――これは、多分夢の続きだ。どことなく乖離した現実感に、雁夜はそう感じた。こんな殺伐とした経験が雁夜にはない。殴り合いの喧嘩の経験がないわけではない。しかし、こんなふうに一方的に、こんなにまで憎んで喧嘩をしたことなど、雁夜にはなかった。 殴った。ぶん殴った。 目の前の奴が憎くて、 呪われた子供だといわれたのが憎くて、 眉をしかめ、遠巻きに見物しているやつらが憎くて、 こぶしが痛むほどにぶん殴った。 もうやめてくれと言われても、 本当になにも言ってないと言われても、 憎くて、 憎くて、 目の前の奴を思い切りぶん殴った。 もう、幾度殴ったかわからないほどにぶん殴った。 殴るたびに、右肩がうずく。 憎むたびに、右肩が心地よくうずいた。 黄泉の川の細波が、雁夜の身体を揺すった。幾度も幾度も、それがとても心地よくて、余計に深い眠りへといざわれるかのようだった。 束の間の安息に沈んでいく雁夜の左頬を、冷たくて小さいナニカがふれた。その驚くほどの冷たさに、急速に意識が回復していく。その小さなナニカは、触れる場所を肩に変えて、ゆさゆさと雁夜を揺すり続ける。 雁夜の開いた右の眼にのみ、光が灯る。もう左の眼は、その用を為さない。 しかし、そのような悲劇にも、雁夜の精神にはなんの感慨もなかった。“どうせ、すぐに死ぬ身だ。いまさら目のひとつ、惜しくもない” 視界に、小さい人影が映る。この屋敷で、唯一自分が心を開いているニンゲンが。この屋敷で、最も心を開いてほしいニンゲンが。「……桜ちゃん」――もしゃもしゃ「カリヤおじさん、起きた」 抑揚のない桜の声に、もう痛むはずのない自責の念が、再度悲鳴を上げる。 この少女の、悲劇の始まりは、誰でもなく雁夜なのだから。――ぺちゃぴちゃぺちゃぴちゃ ふと、雁夜は、僅かな違和感を感じた。 窓から、日が沈むのが見えた。いつもならば、この時間に少女はこの場所にいるはずがない。 最愛の人の面影を残した青白い顔の少女に声をかけた。「桜ちゃん、今日は……」 雁夜そこまで口にして、あわてて言葉を切った。雁夜は自分の迂闊さを呪いつつ、『今日は、蟲蔵にいかなくていいのかい?』という言葉を飲み込む。“そんなことを聞いて、いったい俺はなにを言わせる気だ” たとえココが、地獄の底であったとしても、わずかでも桜につらい記憶を思い出させたくなかったというのに。その地獄に関する会話を投げかけてしまった。 悪意がなかったとはいえ、自身の無神経さを雁夜は呪った。 少しだけ考えるような仕草をしたあと、雁夜がなにを言わんとしたか察したのだろう。 自らの名前にふさわしい、花弁のような唇が言葉を紡いだ。「いないんです……」 その言葉の真意を、雁夜は理解できなかった。一体、なにがいないというのか?「おじいさまはいないんです」 繰り返された言葉が雁夜を困惑させる。 しかし困惑の原因はそれだけではない。――くっちゃっくっちゃり、くっちゃっくっちゃり 先刻から、否、おそらく意識が覚醒する前から、ずっと雁夜の左側より鳴り響いている妙な音。――じゅるるるるるるるずごごごごごごご“一体なんだ?この耳障りな音は” 億劫ではあったが身体を反転させ、不快な音を立てている元凶に目を向ける。――時間が停止した―― そこには、あったもの。それは燃え立つ金色のバケモノが、大量の紙くずに囲まれながら、猛獣のような大口を開けてハンバーガー、ポテト、シェイクを食い散らかしている地獄絵図であった。 雁夜は、再び遠のきかかる意識を、なんとか意志の力でつなぎ留め、目を凝らして現実を直視する。 ふと、視界に浮かび上がるものがあった。それによって目の前の怪物の正体が判明した。サーヴァントのステータスである。しかも、その内容は、考えていた以上に強力だった。“どうやら、召喚は成功したようだ” バーサーカーのクラスならば、この人間とは思えぬ外見にも納得がいった。その安堵感から、雁夜は溜息をつくように、自身のサーヴァントの名前を呼んだ。「……バーサーカー」 その言葉に、眼前のサーヴァントが反応し、食事を中断し、あろうことか口を空けて人語を話した。地獄から出てきた魔獣のような声であった。「わしをそんな名前で呼ぶんじゃねえ、ますたー。わしの名前は……」 話しはじめたのも束の間、すぐに、バーサーカーは話を中断し、腕を組み、深く考えはじめた。なにかを思い出そうとしているようにも見える。 そんな人間臭い仕草を見せるバーサーカーを余所に、雁夜は仰天していた。バーサーカーが人語を解しているという事実にである。 過去三度の聖杯戦争において、狂化スキルによってパラメーターを底上げされているバーサーカーは言語能力が失われ、複雑な思考ができなくなるのが常であった。 