえ戦闘能力最強のバーサーカーに挑ませるのだ。しかも相手は対城宝具を持つサーヴァントである。宝具を使う前に目的を達成する必要がある。 通常、対城宝具のような高出力な宝具はその燃費の悪さ故に連発が効かない。 しかし、それはあくまでも通常のサーヴァントであった場合である。あのバーサーカーの異形の戦法と高密度の魔力をみるに、そんな楽観的な一般論に身を任せるつもりは綺礼にはなかった。事実、あのアーチャーとして召喚された英雄王は、底なしの宝具によるバックアップにより、乖離剣と呼ばれる宝具の連続使用が可能であることを時臣師から聞かされていたからだ。 勝利するつもりはない。最初の一撃で凛を奪還し、その後は数を頼みに足止めを行ない逃走を図る。これが綺礼の考えられうる限り最大の策だった。しかし、この消極策であってもアサシンの令呪による能力の底上げが必須だろう。最低でも一画、場合によっては二画もちいる局面になるやもしれない。 水音を立てないように腰を落とした独特の歩法を用い、キャスター工房の中心地へとゆるやかに近づいていく。 そのさなか、アサシンの数人(名前は忘れたしそもそも覚える気がない)が、冷や汗をダラダラと流しながら相談を始めた。「…………」 綺礼はその数人を無視して歩を進める。「……あの、綺礼様。非常に申し上げにくいのですが」 無視である。「……あの、綺礼様……聞いていらっしゃいますか?」 サーヴァントに返答したところでサーヴァントとの念話は敵には聞こえないが、いま名前も知らない下僕と会話している暇などないのである。「……あの。綺礼様、というか無視しないでいただけますか?」 と行く手を遮られてツッコまれた。「……なんだ?」 しかたがないので不承不承に応える。「非常に申し上げにくいのですが……バーサーカーが……その……逃げました」 ものすごい速度で遠ざかっていくバーサーカーの気配。 そのことをアサシンはこちら側に告げる。「…………逃げたとは……どこからだ?」 ここは先は脱出路のない貯水槽、いわゆる袋小路のはずなのだが。 サーヴァントだけが宝具や特殊な保有スキルを用いて壁抜けしたと言う事ならば話はわかるが、マスターも同時にそのような行為に出るとは考えにくい。「……恐らくは先程の対城宝具にて、天井に大穴があいており、そこから空を飛び脱出したのではないかと」 ぴちょんぴちょんと滴る湿った水音。 気まずい沈黙。 アレだ。 自分はいったいなんのために背中にアサシンの首領を抱え、こんなでっかい下水管の中にいるのだろうか? やめよう。深く考えるのはやめよう。 うん。そうだ。 アーチャーにいびられてこんな夜中に外をさまよい歩いたのが、そもそも間違いなのだ。 布団をかぶってなにも知らなかったように眠ろう。遠坂師父からは、明日改めて話があるだろう。そのときに初めて聴いたようなふりをして驚いたら完璧だ。 八極拳の吐納法を繰り返し行ない、深呼吸を数度。 うん。心が落ち着いた。さあ、帰ろう。教会へと。「……あの……綺礼様」 踵を返す綺礼の手をワッシとアサシンはつかみ、暗闇の奥を指さす。 耳を凝らすと、鼓膜を震わせるすすり泣き。損壊した人間の身体と残された泣きじゃくる子どもたち。「…………あの子たちは……どうしましょうか?」 まぶたの上がぴくんぴくんと痙攣する。 十数人の年端もいかない子どもたち……。あの子どもたちを保護するために教会の工作員を連れて来なくてはならない。記憶を消して、なにかしら面倒くさい工作を経て、公的機関と渡りをつけ、親元まで送り届けなくてはならない。ならないが……。 誰がやる? 自分しかない……。 げんなりとしながら綺礼は言峰教会に連絡を入れるため最寄りの公衆電話へとゆっくり歩いて行った。――掛け値なしの戦場だ。――これから起きるのは臓物と糞便が飛び散る掛け値なしの戦場なのだということを雁夜は知っていた。――だというのに自分はなにをしている。――自分はいったいなにをしているのだ。――中央門の警備を任せられた大将軍の自分が女の手を引いていた。――戦場となる祖国を捨てて一人の女とともに山の中を逃げていた。――わかっている。――なにをしているのかわかっている。――いままではどんな戦でも自分がいれば勝てた。――いままでの戦ならば自分さえいれば勝てたのだ。――しかし今回の敵は強国だった。――自分が強いだけでは覆すことの出来ない数の敵が襲いかかってくることが自分にはわかっていた。――相手の国は誰一人として残す気はないだろう。――いままで攻められた国はどこも皆殺しにされてきた。――自分だけならば、あるいは生き延びられるかもしれない。――しかし、それは、自分だけしか生き延びられない。――それでは意味が無い。――だから逃げたのだ。