しかし、この眼の前のバーサーカーまぎれもなく言葉を話した。 あまりのことに、雁夜は再度ステータスを凝視する。 その疑問はすぐさま氷解した。バーサーカーの狂化スキルのランクがあまりにも低い。スキルとしてステータスに表示されているが、パラメーターアップについては申し訳程度の恩恵も受けられそうにない。ペナルティについてもかなり緩和されている。そのせいか、最も魔力消費の大きいはずのバーサーカーでありながら、負荷は雁夜の想像よりとても小さかった。「うそつきです……」 ぽつりと後ろから、しかしはっきりと、桜が声をかけた。 間髪入れず再度くりかえす。「その人の名前は、うそつきです」 雁夜は、その言葉を聞いて自身の耳を疑った。桜の、他者を責める言葉を聞くのはこれが初めてだった。「わしを、そんなふうに呼ぶんじゃねえ、コムスメ。わしの名前は……」 バーサーカーは、烈火の勢いで絶叫したものの、言葉が終る頃には、尻すぼみとなり、また腕を組み悩み始めた。 あまり、考えるという行為に向いていないのだろう。頭から黒煙が出始め、かなりの時間が経過した後、ぽつりとこう言葉を紡いだ。負け犬のように。「……好きに呼べ……」「じゃあやっぱりうそつきです。ぜんぜんおいしくなかったです」 桜は、バケモノに目も合わせずにいう。「だから、ウソツキって呼ぶんじゃねーっ!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!」 よほど腹に据えかねたのだろう。屋敷が震えるほどの絶叫であった。“いったいなにがあった?” 自身のサーヴァントと少女の間の確執の原因など、雁夜には思いもつかなかった。「じゃあバーサーカーでいいんだな」「好きに呼べっつったろうが、ますたー」 不機嫌という事象を、世界中から集めてきたような顔でバーサーカーは答えた。 凶悪な顔がさらに凶悪となり、こんなものを呼び寄せた聖杯の信憑性を、雁夜は疑いはじめた。 いかなる熟練の魔術師といえども、こんな怪物の大口が目の前に空いていたとしたら多少の動揺は禁じえないだろう。 虫の居所の悪い猛獣に接する新米の調教師というのはこんな気分かもしれない。「じゃあ質問するぞ、いいなっ」 雁夜は、自分の声が上ずっていることに、否が応でも気付かされた。もうすでに、死を覚悟しているはずなのに。なぜ、自分のサーヴァントにここまで震え上がらなければならないというのか。 精一杯虚勢を張っているものの、令呪がなければ、こんなふうに五分の口など絶対に聞けないだろう。「この大量の食いものはどこから持ってきた?まさか、どこかの店を襲ったんじゃないだろうな」 部屋の一角に天井まで届かんばかりの勢いで積まれているハンバーカーとそのサイドメニューは一体どこから来たというのだろう。 バーサーカーはなにか探すように部屋を見回し、口を開くのも面倒だといわんばかりに部屋の隅のほうを指さす。そこには、頭から地面に着地し気絶している、雁夜の兄、鶴野がいた……。疑問は瞬時に粉砕された。なぜこんなところで倒れているのかなど、聞くだけ野暮というものだろう。「じゃあ今度は本題だ。話せるというのは好都合だな」 雁夜には聞きたいことは山ほどあった。真名、宝具、特技、経歴、聖杯を求めた理由、全てこの戦いを生き抜く上で必要な事柄だった。「おまえの……」 雁夜が質問の口火をきったとき、隣で軽い物音がした。“とすんッ”と、軽いものが床に落ちる音だ。 振り返ると、床に桜が倒れていた。 血が凍る。一年の間、蟲どもに喰い散らかされ、およそ人間としての機能を失い屍のようになった体の温度が、さらに急激に下がる。 雁夜は自身の無力さに、髪の毛はおろか、頭蓋を砕き、掻き毟りたくなる衝動を感じた。 こんなときにすぐさま呼び出さなくてはならないのは、憎んでも憎み切れぬ、恨んでも恨み切れぬ、幾億回殺したとしても飽き足らない、あの冥府の魔術師なのだ。 全身全霊を籠めて嫌悪しても満足など到底できぬ相手に、救いを求めなくてはならない屈辱を腹の底にしまいこみ、眼の前の自身の下僕に声をかける。「おい!!バーサカー!!!!臓硯を知らないか!!!!痩せたじじいだ!!!!妖怪みたいな顔をした!!!!」 気絶している間に行われていたかも知れない蛮行を思うと、背骨の奥がきしみをあげはじめそうだった。「慌てるんじゃねえ、ますたー」 雁夜は、眼の前のバケモノに再度叫んだ。「いいから!!!!!!知らないかっ!!!!!!」 正気を疑われんばかりの剣幕の雁夜であった。