――逃げるわけにはいかないと訴えるラーマの姉の手を強引に引いて逃げたのだ。――あの姉弟だけを安全なところに連れていくために。――だから守るべき国も、愛すべき民も、自分は見捨てた。――それでいい。自分は呪われた子どもなのだから。自分が強いのは呪われているからだ。――呪われた将軍に、あいつらも守って欲しくはないだろう。――利己の念だった。この姉弟を助けたいというのは、醜い妄執と利己心の発露だ。――その証拠に右肩が疼く。何者かが生まれてくるかのように右肩が疼いた。――ほの暗い山道を駆け抜ける。――嫌な予感が消えない。自分は大きな間違いをしているのではないかという予感が、後頭部のあたりにこびりついて消えない。――視界が開けたその瞬間、雁夜は自分の失策に気づいた。――山道を包囲する弓兵たちが、その鏃をこちらに向けていた。――敵は誰ひとりとして逃がす気などなかったのだ。――放たれた矢はひどくゆっくりに見え、――篠突く雨のようにラーマの姉へと降り注ぎ―― いつの間にか、気絶するように眠っていたようだ。 気がつくと、雁夜の膝の上で凛が寝息を立てていた。 重傷のコトネと呼ばれた少女と桜を抱えて、中立地帯である言峰教会へと駆け込んだのは、キャスターとの一戦の直後だった。 聖堂教会は聖杯戦争の監督役であり、表向きはいかなる勢力にも肩入れしない中立者だ。教会に保護されるのは、サーヴァントを失い脱落したマスターのみだ。間桐のマスターである自分が身内の治療を願い出ることは、その中立性を犯すことにほかならない。ましてやキャスターとの一戦後に中立地帯に駆け込むなど、消耗したその身を隠す反則行為ととられても仕方がない。場合によっては令呪削減などのペナルティを覚悟せねばならなかった。だが、そのようなことは全て些事だ。もしもかりに、全ての令呪の削減を交換条件として提示されたとしても、雁夜はそれを甘んじて受けただろう。 流星が地上に落ちるように着陸し、教会の扉をこじ開けて少女たちの治療を申し出た。出迎えた璃正という名の神父は、一目で事態を把握したようだった。驚きを覆い隠し、こちらから依頼するよりも先に治療を申し出てくれたのは僥倖としか言いようがない。 聖堂教会の医療スタッフが、応急処置を行なっている間、璃正神父は何処かへと連絡を取っているようだった。それからしばらくすると、長身の男が教会の扉を開け、こちらへと向かってきた。初対面ではあったが雁夜には見覚えがあった。 幾分かやつれた表情で教会の扉を開けたのは、間違いなく最初に脱落したアサシンのマスターの言峰綺礼だった。脱落したはずのあの男が、なぜ教会の外にいるのか? てっきり教会の保護の下、聖杯戦争が終わるまで中に入っているものとばかり思い込んでいた雁夜にとってこれは意外な光景だった。「ご存じないかもしれませんが、息子が聖杯戦争に参加したのは本意ではございませんでした。令呪を偶然に授かったため、聖堂教会の代理人として数合わせで参加したまでです。マスターとして脱落した後は教会の工作員として聖杯戦争の隠蔽工作に従事させております」 訝しがっているのを見て取ったのか璃正神父がこの状況を解説した。教会が遠坂びいきなのはいわば公然の秘密だ。聖堂教会の工作員として働いているということは遠坂のための情報収集という可能性もあるが、そんなことを気にしている場合ではない。「綺礼。連絡したとおりだ。こちらのお嬢さんは一命を取り留めたが、間桐家のご令嬢は依然として危険な状態だ。今すぐに治療を始るように」 治癒魔術においては師である遠坂時臣を凌ぐと言われている。あの魔術師然とした男以上の腕前とあらば、近代医術では匙を投げるしかないほどの重傷の桜であっても治療することが可能だろう。 「息子が治療をする前に、一つだけ間桐のマスターに確認したいことがあるがよろしいかな」 と前置きをしてから、璃正は雁夜へ向き直った。「私どもの工作員が掴んだ情報だが、間桐の陣営が遠坂の御息女を拐かしたとの報告があるが事実かな? もしも、そうならば監督役として看過できない。治療を請負うのはやぶさかではないが、戦いに無関係な人間を巻き込むことを容認するわけにはいかない。こちらに引き渡していただきたい」 明らかに遠坂の陣営に有利になるような申し出である。しかし、そんなことはどうでも良い。いかなる条件を出されたとしても、例えばこの場で、神父の脚にすがりついて靴の裏を舐めるように要求されたとしても、雁夜は喜んで従っただろう。 しかし、雁夜が返答するよりも早く、小さな影が雁夜の後ろから踊り出る。「璃正おじさま。私は誘拐などされていません。失礼ですがそんなことよりも早く桜の治療をお願いしたいのですが」 言葉そのものを聞いてみれば可愛げのないこまっしゃくれた子どものものだ。