「いーから、落ち着けますたー」 掴みかからんばかりの形相の雁夜を払いのけ、バケモノは少女の身体を、雁夜の眠っていたベッドに横たえた。「疲れて寝たんだろ。ますたーがぶったおれてからずっとそばにいたからな」「本当か!!?」「ああ、七ッ刻ほどか。ずっとな」“ずっと?” 窓から、沈んだはずの日が昇ってきている。 ぶつぶつと、これだからニンゲンのガキは、などとぬかしている自分のサーヴァントを余所に、雁夜は自分の勘違いに気がついた。今は、夕方と勘違いしていたが、実際には夜明けだった。十二時間以上眠っていたことになる。 全身を虚脱感が襲ってくる。今度は雁夜が、床に座り込んでしまった。「それと、ゾーケンってえのは気色の悪い虫ジジイのことか?だったらもういねえぞ、わしがぶち殺したからな。」 その言葉の意味を理解するまで、雁夜には水がお湯に変わるほどの時間が必要だった。“まだ食う気か?こいつは……” 桜が眠りについてから三十分ほどだろうか。山のように買いこまれたハンバーガーを、どことなく愛嬌のある仕草でひとり黙々と食べ続けている自身のサーヴァントを凝視しながら、雁夜は一体何度目かの眩暈に襲われた。 今の雁夜は、壊れた操り人形だった。間桐臓硯という操り手の糸を断ち切られた無様な人形。 操り人形が、誰かに糸をちぎられて自分は自由だと思うだろうか。否、その人形は、ただ、地面に落ちるだけだ。 もしも人形が、自由の歓声を上げるとしたら、それは、自分で自分の糸を断ち切ったときだけだ。 今までは、臓硯への激怒が、嫌悪が、時臣への嫉妬が、敵意が、巨大な憎悪となって半死半生の身体を動かしていた。臓硯が自らのサーヴァントの手によって殺されたというのは、望外の幸運のはずだ。 少女の悲劇は幕を閉じた。本来ならば、浮かれて喜びながら小躍りの一つもするところなのだろうが、なにひとつ心が満たされていない。 まるで全身のエネルギーを抜き取られたかのようだ。 もうひとつ、大きな恐怖があった。その恐怖はだんだんと、膨れ上がり、縮小しきったはずの心臓を圧迫する。 ――もしも、仮に、時臣と対決し、止めを刺したとしても、このままだったら?――もしもそうだそするのならば、虹の根元にある宝を掘ろうという夢見人のように手に入らないものを、全てをなげうって追い求めきたのではないか?「食うか?」 唐突に声をかけられた。 視線に気づいたのだろう。 寝息を立てる少女の横にいる雁夜に、バーサーカーが、ハンバーガーの紙包みを投げて渡す。受け取ろうとしたが左の半身が、引き攣り反応が遅れた。ぽさ、気の抜けた音がして、紙包みが床に落ちた。 拾い上げて、包みをはがす。しかし、それだけしか雁夜にはできなかった。「食わねーのか?それとも」 空気が変わった。今までとは表情の異なる、凶暴でも、いいかげんでもない、真剣な表情で雁夜に言った。「食えねーほど悪いのか」 その表情に押され、肯いた。 現在、雁夜の身体は口から固形物を取ることは出来ない。流動食ならば喉を通るやもしれないが、現在では栄養補給は点滴によって行われている。 雁夜の全身を、まるで獲物を観察する猛獣のように観察したのち、バーサーカーは刃のような口の間から、こう洩らした。「めいっぱいまで養生して三ヶ月ってとこか?」 素人が医者のまねごとを気取ったかのような言い草に、思わず笑みがこぼれる。「専門家の言うことによると、もって一ヶ月だ」 誰とでもよかった。雁夜は誰かと話がしたかった。 それが、たとえ自分が呼び出したバケモノであったとしても。「もっとも、おまえの殺した蟲爺ィの言ったことだから、どこまで当てになるかはわからないけどな」 目の前のバケモノは、ふんっと鼻をならし、つまらないと切って捨てるように言った。「けっ、くたばりぞこないのくせに。こんなふざけた戦に出るなんて、大それてるぜ」 全くの正論である。一年前に、公園であの話を聞く前の雁夜ならば同意したろう。しかし、いまは、「どうしても、俺にはやらなきゃいけないことがあったんだ」 気の抜けたように答える。 もしも少し前、この世にあの外道が生きてると雁夜が思っている頃ならば、歯を軋らせて力強く断言できただろう。「なんだそりゃあ。よわっちくて、くそつまんねー、しかもクタバリぞこないのニンゲンのくせに。どんな理由があるってんだよ」――俺がいろいろと聞くはずだったのにな どうしても、誰かに話しておきたかった。誰かに聞いてほしかった。それが、たとえばこの聖杯戦争が終われば消えてしまうかりそめの相棒であったとしても。 そうして、雁夜は自分の身の上を語り始めた。 誰にも聞かせることはないと思っていた、聞いてくれるヒトもいないと思っていた話を。