物分りの悪い大人にわがままをいうときの口調そのものだった。しかし、瞳にいっぱい涙を溜めて、震えながら。いままで口答えなどしたことない少女が大人の世界に精一杯の勇気で踏み込んでいた。 凛の強い意志を感じたのだろう。璃正は雁夜ではなく凛に問うべき質問を投げかけた。「凛くん。君は自分の意志でこの冬木市に来たのだね。この間桐雁夜、間桐のマスターに脅されたりはしていないというのだね?」「はい。私はわたし自身の意思でここにいます。雁夜おじさんは関係ありません。あとでお父様にどんな罰をいただくことになってもかまいません」 二、三呼吸ほどの逡巡の後、璃正は重ねて綺礼に桜の治療を申し渡した。 それからの記憶は少ない。治療の同席を申し出た雁夜と凛は、清潔さを保つという理由で治療室の外に追い出され、礼拝堂のソファーの上で桜の治療の成功を祈っていた。力が及ばない事態には、ただ祈ることしか出来ない。大して信心深くもない自分の祈りなど聞き入れられるはずもないが、雁夜の隣で嫉妬や怨讐を知らない少女の祈りならば、きっと聞き入れられるだろうと信じて。どれほどの間そうしていただろうか。意識が戻ったときには、教会のガラス窓からは、ぼんやりと真昼の光が差し込んでいた。 諦観や恐怖が心臓の隙間から入り込んで全身を侵食していく。 もしも、桜が助からなかったら。 隣の部屋で行われているのが、完治の見込みのないただの延命処置だったら。 そんな不吉なことなど考えることさえ許されない罪だ。あの木造の扉の向こう側で、桜は小さなその体で死という怪物と戦い続けているのだから。不明瞭な意識のなかで自身を叱咤する。それでも最悪の事態への想像が消えなかった。 唐突にその扉が重々しい音を立てて開いた。 あの男だった。桜の治療を命じられた陰気で長身の神父だ。まったくの無表情でこちらを一瞥した。 その姿が雁夜には神々しい天の御遣いのようにも、無慈悲で凶々しい布告を携えた死神のようにも思えた。「そ……神父。……桜……ちゃんは――」 呂律が回らない舌をなんとか動かして、呻り声とも取れない声で問いかけた。 歯の根が噛み合わない。震えが止まらない。 実際には数秒の逡巡であったろうが、返答までの時間が雁夜には無限なように感じられた。 綺礼の顔には困惑が色濃く浮かんだのだが、そのことに気づけるほどに雁夜には余裕がなかった。「案ずる必要はない。雁夜、君の身内はもう冥界の門をくぐることはないだろう。もう少し容態が安定したら、中立地帯である教会から、市内の病院へと輸送するが構わないかね?」 もって回った言い方ではあるが、一命は取り留めたことを綺礼は遠回しに告げる。 全身から力が抜けた。 今すぐにでも倒れ込みたくなる衝動を抑えこみ、質問を続ける。「桜ちゃんには、その……会えるのか?」「会いたければ会うがいい。意識が戻るにはまだ時間が必要だが、意識が戻れば差し支えないだろうな」 綺礼は心底他人事であるかのような、まったく興味を持たないような、無機質な口調で答えた。それが果たして興味を覆い隠すための物であることに本人自身が気づいていたかどうか。誰も気づきえない心の動きであっただろう。それだけ言うと。また治療のために部屋へと戻っていった。 しばらくして、雁夜は別の聖堂教会工作員から桜の意識が回復したことを告げられ、病室へと招かれた。 桜が乗せられた台はベッドと呼ぶには極めて簡素な、クッションの上にシーツをかぶせただけの粗末な代物だった。切り開かれた腹部には赤い包帯とおぼしき布が厚く巻かれていた。 損傷した内臓の多くを消毒したうえで修復し、元の位置へと縫い直す。言葉にするのならばそれだけのことだが、近代医術の力の及ぶ所ではない状態だった桜を回復させるのには聖堂教会の、言い方を変えるならば言峰綺礼の魔術の技量が必要不可欠であった。魔術を嫌悪する雁夜ではあるが、綺礼がその力を用いて桜を治療したことには感謝の念を禁じ得ない。 恐る恐る雁夜は桜に近づいた。自分はいつも怯えてばかりだ。大切な人を前にするといつもこうだった。 怯えている雁夜を視界に収めると、桜は無機質な瞳を向けてから、血色の薄い唇をたどたどしく動かす。「来るの…………おそいです。雁夜おじさん―― 金色のオバケ――」 自分と姿を消している相棒への言葉だった。わかっている。助けに行くのが遅れた自分を責めていることは。だが、しかし。なぜこんなにも涙が止まらないのだろうか。「――うん。桜ちゃん。ごめん」 わかっている。自分が卑怯者だということは。「雁夜おじさん、泣いてるの?」「うん」「どうして泣いてるの?」 心底不思議そうな声だった。「なんで泣いてるのか、僕にもわからないんだ」 そうして涙が止まるまで雁夜は桜の白い手を握りしめて泣き続けた。